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セカンド・キス      

〜夏のおわりに・続編〜


 目の前のソファに照れくさそうにうつむいた片瀬くんが坐っている。ブルーの縦じまの半そでのカッターシャツに、ちょっと色があわない緑のネクタイ。
 その隣では、教会の牧師先生が、背広姿でにこにこしている。
 父親は話題をさがせず、一人掛椅子でそわそわ、母親は、麦茶とおしぼりを運んで行ったり来たりしながら、無駄に明るい。
 そして、私は自分の家なのに、よそいきの黄色のワンピースを着て、ぼーっと隅っこのピアノの椅子に腰かけている。
「真奈さん。あなたたちふたりが主役なんだから、こっちへいらっしゃい」
「は、はあ……」
 牧師の手招きに応じて、私はおっかなびっくり片瀬くんの向かいの椅子に腰をおろした。
 ……これが、お見合いなんやなあ、と妙に感激している。
 先週の水曜日、教会の聖書研究会に行った私の母を、牧師夫人が呼び止めた。
(この頃、教会で真奈ちゃんと片瀬くんが、ちょっといいムードなんですよ。お母さま、心当たりありません?)
(まあ、そう言えば、義樹くんとこないだ映画に行くって言ってました。どうもこのところの真奈、身なりに気をつかうようになったというか。眼鏡もコンタクトに変えましたし)
(もしかすると、ふたりはラブラブ? んままま)
 という具合で、私たちをダシにして、えんえん2時間の井戸端会議に花を咲かせたらしい。
 その夜、さっそく片瀬くんは会社から教会に呼び出されて、問い詰められて、挙句の果て今日のお見合いが決まった。
 牧師夫妻は、若い教会員たちの仲人役を使命と感じていらっしゃる。クリスチャンが結婚を機に教会から離れていく、悲しいケースをいくつも見てきたためだと思う。
 だから、うちの教会にはカップルになる男女がものすごく多い。
 その百戦錬磨の牧師夫人の目にとまったわけだが、悪いけど実は私たちは、ぜんぜんラブラブなんかやなかった。
 大学2年のとき、片瀬くんにホテルのレストランに食事に連れて行ってもらってからというもの、私たちは一度もデートなんてしたことがない。こないだの映画かて、教会の青年会5、6人で行っただけ。大いなる、母の勘違い。
 3年間、私ひとりがずっと彼に片想いしてただけ。
 コンタクトにしたのも、新しい洋服や化粧品を買ったのも、4月からお勤めを始めたから、必要だったっていうだけなのに。
 でも片瀬くんは、私とのことを聞かれたとき、誤解ですって言わなかったらしい。
 今日の日取りを決めるときも、お願いしますって頭を下げたらしい。
 私は、それを牧師夫人から聞いて、へなへなと座り込んでしまった。
 片瀬くんが、私とお見合いしてもいいと思ってくれてるなんて。まるで奇跡みたい。
 その日から今日まで、私は毎日ほとんどうわの空やった。
 お見合いのあいだも、いったいみんなが何をしゃべっていたのか、ほとんど覚えていない。
 最後に牧師先生がお祈りしてくれた。
「片瀬義樹くんと、川路真奈さんの上に、あなたの豊かな御守りがありますように。どうぞふたりに、お互いを思いやる心と愛をはぐくんでください」
 先生たちが帰るとき、暗い玄関で、片瀬くんはいたずらっぽい目で私に振り向いた。
「あとで、電話するから」
「うん」
 その晩、ほんとうに電話がかかってきた。
「あー、今日はほんま、めちゃめちゃ緊張したな」
「私も」
「そういや、真奈ちゃん、全然脈絡なく、いきなり「栗ご飯」の話はじめるんやもんなあ。みんなポカンとしとったで」
「ははは。自分でも何言ってるんやろう、て思ってた」
 片瀬くんは、少し口ごもると、
「僕たち、お互いのこと知ってるようで、あんまり知らんと思うんや。だから、これからいっぱい、デートしような」
「うん。いっぱいいろんなとこ行きたい」
 電話が切れたあと、私は自分の幸せが信じられなくて、うれしくて、自分のベッドでぽんぽんはねた。


 それから3日後の水曜日。会社がひけたあと、私は彼と7時に待ち合わせしていた。
 水曜は銀行の早帰り日やからと、その日に食事することにしたのだ。
 場所は梅田のマルビル。円筒形の細い、ピサの斜塔みたいな茶色い建物で、阪神電車が淀川を渡るとき車窓を見ると、遠くで一番目立つのがこのビルである。
 約束の7時が過ぎて、7時半。
(おかしいなあ。待ち合わせ場所間違えてるんやろか)
 確かに1階のホテルのロビーって言ったはずなのに。
 携帯なんて、誰も持っていない時代。
 不安になった私は、ほかの入り口をのぞいてみることにした。
 あちこち見て回って、またもとの待ち合わせ場所に戻ってきてしまった。建物が丸いから、ぐるっと一周できる。
 私は、初デートをすっぽかされたかもしれないという不安を抱えながら、半分ヤケになって、そのままずんずん歩き続けた。
 最後はもう、競歩のような勢い。
 ちょうど4周回ったところで、片瀬くんが走ってきた。
「すまん。悪かった。計算が合わなくて、窓口も営業も全員居残りやったんや。……あれ、どないしたん?」
 私は、肩を上下させ、はあはあ息を切らせながら、うらめしそうに片瀬くんを見上げた。
「あした、筋肉痛になったら、片瀬くんのせいやからね」
 片瀬くんのあっけらかんとした顔を見たら、あんなにさっきまで腹が立って悲しくて不安だった一時間が嘘のようにほぐれていく。
 私は彼のことがホントに好きなんやなあ。
 マルビルの上の階の和食屋さんで食べた、運動のあとのトンカツ御膳はおいしかった。
 「よく食うな」と、片瀬くんはけらけら笑っていた。
 でもそのとき、私の胸の中でちらっと、私たちってこんなふうに前途多難なんやないかなあという予感がしていた。


 その予感は当たった。
 銀行員の片瀬くんは、ものすごく忙しい。今は外国為替課にいるらしいけど、毎晩ふつうに帰ってくるのが10時か11時やった。
 デートどころじゃない。
 それでも、片瀬くんは毎晩電話をかけてきてくれた。
 ものすごく疲れているだろうに、11時になっても12時になっても、今家に帰ってきたよって報告してくれる。
 片瀬くんの低くて甘い声が、眠たいからか、しゃべっているうちにどんどん小さく不明瞭になってくる。私はそれを聞くたびに、「片瀬くん、寝ちゃだめ」と言いながら、走っていって抱きしめてあげたかった。
 ある日11時過ぎて、きっぱりと決意したような声で、片瀬くんが電話してきた。
「真奈ちゃん、今から会おう」
「ええーっ? 今から?」
 私はお風呂に入ってパジャマに着替えていたので、あわてて服を着て、コンタクトを入れてお化粧をして、家を飛び出した。
 待ち合わせの場所は、うちの近くの甲子園の駅前だった。
 野球場のあるのとは反対方向の駅の北側には、しゃれたレストランや喫茶店がある。でも、この時間ではどこも開いてなくて、私たちは県道沿いのファミリーレストランに入って、向かい合わせに坐った。
「ごめん。週に一回はデートするって決めたのに、全然会えなくて」
「いいよ。仕事なんやもん。ちゃんとわかってるから」
「実は、今日どうしても真奈ちゃんに許してほしいことがあったんや」
「なに? なんか悪いことしたの?」
「僕は今週の土曜日、見合いする」
 私はもう少しで、水のコップを落としそうになった。
「なんで……ぇっ」
「親が勝手に決めてきた見合いなんや。相手はおふくろの知り合いの紹介してくれた女性で、僕、うっかりしてて真奈ちゃんのこと、ちゃんと親に言うの忘れてたんや。あわてて話したけど、 とにかく、先方の顔もあるから形だけは会って欲しいと。もちろん、会うだけ会ってすぐ断るから。なっ?」
「……なんか、納得いかん」
「ごめん。真奈ちゃんが気分悪くするのわかってたから、ほんまは黙ってようと思たんや。でも、隠し事したくないと思ったから」
 私はふくれっつらをしていた。なんだか、片瀬くんずるい。
 ほんとうに私のことを考えてるんやったら、絶対に見合いなんて断ってほしかった。
 私の母は、義樹くんは人が良すぎるところがあるんや、って言ってた。あんまり人が良すぎて、みんなの気持ちを考えて優柔不断になってしまう。
 春菜さんと別れたのも、そのへんが原因やったって。
 春菜さんは、3年前片瀬くんが付き合ってた恋人。婚約寸前まで行って、彼女は他の人と結婚してしまった。
 片瀬くんは、この3年間、すごく苦しんだんやと思う。
 そういえば、このあたりって。
 春菜さんが勤めてた会計事務所があるところ。
 片瀬くんは、このへんのレストランのこと、よく知ってるみたいやった。
 ふたりは、今の私たちみたいに、このあたりでデートしてたのかな。
 この店でもいっしょに。
 ずるい。片瀬くん、ずるい。
 昔の彼女との思い出のある街に、私を連れてくるなんて。
 泣きそうになったところに、私の注文した特大チョコレートパフェが、タイミングよく来た。
「やったあ、美味しそう」
「すっげえ。真奈ちゃん。夜中にそんなもん食うのか」
 コーヒーカップを手に、片瀬くんがポカンと見てる。
「うらやましいやろ。でもあげないもん」
 わざと幸せそうにアイスクリームを頬張りながら、私は彼が微笑んで私を見ている視線を感じて、ほんとにうれしくなった。
 ふん。私がヤケ食いでデブになったら、それは片瀬くんのせいやからね。
 心の中で悪態をつきながら、「いいよ。見合いしても。信じてるから」と虚勢を張った。


 2週間ほどした日曜の午後、ようやく2人の時間が合った。
 私たちは、片瀬くんの青いコロナに乗って、六甲アイランドへ出かけた。
 まだ埋め立て造成中の六甲アイランドは、海のそばにむき出しの砂があって、人がいなくて、素敵な穴場デートスポットやった。
 もうすっかり風も陽射しも秋の爽やかさで、私たちは砂の上に並んで坐って海を見た。
「おととい、会社で上司との面談があったんや。自分の仕事の欠点や改善点、将来の目標なんかを自己申告する」
「ふうん」
「海外への異動の希望を出してきた。いつになるかわからへんけど、行くことになると思う」
「え? 海外ってどこ?」
「うーん、英語圏やから、アメリカかオーストラリアか、香港とかシンガポールかもしれへん」
「いいなあ。ニューヨーク行ってみたいな。片瀬くんうらやましい」
「何言うてんねん。真奈ちゃん、僕と結婚したらいっしょに行くねんで」
「えっ!」
 私はびっくりして飛び上がった。
 結婚? 誰がっ!
「真奈ちゃん、外国で暮らすの嫌やないやろ? ずっと英会話勉強してきたんやし。真奈ちゃんやったら、外国でも不自由せえへんと思う」
 結婚という2文字が私の目の前で踊っていた。アメリカの都会の夜景を背に、私と片瀬くんがカクテルで乾杯しているというアホみたいなシーンまで浮かんできた。
「い、行きたいなあ」
「よかった。真奈ちゃんならそう言うと思ってた」
 私は、片瀬くんと隣り合っている身体の右半分が熱く膨張したみたいで、それをごまかすために、空を仰いだ。
「うわあ。空が高い」
 彼もつられて空を見上げた。「もう秋の空やなあ」
「あの雲、薄くてベールみたいできれい」
「あれ、いわし雲って言うんやで」
「いわし雲かあ。美味しそう」
「真奈ちゃんは、何でも食べ物の話やなあ」
 私は、手をかざしていわし雲をつかまえようとした。雲は私の指のあいだをすりぬけ、私の未来への設計図のように頼りなげに浮いていた。


 食事をして、その夜すっかり遅くなってから、私は片瀬くんに、車で家の前まで送ってもらった。マンションの3階でエレベーターを降りると、
「じゃあ。おやすみなさい」
 と私は手をふった。
 いきなり片瀬くんは、私の身体を横から捕まえた。
「え? なに? かた……」
 でも、そのあとのことばは、彼の唇でふさがれてしまった。
 しばらくして、片瀬くんは私を抱きしめて、耳元でささやいた。
「好きだよ。真奈ちゃん」
 私は、玄関の鍵を開けると、ふらふらと居間に入り、テレビを見ていた両親にやっとのことで言った。
「私、キスされてしもうた」
「へっっ?」
 こらこら。キスされた一人娘に向かって、「へ」はないやろが。
 母はあとで、しみじみ言った。「キスされたっていちいち親に報告するのは、あんたぐらいのもんやろうなあ」
 自分の部屋に入ると、私はようやく放心状態を脱した。
 待て。今のちょっと待った。
 今のは、なしにして。
 だって、私、目をまん丸にして開けたまま、キスされてしまった。片瀬くんの顔が魚眼レンズみたいに見えた。私って絶対ヨリ目になってた。
 ヨリ目なんて、ひどすぎる。
 ひとことキスするよって言ってくれるもんや。
 それに、片瀬くんはいきなり舌を入れてきた。男の人とキスしたのかて、初めてやったのに。
 私、恋人どうしのキスはああするもんだって、そのときは全然知らなかった。
 なんだか、気味悪くって、それなのに、からだが熱くなって。
 怖くて。
 片瀬くんは、春菜さんといつもあんなキスをしてたんや。彼にとっては、あたりまえのこと。
 彼は大人。そして私はあまりにも幼い。


 秋がどんどん深まってゆく。
 私たちはあれから、2回くらいデートした。
 片瀬くんは、ちょっと疲れているみたいやった。
 ほんとなら、たまの休みくらいゆっくり寝ていたいやろうに、私とのデートに無理してつきあってくれているんやなって思う。
 だんだん無口になって、前ほど冗談を言わなくなった。
 ある日、私たちは御影にあるボーリング場に行った。
 私はボーリングは2回目で、それも最初のは中学生の頃で、指の入れ方までとっくに忘れていた。
 当然結果はサンタンたるものやった。ガーターのお掃除ばかり。
 ボーリングが得意で、いつも300は軽く出すと豪語していた片瀬くんも、私のひどいフォームに影響されたのか、その日は150ちょっとしか出せないみたいやった。
「真奈ちゃんは、ほんまにスポーツが苦手なんやな」
 感心したように片瀬くんが笑った。
「そう言えば、教会の青年会で行った三田さんだのスケートも、真奈ちゃんは最後まで、リンクの縁から離れんかったもんな」
 私の心はズキンと音を立てた。
 あのときのスケートには、春菜さんもいっしょやったんや。片瀬くんと春菜さんは、楽しそうにふたりで並んですべっていた。
 春菜さんは運動神経がよかったから、きっとボーリングもかっこよくストライクを決めてたんやろうな。
 私の、どじょうすくい一歩手前のフォームと違って。
 私には、なんだか片瀬くんが、春菜さんとデートしたところにばっかり私を連れていって、私と春菜さんを比べて見ているように思えた。
 そんなことは絶対ないのに。
 でも私の考えはどんどんと、醜い嫉妬に押し流されていく。
 私は絶対に春菜さんにはかなわない。
 きれいで、大人で、片瀬くんのやりたいことに全部ついていける春菜さん。
 私みたいに、キスのときに目をまん丸にしているお子様とは大違い。
 ボーリングもスケートも、ちっとも楽しくなれない私なんかとは、大違い。
「真奈ちゃん。どうしたんや」
「ごめん。私、気分悪い……。今日は帰りたい」
 心配して、マンションの玄関まで送ってくれた彼を振り切るようにして、私はエレベーターに乗り、そしてうずくまった。


 片瀬くんと私はそれからもときどき会ったけれど、今までとは少しずつ違っていった。
 彼は普通どおりに明るく振舞おうとしているけど、目が全然笑っていないのに、私は気づいていた。
 私は彼の前で、顔がこわばって、思ったこともどんどん言えなくなって来てしまった。
 ある日曜日、彼はみんなが帰ってしまった教会堂のすみで、私の顔を見ないようにぽつりと言った。
「今日の約束、ちょっと延期しようか」
「え……」
 その日、私は彼の家に行って晩ご飯をいっしょに食べることになっていた。私がはじめて片瀬くんのご両親に正式に会う日やった。
「どういうこと。私、行ったら迷惑?」
「……」
「私、片瀬くんのお父さんやお母さんに会ったら、まずい?」
「僕、真奈ちゃんのきもちが、ようわからへんのや」
「わからないのは、片瀬くんの気持ちだよっ。私の気持ちはもうずっと……」
 私の口からは、嗚咽しか出そうになかった。 
「もう、いいよっ!」
 思い切り怒鳴って、教会堂を飛び出した。
 家に帰って、両親に顔を合わせないように自分の部屋に飛び込んで、わんわん泣いた。
 もう、私たちはダメなんや。
 片瀬くんは、私のことを好きになってくれない。
 私は春菜さんのまぼろしから、一生逃げられない。
 こんなんやったら、片想いでよかった。
 片瀬くんに妹のように可愛がられながら、ずっと過ごしたかったよ。
 こんな苦しい思いをするくらいなら、恋なんかしたくなかったよ。


 夕食のとき、両親はなんとなく、事情を察しているみたいやった。さっき居間の電話が鳴ってたから、もしかすると片瀬くんが心配して電話してくれたのかもしれない。
「真奈。ぼんやりしてないで、さっさと食べなさい」
 食べ物がぜんぜん喉を通らなかった。もう生きるということが、うまくできない。
 私は声もなく、ぽろぽろと泣き始めた。
「真奈?」
 母がおろおろした声で呼んだ。
「真奈!」
 父が厳しい声で怒鳴った。
「いつまで、めそめそしてるんや! そんなの、いつものおまえらしくない!」
「だって、だって……」
「そんなに、辛いなら、もう片瀬くんとは別れてしまいなさいっ!」
「ひどいよぅ。……そんな言い方せんでも……いいやんか……ぁっ」
 私はわあわあ泣きながら、箸を食卓に投げ捨てた。
 そんな我が儘で最低で、どうしようもない娘を前に、両親は黙ったまま、いつまでもそこに坐っていてくれた。


 片瀬くんから、電話があった。
 今晩、いっしょに食事に行こうって。
 私は、別れ話なんやな、って思った。
 一週間泣いて、這うように会社に行って、仕事して。
 全然お祈りできなくて。聖書を読んでもなんにもわからなくて、また泣いた。
 でも、私なりに気持ちのふんぎりはついた。
 静かに、微笑んで、死刑の宣告を受けようと思った。
 彼が車で迎えに来てくれて、私たちは、苦楽園のバス道沿いにある、こじんまりとしたフレンチレストランで降りた。
 駐車場は、低い庭園灯のそばの茂みで虫の音がしていた。日は落ちて、風はとっくにもう冷たく、冬がそこまで来ていることがわかった。
 まだ時間が早いので、レストランの中には人影はまばらで、蝋燭の灯が、テーブルごとにゆらゆら揺れていた。
「赤ワイン、飲もうか」
 メニューを見ながら、片瀬くんが言った。
「車やのに?」
「グラスワインや。真奈ちゃんも飲むやろ?」
「あ、私、白ワインがいいな。赤って苦いから」
 私って最後まで、お子様やなと思う。
 オードブルのテリーヌが運ばれて、コンソメスープが運ばれて。
 かりっとしたフランスパンと、ちりちりレタスのサラダ。
 でも、私はそのどれにもほとんど手がつけられなかった。
 泣かない自信はあったけれど、そのかわり、喉の防波堤も一緒にせき止めてしまったみたい。
「真奈ちゃん、食べへんのか。すっごく美味しいで」
「うん。この頃、食欲ないんや」
「そない言うと、少し痩せたかな」
「仕事が忙しかったから。ほら、私コンピューターのオペレーターやってるでしょ。月末月初は信じられんくらい忙しいんや。 各課の課長がデータの納期を守らへんの」
 私は、無理にはしゃいでいた。片瀬くんの本題を一分でも一秒でも引き伸ばしたいって思っていたかもしれへん。
 彼は、そんな私の話を辛抱強く聞いてくれていた。
 メインディッシュのローストビーフの皿がふたりの前に並べられた。
「うわあ、すげえ。とろけるみたいに柔らかいぞ」
 でも、とうとう片瀬くんのフォークを操る手が止まった。
「真奈ちゃん」
 ……来た。
「僕、ずっとずっと迷ってたんや」
 好きでもない私を好きになろうとして。
 春菜さんを忘れようとして。
 片瀬くんは、ずっとがんばってたんやね。
 ごめんね。片瀬くん。もういいよ。
 もう好きになってくれなくていいよ。
「人を好きになる自信がぜんぜんなくなってしもたんや。春菜さんにいきなり逃げられて、僕ってきっと、とんでもないダメ男なんやろうな。 結婚して、女の人と一生寄り添うってことがわからなくなってしもた」
「……」
「でも真奈ちゃんとやったら、一生寄り添うていけると思ったんや。でも、真奈ちゃんの顔がだんだん悲しそうになってきたのを見て、わかった。 真奈ちゃんは、僕のことをだんだん嫌いになってるんやなって。……春菜さんも、ちょうどそんな感じやったから」
「片瀬くん……」
 違うよ。私が片瀬くんを嫌いになるなんて。嫌われてるのは、私のほうやと思ったのに。
「もう、真奈ちゃんを悲しくさせるくらいなら、いっそ別れようって思ってた。でも」
 片瀬くんは、睫毛を伏せて、グラスの赤いお酒をくりくり回した。
「別れたくないって思った。もう一度やり直したいって。一週間考えて、そう結論が出た」
「かた……せ、くん」
 彼は、両肘をテーブルについて、少し身を乗り出して、私の目をじっと見た。
「そういうわけで、川路真奈さん。このまま僕は進みたいと思いますが、ついてきてくれますか?」
 私は、両手で口をおおった。
「……はい」
 泣かないって決心して来たはずなのに。
 私は全然別な涙にふいうちされてしまっていた。
 しばらくして、ウェイターの人が私の手付かずのお皿を下げるとき、申し訳なさそうに、
「お口に合いませんでしたか?」
 とたずねた。
 私はせいいっぱい首を横にふった。
「いいえ。美味しかったです」
 でも今日は胸がいっぱいで。一生に一度しかない、最高に幸せな日やったの。
 だから、ごめんなさい。レストランのみなさん。
 最後に出たデザートは、果物やカスタードクリームがいっぱい入ったクレープやった。
「うわっ。これおいしいっ! 信じられへん」
 わあわあと騒ぐ私に、片瀬くんは苦笑しながら、自分の分のデザートも私のほうに押しやってくれた。
 駐車場に出たら、秋の風が心地よかった。
 星が冷たい空気の中で、きらきら瞬いて見えた。
「真奈ちゃん」
 車の助手席のドアを開けて、乗り込もうとしたとき、片瀬くんは私の肩をつかんだ。
 私はあわてて、目を閉じた。
 もう、次に何が起こるか、わかっていたから。


 

このお話は「夏のおわりに」の続編・食欲の秋スペシャル(笑)です。京子さんの掲示板5000HITのキリリクで、「なるべくノンフィクションに近く」ということでした。
かなり脚色と美化(当社比267%)したけれど、、エピソードとデートスポットは、ほとんど実際のものです。
【お詫び】車の運転前にワインを飲んだ描写が出てきますが、35年前の当時は、今ほど飲酒運転に対する禁忌がなかったのです(少量なら大丈夫という感覚でした)。どうかご容赦くださいますように……。

タイトルのイラストはYOU ROOMさまからいただきました。


Copyright (c) 2002 BUTAPENN.

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