番外編  桜舞ふ頃(3)                 back | top | home






(3)

 私はそれから数日のあいだ、高い熱を出して寝込みました。
 床から起きたあとも、ぼんやりと部屋の中で過ごしました。
「董子おじょうさま、お願いですから、どうぞ召し上がってください」
 トミがあれこれと勧めてくれる好物でさえ、口に運ぶことができませんでした。
 前世の記憶の中でもとりわけ、幕末の動乱の中で生きた新右衛門の経験した、死の直前の恐怖と苦痛が私をおびえさせていたのです。
 夜叉を追い続ける限り、私の人生から戦いはなくならない。
 あてどのない旅に暮らさなければならなかった彼ら。伯爵令嬢として何不自由のない生活をしてきた私にとって、それは気の遠くなるような苦難の連続でした。
「トミ……、いやです。私は董子であることを捨てたくない……」
 あれほど退屈だった園遊会や舞踏会でさえ、捨てなければならないとわかった途端に、なつかしく輝いたものに見えるのはなぜでしょう。
「おじょうさま。お気をしっかりとなさいませ。あなたは董子さまです。他の何になられることがありましょう。
……あの男なのですね。あの男に出会ったことが、おじょうさまを苦しめているのですね」
「ちがう、ちがうの……」
 トミにも父にも、私の苦しみは理解できませんでした。
 父は私が夜叉を追うために家を出たら、どれほど悲しむでしょう。卑しい身分の男と駆け落ちをしたと誤解なさるでしょうか。
 それに私がいなくなったら、父のネクタイは誰が直すのでしょう。
 娘として、愛する父を悲しませたくはありませんでした。
 そして何よりも。
 私は女であることも捨てなければならない。統馬に対して抱き始めていた燃えるような想いさえも、私には許されないものだったのです。




 その夜が来ました。
 いつもとまるで違う、特別な夜であることは明らかでした。空気はざわめき、巷にさまよう霊どもがキイキイと悲鳴を上げていました。以前の私なら聞こえないはずの声でした。
 いつのまにか、統馬は私のそばに立っていました。
「今夜、上位の夜叉がこの北にある神社に手下どもを集めている。俺は先回りして、そいつらを一気に叩いてくる。そうすれば、おまえを直接、夜叉が襲うことはもうないはずだ」
「……」
 私はじっと項垂れて答えませんでした。今から彼が向かおうとしている戦場にどんなことが待っているかを、具に感じ取ったからです。
「おまえは、ここにいろ。そして、鷹泉董子として生きろ」
「え……?」
 意外なことばに、思わず顔をあげると、
「女であるそなたに夜叉追いとして生きろというのは、むごい話じゃからのう」
 草薙も寂しそうに言います。
「でも、それでは、あなたは……」
「俺は、おまえが次の生を受けるまで、また何十年か待つ。……今度こそ、男に生まれてくれ」
 統馬はうっすらと笑うと、身体をひるがえしました。
「ただ、言っておく。夜叉之将はこの世に戦を引き起こすために、あらゆる手立てを講じるだろう。おまえの父がいくら止めようとしても、それは止められまい。
人と人との争いこそが、人間を苦しめる最上の手段、夜叉之将に与えられた使命だからだ。俺も、そうやって魂を食らってきた。……この半遮羅(はんしゃら)もな。
これは、本来俺ひとりの戦いだった。……おまえをこんなにも長く巻き込んでしまって、すまない」
 彼はそう言い残して、去って行きました。
「統馬……統馬!」
 私は月の清かに照る夜空に向かって、いつのまにか叫んでいました。涙があとからあとから頬を伝うにまかせて。
 統馬。あなたが好きです。
 でも、私の前に広がっている道は、ただふたつしかない。
 あなたと別れ、あなたへの想いを抱きながら鷹泉董子としての平和な生をまっとうするか。
 それとも、あなたへの愛など無かったことにして、僧侶・慈恵の生まれ変わりとしてあなたのそばで戦うか。
 私は……どちらを選べばよいのでしょう。




 統馬と草薙は、近くの神社の境内に来ていました。
 神社仏閣といった霊場は、苦しみの癒しを求めて来る霊たちを夜叉が取り込み、みずからのしもべとして捕まえるための恰好の餌場なのです。統馬たちは数千の夜叉と、今まさに対峙しようとしているのでした。
「董子どのの助けを借りずには、おまえは半遮羅には戻れぬぞ。もし夜叉八将に出くわしたら、それでどうやって戦うつもりなのじゃ」
「そのときは、そのときだ」
「相変わらずの投げやりな言葉じゃのう。まあ、わたしは地獄の底までついて行くしかないがな」
 草薙が気持ちを引き立てるように笑いました。
「あ……」
「董子どの」
 ふたりはびっくりしたように、私の方に振り返ります。
 ようやく私は、統馬に追いつきました。戦いに間に合いました。
 薄墨の袈裟。錫杖を右手に、数珠を左手に。
 桜は……夜風に舞い散り、長い髪に、あとからあとから降り注ぐばかりでした。
「董子、なぜ……」
 呆気にとられた統馬の問いをさえぎるように、私は言いました。
「統馬。今このときから、慈恵としてあなたをお助けいたします」
「董子どの……」
「さあ、草薙も。話はあとです。
……「仏頂尊勝陀羅尼」を唱えます。援護してください!」
 そうして、私たちの長い戦いが始まったのです。




 私は、そのときから女であることを捨て、統馬のそばに影のごとく仕えてきました。
 一時は鷹泉家を勘当されましたが、後年に父と和解することができたのは幸いでした。
 あの決心を、今も後悔はしていません。もうあれほどに人を愛することは、生涯ありませんでしたが。
 統馬の調伏により、夜叉たちは次々とその力を奪われて消えていきました。
 だが結局、ロシア側の事情により日露協商は実らず、日英同盟を結んだ日本は、日露戦争への道をひた走ったのです。
 人の死体を防塁として戦うという悲惨な戦いの果てに、大正時代というひとときの平和は来ました。
 ですが、やがて日本は、昭和十五年戦争と呼ばれる暗黒の時代に突入していき、夜叉の策謀さえ及ばぬほどの、憎悪と破壊をもたらしました。
 ――それは夜叉追いの力をはるかに超えた、人間の巨大な悪に翻弄され続けた時代でした。


 孝子さん。
 今、私は世を去ろうとしていますが、あなたは私の代わりに、統馬を助けてあげてください。
 悲しむ必要はありません。私はまた、来ます。
 統馬が夜叉を追い続けている限り、私もまた何度でも、この世に生を受けます。
 それが、私の宿命。私の愛のかたちなのですから。


「ぐす、ぐすっ」
 詩乃はハンカチを涙でぐしょぐしょに濡らして、孝子の話を聞き終えた。
「なんてけなげで一途なの。董子さん。矢上くんと結ばれてほしかった」
「あらあら、詩乃さんたら。それじゃあ、あなたはどうなるの?」
 自分も統馬に恋していることを忘れて董子を思いやっている詩乃を見て、孝子ははがゆい思いを心中に抱きながら苦笑した。
 女たちはいつも、統馬への思いを断ち切ってきたのよ。あなただけは、そうであってほしくない。
「俺は、久下さんのツンツン金髪頭が目の前にちらついて、どうも気色悪かったなあ」
 龍二はまだ軽口を言っている。
「ふふふ。そうね。たぶん久下さんも、男に転生した今では、統馬に対する恋愛感情というのは、とっくに無くなっていると思うのですよ。ただ、二百年の時を越えた忠誠心と友情が残っているだけで」
「へへっ。それじゃ面白くないっすよ。今頃、東北の温泉宿で、久下さんが統馬を押し倒しているって図を妄想しなくちゃ」
「やだあっ。矢萩くん。やめてよ」
 詩乃が悲鳴をあげたそのとき、事務所の電話が鳴った。
『あ、僕れす。久下れすけど』
 久下の不明瞭な声が、受話器から響いてくる。
「あら、ら、ら。久下さん。どうしたんですか? すごい鼻声で」
『それが、こっちの仕事が終わって宿に帰ったところなんでふけど。なんらか、ちょっと前から、ひどいくしゃみに襲われちゃって、止まらないんれすよ。
ハ……、ハックション!
もしかして、事務所で誰か、僕の悪口言ってません?』
「わ、悪口というか。押し倒すとか……あわわ、何も言ってませんよ」
『そうかなあ。統馬も背筋にぞくぞく寒気が走るって言ってるし。これって、新手の夜叉の攻撃れすかねえ』
「うふふ。どうなんでしょうね」
 夜叉の攻撃より怖いかもしれないですよ。百年の時を越えた恋バナシは。
 詩乃は笑いをかみ殺すのに、必死だった。




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最後までお読みくださいましてありがとうございました。
感想をお待ちしています。よろしければ、「夜叉往来」本編も合わせてお読みください。

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