番外編  霞恋湖畔の怪                 back | top | home




(3)

 統馬が草薙を連れて外に駆け出すと、湖の岸の水打ち際に、詩乃が横たわっていた。
 体の右半分を時折寄せる波に、ゆらゆらとひたしている。
「弓月!」
 統馬が上半身を抱き起こしたが、目は堅く閉じたまま開く気配がない。
「草薙。弓月の気をまったく感じない」
「これは……」
 草薙は詩乃のこめかみにちょんと鼻先をつけて、そして顔を上げて叫んだ。
「夜叉によって、完全に心を閉じられておる。
……いや、違う。詩乃どの自ら心を閉ざしておるのだ」
「どういうことだ、それは!」
「ペンションの泊り客がことごとく仲たがいをしてしまった理由……。それは、この湖の周囲に住みついた2体の夜叉が、それぞれを惑わしておったのじゃ。
一体は、カップルの一方の姿を借りてもう一方を誘惑する。統馬、さっきのおまえのようにな。誘惑された者には自分の恋人と見えるために、恋人と抱き合ったつもりになって、知らずに夜叉にもてあそばれる。
そして、もう一体の夜叉は、姿を真似られた人間を操って、自分の恋人が夜叉に誘惑されている現場を目撃させる。その者の目には、見知らぬ異性と抱き合っているようにしか見えぬのだ。当然、浮気をされたと思って激しく怒る。
双方とも理性など、とっくに夜叉によって失わされておる。それが、今度の事件の真相なのじゃ。だが……」
 ことばを続けながら、いたましげに詩乃を見下ろす。
「詩乃どのは夜叉に操られまいと、せいいっぱい抵抗した。いきなり襲われたので真言を唱える間もなく、とっさに意識ごと閉じてしまったのじゃ」
「このままだと、どうなる?」
 統馬が噛みつかんばかりに、詰問した。
「夜叉に心に入り込まれたまま抵抗し続けて、やがて意識を取り戻せないで衰弱してしまうじゃろう。
それを防ぐ手立てはひとつ。わたしとおまえのふたりで、詩乃どのの心の中に入り込むのじゃ。おまえが夜叉を祓うと同時に、わたしが詩乃どのの意識を開かせる。
だが、もし失敗したら、ふたりとも詩乃どのの心の迷宮の中から出られなくなってしまうぞ」
「そんなことはどうでもいい。さっさと誘導しろ」
「あいわかった」
 草薙はこっくりとうなずくと、黄金色の目を閉じた。
「オン・バザラ・シャキャラ・ウン・ジャク・ウン・バン・コク!」





  「くそぅ。夜叉はどこだ」
 草薙と別れ、統馬はひとりで暗黒の空間に立ち、うなった。
「まるで迷路だ。どちらに進めばいいのか、わからん」
 まさしく、そこは迷宮だった。とは言え、目に見える壁があるわけではない。
 人間の感情がもつれた糸のようにからまり、統馬の意識が正しい方向に進むのを拒んでいるのだ。
(にくい……さびしい……いとしい……)
「これは、……弓月の心の声なのか?」
(人を愛したいと願う心と、人を憎む心……。全然違うはずなのに、私の心の中ではひとつになってしまうの)
 声は止むことなく途切れることなく、低く、高くこだまする。
(矢上くんを好きになった、そのままのキレイな心でいたかった。
でも、私の中にどんどん、醜い思いが生まれてしまう。
彼を独り占めしたくて、彼が応えてくれないからって絶望して、……死んだ信野さんのことをねたんでいる私) 
 いたたまれぬ思いで、思わず統馬は耳をおおった。でも声は耳ではなく、心を突き刺して侵入してくる。
 統馬自身が自分の心の奥底に沈めていた感情を浮かび上がらせ、絡み合っていく。
(こんなだったら、矢上くんを好きになるんじゃなかったよ。……もう、疲れた。このまま、何も考えずに眠りたい……)
「弓月……。違う、俺は、俺は……」
 その声に答えようとしたとき、統馬の目が、今まで見ることができなかった邪悪な影をはっきりと捉えた。
 詩乃の心に忍び込んでいた、もう一体の夜叉だ。
(幸せそうなおまえたちが、憎い……。われらふたりは現世では決して結ばれなかったゆえに)
「そこかッ」
 彼は、天叢雲をしゃりんと鞘走らせた。
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・ドバンシャナン、アビュダラ・ニサトバダトン・ソワカ!」
 渾身の力をこめて、上段から振り下ろす。
 ひとたまりもなく、夜叉は白い煙となって消滅した。
 統馬は、その途方もない怨嗟を浴びて霊力をそぎとられ、がっくりと片膝をついた。
「……草薙! あとはまかせる」
 同じころ、草薙のいる詩乃の心の最奥部には、白い清浄の光が満ちていた。
「おお、あたりを覆っていた邪念が晴れていく。統馬め、夜叉を倒したな」
 ひとりつぶやくと草薙は、胎児のように丸くなって手足を縮こめていた詩乃の深層意識に向かって、やさしく呼びかけた。
「詩乃どの、起きなされ。もう大丈夫じゃ」
「う……ん」
 詩乃は少しずつ目を開いた。
 まばゆいほどの白い光の輪の中に、古の高貴な衣装を身にまとった若者が、微笑みながら見下ろしている。
「誰……?」
「ナギちゃん人間バージョンじゃ。夢の中でしか見せられぬのが残念じゃが」
「夢? ここは夢なの? 私……、いったいどうして、こんなところに?」
「詩乃どのは夜叉と戦ったんじゃよ。よくがんばったな」
「私……、勝ったの?」
「ああ、そうじゃよ。さあ、統馬も待っておる。急いで現実の世界に帰ろう」
 草薙は、若草色の狩衣の袖にすっぽりと詩乃を覆い隠すと、真言を唱えた。ふたりの意識はゆっくりと七色にきらめく意識の表面に向かって、上昇していった。


 統馬と詩乃、そして白狐に戻った草薙は、湖のほとりでゆっくり起き上がった。
「あ、……矢上くん」
 統馬はひとことも発せず、いきなり詩乃を抱きすくめた。
「弓月。おまえは……どれほど俺を心配させたら気がすむんだ」
「く、苦しいよ、矢上くん……」
「これからは何があっても、絶対に俺のそばから離れるな」
「え……?」
 詩乃は何がなんだかわからず、呆気にとられている。
「返事をしろ!」
「……は、はい」
 統馬は詩乃の髪に片手を差し入れると、互いの唇を重ねた。
「ありゃりゃ。やってしもうた」
 草薙は回れ右をして、笑いの浮かぶ口元を隠す。
「ま、「詩乃どのの貞操を守る会会長」のわたしも、今日だけは見逃してやるとするか」


 2体の夜叉を調伏した一行は、とりあえずペンションに戻ることにした。
「くそぅ」
 道すがら、統馬はいまいましげにつぶやいている。
「後悔しとるのか、統馬。詩乃どのに接吻したことを」
「ああ――。俺は修行が足りない」
「うおっほっほ。もっと精進することじゃな」
 草薙は、高らかに笑った。
「わたしからすれば、四百歳のおまえなぞ、まーだまーだヒヨッコじゃ」





 ペンションの中は出かけたときとは見違えるくらい活気に満ち、電話の音がひっきりなしに鳴り響いていた。
「あ、心霊調査事務所のおふたり。どうしたんですか。そんなにびしょぬれになって」
 ばたばたと走ってきたオーナーに、詩乃は夜叉を倒したことを話した。
「なんと! では、そのおかげでしょうか? ついさきほど、県内の旅館で食中毒が発生したので、今晩泊まる予定だった団体客を引き受けてくれないかという連絡が、観光協会から入ったのです。もう、スタッフ総出で準備におおわらわです」
 額に汗を光らせているオーナーも、久しぶりの忙しさにうれしそうだ。
「それに、なぜか突然、秋の観光シーズンの予約の電話も鳴りっぱなしで……、ほら、また」
「この付近をおおっていた夜叉の呪いが解けたのですね。本当によかった」
 と、詩乃が言う。
「おふたりのおかげです。ありがとうございました」
 ところがそのときになって、急に彼は頭を掻き始めた。
「あ、……ですが、実は申し訳ないことになってしまいまして……。団体客を受け入れるためにどうしても、お泊りいただく予定だった部屋をひとつ、そちらに回さなくてはいけなくなったのです」
「ええっ! じゃあ、今晩はあのダブル一部屋で、矢上くんといっしょ……」
 詩乃がまた傍らの統馬をちらりと見ると、彼も珍しくうろたえている。
「そ、それは困る……。弓月、このまま東京に帰ろう」
「ふふふ。よいではないか。統馬」
 草薙は、意地悪な笑みを浮かべた。
「「詩乃どのの貞操を守る会会長」のこのわたしが、詩乃どののために特別の痴漢よけ結界を作ってあげるわい。
それになによりも、煩悩多きおまえの修行になるというものじゃ」
「……」
 統馬はひとこともなく、顔を赤らめている。
「なあ、詩乃どのも、今晩はこのペンションで、統馬といっしょに楽しい一夜を過ごしたいじゃろう?」
「……うん、ナギちゃん」
 詩乃は、心から幸せそうに微笑んだ。





*  *  *  *


「みなさん、ご苦労さまでした」
 ふたたび彼らは、あの朝と同じオープンテラスのカフェに集合していた。霞恋湖から帰って数日後の週末のことである。
「おかげでペンションのオーナーから破格の報酬もいただいて、うちの事務所もうるおいました」
 心霊調査事務所の苦労人所長、久下も満足げだ。
「こちらこそ、楽しい旅行ができました。ありがとうございます」
 詩乃が答える。
「食事もおいしかったし、矢上くんとテニスもしたんですよ」
「へえ、統馬、テニスなんかできるんですか」
「どうということはない。刀の袈裟懸けの要領だ」
「それじゃゲームにならないでしょう」
「そうそう、ネットにでかい穴を開けて、詩乃どのがペンションの人にあやまっておったな」
「ははは。くつろいだ時間を過ごせたようでよかったです」
 久下が、そう言ってから居住まいを正した。
「ところで、今朝みなさんに集まっていただいたのは、他でもない、もうひとつ夜叉追いの仕事が入ったのです。
それも、ふたたび湖畔が舞台の事件なんですよ」
「ええっ、また?」
「今度は「霞霊湖」という湖でして。「霞」に「霊」と書いて、「かれいこ」。不気味な名前でしょう?」
 と、意味ありげに声を落とす。
「この湖が、近頃急に茶色く濁りはじめたのです。おまけに、香辛料のような異臭まで漂ってきて、近所の住民は、そのために体調を崩して、めっきり老け込んでしまったというのです」
「まあ、大変。でも、なんだか香辛料の異臭って変ですね」
 詩乃は、あることに気づいて、首をひねった。
「おまけに名前が……、「かれいこ」……「カレー粉」……近所の住民が老け込んで「加齢」する――?」
 草薙がぶっと吹き出した。
「まさか久下、それはダジャレじゃあるまいな」
「ははは、もうばれちゃいましたか」
 久下が金髪頭をぽんと叩いた。
「いやね、せっかく報酬が入ったところですし、今日はみなさんをインドカレーのレストランにご招待しようと思いまして」
「……久〜下〜、おまえってヤツは……っ」
 統馬が怒りに身を震わせている。どうやら、馬鹿正直に本気で聞いていたらしい。


今度こそ、完







back | top | home
Copyright 2004 BUTAPENN.

 最後までお読みくださいましてありがとうございました。よろしければ、「夜叉往来」本編も合わせてお読みください。
 また、ご感想やご意見をお聞かせください。メールフォームはこちら

 背景CG・写真素材提供:
  CHIC GAMES
  マメダイフク
  背景素材工房
  ゆんフリー写真素材集
  きしもとネット写真ライブラリ
  東雲
  PINKMAC