番外編  霞恋湖畔の怪                 back | top | home







(2)

 さて、その翌日。
 早朝に東京駅から新幹線で出発した統馬と詩乃のふたりは、名古屋で高山行きの急行に乗り換えた。
「詩乃どの。とっても楽しそうじゃな」
 いつものように、マスコットの白狐に変化している草薙が、窓際で缶飲料のそばにちょこんと座って、詩乃に話しかける。
「だって今まで、家族で旅行ってほとんどしたことがなかったから。ペンションに泊まるのも初めてなの。すごく楽しみ」
「いい思い出になると、いいのう」
「ねえ、矢上くんてば。駅弁食べないの? おいしいよ」
「まったく、こいつはよく寝る奴じゃ。好きな女との旅で、どうしてこんなに寝られるものかな」


 単線に乗り換え、さらにバスで1時間。
 ようやく一行は昼過ぎに、霞恋湖畔のペンションに着いた。



 ペンションは、湖と森を背後に独り占めする恵まれた立地。設備も豪華で、庭のすみずみまで手入れも行き届き、詩乃と草薙はおおはしゃぎだった。
 だが、ロビーに入っても客の姿はひとりも見えない。まだ夏休みだというのに、閑散とした雰囲気が漂っていた。
 オーナーである40代の男性が、さっそく事情を説明してくれた。
 この「カップル崩壊現象」が起こり始めたのは、今年の春あたりからだという。
 最初は仲の良さそうだった男女が、いきなり鬼のように目を吊り上げて、口論を始める。
「裏切り者」
「そんなことはしていない」
「おまえみたいな女とはもうやっていけない」
 などと罵り合ったかと思うと、荷物をまとめて、さっさと別々に帰ってしまうのだ。
 双方が異常な興奮状態にあるので、いったい何があったのか聞くこともできないという。
 最初は従業員たちも気にも留めなかったが、そんなことが何度も続くようになると、何かの祟りではないかと怖がるようになった。
「一度、ペンションの中を見せていただけませんか」
 詩乃の頼みに、オーナーはうなずいた。
「どうぞ。おふたりがお泊りになる部屋にまずご案内しましょう」



「わあ。すてきなお部屋。
……でも、ダブルベッドなのね……」
 詩乃は思わず、統馬のほうをちらりと窺った。
「うちは、夫婦やカップルが多いので、ダブルの部屋のご要望が多いんですよ。お気に召しませんか」
「えっと、一応、あの、私たちまだ未婚なもので」
「別にかまわない。俺は廊下で寝る」
 詩乃の弁解を、統馬は鋭くさえぎった。
「いえ、こちらからお願いして調査に来ていただいているのに、そういうわけにはいきません。
別々の部屋をおとりします。どうせ、空き室はいっぱいあるんですから」
 オーナーはそう言って、別室の鍵を取りにロビーに降りていった。
 気まずい雰囲気が、残されたふたりの間に漂う。
「統馬はのぅ、実はベッドでは寝られないんじゃ」
 草薙が、沈黙を破った。
「ええ? そうだったの?」
「一度、ベッドから落っこちたことがあってな。それ以来、ベッド恐怖症になってしもうた。情けないヤツめ」
「……うるさい」
 統馬は心なしか顔を赤らめて、ぶいと横を向いてしまった。
 そのあと、彼らはオーナーの案内で、ペンションの内部やテニスコートなどの屋外施設をあちこち見て回った。
 だが、統馬や草薙の霊力をもってしても、敷地内に異常な気配の存在は感じとれなかった。
「この森の奥が湖か……」
 統馬がふと、裏手のほうに険しい目を向けた。
「そう言えば、ひとつ気づいたことがあります」
 オーナーが大きな声をあげた。
「別れたカップルはたいてい、湖の周囲を散歩してくると言って出かけたあとに、判で押したようにけんかを始めているんです」
 統馬と詩乃はさっそく、湖の周辺を探索することにした。



「いいところだね。空気がとても澄んでいる」
「……」
 何を話しかけても返事をしない統馬に、詩乃は悲しげに立ち止まった。
「ナギちゃん。やっぱり矢上くんは私といても、ちっとも楽しそうじゃない。きっと、私につきまとわれるのが迷惑なんだね」
「そんなことはない。彼奴はただ不器用なだけじゃ。内心はうれしいのに、それを素直に表に出せぬだけだと思うぞ」
「うん……」
(とほほ、「詩乃どのの貞操を守る会会長」のわたしが、こんなフォローをせねばならぬとは。アンビバレントなジレンマを感じるのう)
 草薙は、心の中で嘆息する。
 少し行ったところで、統馬が詩乃たちを待っていた。
「遅いぞ。男女がふたりでいないと、調査の意味がないだろう」
「あ、ご、ごめんね。空気があんまりおいしいものだから、深呼吸してたの」
 詩乃は木々の梢を見上げながら、思い切り胸をふくらませた。
「こういうところでないと、深呼吸できないもん。特にうちの町は国道が走ってるから、空気がとても汚いって」
「みずから自然を押しのけて暮らしているから、息もできぬ、日の光も浴びられぬ国になってしまうんだ」
「そうだね」
「たかだかこの数十年だ。日本がこれほど変わったのは」
 統馬は視線を遠くにたゆたわせた。
「人の暮らしだけではない。草木の色や空気の匂いまですっかり変わった。まるで異国にいるようだ」
「矢上くんは、今の日本が嫌いなの? 昔のほうがよかった?」
「さあな。だが人が人を殺すことが当たり前だった世にくらべれば、――どんなに汚くても、今のほうがずっとましだ」
 そう言って、統馬は詩乃のそばをすりぬけ、また先に歩き始めた。
「そうだね。肉親同士で憎んだり殺し合ったりする時代に、矢上くんは生まれたんだったね」
 詩乃は遅れないように歩きながら、その背中を見つめて小さくつぶやいた。
「矢上くんがお兄さんと信野さんに殺されそうになったという話を聞いて、私、矢上くんが憎しみのあまり夜叉になった気持ち、よくわかったの。私もときどき、お父さんとお母さんが家に帰ってこないと、すごく憎らしくなる……」
 詩乃は、自虐的な笑いを含んだ息を吐いた。
「ナギちゃん。一番愛してほしい人に愛してもらえないときの気持ちって、ズキンズキンって体が痛くなるね。息ができなくなるよね」
「詩乃どの――」
「だから、矢上くんは私に優しくしてくれるんだと思う。私の寂しさを誰よりもわかってくれてるから。
本当は私のことをちっとも好きじゃないのに。死んだ信野さんのことが忘れられないくせに」




 森を突き抜けると、そこはすぐ、霞恋湖のほとりだった。
 清らかに澄んだ水は、木々の深い緑を映し、そして空の色まで映し出している。
 ときおり湖面を渡る風が作り出すさざなみの紋様が、永遠の静寂に時の流れを添えている。
「きれい……」
 詩乃は、感極まって両手で頬をおおった。
「あんまりきれいなものを見ると泣きたくなるって、本当ね……」
 統馬は答えない。
 ただ詩乃のかたわらに立って、同じ景色をじっと見つめている。
 小鳥が舞い、木々の葉がそよぎ、雲が移りゆく。
 時は、17歳の詩乃の上にも、四百年以上の歳月を生きてきた統馬の上にも平等に流れる。


 そのとき突然、空がカッと白くなった。
「きゃああっっ」
 晴れた空に突然の稲妻。そしてみるみるうちに、湖の上空は真っ黒な雲に覆われ、ほどなく滝のような雨が降り始めた。
 森の木々の枝の重なりも、まったく傘の役目を果たさない。
「弓月、森の奥に小屋が見える。あそこまで走るぞ」
 統馬の目には見えているらしい木立の向こうの景色が、詩乃にはまったく見えない。
「え、小屋なんてどこに……。きゃあああ! 待ってぇ」
 ふたりは雨の中を走りぬけ、ようやく以前は建築の資材置き場か何かに使われていたらしい物置小屋にたどり着いた。




「ああ、びしょ濡れになっちゃったね」
「古い材木の切れ端があるな。これで火を熾そう」
「でも、マッチもライターもないのに、どうやって?」
「今の人間は、マッチやライターがないと火を熾せんのか?」
 統馬は小屋の中に散乱していた木屑や古新聞を集めて、あっというまに焚き火を作った。
「詩乃どの。震えておるぞ。もうちょっと火のそばに近づきなされ」
 と草薙が勧める。
「うん、わ、私、寒くて震えてるんじゃなくて。本当は雷がとても怖いの」
 詩乃はますますしっかりと、膝をかかえこんだ。
「小さいころ、ひとりで留守番してるときに、近くに雷が落ちたことがあって。そのとき以来、雷が鳴ると、怖くて、心細くて……」
 震えることばを掻き消すように、ごろごろと低く長い雷鳴が小屋を振動させている。
「きゃあああっ!」
 ふたたびの稲妻の閃光に、詩乃は思わず統馬に抱きついた。
 しかし統馬は、彼女の背中に手を回そうともせず、ただ彫像のように動かない。
「ご、ごめんね。そ、そう言えば、前もこんなことあったね。土屋さんの家の幽霊騒ぎのとき――」
 詩乃は、あわてて冗談でごまかそうとした。
「あのときは、一晩中矢上くんに抱きついてて、とても安心して、そのまま寝ちゃったのよね……。重かったでしょ。あはは……ごめん、今度は……すぐ……離れるから」
 やがてその声は途切れ、涙に変わった。
「……やだ。……やだ。離れないで。お願い。このままでいさせて。
ずっとこのまま。好きでなくていいから。信野さんの身代わりでいいから。私を抱いていて」
 詩乃は顔を伏せ、小さな嗚咽に肩をふるわせた。
 冷たく濡れたシャツを通して、体のぬくもりが互いに伝わる。
「離れろ……」
 統馬は固い声で、答えた。
「弓月。俺には二度と、人を好きになる資格がない。
俺は、妻が兄と通じたと思い込み、心の底から憎んだ。真実を知らぬまま、信野を死に追いやってしまった」
「……」
「そしてその憎しみが、俺自身を夜叉に変じた。自分の愚かさをずっと二百年間悔いてきた。その悔いがある限り……、俺は、おまえを抱くことができない」
「わかってる、わかってるよ」
 詩乃はしゃくりあげる。
「私がわがままを言うことが、ますます矢上くんを苦しめてるって。私って、自分のことしか考えてない。好かれてもいないのに。ばかみたいだよね。恥ずかしい。プライド、ゼロだよね。自分から抱きついたりして……」
 そのまま、すっくと立ち上がった。
「……ごめんなさい……っ」
 絶叫を残し、彼女は小屋の扉を開け、雨が小ぶりになった戸外に飛び出して行った。
「統馬! 何をしとる。早く詩乃どのを追いかけろ」
「追いかけて行って、何を言えばいい?」
 うつろな声で統馬は答えた。
「あいつに、言ってやれることなど何もない」
「統馬。おまえはまた同じあやまちを繰り返すのか」
 焦れたように、草薙は叫ぶ。
「おまえが信野と想い合う気持ちを互いに伝えていれば、あんな悲劇にはならなかった。
人を愛することに臆病になるな。詩乃どのは信野と違う。あれほど素直に自分の気持ちをぶつけてくれるではないか。……おまえも、本当の気持ちで返さねばならぬ」


 いつのまにか雷は遠ざかり、戸外の雨もすっかり上がっている。
 そのとき、小屋の扉に人影が立った。
 詩乃だ。
 詩乃は微笑むと、あっという間に着ていたものを全部脱ぎ、一糸まとわぬ姿となって統馬に近づいた。
「弓月?」
「私をあげる……」
 甘い吐息が彼女の口から漏れた。白く柔らかい体が、統馬に押しつけられる。
「弓月、……待て」
「何をためらうの。ほしいのでしょう。私が……」
 詩乃が、統馬の顔に唇を近づけようとしたそのとき。
「統馬! そいつは……」
「キャッ!」
 詩乃がとびのく。いつのまにか、統馬の両手には印が形作られていた。
「おまえは、――弓月じゃない」
 恐ろしい形相でにらみつけ、統馬はぐいと右腕を伸ばした。
「叢雲、来い!」
 小屋の壁に立てかけられていた霊剣・天叢雲はふわりと空中を浮かび、その手の中に飛び込んだ。
「オン・バザラヤキシャ・ウン」
 真言を唱えながら、鮮やかに刀を鞘から放つと、少女の体を上から下にためらうことなく斬りおろした。
「ギャアアアッッ」
 銀色の刃を受けたとたん、詩乃だったものは煙となって四散した。
「詩乃どのにそっくりに変化した夜叉であったのか。あぶないところじゃった」
 草薙のつぶやきに、
「……それじゃあ、弓月は?」
 統馬が顔色を変えた。「本物の弓月は、どこだ?」




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