第7章 「憎しみの紋章」  (3)                 BACK | TOP |  HOME




 まるで、空に浮かぶ神殿のようだと思う。
 陽光にきらめく白亜の建物に向かって、蓮の葉が浮かぶ池の真ん中を切り取った通路を進んでいくのは、浄土への旅を思わせる。
 都内の有名なお寺の隣に建てられているものの、このサンクチュアリ自体に宗教色はない。
 淡い虹色の光があふれる内部は、六万柱以上のプレートをはめこんだ荘厳な空間になっている。
 樹はここに埋葬されている。
 いや、埋葬という言葉自体、今世紀には成立しない。
 一部の貧しい国や古い文化を守る国以外では、死者は分子分解され、その体の構成金属で作られたメダル以外、彼らを偲ぶよすがは残らない。21世紀後半、100万近い犠牲者を出したという突然変異ウィルスが死体から伝染することを恐れた措置の名残だと言う。
 正面のコンピューターで夫のIDを入力すると、左側の回廊の壁の一部がせり上がってきた。
 私、セフィロト、そして犬槙さんの靴音がかつかつと、高く反響する。
 壁面に近づくと、数十センチの長方形に『古洞樹』という名前と生没年が刻まれてあり、私が肌身離さずつけているペンダントより二回りほど大きな赤銅色のメダルがはめこんである。
 私は持って来た花束をそのそばの花立に差し、手を組んでじっと目を閉じた。
 反対側の回廊からかすかに、読経の声が聞こえた。
 樹は無宗教だったから、彼の霊を慰めるための手段は何もない。
 葬儀さえも遺言により、写真とわずかな花、追悼のことばだけのものだった。結婚式のときもそうだったように、彼の側の親戚はひとりも参列していなかった。
 いるはずがない。【すずかけの家】の子どもたちと同様、彼は人工授精で生まれたのだから。
 一周忌の今日その霊前に立つのは、彼の妻と彼の親友、そして彼の作ったロボットだけ。
 不思議と涙は出なかった。
 ただ、目を閉じていると身体がふわふわと浮き上がり、静寂に満ちた空間に溶け出していくようだ。
「胡桃」
 かたわらにいた黒いセーターを着たセフィロトが、私の腕をつかんだ。
「だいじょうぶか?」
 ダークスーツ姿の犬槙さんも問う。
 ほんの瞬間、眩暈を起こしていたようだ。
「だいじょうぶ。ありがとう」
 退所の合図のボタンを押すと、するすると再びプレートが引き、鏡のようになめらかな壁面に戻った。
 入り口に戻ると、犬槙さんが心配そうに私の顔をのぞきこんだ。
「ほんとうに、だいじょうぶか? 僕は急いでこれから研究所に戻らなくちゃならない」
「忙しいのにごめんなさい。セフィもいるし平気。早く行って」
「すまない」
 犬槙さんは一度だけ後ろを振り返ったものの、あとはまっすぐに駐車場のほうに駆けていった。
 よほど何か大事な仕事があったのだろう。
 彼を見送ったあと、私はセフィロトを促してサンクチュアリの奥に向かった。
 天を突くゴシックの大聖堂に似たホールは、幻想的な色彩の壁画でおおわれており、私たちのほかには誰もいなかった。
「セフィ。話したいことがある」
 ここでなら、樹の前でなら、きっと話せる。
「なんでしょうか」
 春風を思わせる空調の流れが時おり、私の喪服のレースと、セフィロトの茶色の柔らかい髪を揺らしていた。
「ずっと前に話したよね。人間にはどんなに壊れていても、捨てられないものがあるって」
「はい」
「それは思い出も同じ。どんなに思い出すことがつらく悲しいことでも、思い出さずにはいられない」
 自分の声が、空気にしみこむように消えていくのを待った。
「忘れられない思い出。私にとっては、樹がそうなの」
「はい」
「樹ほど私を愛してくれた人はいなかった。樹ほど私が愛した人はいなかった。だから、樹が死んでしまった今でも、私はその想いを停めることができないの。言ってること、わかってくれる?」
「はい、胡桃」
「だから、セフィが私を愛してくれたとしても、私にはそれを受け入れることができない。あなたのことが好きよ。……でもそれは、あなたの思っているような意味じゃないの」
 そして、彼の視線を拒絶するために目を伏せた。
 でないと、苦しくて本心を言ってしまいそうになるから。


 私とセフィロトのあいだにどんな未来があると言うのだろう。
 ロボットと人間の恋。
 彼は永遠に生き、私は年老いていく。
 私が死んだあと、彼は永い時をひとりで過ごさなければならない。私が樹を失ったあと過ごさなければならない時間よりも、はるかに永い時を。
 彼に恋を教えることは、罪でしかない。今でさえも、憎しみという激情の芽生えに苦しんでいる彼に、これ以上の苦しみを与えたくない。
 今なら、引き返せる。
 私が彼のマスターとして、毅然とした態度を取り続けている限り。
 やがて彼はあきらめ、自分のプログラムを書き換えるだろう。彼は自律改革型ロボットなのだから。
 セフィロトに元のような天使の姿に戻ってほしい。
 それが、セフィロトを遺してくれた樹の愛情を裏切らない、私にできる唯一の方法だ。
「これから何年待っても、胡桃は忘れることはできないのですか? たとえばもし、十年後だったら?」
「無理だわ。どんなに時間がたっても」
「でも、人の心は変わります。胡桃のお父さんだってロボット嫌いをやめてくださいました。桑田さんだって、もうCA4型を怒鳴ったりしません。アラタくんだって、みんなに心を開いてくれました。だから胡桃もいつか……」
「だめなの!」
 彼に見えないように、きりきりと自分の腕に爪を立てる。
「これだけはだめなの。ロボットは人間とは違うの! 人間にはなれないの! 人間とロボットは……恋なんかできないのよ!」


 私は言ってはならないことばを、とうとう口にしてしまった。
 結局どんなきれいごとを並べても、私の心の奥底にあったのはそれだったのだ。
 機械を愛することへのためらいと恐れ。
 ロボットであることが寂しいと言っていた彼、人間に限りなく近づこうと努力していた彼にとって、ロボットと人間とは違うと宣告されたときの気持ちはどんなものだったのだろう。
 私は、9ヶ月間彼をいつくしみ、育て、……そして最後に彼のすべてを否定してしまった。


 セフィロトはただ、私を見つめて立っていた。
「そうだったのですか……」
 長い沈黙のあと彼の口から出たのは、疲れきったような声だった。
「知らなかった。誰もそのことは教えてくれませんでした。教えてくれればよかったのに」
「ごめんなさい……」
「ロボットは人間に恋をしてはいけなかったのですね。私のしたことは、また胡桃を困らせるだけだった……」
「……」
「ああ、そう言えば科学省の柏さんだけが、ずっと前に本当のことを言ってくれていました。『ロボットにキスをするのは気持ち悪い』って」
「セフィ、ちが……」
「胡桃もずっとそう思っていたんだ。そうでしょう?
わたしがキスをするたびに、……気持ち悪いって……っ!」
「ちがう、そうじゃないの!」
「じゃあ、なんだと言うんです!」
 そう叫んだ彼は、私のほうを一瞥もせずに走り去って行った。
 私はその場にぼう然と立ち尽くした。
 なんてことをしてしまったんだろう。
 セフィロトを傷つけたくなくて。自分が傷つきたくなくて。
 私の取った方法は、ふたりの関係をめちゃめちゃに壊すことでしかなかったのだ。


 ころがるように家の中に駆け込んだとき、ちょうどセフィロトが玄関に現われた。
「セフィ」
「胡桃、よかった」
 彼は悲しげに微笑んだ。
「最後にお別れを言うことができて。わたしはもう、出ます」
「え?」
「柏さんに連絡を取りました。これから私の住むところも用意してくださるそうです。科学省の中の小さな実験室らしいですけど。でもわたしはロボットだから、どんなところでも別にかまいません」
「あ……」
 がくがくと両膝が鳴り出した。顎がわななき、ことばがしゃべれない。
「人類のために、すばらしい貢献ができるそうです。普通なら絶対に行けないようなところへ行かせてくださるそうです。わたしの捜していた、作られた目的がやっと見つけられました」
 希望に満ちた言葉に反して、セフィロトの目には深い井戸の底のような絶望があった。
「これからは、何も考えなくても彼らの命令どおりに動けばいいのです。わたしはもう、何も考えたり感じたりしたくありませんから、ちょうど都合がいいです。……胡桃」
 彼は、ただ荒い息をしているだけの私の肩にそっと手を置いた。
「【すずかけの家】のみなさんによろしく伝えてください。もう会えないと思います」
「セ……フィ、いや……行か……行かないで」
 涙でぴったりと蓋をされてしまったような耳に、抑揚のない彼の声がくぐもって聞こえた。
「いいえ。わたしはこれ以上胡桃のそばにいることができません。もしこのまま一緒にいたら、いつか胡桃のことまで憎んでしまうでしょう。そんなことだけは、決してしたくありませんから」
 彼の手が離れたとたん、私はあやつり人形のようにその場に崩れ落ちた。
「セフィ……」
「さようなら、胡桃」
「だめっ!」
 私はありったけの力で絶叫した。
「行かないで! 命令よ、セフィ!」
「いいえ」
 彼は振り返って、もう一度微笑んだ。見る者の心を凍りつかせるような寂しい微笑を。
「もうあなたは、わたしのマスターではありません」
 



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