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The Chronicles of Thitos
ティトス戦記

Chapter 17


『オ内儀サマ……』
 甲板に出て、冷たい風に吹かれていたアローテを、隅の暗がりからこっそり呼ぶ声がする。
「ゼダ」
 彼女が近づくと、ゼダが階段のてすりにとまって、声もなくぼろぼろと泣いていた。
『ルギドサマガ、何モ召シ上ガラズ、船倉ノ底ニ坐ッタキリ、動カナイノデス。モウ何日モ……。アノママデハ死ンデシマウ』
「わかったわ、ゼダ。私が行く」
 アローテは彼の透き通った黒い翼にキスすると、船倉への階段を降りはじめた。
 凍結湖から戻り、スミルナ海軍の帆船に乗り込んでから、もう5日。
 船の中は、水兵たちが帆を操るときの掛け声が甲板から時おり響くほかは、静けさが満ちていた。
 ギュスターヴが冗談を言うことも、ジルが奇声をあげて走り回ったり、リグが甘えた笑い声をあげることも、アローテが着替えを持って彼らを追いかけることも、アシュレイがそれを見てため息をつくこともなかった。
 思い出したように的のはずれた会話が紡がれる以外は、誰もが黙りこくっている。そして、それは凍結湖からずっと続いていた。
 あの氷の神殿で、彼らの中に培われてきた暖かい絆が、粉々に打ち砕かれていた。
 ルギドは無表情にあらぬ方を見つめ、誰かがそばに近づこうとするたびに、おびえているかのごとく身を強ばらせた。
 ゼダでさえ彼の肩に止まることも許されず、しょんぼりと後ろを飛んでいた。
 一行が海辺で停泊していたスミルナ軍船に乗り込んだとき、アシュレイは途方に暮れた。
「勇者どの、次はどこに向かいましょうか」
 艦長が、そう尋ねたからである。
 彼は誰にも相談することなく、しばらく考えあぐねた末、答えた。
「テアテラ王国のユツビ村に一番近い海岸まで。……僕たちは、魔導士の長老に教えを請いに行かねばならない。そしておそらく、最後の封印の神殿【炎の頂(いただき)】にも……」


 船倉の中は、目をこらさなければならないほどの闇だった。
 規則的な船のきしみを聞きながら、アローテはふらつく足取りでゆっくりと歩みだす。
「ルギド。……いるの?」
 船荷を掻き分けるようにして奥に進むと、暗がりに慣れ始めた彼女の目に、月の光を切り取ったような銀色が映る。
 ルギドが、ぐったりと硬い木箱に背を預けて坐っていた。紅い瞳が一瞬アローテの顔に走ったかと思うと、すぐにそらされた。
「いるなら、返事してよ」
 わざと怒りを含んだ声を投げかけた。ローブの裾をまくって最後の船荷をまたぐと、すとんと彼のそばの狭い空間に身を落ち着ける。
「具合が悪いのなら、ちゃんと見せてよね。ゼダがすごく心配してるの、死んじゃうかもしれないって。……あの子だけは大事にしてあげて。使い魔は主人がいないと生きていけないって聞いたから」
「……」
「ルギド!」
「……俺をまだルギドと呼ぶのか」
「あたりまえでしょ。それ以外に何て呼べというの?」
「俺の本当の名は畏王だ。……おまえが愛していると思っていたリュートもルギドも、あいつの仮の姿でしかなかった」
「違うわ。あなたは畏王なんかじゃない。肉体はそうでも、中身は別よ。弱気なこと言わないで!」
「今こうして目を閉じているだけで、わからなくなる」
 ルギドは、抑揚のない冷たい声で続けた。
「自分がいったい誰なのか。……記憶の封印が解かれたとジョカルは言った。畏王の記憶がずっと俺の中によみがえっている。
……古代ティトスの宮殿の庭。俺はひとりで歩いている。朝起きて夜寝るまで一度も言葉を口にせず、誰かと目を合わせることもない。
孤独と憎悪。狂気。すべてを破壊したいという衝動。……洪水のように流れこんでくる」
 彼の全身をおおい尽くす銀色の髪が、声にあわせてぴりぴりと震え、淡い光を放つ。
「俺はいったい誰だ? ……今考えていたのは誰だった? 少しでも気を抜けば、畏王に意識を明け渡しそうだ。俺は次の瞬間にも、全世界を破壊し始めるかもしれない」
「だいじょうぶよ。ルギド」
 アローテは、静かに答えた。
「あなたは負けたりしない。畏王はたったひとりの味方であったジョカルでさえ、自分の目的のために捨ててしまった。あなたは違う。私たちを決して捨てはしない」
「俺を信じているのか。今だっておまえのことをこの爪で掻き裂くかもしれないのに」
 ルギドは戯れているかのごとき笑い声をもらすと、右手を伸ばしてアローテの首に指をあてた。
 彼女は動じる気配も見せず、まっすぐに黒曜石のように輝くまなざしを、彼に注ぎ返す。
「信じている。あなたは人を愛することを知っているから。仲間や部下が誰よりも大切なことを知っているから。己の力ひとつで立っていると自惚れている人ほど弱い。
ルギド。自分が弱いことを、苦しいことを隠さないで。私たちがずっとあなたのために祈っていることを忘れないで」
「……俺は信仰を捨てた。神を呪った」
「神の愛は無限に与えられるわ。たとえ、あなたがどんなに神を拒否しようとも」
「俺は愛など、信じない」
 ルギドは怒ったように答えると、ひどく乱暴にアローテのからだを自分の胸に引き寄せた。
「俺の信じるものは……目に見えるものだけだ」
 アローテの唇は、氷のような、それでいて激しい口づけを感じた。


 テアテラ沖に船が近づくと、アシュレイは全員を呼び集め、会議を開いた。
「古代チェスのやり方を長老から教わったというギュスの話を聞いて、思ったんだ。もしかすると、ユツビ村の長老ならば、畏王のこと、封印のことについて何かご存知かもしれないと」
「そうだな。あのじいさん食わせ者だから、何かとんでもないことを知ってて隠していそうな気はするな」
 ギュスターヴも同意する。
「いずれにせよ、【炎の頂】には行く予定だったんだから、ついでに立ち寄ってみてもいいんじゃねえか?」
「ただ、問題はルギドとゼダのことなんだ」
「魔族封じの結界か」
 ルギドは腕組みをしながら答えた。
「俺のことなら、心配いらん。あんな結界、下級兵の足止め程度にしかならないものだ」
「強がるなよ。あれは国中の百人の魔導士の作り上げた、強力な結界……」
「だいじょうぶだと言っている」
 彼はギュスターヴをにらんで、ことばを遮った。
「あー、わかったよ」
 黒魔導士は、漆黒の長い束をよじりあわせた髪を、不満げにひっぱった。
「ちぇっ。ルギドの奴、すっかり元気になったかと思えば、ますます扱いにくくなってやがる」
『ゼダはその間、船で待っていろ』
『エッ、ルギドサマ、私モゴ一緒ニ、オ供シマス!』
 寝耳に水の冷ややかなことばに、肩に止まっていたゼダが羽を大きく広げる。
『だめだ。ここで待っていろ』
「ルギドの言うとおりにしたほうがいい、ゼダ」
 アシュレイが優しく微笑んで、飛行族の若者を諭した。
「ルギドはおまえの身体が心配なんだ」
『ハイ。……ワカリマシタ。アッシュサン……』
 ゼダはしょんぼりと耳をしおれさせた。
『ルギドサマ、オ元気デ、オ気ヲツケテ……』
 ギュスターヴが笑った。
「大げさだなあ。何も永遠の別れってわけじゃあるまいし」
『ハイ……』
 翌早朝、軍船はテアテラの小さな漁港の桟橋に横付けされた。
「アシュレイ」
 もやい綱をスミルナの水兵たちが結んでいる間、甲板からひなびた漁村を見下しながら、ルギドがぽつりと言った。
「どうした?」
「もしどこかで、俺が畏王になってしまったら、おまえが俺を殺せ」
「何を言う、ルギド!」
「約束しろ。……ほかの連中には頼めん。おまえを真の勇者と見込んで頼んでいる」
 ルギドは、アシュレイの肩をぐいとつかむと、彼の緑の目をじっとのぞきこんだ。
「いいな。ためらわず俺を殺せ」
 アシュレイはうつむいて、ほうっと吐息をつく。「わかったよ」
「……恩に着る」
「そんなに、危ないのか?」
「万が一の場合を考えてだ。あまり気にするな」
「そうか」
 アシュレイはルギドの視線を追って、テアテラの青く美しい峰を見晴らす。
「実は僕は、ジョカルの最後のことばを聞いて、むしろホッとしているんだ」
「何故だ?」
「彼は、おまえが心から望まないと、畏王を降臨させることはできないと言っていた。そのために人間と魔族に対する憎悪の念を植えつけようとしたのだと……」
 ルギドの横顔を見上げて、微笑んだ。
「おまえは、人間と魔族にそんな憎悪を抱くことはない、だから畏王を降臨させることはないと確信したんだ。
おまえはゼダを愛し、風の階の森にいる自分の部下たちを愛している。ジルやリグを愛し、僕たちを愛し、……そしてアローテを愛している」
「……」
「僕はおまえを信じているよ。ルギド。そして、僕の完全な信頼がおまえの盾となることを信じる」
「ああ……」


 目的地ユツビ村は、内陸の湖沼地帯にあった。
 白い幹の木々が淡い銀緑の葉をつけ、鏡のように澄んだ湖面は遠くの雪を冠した山々を映し、色とりどりの花が咲き乱れる薄日の射し入る森は、小動物の楽園でもある。
 夏の暖かい空気にぬるんだ景色は、ゆったりと時間さえも止めているようだ。
「いいところだね。ここは」
 ジルはアシュレイの馬上から、あたりの風景に感嘆して叫んだ。
「そうでしょ。ギュスと私はここで生まれて、育ったのよ」
 アローテが森の切れ目を指差した。
「ほら、見えてきた。あそこがユツビ村。【魔導士の村】と呼ばれているところよ」
「本当だ! 子どもまでみんなローブを着ている。みんな魔導士なんだね」
 村人たちは、予期せぬ訪問者に興味を引かれて、三々五々、村の門に集まり始めた。
「あっ! ギュスだよ。ギュス―!」
「アローテ、お帰りなさい!」
 村出身のふたりは、あっという間に村人たちに取り囲まれていた。
「ふたりとも、はやく冒険の話を聞かせてよ」
「今度はゆっくりできるの? 何日くらいいるの?」
「ギュス、蛙取りに行こうぜ。また女風呂に覗き穴を作ろうよ」
 悪童たちの輪の中にいるギュスターヴに、アシュレイが苦笑する。
「あいつがこの村でどんな生活をしていたか、わかるよ」
 ふと気づくと、ルギドも村の子どもたちに、いやそれどころか大人にも囲まれている。
「うわあ。すごい。魔族だよ。本物の魔族だよ」
「トーテムポールみたいに大きいねえ」
「ウサギみたいに、目が紅いねえ」
「ネコみたいな耳だねえ」
「アシュレイ……」
 ルギドは怒鳴りつけたいのを、懸命に我慢しているようだった。
「なんだ、この能天気な連中は」
「めずらしいんじゃないか? きっと魔族が結界を越えて村にやって来ることは、今までなかっただろうし」
「追い払え。うっとうしい」
「はいはい。わかりました」
 アシュレイは片手を口に当てて叫んだ。
「皆さーん。少し離れて見てくださいね。怒ると、ときどき火を吐きますから危ないですよ」
「……誰が火を吐くんだ」
「あ、いたいた。こんなところに」
 アローテが人ごみを掻き分けてやってきた。
「今、長老さまの屋敷から使いが来て、すぐに会ってくださるそうよ。行きましょう」
 ギュスターヴの先導で、村の目抜き通りを進む。村全体がゆるやかな丘の斜面に立っていて、長老の家はその頂上に立っている。
「にぎやかな村だね」
 ジルは自分の生まれた村のことを思い出しているらしく、ギュスターヴに話しかけた。
「でも子どもとお年寄りばっかりだね」
「ああ。ここの子どもは12歳になると、王都テアテラの魔導士学校へ入学するんだ。それから魔導士になって、テアテラ軍に入ったり、結界を張る任に就いたり、教師になったりして、戻ってこない者がほとんどだな。子どもを生んで預けに来るときと、歳を取ったときには戻ってくるけどな」
「ギュスたちも、王都の魔導士学校に行ったの?」
「いや、俺とアローテは長老の直弟子だったからな。16と15になるまで、この村でずっと暮らしたよ」
「それってどうして? 一番バカだから?」
「おい、反対だろ。一番見込みがあったからだ!」
 彼ら六人の後ろからは、暇な村人たちがぞろぞろと坂道をついて登ってくる。外からの来訪者は、平和な毎日を送っている彼らにとって、一大イベントなのだ。
「ルギド」
 リグがそっと魔族の手にさわって、心配げに見上げる。
「どうしてずっと手をギュッと握っているの? 血が出てるよ。もうずっと前からだよ」
 彼はこわばった拳をすっとマントの中に入れると、リグに微笑んだ。
「何でもない。少し力を入れていただけだ」
 丘の頂上の村全体を見晴らす場所に、2階建ての花崗岩造りの屋敷が立っていた。外部からの来訪者を迎え、宿を提供することができる唯一の家でもある。
 これがユツビ村代々の長老の館だった。
 花々の咲き乱れる階段を上がり、玄関の両開きの扉を開けると、正面奥が台所。
 その隣に広間があり、突き当りの暖炉の前の長椅子に、ひとりの小柄な男が待っていた。百歳にもなろうかという白く長い顎ひげを生やした禿頭の老人、それが長老であった。
「じいちゃん!」
 ギュスターヴは大またで駆け寄り、しっかりと抱き合う。
「よく戻ってきたな。ギュス。……それに、アローテ!」
 老人は彼女をもう片方の腕に迎え入れると、ポンポンとふたりの背中を叩いた。
「それから、勇者アシュレイ!」
「お久しぶりです。長老殿」
 彼は、恭しく拝礼するアシュレイにも、短くしかし力強い抱擁を与えると、すぐに扉の傍らに立っていた長躯の剣士に視線を移した。
「あれがルギドだよ、じいちゃん。手紙を読んだだろ?」
「ああ、もちろん」
 言いざま、つかつかとルギドの正面に歩み寄ると、長老はわざとらしい咳払いをした。
「届かんじゃろう。頭をもっと下げんか!」
「……あ、ああ」
「よく来たな。歓迎するぞ」
 腰をかがめたルギドは、明らかに面食らった表情を浮かべながら、背中に回された小さな暖かい手を受け入れた。
 しかし、抱擁がすむと、広間の壁に並んで侍っていた年若い魔導士のひとりが、警戒心もあらわにむき出した眼で彼をにらみつけているのに気づき、笑みをうかべた。
「能天気な奴らばかりの村だと思っていたが、安心した。ここには少しまともな奴もいるようだな」
 長老はルギドの見ている先を察知して、
「レジイ! お客人に失礼じゃろう」と叱りつけた。
「す、すみません」
 若者は、顔を赤らめ、うなだれる。
「失礼をした、ルギド。この者はわしの直弟子のひとりじゃが、先だってのサルデス王国の危機のとき、魔導士軍とともに派遣されてな。そなたのしたことを見て、憤りを隠せなんだ。未熟な弟子を赦してほしい」
「……俺が赦すことなど、何もない」
 そっけなく答えると、ルギドは長老の指し示す椅子に腰かけ、ゆったりと膝を組んだ。
「俺がサルデスやほかの国でしたことを知っているのなら、自分の師が無防備にそいつに近づくのを見て警戒するのが本当だろう。むしろ、誉めてやるべきではないのか、長老よ」
「わしらの村では、魔を忌み嫌ってはならぬと小さい頃より教えている」
 長老は、資質を見定めようと鋭い視線を送ってくる魔族の王子に、真正面から微笑んだ。
「それは、わしら自身も魔を操る魔導士だからじゃ。わしらも過去に、謂われない多くの誤解と迫害に甘んじてきた歴史を持っておる。
いまだにこうして魔導士の村として他から孤立し、力のない者を守って暮らしているのも、その歴史の苦い教訓からなのじゃ」
「魔族を兄弟として認めようとでもいうのか」
「魔族と人間は、もともと兄弟だったのじゃよ。とっくに知っておると思っておったが」
 長老は顎ひげをしごくと、ほっほっと身体をゆすった。
「それに、気を失わぬように、かろうじて自分を保っているだけの男に、かすり傷ひとつ、つけられはせぬよ」
「何だって!」
 仲間たちは、いっせいにルギドのほうに振り向いた。
「……くだらん。何の話だ?」
 ルギドは眉をかすかにひそめただけだった。
「結界は魔力の強い者に対して、より強力に作用する。教えてはいなんだか、ギュスにアローテ? おまけにこの村の中は、わしの手によって、さらに二重の結界がかかっておる。
……おそらくこの男、立っているのもやっとだったはずじゃ」
「ルギド、本当なのか?」
 ギュスターヴは気遣わしげにたずねる。
「ギュス。まだまだ修行が足りんのう」
 長老は愉快そうに目を細めてみせる。
「魔導士の第1の資質は、観察力じゃ。この家に入ってから、この男はずっと拳を握りしめたままじゃ。額にもうっすらと汗しておる。 わしが抱擁したときも、肩が小刻みに震えておったわ」
「まったく……」
 ルギドは観念したように吐息をついた。
「おまえの言ったとおりだな。とんだ食わせ者の爺だ。こいつは」
「だろ? 五十年前は、あのゼリク王さまと一緒のパーティで旅してたんだぜ」
「道理で、たぬきぶりがそっくりだ」
「ほっほっ。お褒めのことば、光栄じゃよ」
「ルギドがそんな状態なのだったら」
 アシュレイは、椅子から身を乗り出して、長老に迫った。
「なおさら我々には時間がありません。……お話ください、長老殿。畏王のこと、封印のことでご存知のことはすべて」
「フム……」
 長老は深々と椅子の背に身体をあずけると、考え込む仕草をした。
「わかった。人払いをする時間を少しくれんか」


 ジルとリグは館の庭で歓声をあげて、ユツビ村の子どもたちと石蹴りに興じている。
 壁際に立っていた若い魔導士たちも、今しがた部屋から出ていった。
「この村に張った結界のほうは、一時的に止めた。これで少しは楽になったじゃろう」
 窓辺にたたずんていた長老は、小柄で肉付きのよい身体を、ゆっくりと暖炉のそばの腕付き椅子に運んだ。
「じゃが、わしの知っていることはそう多くはない。古代ティトス帝国の時代から人間に伝わる、畏王についてのわずかな口伝を語れるのみじゃ」
「じいちゃん、そんなの一度も俺たち聞いたことないぜ。なぜ今まで黙っていたんだ?」
 ギュスターヴが不平を鳴らした。
「ギュスよ。これは長老になる者にだけ代々伝えられてきた口伝じゃ。これを聞くということは、おぬしに次の長老になってもらわねば済まぬな」
「げっ! やだよ、そんなの」
「先代の長老たちが、この口伝を門外不出にしたのは、ティトス帝国の歴史について一般に流布していることを信じる多くの民に、無用な衝撃と恐怖を与えまいと願ったからなのじゃ」
 長老は悲しげに、左右に首を振った。
「おぬしたちもうすうす感づいているとは思うが、古代ティトス文明は人間の文明ではない。あの時代、人間は辺境に押しやられた弱小の民のひとつにすぎなかったのじゃ」
「はい」 アシュレイはうなずいた。
「僕たちは、氷の神殿に行って、そのことを証明するレリーフを見てきました」
「それなら、話は早い。人間族は、あの神殿のずっと西方、アスハ大陸の西半分の冷涼な地域に寄り添うように暮らしておった。近隣の他種族との小競り合いが何百年も続き、魔力を持たぬ人間は苦しい隷属とも言える生活を強いられておった。
それを嫌う人間の王、須彌【しゅみ】は、みずから飛行族の女と通じ、ひとりの王子を得た。……それが畏王じゃ」
 知ってか知らずか、長老はそのときルギドの顔をじっと見つめた。
「須彌の思惑どおり、畏王は強大な魔の力を備えて生まれた。そのため、わずか7歳の頃より近隣諸族との戦争に駆り出されて、全軍の先陣を切った。
戦は数々の勝利を収めた。人間族は広大な領地を所有するようになり、空前の繁栄の日々を迎えた。畏王は彼らの英雄となった。
しかしそれは戦っているときだけ。実際はすべての人間が魔を本能的に畏れ、魔の力を持つ畏王を忌み嫌ったのじゃ。そして……」
 長老は一巻の巻物を机の上に広げた。古代ティトス語で書かれたその巻物の隅には、簡単な線画で表わされた何百もの人間と、彼らを飲み込もうとしている巨大な火の玉が描かれていた。
「その圧倒的な力を恐れ始めた父親の手によって、畏王は暗殺されんとした。哀れな王子は狂気に堕ち、アスハ大陸は彼の魔力の爆発によって、ほとんどが壊滅した。
凍結湖のあるくぼみは、畏王によってうがたれたものだという……」
 頬杖をし、目を閉じて聞いていたルギドが、かすかな笑いを洩らした。
「人間の口伝も当てにならない。あの地形は、俺の生まれる前からあのままだったのに」
 長老はいぶかしげに目をしばたいた。
「……畏王は、その破壊の本能の命ずるまま、他の大陸にいた諸国民たちも次々と滅ぼした。
残った魔族と人間たちは、そのとき初めて団結し、力を合わせて畏王を封印することに成功した。畏王は百年の間、彼の生地であるアスハ大陸の西に、新しく作られた神殿で眠ることとなった」
「百年?」
 アシュレイは問い返した。
「では、畏王はそれから一度復活したのですか?」
「彼の魔力と憎悪は、ありきたりの封印で封じられるほど生やさしいものではなかった。再び、世界の全生命を賭けた戦いが始まり、多くの日数ののち、畏王はふたたび封じられた。
皮肉なことじゃが、人類は畏王との戦いを通して、それまで一部で細々と研究されていたにすぎない「魔法」――この世界の四つの元素【エレメント】を呪文によって自由に操る術を、格段に進歩させたのじゃ。
魔族の魔力と人間の魔法との結合により、畏王は肉体を封印され、その憎悪のかたまりと成り果てた精神だけが、異次元へと駆逐された。
そして地上のすべての種族は、四つの城を四つの元素の神殿となし、封印の効力を永遠のものとしたのじゃ」
「だけど、長老さま」
 畏王の呪われた運命に身震いを覚えながら、アローテが問いかけた。
「なぜ、その時代の人たちは、畏王を殺さずに、封印して生かしておいたの?」
「たぶんそれは、畏王の持つあまりにも強大な力のゆえじゃ。彼を味方に引き入れる方法さえ見つかれば、その者は世界の覇者になることができる。
魔法の進歩のおかげで、急速な勢いで文明を発達させはじめた人間と、その他の種族――その頃には「魔族」と呼ばれるようになっていた――は、お互いに微妙な均衡を保っていた」
 痛ましげに、老人はうつむいた。
「彼らにとって、畏王の身体は、最終兵器とも言える意味があったのじゃ」
「ひどい……」
「それからの歴史は、人間の勝利の歴史として伝えられている。人間は魔法以外にも、他の種族にはない特性を持っていた。それは、個々が弱くとも、団結することによって得られる力を知っておったことじゃ。
それに対し、魔族は種族ごとに形態が大きく異なる上に、本質的に己のみによって立つ性質を持っておった。
さらに、魔族にくらべて人間は圧倒的に多産だったこともあろう。
人類はまたたく間に地上に増え広がり、魔族は森へ、山奥へと追い立てられ、次第に地下に隠れ棲むようになった」
「……」
「魔族は暗い地面の下で、ティトス帝国のころの栄華を思い、人間への憎しみを募らせるばかりじゃった。そこに畏王がつけ込む隙が生まれた。
人間がとうの昔に、畏王やティトス文明のことを忘れる一方で、魔族は異次元からの畏王の思念に呼応し、たびたび人間に反旗をひるがえした。そして長い戦乱の世が続き、最後には人間の勝利に終わると、畏王はふたたび数十年から数百年沈黙した。
その繰り返しの中、人間と魔族のあいだには、決定的な深い憎悪の記憶だけが澱〈おり〉のように残っていった。
勇者ゼリク率いる人間が魔族を鎮圧し、今の諸王国の基礎が築かれたのが五十年前。
この平和は三十年しか続かなかった。この二十年間の戦いの歴史については、わしが話すまでもないだろう」
 長老は、深々とため息を吐き出した。
「これがわしに伝えられたことのすべてじゃ……」


 

Chapter 17 End

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