ゲーム編



「セフィ、お願い。もう桑田さんの介護のことは忘れて。力がほしいなんて言わないで」
 私は怖かったのだ。
 セフィロトが人間をはるかに越えた力を身につけ、それを悪の手に利用されてしまうことが。
 彼には強い腕力も瞬発力もいらない。私のそばで微笑んでいてくれさえすれば。
「そうだ、もっと他に興味のあることはない? セフィはクラシック音楽が好きだったわよね」
「クラシック……ですか。はい、とても好きです」
「クラシックの中で一番好きなのは、どの作曲家?」
「ショパンです。ショパンの幻想即興曲」
「それなら、ピアニストになるというのは、どう?」
 私は目を輝かせた。ピアノなら私も小さい頃から習っていた。基本ならなんとか教えられる。
「ピアニスト。わたしがピアニストになるのですか?」
 セフィロトの表情も同じように、生き生きとしてくる。
「そうよ、ふたりで世界一のピアニストを目指しましょう!」


 3年後。ポーランド・ワルシャワの2145年度ショパン国際ピアノ・コンクール。
 第3次予選までが終わり、ショパンの命日10月17日の翌日、本選が華やかに行われた。
 ここまでセフィロトは順調に予選を勝ち上がってきた。
 いよいよ、今日彼の真価が試されるときが来る。
 曲はもちろん、Fantasie-Impromptu、「幻想即興曲」。
 最初のアレグロ・アジタートは、左手の3連符と右手の16分音符という異なるリズム。揺らぐ旋律の中に調和が要求される。セフィロトはその高難度のパートも、正確無比な指でリズムを刻んでいく。
 そして、第2形式のモデラート・カンタビレ。夢のように甘い主題が奏でられる。
 樹が結婚前に買ってくれたオルゴールと同じ曲だ。
 観客席で聞いている私の頬に涙が伝う。まるで、樹からのプレゼントのようだ。こうして、セフィロトが私にくれた感動は。
 この3年の練習に明け暮れた毎日が走馬灯のごとく瞼の裏を駆け巡る。厳しくつらい日々だったけれど、楽しかった。
 そして、最後のプレスト。ふたたび吹きすさぶ風のような、不安に騒ぐ心のような旋律の奔流。
 満場の拍手を浴びて、タキシードを着たセフィが壇上でお辞儀をする。
 私にはもうその姿は、涙でかすんで見えなかった。

 優勝を確信していたのに、それは幻と消えた。
 第1位該当者なし。
 審査員たちの無情の講評が発表された。
「歴史上初のロボットピアニスト、セフィ・コドウは、最も完成された技術と力量で我々を魅了した。しかし、彼の音楽には欠けているものがある。それは心だ。彼のピアノには、詩的な色彩がまったく感じられない……」

「わたしがロボットだから……、だからわたしのピアノには、心がないのでしょうか」
 批評家たちの冷たいコメントが載った新聞を握りしめながら、セフィロトは呆然とその場に立ち尽くした。
「どんなに努力しても、ロボットは人間の弾くピアノには、所詮かなわないということなのでしょうか」
「セフィ、そんなことはない! 彼らにはあなたのピアノにこめられた心がわからなかっただけよ」
「気休めはやめてください。……わたしにはもうこれ以上、ピアノを弾く自信がありません」

 心とは、何だろう。
 音楽に絵画に文学。人は心を感じるとか、心が入っていないとか、たやすく批評する。
 作り手は、全身全霊をこめてそれを産み出しているのに。そんな目に見えないものが評価を決めてしまう。そこに批評家の偏見が入っていないと誰が言えるだろうか。
 悔しさに身を震わせながらも私は、ロボットには心がないと苦しむセフィロトに何と答えてよいかわからなかった。

 鍵盤には二度と向かわない、と一時は決意したセフィだったが、このところ少しずつ変化が出てきた。
 【すずかけの家】で、子どもたちに童謡ややさしいクラシックを弾いてあげてと、私が頼んだことがきっかけとなった。子どもたちの無邪気に喜ぶ顔を見て、はじめてセフィロトは弾く者と聞く者と一体となる楽しさを知ったようだった。
 今度は桑田さんはじめ近所の高齢者の方々をたくさん招いて、ミニコンサートを開くことになっている。
「胡桃。他人の評価を気にしないで何も考えずにピアノを弾くことが、こんなに楽しいとは知りませんでした」
 おだやかな笑みを取り戻した彼に、私も微笑み返した。
 他人を恐れる必要はない。自分は自分。
 そう学び取ったセフィロトは、真の人間らしい個性への入り口に立っているのかもしれない。    



 No.7「ピアニストエンディング」 ―― 初期化する?

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