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The Chronicles of Thitos
ティトス戦記


外伝 Episode 4
旧暦3639年 赤鳳月

§1


 アローテは湯浴みから上がると、ほっそりした腕を伸ばしてタオルを取り、濡れた顔と長い黒髪のまとわりつく首筋を丁寧に押さえた。
 ふと気づくと湯気に曇る楕円形の鏡に、自分の上半身が映っている。
 彼女はまっすぐに鏡の中の少女と視線を合わせた。ふたりの指先が、各々のふくらんだ乳房におずおずと触れていく。
 リュートがかつて微笑みながらからかった、まだ幼さから抜け切れない小さな胸。
 きのうの夜、酒場の隅で彼の隣に寄り添うように座ってお酒を飲んでいた、あの女(ひと)の豊満な胸元が目に焼きついて離れない。
 リュートは、あの人みたいな大人の女性でなければ見てくれないの?
 アローテの長い睫毛を震わせて、涙のしずくが一滴落ちた。


「アローテは具合が悪いんだって?」
 籐椅子のひんやりした感触を確かめるように、アシュレイは深々と腰を降ろした。
「ああ、連日のこの暑さだ。北国生まれの俺たちにはこたえるな」
 ギュスターヴが白いシャツの前をはだけて、ぐったりした様子で、不遜にも手に持つ魔導書で顔を扇いでいる。
「サキニ大陸は、乾季の終わりの今が一番暑いんだって、リュートが言ってたよ。サルデス兵士の中にも不調を訴える者が多いらしい」
「元気なのは、リュートひとりか……」
「自分の生まれ故郷だものな。暑さには慣れているだろう」
 アシュレイたちの故国のあるエルド大陸が、魔王軍の手から解放されてからはや半年。
 サルデス国内の平定に目途がつくと、彼らは数ヶ月前からサキニ大陸に上陸し、各地で敵を撃破していた。
 だが何と言っても、サキニ大陸は広い。
 おまけに、大陸中央部の分水嶺ペルガ山脈が奴らの手にある以上、攻守ともに困難がつきまとう。
 山脈の中央に位置する渓谷。そこに威容をもってそびえる天然岩の天守閣、魔王軍の力の象徴であるガルガッティア城。
 ここを陥落させるための長い戦いは、まだ始まったばかりなのだ。
 彼らはまず、エペ王国北部を中心に、都市や村々を解放していった。
 商業が国の基幹産業であり、大幅な自治権を商人や豪族に委ねているエペでは、王といえども族長のひとりであり、サルデスのような強力な軍隊を持たない。
 彼らが通り過ぎたあと魔王軍が舞い戻るという、いたちごっこのような事態を避けるため、アシュレイはまずサルデス王国の名代としてエペ国王に謁見し、サルデス軍二個師団の駐留を実現した。
 駐留軍のもとで、エペ王国北部は組織的な防御による平和を確保し、彼らは後顧の憂いなく、南部への連戦に向かった。
 こうして、エペ国内ほとんどの主要都市を魔王軍の手から奪回したのが、先月。
 今彼らは、一師団とともに、海を渡って反対側のペルガ王国にある。
 王都では彼らは、街の門にほど近く駐留軍との連絡の取りやすい宿屋の2階の数部屋を、ベルガ国王から貸し与えられていた。
 アラベスク模様の飾りのついた窓から下を見下ろすと、王都とは言え、この国の他の商都と同じく、狭い通りに屋台の喧騒と物売りの呼び声が朝から満ちている。
「リュートはゆうべも帰ってこなかったんだっけ」
「ああ」
 サキニ大陸のどこの都市へ行っても、リュートは有名人らしかった。
 街角のあちこちでハンター仲間から声をかけられ、酒場に行けば飲み仲間につかまり、恨みを買っているらしい輩にはけんかをふっかけられ、しどけない姿の女たちには抱きつかれるという、超多忙な日々を送っている。
「あいつも本当に、煩悩の多い男だよな」
 と、15歳のアシュレイにまで呆れられている始末だ。
「おまえもその年で、神官みたいに悟ったことを言うか」
「1年近くもリュートと旅をしてきてると、もう大抵のことには驚かなくなったよ。いっしょにペルガに来ている師団長のオルデュースは、僕の同期でかなり煩悩の多いやつだけど、それでもリュートに比べれば聖人だな」
「まったく、どこのどいつだよ。あいつを仲間にするなんて言い出したのは」
「おまえだよ、ギュス!」
「そんなはずはない! 断じて違うぞ!」
 ちょうどそのとき噂の主が、入り口のすだれをめくって入ってきた。


「遅れて……すまん」
 リュートは顎にうっすらと金色の髭を生やし、よれよれのシャツの袖を肩までまくりあげて、着古して穴の開いた綿のズボンといういでたちで入ってきて、巨大な剣を床に置くと、いきなり机の上に突っ伏した。
「頭……いてえ」
「二日酔いだろ」
「一週間飲み続けても、二日酔いっていうのか、おい」
 アシュレイとギュスターヴは、その頭上から氷のような言葉を浴びせる。
「あれ、アローテは?」
 しかめ面をようやく持ち上げて、リュートがたずねた。
「体調が悪いから、欠席するって」
「ふうん。大丈夫なのか?」
「アローテはもともと、体が弱いほうだからな。小さい頃は喉をぜろぜろ言わせて、しょっちゅうベッドに寝かされてたよ」
 ギュスターヴが答える。
「連戦と移動が続いたうえに、この気候で暑さ負けしたんだと思う」
「俺なんか、これくらい暑いほうが、体の調子はいいけどな」
 アシュレイはちょっぴり皮肉をこめた咳払いをした。
「じゃ、さっそく定例の作戦会議にうつるぞ」
 きびきびと机の上に地図を広げる。
「おとといも確認したとおり、このペルガ山脈全体に魔王軍の勢力範囲が及んでいる。山全部が奴らの基地と考えていいくらいだ。
15年前から奴らはあちこちで出没しては、数十から数百単位の兵で散発的に都市や村を襲ってきた。……そうだな、リュート?」
 リュートは、腕に顔をうずめて机の上に突っ伏したまま答えない。
 アシュレイはしかたなく続けた。
「ところがここ半年から数ヶ月のあいだ、今までと違う動きを見せている。大軍が巧妙に、組織的に各地を襲撃するようになった。
北部地方、特にトスコビという町からエペにかけては、ほとんど奴らに制圧されているという」
「敵に頭の切れる魔将軍が指揮官としてついたということか」
「それらしいヤツを目撃したという報告はある。その人の話では、細く背の高い、翼を持った魔物だということだが。くわしいことは不明のままだ」
「この横に細長い山脈のどこから奴らが出てくるか、わからんところが始末に悪いな」
 ギュスターヴのことばに、アシュレイがうなずく。
「うなぎの寝床のような長い防衛線を敷くわけにはいかない。かと言って、この地方には牧畜を営む小規模の集落があまりにも多すぎて、その全てに軍を派遣することもできない」
「守るに不利なら、先手必勝しかないだろうな」
「僕もそう思う。ペルガ山脈を両端から同時に攻めて、奴らの本拠地ガルガッティア城に後退させ、そこを一気に叩く。
分散している敵を各個撃破するよりは、確実だと思う」
「うーん。だが両端から同時にと言っても、そのためには……」
「今よりもっと多くの兵が必要だろうな。少なくともあと2個師団」
「サルデスからそんなに多くの軍を割けるのか」
「ルシャン陛下に打診してみないとなんとも言えないが……。不可能ではないと思う」
「ペルガ国王は何と言ってる? 駐留費用なんか分担してくれる気はあるのか?」
「エペ国王と同じく、及び腰なのは間違いないが……。交渉しだいだな。今が非常事態であることは、十分わかっておられるはずだ」
「……気にいらねえな」
 リュートが机に伏したまま、ぼそっとつぶやいた。
「え?」  アシュレイとギュスターヴは異口同音に彼の方をふりむいた。
「気に入らんといったんだ、まるで脅しをかけてるみてえにして、駐留軍を次々と送り込んでくる、てめえらのやり方がよ!」
「リュート……」
 彼は顔を上げると、静かな怒りを含んだ青の瞳で、アシュレイをにらんだ。
「この国には、この国に住んでる俺たちなりの戦い方があったんだ。サルデスみたいな大国からすりゃ、いい加減で組織なんて呼べねえしろもんだけど。
少なくとも、よその国の軍隊に土足で上がりこまれて喜んでる奴らなんて、この国にはひとりもいねえよ!」
「リュート」
 アシュレイは、険しい表情で彼に対峙した。
「おまえの言っていることはわかる。僕もこれが最善の方法だとは思っていないよ。
……でも、今の魔王軍のやり方は、昔とは変わったんだ。この国のハンターギルドのシステムでは、もはや大軍を率いてくる敵に太刀打ちできない」
「……」
「おまえだって、その目で見てきただろう。エペ王だってペルガ王だって、そのあたりをわかっておられるからこそ、各地の自治都市をまとめるという困難な仕事も引き受けてくださった」
「わかってる、わかってるけど」
 リュートは悔しげに、鏡のようになめらかな異国風の卓に拳をたたきつけた。
「それでも、やっぱり俺は気に食わねえ!」
「リュート!」
「もう俺を、軍議だの、こんな会議に呼ぶな」
 剣を手に立ち上がると、リュートは背中越しに、押し殺した声で言った。
「戦いのときは、何をおいても一番に出てやる。でもそれ以外は放っておいてくれ」
 彼の足音が荒々しく戸口に消えたあと、アシュレイはぐったりと椅子に寄りかかった。
「リュートの奴、毎晩飲んだくれていると思ったら、あんなことを考えてたのか」
「自分の生まれ育った土地だからな。理屈ではわかっていても割り切れん思いがあるんだろう」
 ギュスターヴは、そう言って肩をすくめた。
「もしこれが逆の立場だったら……、サルデスにどこかの国の駐留軍が押し寄せてきたら、たとえその建前がなんであれ、おまえも納得できんだろう?」
「ああ……、そうだな」
 アシュレイもしぶしぶ認めた。
「だが、そもそも戦争ということ自体が、理屈を越えた割り切れない状況なんだからな」
「俺たちの生まれたときから続いていることなのに、慣れるということはないな」
 ギュスターヴは鷹揚に微笑んだ。
「リュートともう一度、話し合ってみるか」
「うん……、その前に一度、オルデュースから説得してもらうよ。誠実な男だし、会話にも長けている。 何より、リュートと会ったときから馬が合うらしいし」
「煩悩の多い者同志、か?」
 ふたりはくすりと笑った。


 アローテは宿屋の自分の部屋で、ふたり掛け用の椅子にもたれて、今日何度目かのため息をついた。
 ゆるやかに踵までおおう、肌ざわりの良い部屋着のまま。胸を飾る小さなリボンを指でもてあそび、目に痛いほどまぶしい、窓の外の 南国の空を見るともなく見ていた。
 子どものころ見上げていた空は、もっと淡い色だった。
 ベッドの上から熱に浮かされた目で、こうやって日がな一日、粗末な木枠の窓をとおして空を見上げていた。
 ときどき窓の外から、ひょいとギュスターヴがのぞきこんで、「うわあ、熟れすぎたポワムみてえに真っ赤な顔だな」とアローテをからかった。
 お土産を持ってきてくれたこともあった。
 ヘビの抜け殻や、生きた蛙。彼女がキャアキャアと泣き声をたてると、楽しそうに笑っていた。
 アローテが一番うれしかったのは、彼が虫かごに蝶を捕まえてきてくれたときだった。
 輝くほど美しい、青い羽の蝶。
 ふたりは虫かごの前に鼻をつきあわせて、いつまでもうっとりと眺めていた。
 あの頃、自分は大きくなったらギュスのお嫁さんになるのだと、何も疑わずに信じていた。
 長老の直弟子になった彼のそばにいたい一心で、白魔法の勉強も必死で励んだ。
 ギュスターヴの隣にいるだけで自分は幸せになれるのだと、心の底から思っていた。
 つい、このあいだまでは。
「アローテ、……おい、アローテ」
 彼女は自分を呼ぶ聞きなれた声に、ふっと我に返った。
「リュート……? どこ?」
「ここだよ」
 目を丸くしているアローテの正面の窓から、リュートの日焼けした顔がにゅっと突き出してきて、窓枠に彼の両腕がかかった。
「びっくりさして、ごめん。元気か?」
「リュート、ここ、2階よ!」
 やわらかな裳裾を揺らして、アローテは窓に走り寄った。
 下をのぞくと、どうやら道端の屋台の日よけから、窓のひさしを伝って登ってきたらしい。長身の彼でなければ、できない芸当だ。
「どうしたの、こんなところから?」
 リュートは困ったように、白い歯を見せて笑った。
「いや、今ちょっと……、アッシュたちと顔を合わせられねえ雰囲気なんだ」
「けんかしたの?」
「まあ、ちっとだけな。男と男の生き方の違い、ってやつだ」
「いやだわ……」
「それより、おまえが夏負けしてるって聞いたから、これ食べさせてやろうと思って」
 リュートはシャツの懐から、黒っぽい楕円形の果実を取り出した。
「この時期にしか採れねえクラタスって果物だ。ちょっとクセがあるけど、水気があって肉や卵より栄養がある。夏負けにはこれが一番いいって言われてる」
 彼はアローテの両手に、ポンと乗せた。
「お、重い」
「皮が硬いけど、横に筋目を入れると、簡単に割れる。種は毒だから絶対に食うなよ」
「ありがとう、食べてみるわ」
 リュートは、彼女の頭のてっぺんを大きな片手でくしゃくしゃっとこすった。
「早く元気になれよ」
「うん」
「じゃあ」
「あ、あのっ!」
 アローテは考えるより先に、そう叫んでいた。
「何だ?」
「あの、今日はもう帰ってこないの? ……夜も?」
 彼は照れくさそうな笑顔になると、視線をそむけた。
「ああ、今晩も泊まりだ」
「わかった」
「じゃあ、な」
リュートは、羽でも生えているように軽々と飛び降りると、アローテのほうを振り返りもせず、走り去っていった。
 窓から身を乗り出すようにしてその後ろ姿を見送っていた彼女は、今度はドアのノックの音に物思いをさえぎられた。
「アローテ」
 ドアを開けると、立っていたのはギュスターヴだった。
 彼は奇妙な表情を浮かべているアローテと、その胸に抱かれている果実とを交互に見て、「どうしたんだ?」と灰色の瞳を細めた。
「今、リュートが来てたの。窓から」
「窓からぁ?」
「夏負けに効く果物だって、これを置いて、行っちゃった」
「ははあ」
 ギュスターヴは長い黒髪をしごきながら、彼女がさっきまで座っていた長椅子に腰かけた。
「けんか別れしたばかりだから、玄関からは入りにくかったんだな」
「いったい何で、けんかなんかしたのよ」
「大丈夫だよ。あいつのことだから、明日になればけろっと忘れちまうって」
 アローテは円卓の上に、黒いごつごつした果実をそっと宝物のように置いた。
「あのね、ギュス……」
「あ?」
「窓からリュートがのぞいたときね。ギュスが小さい頃、窓からお見舞いに来てくれたこと思い出しちゃった」
「あーあ。そう言えば、いろいろくだらないもの、持って行ったよな」
 子どものころの自分を自嘲するように、彼は椅子の背にもたれて笑った。
「そんなことない。とってもうれしかったもの。特に、あの青い蝶が」
「ああ、そんなのもあったな」
「しばらくして、いっしょに森の中に逃がしてあげたわね。ひらひらと木の上に飛んでいった」
 彼女は、そのときの美しさへの憧れとせつなさを思い出して、鼻の奥がつんと痺れるのを覚えた。
 そして、その蝶と同じ色のリュートの瞳を想った。
 リュートは、蝶だ。
 美しくて、奔放で、彼女の手からするりと逃げて飛んでいってしまう。
 なぜ、自分は彼に恋してしまったのだろう。
 子どものままでいればよかった。何の迷いもなく、ギュスターヴのそばにいることだけを願っていればよかった。
 アローテの大きな瞳から、次々と涙があふれ出た。
「お、おい。アローテ!」
 驚いたようにギュスターヴが叫ぶ声が聞こえる。
 子どものままでいたかった。こんな辛い恋をするくらいならば。
 嗚咽を止めるすべを知らず、アローテは両手で顔をおおって、いつまでもしゃくり上げた。


§2につづく


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