extra. 鳥かご

 風が、夏のよどんだ空気をときおりかきまぜる。
 どこかで、小鳥の飛び立つ羽音。
 いつも思う。
 四方を細い立ち木にぐるりと囲まれたこの森の中の小屋は、まるで居心地のいい鳥かごのようだ。
 木々の向こうから、枯れ枝を拾い集めた女が戻ってくる。
 くるぶしまで被う質素な服。つぎのあたったエプロン。少し痩せた顔にあどけない大きな緑の瞳。彼を見て、にっこり笑う。
「起きてもだいじょうぶなの? 傷は痛まない?」
「ああ」
 と答え、彼は女の名を呼ぶ。舌を動かすのがおもしろくてたまらない幼児のように、意味もないのに彼女の名を呼ぶ。
「カトリーネ」
「なに?」
 だが、彼女は彼の名を呼び返してはくれない。
 なぜなら、彼には名前がなかった。

 森の中に瀕死の怪我を負った彼が倒れていたのは、10日前だった。
 気がつくと、カトリーネの小屋のベッドに寝かされていた。
 それまでのことを何も思い出せなかった。
 自分の名前も、住んでいた場所も、どうしてこの森に来たのかも。
 一番近い村でも数里はあるという森の中に、うら若い彼女はひとりで住んでいる。
 父親が死んでから、ずっとそうだったという。
 彼女は、死んだ父のものだというベッドに彼を寝かせ、毎日わき腹の傷の包帯を取替え、熱いおかゆを食べさせてくれた。
 傷は次第に癒えていくが、記憶は戻らなかった。
 小屋のそばの井戸の、黒い水面に映る自分の顔は、どこかの見知らぬ男だ。
「僕はきっととても悪いことをして、この森に逃げて来たのに違いない」
 ときどきはらわたを何かに掴まれたように恐ろしくなることがあった。
「この傷は、きっと追手によってつけられたものだ。他にも大小の古傷が無数にある」
「違うわ、これはみんな、森の獣の爪あとよ」
「僕が持っていたという剣。血で曇っている。きっと無慈悲にも、罪も無い人を何人も殺してきたにちがいない」
「いいえ。あなたは正しい人だわ。澄んだ綺麗な黒の瞳がその証拠」
「カトリーネ。僕の正体がわかっても、嫌わないでほしい。たとえ僕がどんな男でも」
「ええ。わかっている。あなたがどんな人でも、わたしはあなたのそばを離れない」
 彼女は、男をその胸にかきいだく。
「あなたのことを愛している。ずっとずっといつまでも」

 しかし、そのときは来た。
 森の梢をわたる風が、まるで彼を呼ぶ声に聞こえる。
 思い出せ。大切なことをおまえは忘れている、と。

 思い出せ。思い出せ。神のしもべよ。
 悪魔をその剣で滅せねばならぬ。なぜならおまえは――。

 彼女が小屋に戻ったとき、彼は窓のそばに立ち、じっと彼女を見つめていた。
 手に抜き身の剣を持って。
「すべてを、思い出した。我が名はライムント。使命を帯びて大教区から派遣されてきた異端審問官。
森に住み、人々を惑わすという魔女を斬るために。
カトリーネ・ナイハン。おまえのことを」
 彼の黒い瞳に宿る、頑なな狂信の光。
「ああ、そんな」
 彼女は、目を見開いて首を振る。
「わたしは何も悪いことはしていない。まじない師だった父の後を継ぎ、村人たちに薬を作ってあげただけなのです。どうぞ神のお慈悲を」
「黙れ。神の名を呼ぶな。この悪魔の手先め」
「わたしたちはあんなに愛し合っていたのに。あれは偽りだったのですか。一夜の夢なのですか」
 男はものも言わず、剣を振り上げた。
 その刹那、女の口から低く歌うようなことばがほとばしりでる。
 それを聞くと、身をこわばらせ、うめき声とともに、彼は床に崩れ落ちた。
「ああ、また失敗だ」
 彼女は、のろのろとつぶやき、男のそばにかがみこんだ。
「傷が治りきらぬあいだは、まじないが効いているのに。元気になった途端、記憶を取り戻してしまう」
 女の手に、彼が今まで持っていた剣が握られる。
「今度はもっと、深い傷を負わさなければ」
 刃がきらりとひらめき、男の胸に突き刺さった。

 細い立ち木の森をながめると、いつも思う。この小屋は居心地のいい鳥かごのようだ。
 しかし、何故この景色を「いつも」見ている気がするのだろう? 小屋の外に出たのは今日が初めてなのに。
 カサカサという物音に、彼は振り返る。
 質素な服を着た緑の瞳の女が、たきぎ用の枯れ枝をかかえて近づいてくる。
「もう、起きていいの? 傷はだいじょうぶ?」
「カトリーネ」
 彼は微笑み、雛鳥が母鳥を呼ぶように、彼女の名前を呼んだ。