番外編(5) 「悩める夫への処方箋」
BACK | TOP | HOME どうしよう。何も手につかない。 人工知能の可変領域全てを、胡桃に占領されてしまったようなのだ。 気がつけば、手をとめて胡桃のことを考えている。いつも視線が胡桃の後姿を追いかけてしまう。三十メートル先で胡桃がくしゃみをしても、なにもかも放り出して飛んでいきたくなる。 「セフィ先生って、このごろボケてるよね」 「うん、暇さえあれば、いつもポーッと、あらぬかたを見て」 「これって、典型的な新婚ボケだよね」 と、【すずかけの家】の六歳児たちにさえ指摘されるほどだ。 さすがに、これでは教師として子どもたちに示しがつかないどころか、日常生活も営めないと、セフィロトは人工知能内に特別なプログラムを組むことにした。 60秒以上にわたって脳内で胡桃に関する単一的思考を続けたときに、警告システムが作動し、電気刺激を加えるようにしたのだ。 人間ならばさしずめ、手を思い切りひっぱたかれるほどの苦痛を感じるはずなのに、まったく効果はなかった。どんな刺激をものともせずに、セフィロトは胡桃に心を奪われ続けたのだ。 「困ったことになりました」 思い余って、セフィロトは犬槙博士に相談のメールを入れた。 実は、困ったことは、もうひとつあったのだ――しかも、こちらが本命の、かなり厄介な相談事が。 やわらかい胡桃の身体が、すぐ下にある。 さらさらと揺れる黒髪。快感にうち震える睫毛。上気した頬。 やがて、胡桃は抑えきれぬ声をあげる。 血流と発汗量の増大。筋肉の収縮と弛緩。脳のθ(シータ)波の活性化。彼女が頂上に昇りつめたことをセフィロトは知覚する。 ロボットには、人間の男性のような射精がない。だから、パートナーが達したことがわかると、同時にオーガズムを得て、それから性行為を終了するようにプログラムされている。 されているはずだった。 ところが、そのプログラムが、さっぱりうまくいかないのだ。 胡桃が与えてくれる刺激に耐えられずに自分だけ先に果ててしまうこともあれば、反対に、没頭しすぎて胡桃が息もたえだえ、という具合である。 ボディがことごとくプログラムの命令に従わない。これは、ロボットとしてあるまじきことだ。故障と認定され、そろそろ老朽化してきたクリンと並んで分解掃除に出されても文句は言えない。 犬槙博士に相談する覚悟を決めたのは、彼がセフィロトの創造者だと言うばかりではない。 この方面に関して、彼ほど高度に熟練した専門家はいないからだ。 「――という状態なのです」 まるで学術論文の口頭試問でもしているようなセフィロトの説明に、犬槙魁人は腹の皮がよじれそうになるのを、必死で堪えていた。 「博士」 「い、いや、ちゃんと聞いてるって」 セフィロトに横目でにらまれ、犬槙はあわてて眼鏡をかけなおした。 根が煩悩だらけの犬槙にとって、眼鏡というのは真面目な素振りをするための必須アイテムだ。 「で、胡桃ちゃんは何か不平を言ってるの?」 「いいえ、何も。でも、なんとなく何か言いたげな気配を感じるのです……そういう不満って女性からは言い出せないものじゃないんでしょうか」 「確かにな」 「創られて二年になりますが、これほどまでに次々と自律プログラムが失敗するのは初めてです。どうしたらよいのでしょう」 「人間だって自分の感覚をコントロールするには時間がかかるもんだ。まして、こういうことには相手がある。結婚してまだ一ヶ月足らずのきみたちが、そういう阿吽(あうん)の呼吸を身につけるのは、無理なんじゃないかな」 「犬槙博士でも、やはり初めての相手とは、コントロールに時間がかかるものなのですか」 「バカを言っちゃいけない。僕はいつでもどこでも誰とでも、百発百――」 大げさな咳払いをして、話題を変える。 下手なことを言えば、隣の部屋で今の話を盗み聞きしているだろう助手のSR8型シーダが、ジョアン・ローレル博士に逐一密告しないとも限らないのだ。 軍事クーデタに加担した罪で刑務所に入所中のジョアンは、犬槙の奮闘むなしく、いまだにプロポーズに色よい返事をくれていない。 「しかたないな」 犬槙は白衣の袖をまくって、舌なめずりした。 「あの台に仰向けになって。今から同期のコツを伝授してやる」 「ええっ。わたしと博士とで、ですか!」 セフィロトは飛び上がった。 「む、む、無理です。わたしはそちらの方面には、まったく対応していません」 「あわてるな。半分冗談だよ」 「それじゃ、半分本気だったんじゃないですか!」 シーダがこらえきれずに笑い転げている声が、壁を通して伝わってきた。 「ロボットが人間と結婚したことが、やはり間違っているのでしょうか」 セフィロトは、唇を噛んだ。 「間違っているから、わたしの身体のあちこちが狂い始めた」 もう何回自分に問いかけたかわからない否定的な命題。どんなにふりはらおうとしても、間欠泉のように湧いてくる。 「もしかすると、古洞博士の作られた深層プログラムが、私を引きとめようとしているのかもしれません。博士はきっと、わたしたちの結婚に反対しておられるんです」 それを聞いたとたん、犬槙ははっとした表情を浮かべた。 「そうか。もしかすると」 その声に、もう茶化したような響きはなかった。犬槙は気を落ち着けるために、研究室をゆっくりと大股で横切り、壁に記念碑のように掛けてある古洞樹の形見の白衣と向き合った。 「そういうことだったのか」 「え――?」 「実は、樹のやつも悩んでいたんだよ。今のきみとはまったく正反対で、ある意味そっくりな悩みをね」 「魁人。俺が結婚したのは、間違いだったかもしれない」 ある日、樹はたまりかねたように告白した。 「いつも、うわの空になっているというんだ。いっしょに歩いていても、隣に胡桃がいること自体を忘れてしまうし、話もまともに聞いていないらしい」 「そうだろうなあ。おまえは僕が話しかけても、返事しないときのほうが多い」 「一度なんかは、美容院へ行って髪型を変えたのに全然気づいてくれなかったと、本気で泣かれた」 「そいつはおまえが悪い。容姿に関する無関心は、女にとってはひどい侮辱だ」 「俺にしてみれば、髪を切っただの、服を買っただの、いったいどうすれば、そういうことに気づけるのか教えてほしいくらいだ。あるとき一念発起して、ずっと胡桃のことを見ていようとしたこともある――だが、五分と持たなかった」 「昔から、いったんプログラムのことを考え始めると止まらないもんな」 「おまえがうらやましいよ。魁人」 樹は真剣な表情で、同僚を見上げた。 「おまえみたいに、女の心と体のことが何でもわかる男になりたかった。夜にしたって――俺は胡桃が満足しているのかどうかなんて、さっぱりわからない」 「ほめられているのかどうか、微妙な気分だが」 犬槙は苦笑しながら答えた。「本気で胡桃ちゃんのことを好きなら、その気持は自然と伝わるものだと思うけどな」 そして、さりげなく付け加える。「もちろん、絶対に知られないように隠しているんなら別だが」 樹は答えなかった。また、深い物思いに沈んでしまったのだ。 犬槙は肩をすくめ、コーヒーのおかわりを注ぐために歩きだした。 「魁人」 「なんだ」 「セフィロトの人工知能に、やはり性機能プログラムを入れようと思う」 「やめると言っていたのに、気が変わったのか」 樹は立ち上がると、部屋の中央にあるカプセルに近づき、腕をもたせかけた。 その中には、AR8型ロボットのボディが横たわっていた。エナメル質の外殻がようやく完成したばかり。人工皮膚もまだ被せておらず、いのちのない白磁の人形そのものだ。 「ああ。だが、身体回路はまだつけないでくれ。プログラムも一番底にパスワードで隠しておくつもりだ」 「すべては、胡桃ちゃんの判断にまかせる、ということか」 樹はかすかにうなずいた。カプセルの上に乗せた手が、ぎゅっと拳を作り、またほどかれた。 犬槙は、気づかれぬようにそっと溜め息を吐き出した。そしてマグカップを机に置いて、親友のかたわらに立った。 男たちは、それぞれの想いをこめて、自分たちの手で創りだそうとしているロボット【セフィロト】を食い入るように見つめる。 「もし、俺が生まれ変わることができたら」 もうすぐ植毛されて頭部となる部分を、樹はその細い指でそっと撫でた。 「俺は一日中、胡桃のことだけを見つめていられる男になりたい。いつも胡桃の横に寄りそって、何を考えているのかがすぐわかるような、そんな男に――」 「だから、セフィ。今のきみは」 犬槙は、眼鏡の奥で目を細めながら、昔をなつかしむような優しい視線を送った。 「樹の深層プログラムを受けて、樹が望んだとおりに行動しているのだと思うよ。胡桃ちゃんのことだけを考えて、胡桃ちゃんだけを見つめて、いつも気を配っている。それが樹の望んだ人生だった」 「古洞博士の望んだ……」 「そうすると、【あの方面】がうまくいかないのも、ひとえに樹の経験の未熟さのせいだな。僕が深層プログラムを組めば、間違ってもそんなことはならないんだが」 おどけた言い方だったが、犬槙の顔は、もう少しで泣き出しそうだった。 「セフィ。これだけは忘れないでくれ。樹はもう、どんなに望んでも胡桃ちゃんを自分の体で抱くことができない。だから、きみが代わりに、あいつの思いを引き受けるんだ」 家に帰ると、食卓の上にはキャンドルが灯っていた。 「セフィ、おかえりなさい」 白いカシミヤのドレスに、ヒイラギの飾りをあしらった胡桃が微笑みながら立ち上がった。 「明日のイブはふたりとも勤務だから、一日早いけれど、今日をクリスマスディナーにしたの。どう?」 「……すごいです」 すごいなんてものじゃない。まるで十人分はありそうだ。 つややかな黄金色の鶏の丸焼き。リング型で抜いたマッシュポテト。 銀のボウルには、色とりどりの野菜の星を浮かせた琥珀色のコンソメスープ。高価なチョコレート菓子。 そして粉砂糖をたっぷりまぶしたシュトーレンは、胡桃が何日も前からドライフルーツやナッツを仕込んで作っていたのを、セフィロトは知っている。 とても楽しそうに、知っているかぎりのクリスマスキャロルを次々と歌いながら。 子どもの頃の胡桃は、毎年クリスマスにはニュージーランドの牧場で、こんな食卓を家族と囲んでいたのだろう。 でも、家庭で生活したことのない樹は、そのことを知らなかった。もちろん、樹の手で創られたセフィロトも。 一昨年のクリスマスイブ、自分の寿命が短いことを感じた樹は、セフィロトの制作に打ち込むあまり、真夜中まで研究所から帰ってこなかった。 そして去年のクリスマスイブ、セフィロトはその日の意味することなど何も考えずに、胡桃を残して、さくらとディナーを食べに行ってしまった。 だから胡桃は、毎年クリスマスをひとりで過ごしていたのだ。 セフィロトは、鼻の奥がつんと痛くなるのを感じた。こみあげてくる液体は、鉄サビの味がする。いっそのこと、この身体全部が錆びてしまえばいいのに。 いくら後悔しても、テーブルに突っ伏して泣いていた胡桃の涙の映像が消えることはない。 「セフィ」 何も言わずにうなだれている彼に、胡桃が不思議そうに近づいてきた。 (ごめんなさい。【わたしたち】がずっと、クリスマスにあなたのそばにいられなかったことを) でも、そのことばを言う代わりに、 「胡桃、ありがとう。うれしすぎて、ことばが見つかりません」 セフィロトは、彼女を抱きしめた。 「喜んでもらえてよかった」 「こんなにきれいなご馳走、食べてしまうのが、もったいないくらいです」 「そんなこと言わないで、残さずに全部食べてよ」 「でも、ふたりでは、こんなに食べ切れません。だいたい、わたしの食物タンクの容量は――」 胡桃はにっこり笑うと、セフィロトの鼻の頭をちょんと指でつまんだ。 「がんばって、電気分解してね」 「胡桃」 愛する妻が薄い夜着をまとって寝室に入ってきたとき、セフィロトはベッドから立ち上がった。 口から出すデジタル音声によって、明かりの照度を下げる。空調の温度を少し上げる。ほんのかすかにラベンダーの香りを混入させて。 窓から月の光が射し込んで、まるで銀板に描かれた絵画の世界に迷い込んだようだ。 「ほんとうに、わたしでいいのですか」 これも、もう何十回、心の中でしたかわからない問い。 セフィロトの声にひそむ恐いくらいの真剣な響きに、胡桃は深くうなずいた。 「言ったでしょう。あなたがいいの」 セフィロトは彼女の両手を取って、手の甲にそっと何度も口づけした。 犬槙のことばが、聴覚回路の中で残響を起こしているようだ。 『樹はもう、どんなに望んでも、胡桃ちゃんを自分の体で抱くことができない』 だから代わりにわたしが。この機械の身体で――わたしが。 「あなたを愛しています。胡桃」 「わたしもよ、セフィ」 「きっとわたしは、あなたを満足させることができていないと思います。赦してください」 「ううん」 胡桃は、静かに首を振った。 「あなたは誤解してる。そんなことはどうでもいいの。私がほしいのは、身体と同時に心が触れ合うこと。あなたに想われて、愛されているという証拠」 「それは、もちろんです。毎日胡桃のことを想う時間は二十四時間でも足りないくらいなのに」 「ただ、もうひとつだけ贅沢を言うのなら、あなたが喜んでくれているのさえ分かれば、私にはそれが最高の幸せなの。さっきのディナーのご馳走を手離しで喜んでくれたみたいに」 「わたしが、ですか?」 セフィロトは心底から驚いて、叫んだ。 「わたしがどれほど喜んでいるか――あなたに伝わっていないのですか」 「伝わってないわよ」 胡桃は少しいたずらっぽく微笑みながら、セフィロトの胸を人差し指でそっと撫でた。 「樹のときも、全然伝わっていなかったものね。まるで、難行苦行をしているみたいに、最初から終わりまで、しかめ面ばっかりして」 「知りませんでした……あなたの望みが、そういうことだったなんて」 セフィロトは茫然とつぶやいた。 それでは、胡桃がいつも何か言いたげだったのは、それが理由だったのか。 「今夜こそ、それを教えて」 両腕をセフィロトの首に回して、うっとりと身体を預けると、胡桃はうるんだ声でささやいた。 「セフィ。あなたがどれくらい私を感じているかを、今から見せて」 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2003-2007 BUTAPENN. |