第7章 「憎しみの紋章」  (5)                 BACK | TOP |  HOME




「いやああっ。セフィ。死なないで!
目を開けて。ちゃんと私の話を聞いてぇっ!」
 泣き叫ぶ私の頭を包みこむように、犬槙さんの手が降りてきた。
「やれやれ、胡桃ちゃん。いいかげんにしてよ」
 困り果てたという笑い声。
「ここにはまだ、科学省のお堅いお役人さんがいるんだからね。
第一、きみに恋する男の前で、その取り乱しようはないんじゃないかなあ」
 そしてくしゃくしゃと痛いほど髪の毛を引っ掻き回される。
「セフィロトは、だいじょうぶだよ。必ず直る」
「え?」
「僕を誰だと思ってるんですかね。天才工学博士の犬槙だよ。セフィロトの人工知能は何重にもガードしてあると言ったろう? 光線銃ごときじゃ壊れない。たぶんコードが何本か焼き切れて外界との連絡手段が途絶してはいるけど、元に戻るよ。安心しなさい」
「犬槙さん……」
 よかった。セフィロトは死んでいないんだ。
 私は両手で顔をおおって、安堵にすすり泣いた。
「柏さん、そんなところでボケッと突っ立ってないで、セフィロトを作業台に運ぶのを手伝ってくださいよ」
「いやあ、美女が紅涙を絞るさまはいいもんだなと見とれていたよ」
 見れば、部屋の入り口で、柏審議官がにたにたと嫌らしい笑いを顔にはりつけている。私は事の次第が飲み込めず、ぼう然とするばかりだった。


 軍事クーデター騒動は、その日一応の終結を見た。
 国家機密とかであまり詳しいことは教えてもらえなかったのだが、要するに、国防省と科学省の一部の国粋主義者たちが結託して、クーデターを企てていたのだった。
 しかし、彼らの計画は広い賛同者を得ることができず、焦った彼らはロボットを軍事力として利用することを考えた。
 そこで、樹と犬槙さんの「自律改革型ロボット」計画に目をつけたらしいのだ。
 その陰謀は早い段階で知れるところとなり、内偵として科学省の鏑木局長の懐に入り込んだのが、柏審議官――というわけだ。
 彼は犬槙さんとセフィロトが狙われているのを知り、AR9型の開発を一時中断し、データをすべて安全な場所へ移すように忠告してくれた。そして極秘のうちに私たちの身の回りの警護をしてくれていたのだ。
「私、柏さんのほうが犯人かと思い込んでました」
「だよねえ。あの人相の悪さから言って」
 と、私と犬槙さんは大笑いしたものだ。
 セフィロトが自ら科学省に身を寄せたのは予定外の行動で、柏さんも驚いたらしいのだが、結果として彼を狙う魔の手から安全に保護される形になった。しかし、セフィロトはそこで鏑木局長の暴走を知り、研究所で犬槙さんと私が人質にされてしまったのを聞いた途端、制止する間もなく助けに来てくれた、ということだった。
「ただね、鏑木局長はあの時点で捨て駒にされたんだ。国防省と科学省のトップにいる首謀者……目星はついてるんだが、そこにつながるラインは断ち切られてしまったそうだよ」
「逮捕された人たちを取り調べても、自白させられないのですか?」
「こわがるといけないと思って黙ってたんだけどね。鏑木さんは、あれから留置場で服毒自殺したんだよ。ほかの連中は直接彼の命令で動いていたから、何も知らない」
 私は身震いした。
 人ひとりの命を軽々しく捨てさせるほどのイデオロギー。
 そんなものが本当の平和を、豊かな国を作れるはずがない。
 それほどの恐ろしい陰謀の渦中にあって、犬槙さんも私もよく無事であったものだと思う。
「セフィロトが自分の身を投げ出してくれなかったら、僕は確実にあのとき殺されていたと思うよ」
 犬槙さんはいとおしげに、カプセルの中でコードにつながれているセフィロトの髪をなでた。
「ロボットとしても、男としても、……こいつは一流のヤツだよ」


 数日が経った。
 私は【すずかけの家】の勤務が終わると、まっすぐ応用科学研究所に向かう毎日を送っていた。
 セフィロトが目覚めるとき、そばにいたい。そして、伝えたい。私の本当の気持ちを。
 彼に魅かれつつも、とまどって前に踏み出せなかった私の心を正直に。
 だが、いくら待っても彼は目覚めなかった。
「犬槙さん、修理は終わったはずではなかったんですか?」
「ああ、終わっている」
 彼も困惑しきった様子だ。
「なのに、どうして?」
「何らかの原因で視覚や聴覚、運動回路との接続が自主的に断たれているんだ」
「停止してるわけではないんですね」
「ちがう、セフィロトの内部ではめまぐるしいプログラムのデバッグが繰り返されているよ。……見てみる?」
 セフィロトの背中につながっているコードの一本を抜くと、そこに小型モニターを接続した。画面に文字がびっしり浮かぶ。文字はあるときは遅く、あるときは見えないほどの速度で流れていく。
「こちらから直接、人工知能に呼びかける手段はないんですか?」
「呼びかけてはみた。でも、支離滅裂な返事しかない。まるで、……常識を超えている」
 犬槙さんはただ、首を横に振る。
「僕には、理解不能だ」
 心に不安が広がった。
『わたしを廃棄処分にしてください』
 彼の最後のことばが耳によみがえる。
 セフィロトはもしかして、私たちのもとに戻ることを拒否しているのではないかという考えが、頭をよぎったのだ。


 【すずかけの家】の駐車場に着くと、伊吹織江と北見さくらが待ち構えていた。
「胡桃、セフィの様子はどうだ」
 ちょっと怪我をしただけ。そう生徒や教師たちに説明して以来、何の事後報告もなく、日に日に元気を失っていく私を心配したのだろう。織江先輩が畳み掛ける。
「悪いのか?」
「良くなってはいるの」
 微笑もうとした。
「でも、意識が……」
「戻らないのか?」
 さくらちゃんが目にいっぱい涙をためて、言った。
「お見舞いに行かせてください。どこの病院なんですか?」
「……」
「面会謝絶なのか」
「いいえ」
「胡桃!」
「彼は今、亡くなった主人の研究室にいるの」
 限界だった。嘘をつき通す気力は、今の私には残っていなかった。
「セフィは……ロボットなの」
「なんだって?」
「樹と犬槙さんが作った……人間そっくりのロボットなの」
 我慢の残りかすのような涙が頬を伝い落ちる。
「ごめんなさい。……嘘をついていた。彼は人間じゃない。ニュージーランドから来たんじゃない。みんなをだましてた。ごめんなさい。
さくらちゃん……ありがとう。彼を好きになってくれて……でも、だめだったの。だって、セフィはロボットで……。さくらちゃんにはそのことを教えられなくて……。
でも、私は彼のことを……。ロボットでも……どうしようもないくらい……愛しているの」
「胡桃先輩……」
「ごめんなさい」
 ふたりは私を両側から抱きしめた。
「胡桃。……つらかったな。苦しかったんだろうな」
「……ごめんなさい」
 私は、ふたりの腕の中で、大声をあげて泣いた。


 ニ週間がむなしく過ぎた。
 厳寒の2月になっても、セフィロトは目覚めなかった。
 雪の舞う日、私がいつものように【犬槙・古洞ロボット工学研究室】に行くと、様子が違っていた。
 ライトをわざと消した薄暗がりの中に、ウィスキーの匂いがたちこめている。
 私はかつて、こんなに弱々しく見える犬槙さんを見たことがなかった。
 空の壜とグラスがころがる床に、彼は座り込んでいた。
「犬槙さん」
「樹とときどき、こうして飲んだなあ。あいつは酒のかわりにコーヒーだったけど。セフィロトの設計図を前にしてさ。
あいつにとって、セフィロトは自分の生命そのものだった。そんな目でいつも設計図をながめてたよ。すっげえ思いつめた目でさ。
僕はやつに何もしてやれなかったよ。胡桃ちゃんとの仲を応援してやるぐらいしか」
 落とした肩が、笑いに小刻みに揺れる。
「バカみたいな話だな。僕がきみに惚れたときは、もうきみは樹のものだった。いや、違う。樹を心から愛しているきみに、僕は惚れたのかもしれない。
あー、我ながら不毛な恋だよな」
 ふらふらと立ち上がると、彼は口の中でつぶやくように言った。
「胡桃ちゃん、セフィロトは初期化しようと思う」
「え……?」
「このままだと、永久に目覚めないんだ」
「そんな……」
 私は彼に取りすがった。
「だって、犬槙さん。初期化って、今までの記憶も何もかも失ってしまうんでしょう。新しい人格になってしまうんでしょう?」
「そうだ」
「そんなの、いやです。今までのセフィがいなくなってしまうなんて」
「ずっと眠ったままでいるよりましだろう。また新しく育てなおせばいい」
「だって、セフィは停止したわけではないんでしょう。人工知能の中では意識を持っているって言ったじゃない」
「持っている。だけどそれは……」
「だったら、初期化なんかしたら殺すのと同じだわ。そんなことやめて。お願い、ほかの方法を考えてください!」
「そんな方法などない」
「……ひどい、そんな……彼はまだ、生きているのに……」
 私は泣き崩れた。
「……そんなに、セフィロトがいいのか」
「え?」
 彼は眼鏡をむしりとると、ぎらぎらした瞳で私を見据えた。
「僕もきみのことを愛している。僕じゃ、だめなのか?」
「犬槙さん……」
 彼の有無を言わせぬ力が私を抱きすくめる。
「胡桃ちゃん、セフィロトはただの機械だぞ。きみの身体を慰めることすらできない」
「いやッ。やめて、犬槙さん。酔っ払いの言うことなんて、聞きたくありません!」
「ずっと好きだった。きみに初めて会ったときからずっと……。胡桃ちゃん!」
 その声にある真摯な響きは、酔いにまかせたうわごとなどではなかった。
「いやあ!」
 圧倒的な熱情の奔流が私を無防備にした。両手を押さえつけられ、作業台の上に倒される。唇を奪われ、口をこじあけられる。
 もがけばもがくほど、犬槙さんの熱い体が私に当たる。


「い……や」
 拒否しながらも、もうどうなってもいいと思っている自分が私の中にいた。
 セフィロトが目覚めないと聞かされて、私はぼろぼろになっていた。ただ楽になりたかった。何も考えず。
『もう何も考えたり、感じたりしたくありませんから』
 ああ、そうだね。セフィ。あなたもこんなに辛い思いを抱えていたんだね。
 あなたがロボットであることに、どうして私はあんなにこだわったりしたんだろう。そんなこと、どうでもよかったのに。だって、あなたは誰よりも傷つきやすい、人間らしい心を持っていた。
 お願い、目を覚まして。あなたがいなければ、もう私は生きていけない。
「セフィ!」


「やっぱり、そうだったのか」
 聞きなれた声が、突然部屋の隅からした。
 透き通ったセフィロトの声。いいえ、そうだけど、そうではない。私はずっと前からその声を知っている。
「セフィ」
 私はあわてて身を起こし、衣服の前をかき合わせて、声のした方向を見た。
 セフィロトはカプセルの中から立ち上がるところだった。
「だから、俺は何度も聞いただろう? おまえは胡桃に惚れてるのかって」
「樹……」
 犬槙さんは、恐怖に目を見開いて彼を見つめている。
 樹ですって? 何を言ってるの?


 柔らかい茶色の髪。金色に光る瞳。白い少年の肢体。
 そこにいるのは、セフィロトだった。
「俺が死んでからゆっくり口説けばいい。そう思っていたのか、魁人」
 でも、そう言ってわずかに口の端を持ち上げるようにして笑った、その笑い方は……。
 私は、もう少しで狂気に堕ちるところだった。


 それはまぎれもなく、亡くなった夫の樹だった。




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