「樹々をわたる旅人」                      BACK | TOP | HOME

                               (競作企画「テルの物語」参加作品)



私の名は、テル。
私は風。
語るべき物語を、探し求めている。



 瞼がほんのりと暖かい。
 かすかに、草の香り。
 背中が、ちくちくと痛い。
 風に降ろされた後は、いつもそうだ。五感を総動員して、自分がいる場所をさぐろうとする。
 危険な場所に降ろされたのなら、一目散に逃げなければならない。今まで、そういう目に何回かあったような覚えがある。記憶がないくせに、そう思うのは不思議なことなのだけれど。
 目を開けると、自分が草の上に仰向けに寝ているのがわかった。チクチクしていたのは、雑草の固い茎だった。
 静かだ。四方から丈の高い木々がじっと見下ろしているだけで、人影はない。
 私はそっと起き上がろうとして、とんでもないことに気がついた。身体を起こすことができないのだ。
 もがいてももがいても、地面に囚われてしまったように動きが取れない。
 私は焦り始めた。こんな誰もいないところで寝ているだけなんて、ごめんだ。何よりも、これでは私の物語が綴れないではないか。
 必死になって手足をばたつかせ、「誰か、助けてくれ」と叫んだ。
 ――叫んだはずだった。
「おぎゃあ!」
 私の喉から出てきたのは、なんとも頼りなげな泣き声だけ。
 わ、わ、私はこの世界では、赤ん坊なのか? 過去の記憶もないくせに、めったにない異常事態だということは、わかる。
 しゃくしゃくと地面の落ち葉を踏んでやって来る足音が聞こえた。
 そして、男の声。
「こんなところに、いましたか」
 私を掬い取るように軽々と抱き上げたのは、茶色の髪をした若い男だった。まだ少年と言ってもいいくらい若い。
 私をじっとのぞきこむ薄茶色の目からは敵意は読み取れない。頭上から落ちてくる木漏れ日を映して、その目はちかちかと金色の光を放った。
「どこにも、怪我はないようですね」
 彼はほっとしたように、笑いかけた。「ようこそ、【すずかけの家】へ。わたしの名前はセフィ。ここの教師をしています」
 【すずかけの家】? 教師?
(ここは学校なのか?)
 と言ったつもりだが、口からは「ふぎゃあ」という情けない音しか出てこない。
 なんだか、本当に泣きたくなってくる。
「おなかが空いているのかな。ミルクをあげましょうね」
 セフィは私の首の後ろと背中に手を回し、横抱きにして歩き始めた。小さな子を扱い慣れた、しっかりと安定感のある抱き方だ。どこへ連れていかれるのかと不安を感じてもよさそうなものなのに、私の心にはすでに彼に対する信頼が芽生えている。
「ここは、国の定めた保育教育施設です。人工子宮から生まれた四歳から九歳までの子ども40人と乳幼児8人が、ここで暮らしています」
 歩きながら、赤ん坊の私相手に、絶えず話しかけてくれる。
「【すずかけの家】というのは」
 不意に彼は立ち止まった。
「この、樹齢百年のすずかけの木から名前がついたのですよ」
 セフィが仰いだ視線の先には、一軒の家さえすっぽり覆ってしまいそうなほど巨大な木が、そびえ立っていた。
 豊かに生い茂る木の葉がざわざわと揺れて、まるで波のうねる緑の海。じっと見ていると、揺りかごに揺られているような気分になってくる。
 私はたぶん風に運ばれる途中で、あの梢にひっかかって、この世界に落ちてきたのだ。この世界の物語を語るという使命を果たすために。
 セフィはしばらく木を見上げながら思いに耽っているようだったが、おもむろに口を開いた。
 声はしなかった。彼の喉からは何の音も出てこない。ただ、彼の周囲で空気が漣のように震えるのが感じ取れるだけ。
 風の歌だ。なぜだか、私はそう直感した。
 セフィは風の歌を歌っているのだ。
 ただただ驚きすくんでいる私を見降ろして柔らかく微笑み、彼はまた歩き始めた。


 明らかに学校らしき、白い平屋建ての建物が見えてきた。
 その入口あたりで、髪の長い綺麗な女性がひとりで掃除をしていた。落ち着いた物腰で、セフィよりも何歳か年上に見える。
「胡桃(くるみ)」
 セフィは、親しみのこもった声で呼びかけた。
「わあ」
 振り向いた彼女は目を少し見開くと、近づいてきた。「どうしたの?」
「林のそばの草むらに、いました」
「まさか」
 ふたりは同時に顔を見合わせる。
「捨て子?」
「それはないと思います」
 セフィは首を振った。「2056年を最後に、日本国内に乳幼児が遺棄された報告は皆無です。全国どこの保育施設でも、ごく簡単な手続きで無料で預けられるのに、わざわざ法律を犯して遺棄する理由がありません」
 彼女は布に包まれている私をのぞきこんだ。「小さいね」
「たぶん、生まれて三週間くらいでしょう。首がまだ据わっていません」
「女の子?」
「男です」
「名前がわかるようなものは?」
「何も持っていません」
 彼女は、お包みの布ごと、そっと私を抱き取った。
「じゃあ、名無しのゴンベくんだね」
(私の名前は、テルだ!)
 叫んだつもりでも、無論まったく通じない。
「あ、泣き出しちゃった。いいわ、この子は、このまま私が預かる」
「え、でも」
「セフィは、これから体育の授業でしょ。私、次の時間は空いているから」
「そうですか。では、遠慮なくお願いします」
 視線をからめ、微笑む。
 その親密な様子を見て、ピンと来た。賭けてもいい。ふたりは絶対に、恋人同士だ。
 胡桃は廊下を曲がって、どこかの部屋に入ると、柔らかい台の上にそっと私を寝かせた。
「さあ、おむつを替えましょうね」
(ええっ)
 いくら赤ん坊の姿とは言え、妙齢の女性の前で、まさかそんな。私は手足をばたばたさせる。
「あ、やっぱりボトボト」
 抵抗もむなしく、下半身がすっと外気にさらされたのを感じる。
 彼女はとても丁寧に私の身体をぬぐって、乾いたおむつを当てた。恥ずかしいけれど、たとえようもなく心地よい。それが終わると、ミルクをたっぷり飲ませてくれた。
 赤ん坊とは現金なもので、すべてが具合よくなると、とたんに眠気が襲ってくる。
 その気だるさと虚無感は、別の世界に飛ぶ前に一瞬訪れる暗黒に似ていて、私は突然の恐怖に、思わず声をあげた。
 胡桃は、むずかり出した私を抱き上げ、透き通った声で子守唄を歌ってくれた。単調なリズムと揺れのおかげで、次第に安心を取り戻す。
 ここにいれば、とりあえずは生活には困らないようだ。
 だが、これからいったい、どうすればよいのだろう。意志も通じず、何もできない無力な赤子が、この世界でどうやって物語を紡げばよいのだろうか。
 今までに見聞きしたことをぼんやりと反芻しながら、私は羽根のような眠りの中に包まれて落ちていった。


「警察のコンピュータにアクセスしましたが、誘拐・失踪の報告も、捜索願いも出ていません」
 ふたたび目覚めると、セフィの声が聞こえてくる。
「何らかの事情があっての故意による遺棄だとすれば、すぐには身元はわからないと思います。その場合は、養育先について教育省の判断を仰ぐことになりますが」
「【すずかけの家】の乳幼児棟は今、定員いっぱいよ」
 私の身体を伝って間近で聞こえる胡桃の声は、いかにも悲観的だった。「別の施設に移すことになるわね」
 別の場所へ移す? とんでもない成り行きに目を開けると、私はまだ彼女の腕の中に抱かれていた。
「ねえ、セフィ」
 胡桃の声の調子が、甘えるように変わった。
「この子、うちで預からない?」
「わたしたちが、ですか?」
「ええ、ふたりの養子として」
 セフィは返事をしなかった。
 会話からすると、このふたりは夫婦なのだろう。だとすれば、言葉づかいがずいぶん変わった夫婦だと思う。
「賛成はできません」
 セフィはようやく顔を上げ、頑なな声色で答えた。
「この子どもはすぐに、いなくなるかもしれません」
「もちろん、本当の親が見つかれば、厳重な保護者審査を経て親の元に返されることになる。それは覚悟してのことよ」
「そういうことではなくて――」
 彼は少しの間、言いよどんだ。
「胡桃、あなたはやはり、子どもが欲しいのですね」
 今度は、胡桃が口をつぐむ番だった。
「ロボットのわたしと結婚するということは、新しい命を産み出せないということ。そのかわりにわたしたちは、【すずかけの家】の子どもたちを愛していこうと決めた。でも、頭では受け入れたつもりでも、心が受け入れられない」
 淡々とした無表情を装いながら、セフィは話し続けた。
「自分だけの子どもがほしいと思うのは、人間にとってごく自然な本能であり欲求です。……あなたは、わたしと結婚したことを、後悔しているのではありませんか」
「セフィ」
 胡桃は、抱いていた私を台の上に降ろすと、彼のもとに近寄った。
「何をバカなことを考えてるの」
「……すみません」
「この子を引き取ると言ったのは、別の施設に移さないための方便よ。22世紀になって、子どもは社会全体が守ると法律で決まったの。すべての子どもは、愛されるべき尊い存在。保育教諭として、自分の子どもと人の子どもを分け隔てて考えるつもりはないわ」
「……そうでしたね」
「私があなたと結婚したことを、後悔するはずないじゃない」
 胡桃が彼の背中に両腕を回す気配がした。想像ではたぶん熱いキスを交わしているのだろうが、新生児なので寝返りを打つこともできず、肝心要の場面が見られない。
「もうすぐ、午後の授業の予鈴が鳴りますよ」
「うん、じゃあ行ってくるね」
 部屋の空気がふわりと動いて、胡桃が出て行ったのがわかった。
 残されたセフィは、私のそばに来て、台の上に腰を下ろした。
「心配しなくて、いいんですよ。別にけんかをしていたわけじゃありませんから」
 私の額を撫でながら、やさしく語りかける。
「この話になると、いつも平行線なんです。胡桃は判で押したように、ああ言うのですけれど」
 彼は首をかしげて、考え込む。
「わたしは、愛というのは普遍的ではなく、きわめて排他的なものだと思うんです。ほかの誰でもない、自分だけが愛されていると感じることが、人間の根源的な欲求なんじゃないかと」
(そんなものだろうか。普遍的な愛というほうが、ずっとすてきに聞こえるけど)
「そうは思いませんか? もし、あなたの恋人が、『私はあなただけではなく、すべての男性を普遍的に愛しているわ』と言ったら、あなたは平気ではいられないはずです」
(そりゃあ、確かにいやだな)
 セフィは、私の顔をじっと見つめながら、くすりと笑った。
「やはり、あなたは、わたしの言葉をきちんと理解しているのですね。そうではないかと思っていました」
(え?)
「あなたの瞳孔の収縮反応と、脈拍と、脳波の波形を観察していたら、そうとしか思えないのです。あなたは赤ちゃんの姿をしていますが、本当はおとななんでしょう?」
 彼は私を抱き上げると、金色に輝く瞳で、じっと見つめた。
「それに、あなたはどこか、この世界ではないところから来た。さっき、すずかけの木の下に立ったとき、半径5キロメートルの範囲内を電磁波と赤外線でトレースしました。あなたは2時間18分35秒前に突然、すずかけの木の上空に現われて、ゆっくりと地面に降りた――まるで風に運ばれてきたかのように」
 驚きのあまり、声も出ない。
「なぜ、そんなことがわかるのか、ですって?」
 セフィは少しいたずらっぽい笑みに頬をゆるませた。
「私がロボットだからです。自律改革型ロボットAR8型セフィロトと言います」
(……ろぼっと)
「あなたのいた世界には、ロボットはいませんでしたか? それでは、機械……いいえ、自分で動く人形といったほうがわかりやすいでしょうか」
 自分で動く人形。
 そう言われて、私の頭に思い浮かぶのは、竹のとりかごに入れられて、一年中鳴いている、作り物の小鳥だった。どこでそんなものを見たのか、記憶にはなかったけれど。
 目の前で、人間のように話し、動き、さまざまな表情をしている彼が、作り物だったなんて。
「だから、わたしには生命がありません。新しい生命を生み出すことも、できません」
 セフィは寂しそうに笑った。
「胡桃と愛し合って、結婚しました。でも、わたしはときどき、間違ったことをしてしまったのかもしれないと迷うときがあるのです。ちょうど今みたいに――胡桃が自分の赤ちゃんを望んでいるのだなと、ひしひし感じるときです」
 彼は愛情をこめて、私の頬にそっと触れた。
「できるなら、あなたを養子にして、胡桃の願いを叶えてあげたい。でも、あなたは別の世界から来た人です。ずっとこの世界にいてくれるかもしれないし、来たときと同様で、また不意にいなくなるかもしれない。わたしは胡桃に、愛する者がいなくなる悲しみを二度と味わわせたくないのです」
 セフィはそう言って、しばらく放心したように、どこかを見つめていた。
 私はそれを見て、胸がずきんと痛くなった。身寄りのない赤子として突然現われた私が、子どもの与えられない彼らの心の傷口を開いて、塩を塗りつけてしまったのだ。
 私がここに来たことは、間違いだったのか。物語を紡ぎたいという自分の願いのために、この世界の人々をいたずらに悲しませているだけなのではないか。
(私は、ここにいてはならない)
 そう思った私は、ありったけの力で手足をばたばたと動かした。
「どうしたんです」
 急に暴れはじめた私に驚いて、セフィは私の額にそっと触れた。
「さっきまでなんともなかったのに……ひどい熱だ」


 私は一晩、高熱にもがき苦しんだ。
 自分の存在を肯定できず、この世界にいる気力を失ったからだろうか。死によってでも、この世界を去りたいという思いが、私の生命を削っていたのだと思う。
 医者が処置をして帰ったあと、胡桃とセフィは、一睡もせずに私のそばに付き添って看病してくれた。
(ありがとう。でも、もういいんだよ。私はここの世界にいてはならない人間なんだから)
 枕辺でじっと私を見つめているふたりに、なんとかして安心させようと必死で語りかけた。
(だいじょうぶ。きっと死の瞬間に、私はまた風にさらわれて、次の世界に行くから。今度こそ、ことばを話せない赤ん坊なんかじゃなく、私の物語を思い切り語れる場所に)
「死なないで」
 胡桃は、きらきらと涙をこぼしながら、私の小さな手を握った。
 その手を通じて、彼女の記憶が私の中に流れ込んできた。
『死なないで』
 まさに命が尽きようとする夫のかたわらで、何度も何度も胡桃がそう叫んでいる。
 夫は荒い息の下で、彼女の手を弱々しく握り返しながら、ささやいた。
『胡桃、泣くな。俺はいつまでもおまえといっしょにいるから。決してひとりにしないから』
 そして、風に運ばれた彼の魂が、巨大な木の梢にたゆたい、そして一直線に地上に降りていって、生命のない人形の中に――セフィの中に宿るのを、私は夢うつつの狭間で見ていた。
 それはなんという不思議な光景だったことだろう。なんと哀しくて、幸せで、美しい夢だったことだろう。
 はっと目を覚ましたとき、熱による苦痛はすべて消え去っていた。
 心臓が動いている。呼吸している。私は生きている。
 生命の喜びが私を満たした。
 まるで、夢に現われた大きな木に届こうとするかのように、短い腕をせいいっぱい伸ばした。
 セフィと胡桃の手が両側から伸びてきて、私の手をしっかりと掴んだ。


 かくて私は命をとりとめ、【すずかけの家】の中で、教師たちに交代に世話をされながら暮らすことになった。
 そのためにセフィと胡桃が大変な思いをして、園長先生や、教育省なるところのお偉方たちと掛け合ってくれたらしい。
 新しい名前もつけてもらった。この国のことばで「翔ぶこと」を意味する「ショウ」というのだ。「テル」には及ばないが、まあ、これはこれで悪くない。
 私は毎日、藤棚の下で、乳児用の揺りかごに揺られながら、園児たちの騒がしい外遊びをながめている。
「ねえねえ、こいつ今、口をへの字に曲げて泣きそうになったよ。寝てるのに」
「きっと、イヤな夢でも見てるんだよ。起こしてやろう」
(うるさーい。人がせっかく、いい気持で寝てるのに)
「うわっ。びーびー泣き出した。セフィ先生に知らせてこい」
 相変わらず赤子の言うことはさっぱりわかってもらえず、私はこの世界では、小さな物語さえ綴れそうにない。
 それに、ここを去る時がもうすぐ来ることも予感している。
 私は結局、この世界に何か物語を残せたのだろうか。
 セフィと胡桃は、子どもが与えられない苦悩を解決できるのだろうか。
 わからなかった。それでも、ひとつだけ私にわかることがある。
 私はこの世界に来てよかった。【すずかけの家】の人々に出会えてよかった。
 生きていて、よかった。
 すずかけの木の梢を見上げながら、さえずる小鳥たちの歌と風の音をないまぜにして聞きながら、私はふたたび訪れた幸せな眠りの中で、身体がふわりと浮き上がるのを感じていた。
 






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