番外編  桜舞ふ頃(2)                 back | top | home






(2)

 二日ほど経った、夜のことでした。
 私はふと何かの気配に目を覚ましました。
 そして目を凝らし、窓から差し込む月明かりを切り取る人影に気づいたのです。
「く、くせもの!」
 大声を上げようとしたとき、その影は、まるで何かの魔法ででもあるかのように瞬時に、私の横たわっていた寝台に飛び乗りました。そして、私の体の上におおいかぶさると、片手で私の口をふさぎ、もう片方の手で小柄(こづか)を押し当てたのです。小柄とは、刀の鞘に差し込まれている、小さな刀のことです。
 それは、あの夜、馬車で会った男でした。
「声を出すな」
 身体をねじって逃れようとする私の首筋には、ますます小柄のひんやりと冷たい感触が強くなりました。
「大声を出さぬと約束するなら、手は離す」
 私は観念しました。隙を見て助けを呼ぼうとしても、この男の素早さなら、その前に喉を描き切られてしまうでしょう。
 こっくりと目で合図を送ると、男はようやく手を離し、かがめていた背を伸ばして私を見下ろしました。
 こんな状態にあるのに、不思議と恐怖は感じませんでした。男の動作に荒々しさはなく、その体から伝わる温もりは、優しささえ感じさせるものだったのです。
 男はまだ、私を見下ろしていました。そして困ったように眉をひそめました。
「驚いたな……。ほんとうに、今のおまえには乳房まであるのか」
「な、な、何ですって」
 私は恥ずかしさのあまり、卒倒しそうになりました。
 組み伏せられたときに、男の腕が私の胸に当たっていたことに、今さらながら気づいたのです。
『わはは。相変わらず、女の扱いが下手なヤツじゃのう』
 そして、もっと驚いたことに、彼の手の中の小柄がしゃべったのです。
 小柄はみるみるうちに、ふわりと長い尻尾のある白い動物へと姿を変えました。それはどう見ても、小さな狐にしか見えません。
「慈恵(じけい)、いや、董子どの。久しぶりじゃのう」
「き、狐がしゃべった……」
「草薙と申す。そして、こやつは矢上統馬。どうじゃ、わしらを見ても、前世のことを何も思い出されぬか」
 混乱した私の頭に、草薙、統馬、前世ということばが素通りして行きました。考えが、ついていかないのです。
「私のことを知っているのですか。あなたたちは」
 統馬という名の男は、寝台のかたわらに降り立つと、じっと私を見つめて言いました。
「俺はおまえが死んでから今まで、35年待った。女に転生するなどとは最初は信じられなかった。だが、おまえは間違いなく、慈恵だ。
夜叉を追うために、俺にはどうしてもおまえの力が必要なのだ。とっとと自分のことを思い出せ」
「夜叉……ですって」
「統馬。せかしてはならん」
 草薙なる白狐が、いましめるように言いました。
「董子どのには董子どのの、それまでの15年の人生があるのじゃ。御仏の時が来れば、必ず思い出す」
「……」
 統馬はぷいと顔をそむけると、そのまま仏蘭西窓の陰に身をひそめて、外をうかがいました。
「董子どの。そなたはもともと江戸時代におわした慈恵という仏僧。それから二回の転生を経て、幕末に「新右衛門」という名の勤皇派の志士に転生した。だが、夜叉に憑かれた者たちとの戦いの中で、わずか20歳で命を落としたのじゃ」
「え……」
「統馬は、前世のそなたを守りきれなかったことを悔いて、今も自分を責めておる。だから、今生では何としても、そなたを守ろうとしておるのじゃ」
「……私を、守る?」
「董子どのは今、狙われておる。そなたの身柄を幽閉して、お父上の鷹泉伯爵を脅迫しようとしている者どもがいるのじゃ」
「なんですって」
「しっ!」
 そのとき、統馬の鋭い声が飛びました。「奴らが、来た」
 彼は腰に差していた刀を鞘のまま握り直すと、仏蘭西窓をばっと開け放ち、庭に飛び出ていきました。
 窓辺から外を見やると、なんと十数人の暴漢たちが押し入ろうとしているのです。けれど、彼はまったく動じる気配もなく刀を構えました。
 いったい何流の剣であるのか、私にはわかりません。月明かりの下、まるで何かの舞いを見ているようにさえ思える静かさと美しさで、彼は敵をことごとく打ち伏せていったのです。
 私が外にまろび出ると、
「使用人たちが騒ぎだした。もう行く」
 統馬は屋敷のほうをちらりと見て、そのまま塀をひらりと飛び越え、姿を消しました。
 私は夜着のまま、茫然と庭の真ん中に立ち尽くしました。
「董子おじょうさま!」
 トミの悲鳴が遠くで聞こえます。
 まるで何もかもがが、春のうたかたの夢に思えました。
 しかし、夢であるはずもなく。今自分が、人知を超えた不可思議な出来事を見聞きしたことを、信じないわけにはいきませんでした。




 自宅に賊が侵入したことを伝えられ、父は夜更けの議会から呼び戻されました。大勢の警察官が家の中まで入り込み、明け方まであちこちを調べていました。
 庭に倒れているところを逮捕された者たちは、取調べを受けても、「見知らぬ者から小金を握らされて命令を聞いただけだ、何も知らない」の一点張りでした。
 父はその背後にいる黒幕が誰か、当然知っていたでしょう。しかしそこに至る証拠は何もありませんでした。
「ゆうべはよく眠れなかったようだな。無理もない」
 食卓で、父は食の進まぬ私の手元を見つめて、言いました。
「これからは、さらに屋敷周辺の警備を厳重にさせる。何、ただの夜盗の一味に違いない」
「お父さま。昨夜の賊たちは私を狙っていたと聞きました。董子を人質にして、お父さまを脅迫する魂胆だと」
 それを聞いて、一瞬だけ父の顔色が変わりました。「誰が、そんなことを申した」
「私を助けてくれた方です。いったいお父さまは、これほどの政敵をお作りになるような、どんなお役目をなさっているのですか」
「何も案ずるには及ばない」
 すぐに父は、元の落ち着いた表情に戻りました。
「今、帝国政府は、近頃のロシアの南下政策に対して、日露協商論と日英同盟論の二派に分かれて対立しているところだ。
わたしは、戦争を回避するためにはロシアと協定を結ぶべきだと思っている。しかし、あくまで英国と同盟を結び、ロシアを討つべしと論ずる意見も根強いのだ」
「では、お父さまが強いられて好戦論に回ることで、情勢が変わるかもしれないのですね」
「まさか、わたしひとりのことで国の政治が動くなどということはあるまい。それは考えすぎだろう」
 父はそう言って、私の心配を笑い飛ばしました。いえ、笑い飛ばすふりをしたのでしょう。
 私は、政治のことに疎い小娘でした。
 父の奉ずる日露協商論というのも、満州における利権をロシアに認める代わりに、韓国における利権を独占するという協定。結局は、よそさまの国を土足で踏みにじる行為には変わりないことも、当時はわかりませんでした。
 けれど、「極東の憲兵」として欧米列強の後押しを受け、武力をもってアジアを侵略せんとしていた日本の中で、父が戦争をなんとしてでも避けたいと願っていたこと。
 これだけは、娘として弁明してあげたいと思うのです。
 それ以来、私の周辺は、ますます警備が強固になりました。
 夜の外出も取りやめになり、どこに行くにも厳重な見張りがつき、毎日が息がつまりそうでした。




 ようやく桜が咲き初め、淡い桃色の華やかな気配が街を飾っていくのが、馬車の窓からも見えるようになった頃。
「あら」
 女学校からの帰路、家の近くの川の橋をとおりかかるとき、私は統馬を見つけたのです。
「止めて!」
「おじょうさま。こんなところで寄り道なさっちゃ。おまけにあれは、馬車に押し入った汚い書生ではありませんか。あんな者に近づいてはなりませぬ」
「だいじょうぶ、あの人は敵ではありません。私を人さらいから守ってくれたのです。――ほんの数分だけですから」
 反対するトミと護衛に馬車にとどまるようにきつく命じてから、私は若草の萌え出した土手を一気に駆け下りました。
 統馬は草の上に寝転んで、ぐっすり昼寝を決め込んでいました。
 その無防備な子どものような寝顔に、思わず笑みがこぼれます。
 私がそばに腰をおろすと、とたんに彼は目を覚まし、面倒くさそうに言いました。
「……何の用だ」
「ひとことお礼が言いたいのです。私、あなたを曲者呼ばわりして、きちんとお礼を言っていませんでしたから」
「俺とおまえには、百年以上の付き合いがある。今さら礼を言われる筋合いはない」
「やっぱり、そのお話は何かの間違いです」
 私はくすくす笑いながら、答えた。
「私は慈恵という僧侶の生まれ変わりではありません。どんなに考えても、何も思い出せないんですもの」
「……」
「でも、そう思い込んでいたから、あそこまでして私を守ってくださったのですね。ごめんなさい。本当に感謝しています」
 統馬は顔をしかめただけで、また目をつぶってしまいました。照れくさげに。
 春を思わせる暖かい湿った風が、川を渡って吹いてきます。私は久しぶりに満ちたりた、解放された気分でした。
 この矢上統馬という人のそばに、自分もいること。それがこのうえない安心感を与えてくれることに、私は気づき始めていました。
「おまえは、今幸せなのか?」
 突然、彼が目を閉じたまま、問いかけてきました。
「え……」
 私は、答えに窮しました。15年の人生の中で、そんなことを聞かれたことはありませんでしたから。
「今の生活は幸せなのか?」
「……ええ、幸せです」
「そうか」
 統馬は、私の答えを反芻するように、それきり黙ってしまいました。私たちは言葉を交わすことなく、並んで土手に座っていました。




 夜、私は何とも言えぬ嫌な気分で起き上がりました。頭ががんがんと痛むのです。
 陶器の水差しから水を汲んで飲むと、しばらく窓からの冷気に当たりました。そして、ガウンを羽織って部屋の外に出ました。
 廊下には誰もいません。警備の者が立っていたはずのところにも、です。
 私は、かすかな胸騒ぎを感じて、ホールを横切り、ふと二階を見上げました。
 そこにひとりの男が立っているのを見たのです。猫のように暗闇に爛々と光るふたつの目。
「ひいっ」
 異様な不気味さを感じ、私は思わず悲鳴を上げました。
 見覚えのある顔でした。使用人のひとりです。でも、同時にそれはまったく見知らぬ顔でもありました。何かに取り憑かれたような、邪悪でうつろな表情なのです。
 「夜叉」。
 統馬や草薙の言っていたことばを思い出しました。
 男は超人的な動きで、手すりを乗り越えると一階にどすんと飛び降りました。私を狙っていることは明らかです。
 私は逃げようとしました。しかし、夜着の裾は長いうえにレースをあしらっているために、走る前に私は足をもつれさせてしまいました。
「きゃあ!」
 男は私の喉笛をぐいとつかみました。
 殺される? 私を誘拐することが狙いだったはずではないの? とっさにいろいろな考えがめぐりました。
 男の大きな手は、ますます力をこめて私に食い込み、血管が破裂したかのように目の前が真っ赤に変わりました。
「とう……ま、あ」
 あえぎながら、統馬の名を呼んだそのとき。
 私の頭の中に、まったく知らない思考が入ってきたのです。
 ぐるぐると意味のわからない言葉の羅列が浮かんできました。思わず、それをそのまま口にしました。
「ナウマク……サンマンダ・ボダナン・ドバンシャナン、アビュダラ・ニサドバダトン・ソワカ!」
 男は、ぐっとうめくと、私から飛び退りました。
 今の呪文のようなことばが効いたことは確かです。
 いえ……。私はこのことばの正体を知っている。これは――真言陀羅尼。夜叉を祓うための文言。
「董子!」
 鋭い叫びとともに、統馬が部屋に飛び込んできました。
 そして、鮮やかに刀を鞘から払うと、
「オン・バザラヤキシャ・ウン」
 大上段から斬り下ろしたのです。
 男は声もあげずに、その場に倒れました。
「だいじょうぶか」
「は、はい」
 統馬は、つらそうに肩で息をしていました。
 夜叉を祓うとは、夜叉に取り憑かれた人間や霊の持っている恨みや憤怒を一身に浴びてしまうこと。私は誰から教えられたわけでもないのに、そう知っていました。
「奴らは直接、夜叉に憑かれた者を送り込んできた。俺たちが夜叉追いであることを嗅ぎつけられたのかもしれん」
 私はそのことばを聞いて、理性を失いました。自分が夜叉追いと決めつけられたことへの怒り。これからは、幾万もの夜叉に狙われるかもしれないという不条理への恐怖が、心の底から湧き上がってきたのです。
「そんな。私は夜叉追いなんかじゃない。関係ない! ……関係ないのに」
 そう言って泣き叫ぶ私を、統馬はじっと見ました。無表情に、しかしほんの少し、悲しそうな目で。
 そのとき、騒ぎを聞きつけて、屈強の者たちが部屋になだれこんできました。
 抜き身の刀を下げている統馬。床に伏している私。そして、その間に倒れているこの家の使用人。
 どう見ても、状況は誤解されるものでした。
 弁解の余地はなく、警備の者たちにつかまることを嫌って、統馬は反対側の窓を破って逃げていきました。
 私は事情を説明することもできずに、何を聞かれてもただ泣くしかありませんでした。
 襲われたことがショックだったのではありません。
 すべてを思い出してしまったからです。
 私が本当は鷹泉董子などではなく、統馬を助けて4回転生した慈恵という名の僧侶であり、そして夜叉之将をすべて祓うまで、永遠に転生を続ける宿命にある存在だということを――
 否応なく思い出してしまったからなのです。



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