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Chapter 1
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春の風が町外れの草原の銀色の葉裏を、軽く撫でては通り過ぎてゆく。 花を踏まぬよう畦道に戻ったちょうどその時、彼女はアシュレイが遠くから呼ぶ声を聞いた。 「アローテ」 息せき切って駆けて来た騎士は、絹のチュニック姿で腰には儀礼用のサーベルを下げ、普段見ている彼よりもほんの少しまぶしく大人びて見えた。 「大丈夫かい。一人で出歩いて。もう熱は下がったの?」 「ええ。今日は暖かいから平気よ。気分もこのところいいし」 「無理するなよ。あれからずっと病気がちだったし、心配だよ」 「しかたないわ。一度ほんとうに死んじゃったわけだし」 彼女はくすくすと無邪気に笑った。アシュレイはやっと納得して畦の斜面に腰を下ろした。彼女の笑顔を見たのは、実際何ヶ月ぶりだろう。 アローテも彼の隣に坐る。 「ラダイ大陸との連絡は、取れたの?」 「いや。1ヵ月前から定期船が途絶えたままだ。来週にでも軍船を派遣する協議が今終わったところだけど」 アシュレイは悔しげに足もとの草をちぎった。 「どこの国も今、再建で手一杯だからな。よその国を助ける余裕なんてどこにも……」 突風がうねりながら彼の金褐色の髪をなぶった。 すぐに丸まろうとする柔らかい巻き毛を、貴族の印の金のサークレットが衛兵のように押し返している。 「そうね。どこの民衆も苦しい思いをしているんですもの。これ以上税金を上げるわけにはいかないわね」 「それで急なんだけど、僕たちもその軍船に乗り込んで、ラダイ大陸に行くことになった。……いいかな、アローテ」 「もちろんよ」 「悪いな。この1年、慌ただしいことばかり続いて、やっとサルデスの王宮の柔らかいベッドでゆっくり休ませてあげられると思ったのに…」 「もう十分ゆっくりしたわ」 「できればユツビ村へも行こうって、ギュスとも話していたんだけど。……すまない」 「アッシュ。謝ってばかりよ。そろそろやめましょう」 アローテは、年上の女性らしく優しくたしなめると、ほっそりした指を長いスカートの上できゅっと組み合わせた。 「あなたは各地の王をまとめるという、あなた以外誰にもできない務めをしているのよ。私たちはそんなあなたを信頼して、 少しでも力になりたくて仲間でいる。だから、そんなに悲しそうに謝らないで」 「ありがとう、アローテ。……でも」 言葉を選んでいるアシュレイの唇に、ちょんと指先を押し当てる。 「リュートのことは、あなたのせいではないのよ」 彼女は目を伏せた。 「私も……いったい何が起きたのかわからないし、彼が生きているか死んでしまったのかもわからないのは、正直辛かった。 ……でも、もうやめにしたの。リュートはどこかで生きていると考えることにしたの。私たちが魔王軍と戦ってさえいれば、いつかきっと助けに来てくれると」 そして、恥ずかしそうに微笑む。 「だから、私のことはもう心配しないで」 「うん、わかったよ」 彼はこっくりと頷いた。 「案外、リュートも今ごろどこかの大陸で、勝手に一人で修行だとか何とか言って、魔物をバタバタなぎ倒してるかもしれないな」 「ふふ……。そうね」 「あいつほど勝手な奴はいないからな。所かまわず勝負をふっかけてくるし、夜中だろうが何時だろうがお構いなし。 剣の手入れを始めりゃ、もう人がいくら話しかけても上の空だし、そのくせ自分の自慢話になったら、一時間だってとまらないし」 「剣のことになると、とにかく夢中になっちゃうのよね」 ――その彼が、何故大切な大剣を手放したのだろう。 アシュレイはあわてて話題を変えた。 「そうだ。前にラダイ大陸に行ったときのこと覚えてるかい? 傑作だったよ。デルフィアの首都でリュートの奴、宮廷画家に追っかけられてただろ」 「ええ。絵のモデルにと無理やり頼み込まれて、古代の衣装を着せられて2時間立ちっぱなしだったってぼやいてたわ」 「黙って立ってれば、戦神〈アクティオス〉に見まごうばかりなのになあ」 「口を開くまでは、ね」 2人の脳裏に、3年前初めて出会った時の情景が昨日のことのように浮かぶ。 薄暮の紅色の中、街道を急ぐ途中の彼らの前に立ちはだかったリュートの姿。 無造作に縛った長い金髪が夕風に揺れ、入日に打たれてきらきら輝いていた。 190センチは有に越える高みから、14歳の小柄なアシュレイを半目使いで睨みつけた、その瞳の深い青。 名彫刻師イミュネが全精力を注ぎ出して彫り出したかのような、鼻と顎の完璧なライン。 3人はあまりの美しさに一瞬息を呑み――そして、その口から発せられる言葉に凍りつく。 「「てめえ、ぶちのめしてやらあ!」、だもんな。いきなり」 「やめて。その次を言わないで。……王宮を追放されるわ」 「作戦は聞かない。人の名前は覚えない。王の謁見で大欠伸する。夜中に抜け出しては酒場で飲んだくれる。誰彼かまわず、けんかをふっかける。 行く先々で女の子を引っかけては……。あ、……ごめん」 「いいのよ。全部本当のことだもの」 「あんな自分勝手な奴なのに……」 アシュレイは両腕で膝を抱え込み、くぐもった声で呟いた。 「みんな、あいつのことがいつのまにか大好きになってた」 「ええ……」 「ラオキアの王宮でのこと、僕は忘れたことがない。よそ見して、欠伸して、家臣たちは眉をひそめてるし、僕らはとても恥ずかしかった。 突然王座に駆け寄ったときは何が起こったのかわからなかった。ラオキア王を抱きかかえベッドに運ぶ途中、あいつ真っ赤になって怒ってたな。 「てめえら、自分ちの王が病気なのに誰も気づかねえのか」、って……」 「そうだったわね」 「僕は、ああ、こいつには敵わないと思った。リュートは物事の表面ではなくて、本質を見抜く力を持ってる。 それも、頭でなくて本能で知ってるんだと」 「そう……ね」 アシュレイはアローテの手をそっと握り、彼女の目を見つめた。 そしていたたまれぬ気持ちで視線を外し、立ちあがって服の草を掃った。 「風が冷たくなってきた。王宮に帰ろう」 「ええ。帰りましょう。ギュスが心配してるわ」 少年の手を借りて、彼女も立ちあがった。 オレンジ色の陽を浴びて、サルデスの王宮と城下町の白い漆喰塗りの壁が、何層ものグラデーションに塗り分けられている。 「綺麗な街――。そして、平和な街」 「僕の生まれ育ったところなんだ。この平和がずっといつまでも続いてほしい」 「アシュレイ……」 「ん?」 「ありがとう。励ましてくれて……。リュートのことを話してくれて……。うれしかった」 バルコニーに立ち、藍色の闇に沈む王宮の庭園を見遣っているアローテの背後に、人影が立った。 「ギュス」 「夜露に濡れるぞ。大丈夫なのか」 「過保護なのね。ふたりとも」 アローテは少し身体をずらせて、彼を自分の隣に受け入れた。 「明日の出航は予定通り?」 「ああ、準備は整った。……と言っても、侍従長が全部御膳立てしてくれたおかげで、俺たちは何もすることがなかったけどね」 ギュスターヴは桟に頬杖をつくと、しばらく物思いにふけってから口を開いた。 「アッシュが喜んでたよ。きみが元気になった、明るくなったって」 「そお?」 「無理、してるな」 「え?」 ギュスターヴは横目でじっと彼女を見つめていた。 「19年の付き合いだ。おまえが無理してるときは、わかる」 「ギュス…」 アローテは胸飾りの黒曜石のブローチを、そっと指の腹で撫でた。 「アッシュがとても心配してくれてるのが、痛いの。 気持ちを切り替えなきゃ、って思う。……でも……」 「リュートのことを考えると、その決心もすぐ鈍る」 「ねえ。何故わたしは、生きてるの?」 彼女はぎゅっと目をつぶり、顔をそむけた。 「いくら考えてもわからないの。私は確かに一度死んだのに、今こうして生きている。 ……リュートがわたしを連れてもう一度奥に入ったのは何故? もしかして……」 アローテは、幼なじみの横顔を試すように見つめた。 「ギュス。自分の命と引き換えに人を生き返らせる呪文あったわよね」 「ああ。村を出る前に俺は習った。成人してたからな。おまえはまだ、15だったけど」 「まさか……」 「リュートには教えてない」 彼は即座に否定して、彼女の追撃をかわした。 「たとえ教えたとしても、あいつには使えない。魔法力が全然ないあいつにはな」 「そう……よね」 彼女はふたたび項垂れた。 「じゃあ……」 「1つの仮説はある。おまえは雷撃を受けた。外傷は見る限り全くなかった。あのとき、心臓が止まっただけの仮死状態だったとすれば、息を吹き返したのも頷ける」 「じゃあ、リュートがいなくなったのは……」 「それは、わからない」 ギュスターヴは後ろめたさにたじろぐ自分を持て余していた。 あの日――。結界の中で、アローテの死に絶望し、半狂乱に陥っていたあいつ。その不甲斐無さを罵った自分。 このことは、まだ彼女には話していないのだ。 おそらくリュートは、彼女の後を追って自殺した。 それがギュスターヴが心の中で密かに確信していることだった。 そして多分、アシュレイもそう思っている。だからこそあれほど、アローテの悲しみに責任を感じて、苦しんでいるのだ。 このことは、ふたりが彼女の前で永遠に口を閉ざしていなければならない偽りの罪なのだ。 「アローテ。あいつはきっと帰ってくるよ。信じて待ってろ」 「……うん」 俺も嘘がうまくなったもんだ。こんな心にもないことを笑って言えるなんて。 「リュートの小さい頃の話、聞いたことある?」 「ああ。確か4つか5つのときに両親と死に別れたんだったな」 彼はあまり自分の生い立ちを話したがらなかった。アローテも一度、彼がずいぶん酒に酔ったときに、寝物語として聞いたきりだ。 わずか4歳で天涯孤独の身となったリュートは、町や村を渡り歩き、親切そうな人を見つけてはやっかいになる暮らしを覚えた。 その家に子どもが生まれたり、主が病気や怪我で立ち行かなくなったりしたときは、こっそり夜のうちに抜け出し、また次の町に行って新しい里親を捜す。 そういう生活を繰り返してきたと言う。 あるときなど、悪い奴に騙されて、奴隷に売り飛ばされそうになった、と楽しそうに笑っていた。 「リュートってどこか、人を引きつける才能があるでしょ。それってきっと、4歳の子どもが戦乱の世の中で生きて行くために、必死で身につけたものだったんだなあ、と思ったわ」 「ああ」 ギュスターヴは、緩く束ねた自分の黒い髪が、欄干の夜露を吸い取るのをぼんやり見ていた。 「俺は、別の話を聞いたよ」 「なに?」 「両親と死に別れた理由さ」 「……」 「放浪民族だったリュートの家族は、馬車で旅しながらサキニ大陸の中央部を通りかかった。 ガルガッティア。 18年前、魔物どもが一番最初に人間を襲い始めたところだ」 「えっ…」 「目の前で両親をなぶり殺しにされたそうだ。……いったいどうして自分だけが助かったのか、記憶がないらしい」 「……知らなかった」 「おまえに内緒にしたのは、気を使わせたくなかったんだろう。ガルガッティア城を攻める前夜、たまたま2人で火の番をしてたとき話してくれた。あいつには思い入れがあった場所だったんだな」 「そうだったの」 ギュスターヴはそれを聞いたとき、リュートがあれほど強くなることにこだわった訳がわかったような気がした。 きっと、二度と自分の目の前で、為す術なく人が殺されていくのを見たくなかったのだろう。 だから、アローテの死にあれほど取り乱したのだ。 自らの命を絶つほどに。 「……何笑ってんだ。アローテ?」 「ごめん。ただ……」 アローテは口を隠していた両手を背後で組み合わせて、胸を反らせた。 「ギュスとリュートって話をしてるのずっと見たことなかったから。何でもない用事までみんな、わたしかアシュレイに伝言させて。 ふたりとも意地になって。そんなところで隠れて話してるとは知らなかった」 「別に隠れて話してたわけじゃ……」 ギュスターヴは顔を赤らめた。 「あいつが苦手ではあったけれど……。俺と全然違うタイプだったし。ことごとく世の中の常識をぶち破る奴だったし」 ――それに何よりも、アローテを彼から奪った張本人だったから。 ギュスターヴは一瞬自分の心に忍びこんだ、リュートの死を喜ぶ想いを振り払うと、彼女に向かって微笑んだ。 「とにかくあいつは殺したって死ぬような奴じゃない。きっと生きてるよ」 「嘘が下手ね、ギュス」 「え……?」 「リュートはもう死んだと思ってるくせに」 アローテは彼を軽く抱きしめると、耳元でささやいた。 「リュートのことを、過去形で話したわ」 そして、踵を返して屋内に向かいながら、 「19年もの付き合いだから、あなたのことはわかるのよ」 黒くぬらりとした水がたゆたう湖面に、一本の細い通路が伸びている。 その路を、2メートルを越す巨体を揺すりながら魔将軍の一人、ゲハジが足早に通る。 『いったいわが王は何をお急ぎなのだ。サキニ大陸侵攻が目前のこのときに』 通路が行きつく先は、半円形の石舞台になっている。その奥は全き暗黒の帳が降り、広大な虚無の気配が広がる。 石舞台の上にはすでに他の4人の魔王の直臣たちが立っていた。 『おぬしだけではない。我らもそれぞれの戦いの場から呼び戻されたのだ』 最年長のアブドゥールが落ち着いた物腰で、額の角を撫でた。 『わしなどは総攻撃をかける最中だったのだぞ』 ハガシムが牙の隙間から、よだれを一筋垂らしながら、わめいた。 『将軍全員をお呼びになるとは、いかなることぞ』 と考え込みながら歩くゲハジに、紅一点のラミルは自分の尾をあやうく踏まれそうになり、きっと鱗を逆立てかけた。 『わが王の御心、我々の図り知るところではない』 そう憮然と答えると、彼女は一番端の離れたところに佇むもうひとりの魔族に顔を向けた。 『あなたは何かご存知か。ルギド様』 『知らぬ』 腕組みをしたまま、ルギドは冷たく答えた。 『王の前で顔色を失うは、功を立てられぬ家臣のみ。貴殿らがそうでなければよいが』 『何!』 血の気の多いハガシムが、牙を打ち合わせ、たてがみを逆立てた。 『わしらに功がないと申すか!』 『ある、とでも?』 彼は竜の紋章の鎧を小さく鳴らすと、他の4人に向き直った。 滝のように流れ落ちる銀色の髪が、ゆらゆらと水面のさざなみの反射を受けて輝き、小ばかにしたような赤い瞳を半分閉じ、挑発的に微笑んだままだ。 『貴様っ! よくも言ったな!』 『怒鳴らなくても聞こえている。臆病な犬ほどよく吠えるとは、このことかな』 『我らを臆病者呼ばわりか!』 ゲハジが仲間の激昂の伝染を受けた。 『王子と呼ばれていても赦さぬぞ。人間風情の成り上がり者が!』 『そう言えば、このあいだ人間の村でおまえに似た奴を見たぞ。ゲハジ。家畜の檻の中で、人間どもはたしか「豚」と呼んでいたな』 ルギドは喉の奥で低く笑った。 『やめられい。2人とも。わが王の御前なるぞ!』 アブドゥ―ルが他を威圧する声で諌めた。 『一同控えよ。わが王よ。お出ましになられませ』 黒の帳の中から魔王の現身にあらぬ姿が、彼らの眼前にそそり立った。 5将軍は、片膝をつき、恭しい拝礼を捧げた。 [ルギドよ。立て] 『はい』 [ラダイ大陸を掌中に収めたそうだな] 『はい』 残りの4人のあいだに動揺が走った。奴が己の師団とともにラダイに遣わされて、まだ2ヶ月ではないか。 こんな短期間に、スミルナとデルフィアふたつの大国を掌握したというのか――。 [もっと多くの血を流せ。人間どもの屍を踏みしだき、己の強さを示せ。そなたが我に相応しき者となったとき、我はそなたの肉体に宿ろう] 『仰せのままに』 [将軍たちよ。ルギド一人に遅れをとっているのか。我の忠臣として相応しき働きを為せ] 『ははっ』 ゲハジは面を上げられずギリギリと歯噛みをしている。ルギドはちらりと見下ろして、口の端を歪めた。 [期限は1年。1年のうちにこの世界全てを我が物と為せ。我の降臨を早めよ] 魔王の思念が水を波打たせ、広間に無数の雷光が散った。 [勇者の一行がほどなくサルデスを出発し、ラダイ大陸に向かおうとしている。油断するな。 全力をもって勇者を叩きのめせ] 思念は遠ざかり、王の気配は完全に消え、謁見の間は元通り、静寂と暗黒に満ちた。 『ルギド! あいつは何者だ!』 ゲハジは来たときと同様に肩をいからせながら、荒々しく退出した。 『10ヶ月前、忽然と現われ、ゆくゆくは魔族の長となると? 人間臭い匂いをぷんぷんさせおって、あの不遜な態度、反吐が出るわ!』 『落ち着け、ゲハジ。見苦しいぞ』 ラミルは苦々しげに、彼の背中にことばを吐き捨てた。 『奴の鬼神のごとき強さは、まことのもの。我らとて油断すれば、足元をすくわれるぞ』 『いっそのこと、我ら4人で力を合わせ、奴を亡き者にしてはどうか』 ハガシムが勢いに任せてわめいた。 最後尾にいたアブドゥ―ルがぽつりと呟いた。 『そんなことをすれば、我ら魔将軍といえど、わが王のご寵愛を失うは必至……』 他の3人は足を止め、顔を見合わせて沈黙に陥った。 ルギドは西の傍塔の寝所に戻ると、鎧を脱いでは投げ捨てた。小柄な魔族の従者がそれを素早く拾い集めて、壁に掛けた。 『いかがでございましたか。わが王の謁見は』 控えの間から、落ち着いた物腰で従臣のジョカルが現われた。 ルギドはいらだたしげに首を振った。 『わからん。父王は何をそんなに恐れているのだ? たかが人間どもが勇者と祭り上げているだけの奴らに、全力をもって対せなどと』 おずおずと人間の女奴隷が差し出した盆から杯をひったくると、常人なら一口で血を吐いて倒れるような毒気を放った泡立つ液体を一気に飲み干し、空の杯を女奴隷に投げつけた。 『何か、ご不興のことでも?』 女奴隷が杯を拾って走り去ったあと、ジョカルは鷹揚に微笑みかけた。 ルギドは、一瞬彼をきっと睨んだが、すぐに視線を逸らせた。 1年前には生れ立ての獣のようだった彼に、魔族のことばを教え、戦略と魔術を指南してくれたジョカルは、魔王以外唯一頭の上がらない相手でもあった。 『ジョカル。何故俺は、人間の姿をしているのだ?』 『魔将軍たちに、何か言われたのですか?』 『奴らの言うことなど、何とも思わん!』 ルギドは左手の長い爪を、きりきりと自分の顔に食いこませた。 『だが、奴らを見ていると腹が立つ。何故俺には奴らのような角も鋭い牙もない? 岩のように固い皮も、剣を通さぬ鱗も! ……あるのは人間と同じ弱い皮膚。毎日食う餌と同じ顔だ!』 一気に言い捨てると、彼はそのまま腕つき椅子にどさりと身体を預けた。 『わたくしも同じではありませんか。ルギド様』 ジョカルは進み出て、自分の胸を指し示した。 『わたくしも、魔族の父と人間の母から生れたゆえ、人間に近い姿をしております。でもわたくしは弱いですか? 牙も角もないゆえに純粋な魔族に劣っていますか?』 ジョカルが魔将軍よりも強大な魔力を持っているのは、彼の教えを受けたルギドが一番よく知っていることだった。 『これでも若い頃は仲間の陰口も聞きましたが、今はそんなことを言う者は誰もおりません。己の実力をもって立てば、愚かしい悪口は耳に入らなくなります』 『おまえの母は、人間だったのか?』 『はい。30年前、まだわが王の封印が解ける以前のこと、地上に迷い出た父と、森はずれに住む人間の娘との間にできた子です。 父は人間どもに焼き殺され、わたくしは母の腹を食い破って生れたそうです。 その後、変わり者の人間の隠遁者に拾われ、8年間ひどい拷問を受けながら育ちました。わたくしが人間のことばを解するのはそのためです。 そいつの隙を見て殴り殺し、魔族の侵攻が始まるまでは、あちこちに隠れ住んでいました』 『俺には、子どもの頃の記憶がない……。俺の親も人間なのか?』 物憂げに呟くルギドに、ジョカルは鋭く答えた。 『あなたはわが王の御子であられます。あなたの身体は、わが王がお創りになったもの。 王は現世(うつしよ)の存在にはあらず、肉体を持たぬ御方。この世に支配を及ぼすとき来たらば、わが王はあなたのお体を器として降臨されるのです。 わが王の宿るに最もふさわしきお姿とされたことを誇りになさいませ』 『そうだな……』 今だ心の底晴れやらぬ面持の王子の様子を察して、ジョカルは従者に命じて、食事の用意を整えさせた。 ほどなく、銀の大皿にまだ生温かい人間の心臓が載せて運ばれてきた。 魔族には確固たるヒエラルキー(階級制度)がある。 まずルギドや魔将軍のような上流階級には、最も美味とされる心臓と肝。柔らかい子どもの腿肉などが供される。 従臣・軍の師団長クラスには、四肢や肩・背中の肉。下士官にはあばら・腹などの部位。 兵卒にはその残りの臓物など。一番下層の従者や下働きには、骨やクズ肉しか残らない。 征服した人間の町や村からは、魔族の食欲を満たすため、毎日何十人もの餌が送りこまれて来た。 食事の給仕をしながら、ジョカルは訊ねた。 『ルギド様。ラダイ大陸にはいつお戻りになるおつもりですか?』 『あそこには戻らん』 『え、それでは……』 血に汚れた口と手を拭うと、ルギドは深々と椅子に凭れた。 『ラダイに残していた部隊はすぐ出立させろ。人間の勇者の船がサルデスからデルフィアの港に 向かっているらしい。鉢合わせせぬよう王都を離れ、近くの海岸から合流させよ』 『勇者を迎え撃たないおつもりなのですか?』 『何故そんなつまらんことをする必要がある?』 ルギドは残忍な笑みを洩らした。 『俺はもっとおもしろい余興を選ぶ。……奴らの留守中にサルデスに総攻撃を仕掛けるのだ』 |
Chapter 1 End |
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