Ignition イグニッション



01



 いつも不思議に思うんだ。一度も空を飛んだことがないはずなのに、どうして僕は空を飛ぶ感覚を覚えているのだろうか。
 「お母さんの羊水の中に浮かんでいたからだよ」という人もいる。でも、どこまでもどこまでも地平の果てに飛んで行きたいという衝動を、それでは説明できていない。
 ほら。僕は空想のなかで、王都の家々の黄銅色の屋根を見下ろしながら、飛ぶことだってできる。
 教会の鐘楼をかすめ去り、王宮を囲む城壁の見張り兵たちに敬礼して、光のリボンのような川に沿って旋回し、風車の真上で一気に高度を上げて、北のモーリア山脈の向こうを目指して、まっしぐらに飛んでいく――。

「こら、ベル。往来の真ん中で寝るんじゃないよ」
「いてっ」
 社長が、僕の頭を叩きながら、通り過ぎていった。筋肉質の背中に金髪の巻き毛が揺れている。
 僕の雇い主、シア・グレニッツ社長だ。
 「グレニッツ商会」の二代目女社長で、古参の社員に「お嬢さま」と呼ばれると烈火のごとく怒る。美貌と腕力という反対ベクトルの長所を兼ね備えている、すごい人だ。
 死んだ父とは、年の離れた幼なじみだった。死後も続く固い友情のおかげで、身寄りのない僕は、社長の家に住み、三度の食事と仕事を与えてもらっている。
 夢から覚めた心地で、目をぱちぱちさせながら、西の空を見上げた。さっき空想の中で出てきた王宮の城壁が、そびえている。
 国王一家の住まわれる宮殿は、四つの隅塔とそれを結ぶ高い城壁に囲まれて、まったく見えない。城壁がこんなに不必要に思えるほど高いのは、魔法時代の名残だという。敵国の空飛ぶ馬車が、中まで入りこめないようにするためだ。
 王都はよく、ひとつのコマにたとえられる。
 コマの中心を貫く軸にあたるのが、丘上に立つ宮殿だ。そして、その周囲に広がる、ずんぐりとした胴体にあたる部分が、有に一万人が住むと言われる大きな城下町。
 そして、回るコマが四方に蹴散らす土くれのように、緑の田園の中に村々が点在している。
 今度は、東の空を見上げた。
 家屋根の向こうには、たくさんの風車が寄り添うように立ち、思い思いの速さで回っていた。緑色のペンキが剥げかけた四枚羽根の風車がゆっくりと回る。からからと乾いた音を立てながら忙しなく回るのは、プロペラ式風車。ヨットのように三角帆を張った風車もある。
 通称、『風車村』。国王に保護されている魔法使いたちの住む特区だ。
「あ、そうだ」
 風車から自分の手のひらに、視線を移した。
「プロペラをあと二度傾けてみたら、揚力はどうなるだろう」
 両手の間隔を広げたりせばめたりしているうちに、頭の中の設計図に、次第にはっきりとした線が引かれる。
「よしっ」
 僕はブリキの弁当箱を入れたカバンを背負いなおすと、一目散に走り出した。
 角を曲がるとすぐに、煉瓦づくりの大きな工場が見えてくる。
 『グレニッツ商会』木工金属工房。
 読んで字のごとく、木材や金属を材料とした製品の生産や加工を請け負う工房だ。
 ここで、僕は七歳のときから木工技師の徒弟として働き始め、今年でもうすぐ九年目になる。
 工房長はまだ「ケツに卵の殻がくっついてる」と言うけれど、名指しの注文も入るようになって、自分では、そこそこ一人前の仕事をこなしているとうぬぼれている。
 木工室の自分の作業台に座ると、一年先輩のミトが、隣で足踏み式の研磨機械を動かしながら言った。
「遅いぞ、ベル」
「ごめーん。納品は明日だもんな。気合入れるぞ」
「昼までに、仕上げろよ。午後は、いつものアレで製図室に集まるぞ」
「よおし」
 注文の合間を縫うようにして、技師たちみんなで一致協力して進めている大きな事業がある。
 飛行機の製作だ。
 飛行機に乗って空を飛ぶ。今はまだ、文字通り「雲をつかむような話」だけど、絶対に実現させてみせる。昔のように、人類が空を飛ぶ時代が、また必ず来るんだ。

 僕らの祖父母の時代には、この都の上空を何十台もの空飛ぶ馬車が飛び交っているのは、ごく当たり前の風景だった。
 魔法使いが朝一番に町をめぐり、呪文を唱えてかまどの種火を点けるのも、ありふれた日常。急ぎの手紙も、日照りのときの雨乞いも、冷蔵庫に入れる氷を作るのも、みんな魔法使いたちの仕事だった。
 魔法は生活に欠かせないもの。大切な町の財産。誰もがそう思っていた。
 だが、異変は静かに進行していた。魔法を操ることのできる人間の数が次第に減り始めたのだ。
 そもそも魔法というのは、訓練を積めば使えるというものではない。魔法が使えるように生まれついた人間がいるのだ。しかも、その天分は、必ずしも親から子に遺伝しない。
 国王は、希少になる一方の魔法使いを手厚く保護し、破格の報酬で優遇した。その分、一般庶民は気軽に仕事を頼むことができなくなった。
 魔法使いがいなければ、朝のかまどの火にも事欠くようになる。氷がないため食べ物は腐り、畑の作物は水不足で立ち枯れ、泥棒よけの魔方陣を描いてもらうための高額の謝礼を払うと、泥棒に盗まれるものさえなくなるという有様。
 魔法使いは、貴族のおかかえのような身分になってしまった。そうなると、人間って悲しい。魔法使いと普通の人々との間には、次第に隔たりが生まれ、そねみと反感がうずまくようになった。
 最悪の事態に至るきっかけは、八年前の事故だった。
 あのとき、まだ幼年学校に行く年だった僕は、往来の悲鳴と怒号を聞きながら、家の中でひとりで震えていた。

『王室の空飛ぶ馬車が、東の森に墜落したらしい』
『なんてこと。操縦者の魔法使いは何をやっていたのさ!』
『あいつら、報酬が不服で、わざとやったに違いないぞ』

 不幸中の幸いで、国王ご一家は馬車には乗っておられなかった。事故の原因は、真夜中に急ぎの使いで出発した馬車が森の木の梢に引っかかってバランスを崩すという単純なミスだった。
 だが、旱魃で乾ききっていた森は、大破した馬車から燃え移ったカンテラの火でたちまち炎上し、近隣のいくつかの村を焼いて鎮火した。被災した村人たちから上がった怒りの声は、国民全体を巻き込み、魔法使いたちに対する排斥の暴動が起きてしまった。
 空飛ぶ馬車は、王立博物館に飾られた一台を残して、この国から姿を消した。
 そして、魔法使いたちは、王立軍の監視のもとに『風車村』の特区に集団移住し、一般人とは接触しないように距離を置いて、ひっそりと暮らすようになったのだ。

 頼まれていた仕事を朝一番で仕上げ、僕はプロペラの模型に取り掛かった。
 飛行機が大空を飛ぶために必要なことは、エンジンがいかに大きな動力を作り出すか。そして、その動力をいかにうまくプロペラに伝えるか、だ。
 エンジンを担当するのは、金属加工技師たち。僕ら木工技師組は、機体の設計を担当していた。
 そして、僕が今、頭を悩ませているのは、プロペラの形状だった。今朝、風車村の風車が回るのを見て、ヒントをもらったような気がしていた。工房の外のニレの木陰で、分厚いチーズをパンにはさんで齧りながら、急いで木を削って模型に仕上げた。
 昼休みが終わると弁当箱を片づけ、厨房に行って、配達されたばかりの牛乳の瓶を木箱から取り出した。シア社長があんなに大きくなったのは牛乳のおかげだと聞いて以来、毎日欠かさず飲んでいるのだが、なかなか効き目が表われない。ちゃんと教わったとおりに、腰に手を当てて一気飲みしているのにな。
 午後一番に集まる予定の製図室は、中庭を隔てた別棟だ。そこに向かう途中、大食堂の前を通りかかった。
 大食堂のホールは吹き抜けの天井になっていて、高窓から柔らかな日光が射し込んでいる。
 その白く淡い光の中で、目の積んだ古ぼけた焦げ茶色のローブをまとう、ひとりの少女が立っていた。
 フードは取り払われ、なだらかな肩にふわりと石英のような光沢を放つ白い髪が落ちている。透き通るような白い肌。ルビーのような紅い瞳。
 中央のテーブルに色とりどりの花を生ける軽やかな手つきは、まるでハープを奏でているようだ。呪文を唱えてでもいるのか、たえず動く口元には、ときおり笑みが浮かぶ。
 思わず、息を詰めた。
 風車村から来た魔法使いの少女だ。シア社長に頼まれて、週に何回か、花と観葉植物の世話にやってくる。
 いつも頭巾を目深にかぶり、うつむいて日傘を差して歩いてくるため、顔を見たことは一度もなかった。
 僕は邪魔をしちゃいけないと思い、そっとその場を離れた。
 『魔法使いは薄気味悪い』、『信用できない』と言う人は多いけれど、実際に会って確かめた結論なのかな。魔法使いに限らず、この世に信用できない人はたくさんいるって、少し考えればすぐにわかることだ。
 グレニッツ商会の中に、そういうわからず屋がいないのは本当にうれしい。彼女の陰口を言うヤツも最初はいたらしいけれど、シア社長は取り合おうとしなかった。そのうち工房の連中も、注文に来るお客さんも、彼女の生けた花をすっかり気に入って、楽しみにするようになった。
 花で季節を知ることができるのはいい。街の中で暮らしていると、自然とは縁遠くなってしまう。僕が小さいころは、もっとあちこちに草花があふれていたはずなのに。
 中庭に出たとたん、やかましい鈴の音が響いてきた。
 入り口のアーチをくぐって、二頭立ての馬車が中庭に走り込んでくるところだった。
 もうもうたる砂埃が治まると、馬車の扉が開き、背のひょろ高い男が現われた。御者席に乗っていたふたりの男が、素早く降りて、両側に付き従う。
「げっ」
 僕は、思わず身構えた。
 シグルド・エーテンは、エーテン・セヴンス社の若社長だ。
 エーテン・セヴンス社とは、古くは革製の馬具を製造する工房だった。先代のころから馬車の製造に力を入れるようになり、今は自動車という新分野の乗り物の開発に乗り出している。
 しかも、この若社長がやたらと商売上手で、王室に取り入って、開発資金をがっぽりせしめているといううわさだ。
 上等の背広を粋に着こなし、ポケットからは銀の鎖とハンカチーフを覗かせ、襟ボタンには一輪の薔薇の花。
 歯の浮くようなお世辞をふりまいて、貴族のご婦人方にもすこぶる受けがいい。
「こらこら、歯の浮くような、はないだろう」
「人の頭の中を勝手に読まないでください」
 つまりは、わがグレニッツ商会の不倶戴天の敵。それが、彼だ。
「残念だな。坊や。きみがハリネズミみたいに敵意むき出しじゃなければ、優秀な技師としてわがエーテン社に引き抜いてあげるのに」
「百回生まれ変わったって、ありえません」
「子飼いの徒弟に言ってもむだか。まあ、いい。今日はよい知らせを持ってきたのだ」
 彼は、いかにも気障っぽい、もったいぶった手つきで、ポケットから封筒を取り出し、薔薇を添えて差し出した。
「これを、マドモワゼル・シア・グレニッツに渡してくれたまえ」
 銀縁眼鏡の奥から、涼やかなアイスブルーの目でウィンクをしてみせると、元通りに馬車に乗り込み、ふたたび砂煙を立てて行ってしまった。エーテン社の先代は巌のようにむくつけき巨漢なのに、どうしてあんなツルみたいな息子が生まれたんだろう。
 ぽかんと見送った僕は、我に返ると急いで製図室に走り、シア社長にさっきの封筒とバラを見せた。
「なんだとお」
 中の手紙に目を走らせた社長は、製図台を両手でわしづかみにして立ち上がった。分厚い無垢材のテーブルがめりめりと悲鳴を上げている。
「どうしたんです」
「読めばわかる!」
 差し出された手紙を工房長が読み上げると、居合わせた技師たちは驚きの声を上げた。

『新時代の旗手エーテン・セヴンス社が長年取り組んできた夢の乗り物、自動車がついに完成。来月、王宮前広場にて試乗発表会を開催!』

「とうとう、完成したのか」
「くそ、先を越された……」
 一同は、悔しそうに押し黙る。
 魔法を動力とした空飛ぶ馬車が禁止されてからというもの、国じゅうの技師たちが、それに代わる新しい乗り物の研究を続けてきた。
 飽くまでも空を飛ぶことにこだわり、飛行機の開発を目指す、我らグレニッツ商会。
 地上を馬車よりも速く走ることに焦点を置いて、自動車を研究してきたエーテン・セヴンス社。
 ずっとしのぎを削ってきた両者の対決は、僕たちの敗北に終わってしまうのか。
「まだ、負けたわけじゃないよ」
 うなだれる一同を鼓舞するように、シア社長は見渡した。
「自動車の欠点は、広い道路が必要なことだ。森や山の多いわが国で、津々浦々にまで道路網を建設するには、莫大な費用と歳月がかかる。飛行機なら、離着陸用の滑走路さえ各地で整備すれば、どこにだって飛んでいける。勝負は、どちらが早く実用化にこぎつけるか、だ」
 僕たちは、うなずく。
 そうだ。飛行機に賭けた夢を、そう簡単にあきらめてたまるものか。
 みんなの目に輝きが戻ってきた。さっそく製図台の回りに集まり、議論が始まる。
「空気抵抗を少なくするために、機首の形をもう少し小さくしたらどうかな。鷹のくちばしみたいに」
「翼の形も変えてみよう。今のままでは風の渦ができて、失速してしまう」
「このプロペラの角度をもう少し深くすれば、きっと推進力が上がるよ」
「よし、それぞれのアイディアに沿って、模型を作ってみてくれ。エンジンももっと改良の余地があるはずだ。みんな、へこたれるんじゃないよ」
「おおっ」
 一時は失望しかけていた僕たちは、魂を鼓舞するような社長の激励に、張り切ってそれぞれの職場に戻った。
 僕は、プロペラの作りかけの模型を置き忘れてきたことを思い出して、製図室に引き返した。
 部屋の隅で、シア社長がひとり、肩を震わせていた。
「社長」
「……なんだ、ベルか」
 社長はぐいと袖で目を拭くと、照れたように笑った。
「アントンが生き返ったのかと思ったよ。ほんとに声が似てきたな」
「父さんが生きてたら、もっとグレニッツ商会の力になれたのに」
 僕は、唇を噛みしめた。
 死んだ父アントン・フリーゲルは、先代のグレニッツ社長のもとで修行した一流の技師で、しかも優秀な発明家だった。
 父の発明品の中でも一番有名なのが、消防士の制服に採用され、消火活動を根底から変えたと言われる『防火布』だ。不燃剤を塗布しているため、燃えにくいだけでなく、燃えさかる炎の周囲を取り囲むように覆うことで、広範囲の消火にも役立つ。大勢の人の命を救った父さんは、僕の誇りであり、永遠の目標だ。
「こんな立派な息子を遺してくれたんだ。それで十分だよ」
 社長は、僕の頭にぽんと大きな手を乗せた。「すまん。弱気の虫が騒いだだけだ。みっともないところを見せた。みんなには、内緒だぞ」
「わかってます」
 小さな板金工房だったグレニッツ商会を先代から引き継いで、ここまで大きくして。シア社長が女の身で、どれほど大変な重荷を背負って、ひとりで耐えてきたか、僕たちはよく知っている。
 何もできない自分が、歯がゆかった。
 僕は、プロペラの模型を作業エプロンのポケットにしまいこむと、中庭に出た。
 さっきの魔法使いの少女が、ひとかかえもある大きな植木鉢を手押し車に乗せるところだった。
 僕は走っていき、鉢を横から支えた。
「あ……」
 彼女は、茶色のフードの下で、驚いたように目を見開いた。
「手伝うよ。運ぶのはこれだけ?」
「はい。あの、これだけです」
 消え入りそうな声で、答えた。「ありがとうございます」
 彼女は片手で日傘を持ち、もう片方の手で取手を握る。重い手押し車は、きいきいと不平を鳴らしながら、ゆっくりと動き始めた。
「あ、待って」
 僕の声に、彼女は不思議そうに振り向いた。
 僕は、父さんのようにたくさんの人の命を救うことはできない。シア社長の涙を止めることもできない。
 けれど、目の前で難儀をしている少女の役に立つことぐらいは、できるんじゃないか。
「『風車村』まで、送っていくよ」

  恵陽さま主催企画「Other's plot plan」にて、
「パノラマ二進法」の中井かづき様からいただいたプロットで書かせていただいた作品です。