番外編  桜舞ふ頃(1)                 back | top | home







(1)

 ようやく秋の気配が漂ってきた頃であった。
 東京近郊T市の官公庁街のはずれに、おどろおどろしい看板を掲げた怪しい事務所がある。
『久下心霊調査事務所』
 今しも、紫のメッシュを入れた白髪の、ド派手な老婦人がドアをノックしている。
 それに応えて、中から現れたのは、清楚な服を着た高校生の少女である。
「あ、鷹泉(ようぜん)さん、いらっしゃいませ」
「詩乃さぁん、お久しぶり。会いたかったわあ」
 チュッ。ムギュ。すりすり。内閣府特別調査室の室長で元華族、という立派な肩書きもなんのその、鷹泉孝子のいつもの熱烈な抱擁である。
「あ、あ、く、苦しい〜」
 耐えかねて、弓月詩乃は音をあげた。
「あら、久下さんは?」
「それが、ちょっと危険な夜叉追いのお仕事が入ったので、矢上くんとナギちゃんといっしょに、おとといから東北のほうに行ってます」
 東北の山あいの村。そこで起こった恐ろしい呪いの惨劇……だなどと、この事務所の所長、久下尚人はさんざん詩乃を脅かして行った。これでは、さすがの詩乃も同行したいとは言えるはずはない。
 わずか数日といえど、矢上統馬のそばにいられないのは寂しい。それほどに彼は、詩乃にとって思いのすべてとなりつつあった。
「私、そのあいだ事務所のお留守番を頼まれてるんです」
「それは残念。久下さんのいつもの、「孝子さぁん、おやめなさい!」が聞きたくて来たのに」
「うふふ。確か、久下さんの前世は、孝子さんの大叔母さんだったんですよね」
 孝子の大叔母、つまり祖父の妹にあたる鷹泉董子(ようぜんとうこ)の生まれ変わりが久下尚人だ。董子は昭和28年に没し、そのおよそ15年後の昭和44年に、久下尚人が誕生している。
 そして久下は、鷹泉董子のみならず、僧侶・慈恵から五代にわたる転生の記憶を全て持つという。
 またチャイムが鳴った。いつも暇な事務所は、今日はちょっとした千客万来の様相だ。
 ドアを開けると、そこに立っていたのは、長い髪を馬のしっぽみたいに縛り、眠そうな目をしている大学生の青年。この事務所に所属する夜叉追いのひとり、矢萩龍二だ。
「ちわーす。……あれ、今日は珍しいメンツだね。久下さんは?」
「矢萩くん、こんにちは。久下さん、明日まで帰ってこないの」
「ちぇっ、今月のバイト代、前借りしようと思ってたのに。無駄足かあ」
 頭を掻いている龍二に、
「そうだわ。今日は美味しい桜餅を持ってきたの。いっしょに食べましょう」
 孝子がバッグから、有名和菓子店の包みを取り出した。
「うにゅぅ。俺、田舎育ちだから、あんこモンには目がないっす」
「そしたら、とっておきの玉露を入れるわね」
 夜叉追いたちが今頃、決死の戦いを演じているであろうというのに、東京の事務所ではのどかなお茶会が始まった。
「おお、うんまい」
「ほんと」
「秋に桜餅もオツなものねえ」
 ずずとお茶をすすり終わると、龍二が居住まいを正した。
「それはそうと、鷹泉さん、一度あんたに聞きたいと思ってたんだ。久下さんも統馬もいないときじゃないと、怖くて聞けないからな」
「あら、何かしら」
「久下さんの前世って、鷹泉董子(とうこ)って女だったんだろ。そして統馬に片思いして、一生独身を貫いたってわけだ。
……それくらいの大恋愛だから、男に転生した今も、久下さんは統馬に惚れてるんじゃないか。そういう疑惑があるんだけど、これ本当かなあ」
「あ……。あはは。矢萩くんったら……冗談ばっかり」
 触れてはならないことに触れられてしまったという表情で、孝子と詩乃は顔を見合わせている。
「こんな与太話でも言ってないと、夜叉追いなんて重労働やってられねえからな」
 矢上一族の傍系・矢萩家の子孫である龍二は、統馬に対して複雑な感情を抱いているらしい。
 無理もない。一族が四百年前滅びたとき当主であった矢上統馬は、責任を負うどころか、夜叉を体内に宿したまま今も永遠の時を生きているのだから。
 そんな彼に対する怒りと畏怖、そして一抹のあこがれ。ひとことで言えば「苦手意識」をふりはらうために、龍二もいろいろと苦労しているのかもしれない。
「そうねえ。子どもの頃、董子おばあさまには統馬のお話をせがんだものだけど。久下さんからは、いまだに直接、話を聞いたことはないのですよ」
「董子さんのお話って、どんなだったんですか」
 詩乃が興味しんしんで訊ねた。
「今から100年以上前の話になるよな」
「私も聞いてみたいな」
「そうねえ、午後のお茶飲み話にちょうどいいかもしれないわね」
 孝子は湯飲みを手に、ほうっと吐息をついて、事務所の天井を見上げた。その微笑からは、かつて孝子自身も統馬に抱いていた思慕の情が、かすかににじみ出ている。

「それはちょうど、19世紀から20世紀に移り変わる頃。日本がロシアと戦争を始める前夜になるかしら」




 孝子さん。
 私がこのお話をしてあげられるのは、もうこれが最後かもしれませんねえ。
 私が鷹泉董子(ようぜんとうこ)としての生の中で、どのように矢上統馬と出会い、彼とともに戦うようになったのかを最後に語れたらと思います。
 あれは、明治34年。帝都東京の桜のつぼみは、まだまだ固い季節でしたよ。


 寒さの染みる夜更け、家路をたどる馬車の中で、私はドレスに羽織ったショールを掻き寄せておりました。
「董子おじょうさま。喉の奥まで見えるおおあくびをなさって。まさか舞踏会でも、そんなお振るまいをなさっているんじゃないでしょうね」
 車内では世話役の老女が、くどくどと文句を言っていました。
「ふふ。ちゃんとトミの言いつけどおりにやっています。エレガントに淑女らしく、ぼろを出さないように」
「まったく。おじょうさまくらいの歳になれば、いつ御輿入れが決まっても不思議ではないのですよ。殿方というものを、少しは意識なさいませ」
「はいはい」
「「はい」は一度でけっこうでございます!」
 私はそのとき、15歳になったばかり。母は数年前に亡くなり、4歳年上の兄は、英国に留学中。伯爵である父と、駒込にある屋敷で暮らしていました。
 社交界にデビューしてからは毎週のように、公爵家の園遊会や、歌舞伎座での観劇や東京倶楽部での夜会と忙しくはしているものの、
 ……正直言って、すべてが退屈でした。
 私とトミを乗せた馬車が、屋敷の門の前につけようとしたとき。
 車輪の音が止まったとたん、なにやら男たちの罵声や悲鳴のようなものが聞こえてきたのです。
「なにかしら」
 そして、突然馬車の扉ががたりと開きました。
 ひとりの男が車輪の泥よけに足をかけ、中をのぞきこんだのです。
「無事か?」
 薄汚れた着物と袴を着た、若い書生風の男。
「な、なんですか、無礼な」
 トミは気丈にも、私を男からかばおうとしました。男の目は、車内を素早く舐めたあと、じっと私に注がれました。
 暗い夜の底のような瞳。背筋にぞっと何か冷たい衝撃が走るようでした。
「な、何用です」
「無事ならば、それでよい」
 男は低い声でそう言うと、去り際にふと言葉をこぼしました。
「……なぜ、女なんだ」
 そして、来たときと同じように唐突にいなくなったのです。
 門番たちがそれと入れ違うように駆けつけてきました。
「お、おじょうさま」
 トミがへなへなと座り込むかたわらで、私は茫然と、男の消えて行った夜の街並を見つめていました。




 その夜、私は眠れませんでした。
 突然の事態に対して、不覚にも一歩も動くことができなかったからです。ひととおりの護身術の心得はあったはずなのに。
 思い返せば、男は手に木刀のようなものを持っていました。もしあれで襲いかかられたら、ひとたまりもなかったでしょう。
 怖いというよりも、自分の弱さが悔しくて、情けなくて、涙がこぼれます。
 男に生まれたかった。
 強い男に生まれて、海軍の将校になるか、兄上のように政治家になるための勉学に励んで、立身出世の道を歩みたかった。
「なぜ、女なんだ」
 男がつぶやいた言葉が、いつまでも耳に残っています。その声にほんの少しこめられた哀しい響きは、気のせいだったのでしょうか。
 なぜ見知らぬ私に向かって、そんなことを言ったのでしょうか。目的はなんだったのでしょうか。
 そして何よりも、初対面のはずなのに、彼のことを懐かしく感じるのはなぜなのでしょうか。
 もう一度会いたいと、強く思いました。




 翌日、父の書斎に呼ばれました。
 まだ早朝だと言うのに、父はすでに外出の身支度を整えていました。
「今朝は、委員会前の打ち合わせがあるので、手短に話さねばならん」
 父、鷹泉治臣(ようぜんはるおみ)は貴族院の議員で、内閣の閣僚のひとりです。その頃は、事のほか多忙をきわめ、家で食事を取ることもほとんどありませんでした。
 その理由は、今政府や議会をまっぷたつに割っている外交の大問題らしいのですが、私には詳しいことは何も教えてくれないのです。
「執事から聞いた。ゆうべ門のそばで、不審な者が馬車に押し入ろうとしたらしいな」
「はい」
「けさ周辺を調べると、付近の茂みで乱闘の跡が見つかったらしい。下賎の内輪もめのたぐいだとは思うが、用心に越したことはあるまい。これからは通学にも、ささいな外出にも、必ず護衛をつけることにする」
「はい、わかりました」
 いつも素っ気ない父との会話ですが、この日は特別に素っ気なく感じました。それは、父が心中に渦巻く焦燥と懸念を押し隠すためであったことに、そのときの私は気づく由もありません。
「それでは、行ってくる」
「はい。あ、お父様」
 私は、父のネクタイをまっすぐに直してあげました。
 母が亡くなってからというもの、これが私の毎日の日課です。父のタイはいつも少しだけ曲がっていて、まるで私の仕事を取り上げないために、わざとそうしているかのようでした。
 玄関のところまで出て、丁寧にお辞儀をして父の乗った車を見送りました。
 空は青く広く澄み、近づく春の訪れを告げていました。




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