セフィロトの樹の下で番外編 クリフォト


序章 「機械の堕天使」               BACK | TOP | HOME





 【すずかけの家】に、待望の新しい園舎が建つのは、一ヵ月後だ。
 落成を待ちかねて、連日たくさんの卒業生たちが、まだ建築中の建物を見に来る。
「カナイくん、ルカちゃん」
 今年の春卒業したばかりの9歳児たちに、胡桃は手を振った。
「中等学校は、どう?」
「つまんないよー。【すずかけの家】のほうがずっと楽しかった」
「そうなの?」
「寮の先輩はうるさいしー。自由なんか全然ないんだ」
「ここへは、いつでも遊びに来ていいのよ」
 胡桃は、訴えかけるような瞳のふたりの髪を撫でる。「【すずかけの家】は、あなたたちの【家】なんだから」
「うん」
 彼らはうれしそうに笑った。
 全員で、園庭の隅の工事現場を見上げる。鉄骨の十倍の強度と言われるナノファイバー製の軽量木材や壁板がするすると、建築ロボットたちの長いアームによって組み上げられていく。工事の騒音はほとんどない。
「栂野先生、よく許したよね」
「うん、監督さん以外は、全員がロボットだもんね」
 栂野健園長はロボット嫌いなことで有名だ。
 園長就任から一年以上経った今でも、その基本姿勢をつらぬいていると見え、掃除も園庭の草取りも、すべて生徒たちといっしょに、汗だくになって園長自らがやっている。
 けれど、【すずかけの家】のあちこちで、高い梢の葉刈りをしたり、プールの底に潜って掃除するロボットを見かけるようになった。ロボットを嫌うだけでは何も始まらないことに気づき、彼なりに少しずつロボットと人間の共存の道をさぐっているのだ。
 もちろん、栂野の変化は、セフィロトとの出会いが理由であることは間違いない。
「そう言えば、セフィ先生は?」
「今日は四時まで、【東都】で教育省の主催する講演会に行ってるのよ」
「ああっ。しまった」
 ふたりの子どもは、頭を抱えた。
「四時には、寮に帰らなきゃならないよ」
「だから、前もって確かめろって言ったのに」
「水曜なら絶対いるって言ったのは、カナイじゃない」
「ねえ、胡桃先生、セフィ先生に、講演会を途中で抜けてきてって連絡したらダメ?」
「それは、ちょっと無理だと思うわ」
 胡桃は、肩をすくめて笑った。
「だって、セフィ先生が講演会の講師なんだもの」


「それでは、最後に何かご質問は?」
 講壇の上で、茶色のスーツ姿のセフィロトが人差し指をすっと立てると、それに呼応するように会場のあちこちでランプが点灯し、壇上のパネルに、またたくまにいくつもの質問が掲示された。
「わかりました。上から順番にお答えしますね。まず発見学習についてですが、すでに20世紀にオーズベルによって有意味受容学習が提唱されています。これは、中等期の言語学習において……」
 説明と同時に、セフィロトの人工知能から直接送信された情報が、パネルに要約や図表となって次々と現われる。
 予定の時間五分前に終わり、セフィロトが壇上から降りると、水木前園長が、目尻を思い切り下げた満面の笑みで近づいてきた。水木先生は、【すずかけの家】を退任したあと、教育大学の講師のかたわら、教育省で主に教師の指導や再教育を担当している。
「お疲れさまでした。セフィ先生。とてもわかりやすい講義だと、参加者に毎回好評ですよ」
「ありがとうございます」
「もっとも女性の聴衆は、半分は話を聞くより、あなたに見とれていたようですがね」
 セフィロトは、困ったように笑った。「それでは、講義をする意味がありません」
「冗談ですよ。お忙しいのにお時間をとらせました。また来月もよろしくお願いします」
「はい。次に来るときは、新校舎落成式の招待状を持ってきますね」
 裏口から駐車場に回ったセフィロトは、停めてあった車に乗り込んだ。
 彼が自動車免許を取ったのは一年前だが、免許取得の際には、交通省と少々厄介なやりとりがあった。
 ロボットの彼は、ハンドルを握る必要がなく、デジタル音声操作だけで運転ができてしまうのだ。おまけに、運転前に必ず義務づけられている呼気検査をしようにも、彼には呼気がない。
 結局、何回かの交渉のすえ、免許の特記事項に、「ハンドルを保持すること」という条項が付け加えられることになった。呼気検査のほうは、車のコンピュータと「仲良くなること」で解決した。
 自動走行システムの完備している首都高に入って、ようやくハンドルから手を離したセフィロトは、さっきから点滅し続けていた画面の通信スイッチを入れた。
「お待たせしました。柏審議官――じゃなかった、今は柏局長でしたね。うっかり忘れてました」
「ふうん。うっかり忘れることができるなんて、また人間に一歩近づいたじゃねえか、セフィロト」
 人を威圧する表情と凄みのある声は、二年経ってもまったく変わっていない。
「この数ヶ月、どこへいらしてたんですか。犬槙博士が急に行方不明になって、いろいろ調べたら、柏さんといっしょに海外に行っているとわかったのですが」
「ああ、犬槙の野郎なら、今もそばにいるぜ」
 それだけじゃない、と柏は意味ありげに、チラリと横を見た。
「久しぶりだな。セフィ」
「武藤さん!」
 セフィロトは目を丸く見開いた。
 武藤栄作は、二年前のクーデタ騒動のとき、ユエ・コンツェルンのスパイとして捕らえられ、懲役15年の刑を受けたはずだ。
 その彼が、なぜ今、科学省に?
「セフィロト、今から来られるか」
 柏の声は、有無を言わせぬ命令口調だった。「大切な話がある。緊急かつ最重要の国家機密だ」


 科学省の奥深い一室に入ったとき、セフィロトは時間が巻き戻ったかのような錯覚を覚えた。柏局長、木田勇人、そして武藤栄作。
 特別任務官として彼らとともに働いた一年は、セフィロトにとって大きな意味があった。研究室の中でもなく、古洞家でもなく、【すずかけの家】でもない、もうひとつの居場所。それは、胡桃や犬槙博士とは別の価値観で動く世界を知ることだった。
 そして何よりも、ここは日本政府の重要な意思決定機関として、日本という国と世界との関わりが、ガラス窓を通すように透けて見えるところだった。
「武藤さん、出て来られたんですね」
 うれしそうに顔をほころばすセフィロトに、武藤は「そういうわけじゃない」と苦笑いを返した。
「柏局長の工作による、臨時の超法規的措置ってやつだ。この件が終われば、またすぐ刑務所に戻される」
「そうなんですか」
 失望した様子のセフィロトを見て、武藤はあわてて付け加えた。
「どうせ、ろくに休みもなく、こきつかわれてるだけさ。早く、静かな個室でゆっくり昼寝したいよ」
 どうして、この人間そっくりのロボットを見るたびに、非情な裏社会で生きてきたはずの自分が甘い父親のような気分にさせられるのか、いつも不思議だった。
 特に今は、この部屋にいる全員が、その不思議さを味わっているはずだ。――すべてのAR8型ロボットが、彼のようではないことを知っている今は。
 セフィロトは、もうひとりの大切な人の姿を求めて頭をめぐらした。
「犬槙博士は?」
「ここだよ」
 無敵の美貌を誇る天才ロボット工学博士にして、セフィロトの創造者のひとり。犬槙魁人博士は、いつもどおりの余裕の笑みを浮かべて、隣の部屋から入ってきた。その後ろには、彼の婚約者ジョアン・ローレル博士の作ったSR12型シーダが付き従っている。
「お久しぶりです、博士、シーダ。いったい、どうなさっていたんですか」
「またもや柏局長が、関係のない僕を厄介なもめごとに巻き込んでくれてね」
「どこが、関係ないだ。おおいに関係者じゃねえか」
「ま、そういう意味でいうなら、一番の関係者はセフィロトだけどね」
「いったい、どういうことです?」
 セフィロトは、判じ物のような会話に、首をかしげた。
「わたしに一番関わりのあることで、厄介なもめごとで、しかも緊急かつ最重要の国家機密?」
「まあ、大雑把に言えば、そうなる」
 柏は、相変わらずの猛禽類のような顔で、彼をにらんだ。
「実は、AR8型のデータが、外国に盗まれていたことがわかったんだ」
「ええっ」
「それも、一部だけじゃない。全部のデータ――その中には、【人格移植プログラム】なんてのもあるらしいが――ひっくるめて、全部だ」
 セフィロトはひどく戸惑って、犬槙を見た。博士は重々しくうなずき返した。
「本当のことだ。セフィ。きみは二年前、【テルマ】の中に入ったことがあるね」
「はい」
 【テルマ】とは、国立応用科学研究所のマザーコンピュータだ。セフィロトは当時の柏所長に命じられて、クーデタの黒幕の正体を探るために、【テルマ】と直接交渉を行なった。
 マザーコンピュータは、セフィロトと、その深層に存在する古洞樹のプログラムに並々ならぬ興味を持ち、あやうく彼は捕獲され、外界に戻れなくなるところだった。
「あのときに、【テルマ】が解析したきみのプログラムは、すべて完全に消去されたはずだった。だが実際は消去されずに、後になってユエ・コンツェルンに流れてしまったんだ」
「いったい、どうしてそんなことが?」
「【テルマ】の八つのセグメントのひとつが、知らないうちに奴らに操られていたということだ」
「まさか……」
 信じがたいことだった。【テルマ】は八つのセグメントが合議制ですべての判断を行なう。たとえひとつが乗っ取られても、他の七つが情報の流出を阻止しようとするはずだ。
「ところが、相互防衛システムは働かなかった。この数ヶ月、科学省の電脳部門の技術者たちはパニック状態でね。国の最高機密機関のマザーコンピュータが、いともたやすくチャイニーズマフィアの一組織に機密を漏らしてしまったんだからな」
「どれくらいの期間、彼らは【テルマ】を操っていたんですか?」
 彼の視線を受けた武藤が、首を振った。
「わからん。俺は末端の歯車に過ぎなかったからな。国防省の【シリル】を乗っ取る計画は聞かされていたが、【テルマ】のことはまったく知らなかった」
 それでは、都営カジノでユエ・コンツェルンのコンピュータをハッキングしたときは、すでにセフィロトのデータはその中にあったのだろうか。
 あのとき、もう少し時間があれば、精査して発見できたかもしれないのに。そう思って、セフィロトは悔しさに唇を噛んだ。
「データの流出が明らかになった一年前から」
 柏は続けた。「日本政府は全外交努力を傾けて、中国政府との困難な交渉に入った。ユエ・コンツェルンの組織の全容を明らかにし、日本の国家機密であるAR8型ロボットに関するデータ全部の回収と消去を要求すると」
「中国政府にそんなことを要求しても、仕方がないのでは?」
 セフィロトは当然の疑問を口にした。「だって、相手は巨大企業を隠れ蓑にした、非合法の犯罪組織ですよ」
「犯罪組織が、一国の政府と深いつながりがあるという図式は、おまえには理解できないだろうな」
 木田勇人が、相変わらずの小ばかにしたような口調で、説明した。
「中国は、あれだけの経済、軍事大国でありながら、ロボット工学の分野では、世界に一歩も二歩も遅れをとっている。ユエ・コンツェルンの裏の活動を『黙認』して、代わりに日本から盗んだ情報を提供させていたって言えば、少しはわかるだろう」
「だからこそ、政治的交渉の余地があったわけだ」
 柏は、眉と眉のあいだを指で揉みながら、ことばを引き継いだ。
「俺たちは武藤を刑務所から出して、敵のあらゆる情報を分析させ、ユエ・コンツェルンと中国政府との癒着の具体的な証拠をネタに、交渉のテーブルに着いた。一方では技術提携をちらつかせながら、AR8型のデータを返せと詰め寄る」
 交渉の様子がセフィロトの視覚回路に浮かぶようだった。柏局長がこの顔で詰め寄ったら、相手はさぞかし身の危険を感じただろう。
「で、交渉は成功したわけですね」
「一応は、な」
 犬槙が、軽い口笛のような溜め息をついた。「データは僕たちが徹底的にチェックした限りは、すべてのコンピュータから完全に消去された。この後、AR8型のデータをもとに造られたロボットが発見されたら、莫大な賠償金が支払われることも約束された――たったひとつの例外を除いてな」
「例外?」
 セフィロトは、犬槙の伏せた目に浮かぶ奇妙な表情に気づいた。
 それは悲しみなのか、怒りなのか。そのどちらでもあるように思える。
「遅かったんだ。中国内のひとりのロボット工学博士によって、すでに一体のAR8型ロボットが完成してしまっていた。しかも、そいつは、深層に【人格移植プログラム】まで搭載している」
「まさか、古洞博士の?」
「いや、ベースになったのは、その中国人、劉(リウ)博士の人格だ」
 犬槙は顔を上げた。「そのロボットに会ってみたいかい?」
「ここに――いるのですか?」
「ああ、あっちの部屋に運び込んである」
 犬槙は、くいと顎で隣への扉を指し示した。
「中国政府との合意項目のひとつだ。リウ博士の作った中国製AR8型ロボットは、日本政府の管理下に入る。そもそも現物が向こうにあっては、いくらデータを消去しても何もならんからな」
 セフィロトは眉をひそめた。
 犬槙博士らしくない。まるで感情のない【物】をやりとりするような冷たい言い方だと思った。シーダはその隣で、じっと沈黙を守っている。
「でも、リウ博士は?」
 力なく、セフィロトは訊ねた。「彼のマスターは、今回の措置には同意されたのですか?」
 犬槙は黙って、首を振った。
「博士は三ヶ月前に亡くなった」
「亡くなった――」
 人工皮膚の表面に、泡が立つような感覚が走った。人間が鳥肌が立つと呼ぶ、あの不快感。
 それでは、そのロボットには、もうマスターと呼ぶべき存在がいないのだ。
「こっちだ。彼に会わせよう」
 期待と不安がないまぜになった感情が、セフィロトの歩みを急かせる。
 明かりを消した部屋の中にあったのは、彼が使っているのと同型の充電装置だった。
 青い光に包まれて、ひとりの黒髪の少年が目を開けたまま、カプセルの中に横たわっている。
「【クリフォト】という」
 犬槙博士の抑揚を殺した声が、背中から響いた。
「AR8型【クリフォト】。きみとまったく同じ設計図で生み出された、この世でたったひとりの、きみの弟だよ」





使用したお題「セフィロト十一題」および「クリフォト十題」は、霜花落処 さまからお借りしました。
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