番外編(8) 「実験的浮気のススメ」(後)          BACK | TOP | HOME





 桜の咲き誇る一年で一番美しい季節が、まるで木枯らしの吹く冬のように寒々として見える。
 胡桃にとって、それからの毎日は生きた心地がしなかった。
(あと三週間。あと三週間で、セフィは元に戻るんだもの。それまでの我慢よ)
 と言い聞かせてみても、セフィロトが梢に話しかけるたびに、まるで体内で魚でも飼っているように、みぞおちのあたりがビクンとはねる。
 仲谷梢は、その見かけどおりに、まったく浮わついたところのない実習生だった。
 四月はじめの【すずかけの家】の激務の中でも弱音を吐かず、一生懸命に汗をたらしながら、仕事に慣れようとがんばっていた。
 セフィロトは暇さえあれば、そんな梢のそばに行って話しかける。
 誉めたり、励ましたり、優しく教えたり。その様子は、完全にふたりの世界という感じで、他の者が入り込む余地などない。
「ごめんなさい。私、失敗ばっかりで」
 今日も、藤棚の下からふたりの会話が聞こえる。
「そんなことありません。仲谷先生は、感心するくらいよくやっておられますよ」
「子どもたちにも嫌われているみたい。さっきも、五歳児クラスの質問に、うまく答えられなかったんです」
「子どもたちは、わざと答えられないような質問をしているだけです。答えが正しいかどうかよりも、先生の答え方を観察してるんです」
「そうなんですか」
「自信を持ってください。わたしは、先生のことが大好きです。先生が来てくださったおかげで、【すずかけの家】が前よりもずっと明るくなったような気がします」
 そのことばを聞いて、胡桃は呼吸ができなくなった。
 今のセフィロトにとって、光の中心にいるのは彼女なのだ。
 夜が明けて、窓のカーテンを押し開けると、景色がまぶしく輝いて見えるように、梢がいるだけで世界の何もかもが輝いて見えるのだろう。
 セフィロトは今、ひとりの女性に魅かれるという経験をしているのだ。
 胡桃のように、プログラムによって初めから押しつけられた相手ではなく。自分の意志で、自分の感性で選んだ相手と。
 立ち尽くす胡桃の視界が、揺れる涙の膜でおおわれた。
 やっとのことで教員室の自分の席にたどり着くと、こみあげる熱いものを何度も押し戻して、気持を落ち着ける。
 しばらくしてセフィロトが入ってきた。
「胡桃先生」
 両手に抱えていた本の束を、机の上に置く。
「さっき教育省から届いた八歳児クラスの数学の副読本の見本なんですけど。検討していただけますか」
 事務的で、よそよそしい口調だと思った。さっき仲谷梢に話しかけていた柔らくて優しい声とは大違い。
「私はいいわ。小松先生の意見を聞いて、ふたりで決めてしまって」
「でも……」
「今は、午後の授業の教案を煮詰めなければならないの。ごめんなさい」
「胡桃」
 セフィロトは腰をかがめて、耳元で小声でささやいた。
「どうしたんです。なんだかムードが暗いですよ」
 胡桃は、カッと顔が熱くなるのを感じた。
「そうでしょうとも。私なんかといると、【すずかけの家】全体が、どよーんと暗く見えるでしょうよ」
「何を言ってるんですか?」
 彼は呆れたように眉をひそめた。
「なんだかこの数日、胡桃先生はおかしいです。個人的な感情は捨てて、副園長としての責任を持って行動してください」
 悲しみの反動は、胸を焦がす怒りとなって駆け上がってくる。
「そうね。ロボットみたいに手軽に感情を捨てられたら、人間も生きるのが楽だわ」
 胡桃の口をついて出ることばは、両刃の剣だった。相手も、そして自分もずたずたにしてしまう。でも、もう止める術はない。
「わたしが――手軽に自分の感情を捨てている、というのですか」
「あら、違うの?」
 セフィロトは、きゅっと奥歯を噛みしめると、そのまま何も言わずに部屋を出て行った。
 教員室にいた数名の教師たちが、突然始まり突然終わった新婚夫婦の口論を、びっくりしたような顔で見つめている。


 その日最後の授業の終了ベルが鳴ったとき、仲谷梢が胡桃のもとにやってきた。
「副園長先生」
 ぺこりとお辞儀をすると、彼女はおずおずと言った。
「ご心配ばかりかけて、すみません。私、自分が悪いことは、よくわかっています」
「……」
「きっと、心に迷いがあるからなんですね。セフィ先生にもご迷惑をかけてしまって。私、もう一度、はじめから考え直してみます」
 もう一度、深々と頭を下げる。
「今日は、お先に失礼します」
 梢が裏手の駐車場のほうに去っていくのをじっと見送りながら、胡桃は戸惑った。
(どういうこと? まさか、彼女から身を引くという意思表示なの?)
 思いあぐねていたところへ、セフィロトが廊下をばたばたと走ってきた。
「梢先生は?」
「たった今、車で帰られたわ」
「そんな!」
 セフィロトは、手に持っている電磁シートに目を落として、うめいた。
「これは、今日どうしても必要だと言っていた大事な書類なんです。忘れてしまうなんて」
「すぐに連絡したら? もしどうしても必要なら戻ってきてもらえばいいのだし、データをコンピュータで送るという手も」
「いいえ、わたしが直接行って、届けてきます」
「ええっ」
「すみません、あとはよろしくお願いします」
 届ける? 梢先生の家に、今から行くというの?
「待――」
 茫然とした胡桃が、引き止める声もなくしているうちに、彼はあっというまに駆け出して行ってしまった。


 胡桃がひとりで帰宅したあとも、セフィロトはなかなか帰ってこなかった。
 書類を届けるだけなら、すぐにすむことだろう。仲谷梢の家で、ふたりが今どんな時を過ごしている のか、胡桃の頭の中には最悪の想像が、ぐるぐるとめぐり続けている。
 コートのままソファに座っていた胡桃は、ぼんやりと時計を見上げた。
「あ……シャワー浴びなくちゃ」
 自分に言い聞かせるようにして、のろのろと立ち上がり、バスルームに向かう。
 一番悪いのは自分だということは、わかっていた。勝手に嫉妬し、セフィロトに冷たいことばを投げかけ、どんどん彼に嫌われるように仕向けているのは、自分自身だ。
 もう立っているのか座っているのかもわからなかった。どんなに熱い湯に身体を打たせても、肌が遠くに感じる。
 こんな実験を引き受けるのじゃなかった。
 私はセフィロトを試した。彼がプログラムではなくて本当に私を愛しているのだと、確信したかった。
 でも、そのわがままが、とりかえしのつかない結果を招いてしまった。
 作られてはじめて本当の恋をしているセフィロト。でも、あと一週間が過ぎれば、犬槙さんのところに連れていかなければならない。
 以前のように深層プログラムが働けば、梢に恋する気持はきれいに消去されて、彼はふたたび胡桃のもとに戻ってくる。
 そして、セフィロトは以前のように微笑んで、こう言うのだ――「胡桃、愛しています」と。
「いや! いや! いや!」
 胡桃はシャワーの湯が鼻や口の中に流れ込むのもかまわず、バスルームの壁を叩いて、叫んだ。
 私には、そんなことできない。これからの一生、プログラムだけの偽りの愛情を交わすだなんて。
 彼の本心を疑い続け、苦しみ続けながら、一緒に暮らすだなんて。
 バスローブを羽織ったまま、胡桃はベッドに倒れこみ、激しく泣いた。
 一時間。二時間。
 セフィロトが帰ってこないまま刻まれていく秒針が、心を容赦なく突き刺し続ける。
 八時過ぎになって、ようやく玄関の扉が開く音がした。
「胡桃。ただいま」
 何ごともなかったような笑顔で、セフィロトが寝室に入ってきた。
「遅くなって、ごめんな――」
 みなまで言い終わる前に、胡桃は押し殺した声で言った。
「どうして帰ってきたの」
「え?」
「好きなだけ、彼女のそばにいてくれて良かったのよ」
 驚きのあまり茫然としているセフィロトを思い切り廊下に突き飛ばして、寝室の扉をロックした。
「いったいどうして? 胡桃!」
 扉の向こうで叫んでいる彼の声を聞きながら、胡桃は床に崩れ落ちた。
 もう、これで終わり。私たちは、終わり。
 苦い味の嗚咽に喉を震わせながら、何度も何度もつぶやく。
 次の瞬間、背後でバリバリと、ものすごい音が鳴り響いた。
 ロックした寝室のドアが、まっぷたつに引き裂かれている。
 そして、真っ赤な顔を引きつらせたセフィロトが、金属片を床に投げ捨てると、近づいてきた。
「胡桃!」
「きゃあっ」
 セフィロトはむりやり、暴れる彼女を抱きすくめた。
「離して!」
「離しません。あなたがこんな状態なのに」
「私のことなんか、ほっといて。彼女のところに戻ればいいでしょ」
「彼女って、仲谷梢先生のことですか?」
「しらばっくれないで! 今まで、ずっといっしょだったくせに。彼女の家で、三時間もいっしょに過ごしていたくせに!」
「なんで――?」
 セフィロトはしばらくの無言のあと、やっとのことで、かすれた声を出した。
「どうして、そんなことを思ったんです。わたしが梢先生の家に行くと、いつ言いました?」
「え?」
「わたしが書類を届けに行ったのは、W大学です。卒論ゼミへの出席のために梢先生は毎週水曜日の午後は早退すると、栂野先生からもらったスケジュール表で確認したでしょう?」
「あ……」
「胡桃も教育実習のときに同じ経験をしたはずです。だから、行き先は当然わかっているものだと思っていました」
「……」
「それに、ゼミに誘われて帰りが遅くなることを、大学から連絡しました。見ていないのですか?」
 腕時計型の端末は、シャワーを浴びたときに置きっぱなしにしてしまった。
「じゃあ、あなたはわたしが梢先生とふたりきりでいると――」
 セフィロトは長い間、絶句していた。
 そして、強い抱擁とともに、いくつもの柔らかいキスが降ってきた。そしてその合間に苦しげな声。
「ごめんなさい。ごめんなさい、胡桃。今まで全然、あなたの気持に気づきませんでした」


「副園長になってからというもの、わたしは重い責務を果たさなければと、必死でした」
 セフィロトは胡桃を抱きしめたまま、話し続けた。
「胡桃も毎日緊張して、細かいところにまで神経をすり減らしていることは、うすうす感じていました。だって、ほかの先生方がわたしのところに個人的に相談にいらしたときも、必ずいつも陰で耳をそばだてているのがわかったし」
 胡桃は、呆けたような表情で聞いている。
「だから、仲谷梢先生が教育実習生として来られた日、栂野園長から『くれぐれも世話を頼みます』と言われたときは、せめて胡桃が楽になるように、わたしが一生懸命お世話をしなければと決意しました」
「……うそ。だってセフィはあのとき、梢先生に見とれていたじゃない」
「確かに、きれいな方だとは思いましたけど」
 セフィロトは、申し訳なさそうに告白した。
「でも、何よりも、うれしくて有頂天だったんです。なにしろ、わたしが【すずかけの家】に入って、はじめての後輩ができたんですから。わたしも見習いの最初の数ヶ月は、毎日がわからないことだらけでした。せめてわたしが先生方から学んだ大切なことを、梢先生にも全部教えてあげたいと、そればかり考えていました」
「……」
 胡桃は、めまいを感じている。セフィロトと梢の仲を疑っていたときと、彼の口から聞く真相とのあまりのギャップに、頭がついていけないのだ。
「梢先生は、実習中もずっと悩みをかかえていました。【すずかけの家】の生徒たちは知能指数が高く、教える前からいろいろなことを理解してしまいます。彼らと日々接するうちに、梢先生は、自分が教育に懸けていた理想とはなにかが違うと感じておられるようでした。でもわたしは、その悩みを打ち明けられて、どうしたらいいかわかりませんでした。胡桃に相談すると、余計に負担をかけてしまうようで……それに」
 セフィロトは口ごもった。
「胡桃はこの数週間、とても疲れているように見えました。いつも気持がささくれだって、ピリピリしているようでした。梢先生も、胡桃のことを怖がっていたし、それでますます相談できなくなってしまったんです」
(私はなんてバカだったんだろう)
 胡桃は自分で自分を殴りたい衝動に駆られた。
 間違った先入観にとらわれて、自分の副園長という立場も忘れて、私怨でひとりの教育実習生を怖がらせていただなんて。
「梢先生がゼミに持っていく大切な書類を忘れたと知って、とっさにわたしは、書類を届けるついでにゼミの教授に直接会って、相談することを思いつきました。まさか、それがとんでもない誤解を生んでしまうなんて、考えが至らずに……。しかも、ゼミの教室に入ると、学生たちからは逆に【すずかけの家】について質問攻めにされ、ゼミが終わっても、すぐに抜けることができなくなってしまったんです」
 長い話が終わると、胡桃はおずおずとセフィロトを見た。
 セフィロトは悲しそうに微笑んだ。
「これで、わたしが浮気をしたという誤解は解けましたか」
「――私から離れて」
 胡桃は顔をそむけ、ふたたび床に突っ伏した。
「胡桃?」
「あなたはきっと私のことを軽蔑しているでしょうね」
「まさか。そんなこと思ったこともありません」
「いいえ。もし私があなたなら、古洞胡桃という女を軽蔑するわ。自分勝手で、わがままで、品性が下劣で。バカで、思い込みが激しくて、あなたを傷つけるような言葉を平気で言って。おまけに、もう若くもなければ、きれいでもない」
「胡桃」
「ごめんなさい。私には、あなたに愛してもらう資格なんか、ない。たとえ、あなたが赦してくれても――私は、自分で自分が赦せないの!」
 セフィロトは、すすり泣く彼女の丸めた背中をそっと抱き起こし、うしろから腕を回した。
「人を愛することに、そんなに資格が必要ですか。理由が必要ですか?」
「……」
「きれいな人は、世の中にたくさんいます。そういう女性を見るのは楽しいです。でもわたしは、胡桃が誰よりもきれいだから、好きになったのではありません。若いからでも、賢いからでも、品格があるからでもありません。私があなたを好きなのは、胡桃がこの世でたったひとりの胡桃だからです」
「……セフィ」
「愛しています。永久にあなただけを」
 胡桃はセフィロトの腕の中で、声を上げて泣いた。
 今までの一ヶ月の悲しみのすべてが、押し流されてしまうほどの長い時間をかけて。


 それからほどなくしてセフィロトは、また不良パーツの交換だという理由で犬槙のもとへ呼び出され、深層プログラムのブロックをすべて解除された。
「気分はどうだい?」
「良好です。特に異常はありません」
「本当か。たとえば、何かにがんじがらめにされているような錯覚を覚えるとか、世界が急に色褪せて見えるとか、『結婚は人生の墓場だ』という格言がしみじみと実感できるとか」
「……犬槙博士。一度、頭の精密検査を受けたらいかがです?」
 仲谷梢先生は、五月に入ってすぐ【すずかけの家】を辞めた。
 彼女はもともと、障害のある子どもを教えたいという志を持って保育教師を目指していたのだった。
 だが、ゼミの教授の強い反対を受け、しぶしぶ【すずかけの家】に教育実習に来ることになったという。
 セフィロトの熱心な説得もあって、ようやくゼミの教授も彼女の希望を受け入れてくれ、彼女は実習先を養護学校に移した。
 まだ進路の変更には十分間に合う時期だ。きっと来年の今頃は、すばらしい保育教諭がひとり誕生していることだろう。
 古洞家の寝室のドアも修理が済み、新学期の【すずかけの家】にも落ち着きが戻り、すべての騒動を忘れかけていたころ、犬槙博士から胡桃に通信が入った。
「あらら、犬槙さん、顔色が冴えませんね」
「わかるかい?」
「ジョアンとの賭けはみごと大勝利だったんでしょう? プロポーズにOKをもらって、今頃幸せをしみじみ噛みしめていると思っていました」
「それが、ジョアンのやつ、また難癖をつけはじめてね」
「え?」
「深層プログラムのブロックを解除したときの、セフィロトのデータがおかしいと言うんだ」
「そんな。ちゃんとデータは正確なものなんでしょう?」
「もちろん。だが、確かに僕の目から見ても不思議なんだ」
 犬槙は解せないという表情で、首をひねった。
「この一ヶ月間、きみへの感情に関わる情報をすべてブロックしていた。普通なら、解除後に表層プログラムのかなりの部分に修正が必要だったはずなんだ。でも、セフィロトは、ほとんどデバッグをしなかった」
「それって、どういう意味ですか?」
「つまりね。樹の作った深層プログラムがあってもなくても、セフィロトの感情回路は全然変わっていないっていうことだよ。まあぶっちゃけた言い方をすれば、きみを想う気持は不変だった、ってことかな。やっぱり僕の言ったとおりだったろう?」
「……」
「それでジョアンは、実験データは捏造されたものだと文句を言い始めたんだ。もちろんプロポーズの承諾なんかするものかと息巻いててね」
「ふふ、ジョアンらしいです」
「胡桃ちゃん、お願いだ。もう一度、セフィロトを来させてくれないか。今度は、相反する事象に対する彼の演繹的思考プログラムについて、ジョアンと僕のどちらが正しいかを証明したいんだ、そのためには……」
「おことわりします」
 胡桃は、笑いをかみ殺しながら即答した。
「もう、私の心を試す実験なんて、金輪際ごめんですから」






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