宮殿の庭を歩くときだけ、心が休まる。 本当は己に心というものがあるのかどうかも、わからなかった。教えてくれた人はいなかった。 日が昇れば目覚め、着ているものを取替え、食事を取る。 数人の人間が彼の世話をするために傍で動き回っているが、誰も話しかけない。時折り、怯えたように視線をそらす。それは、「王」と呼ばれている彼の父であっても、同じだった。 やがて日が暮れれば、床に着く。 1年のうち何回か、鎧を着て戦場に赴いた。雄叫びを上げて向かってくる異形の者どもを、斬り、引き裂き、溶解させる。 絶叫と悲鳴。彼の頭や身体をしとどに濡らす黒い物は、いやな匂いがした。 だが、ただそれだけのこと。 凱旋の行進も、彼にとっては何の意味もない。 成長するにつれ、いつしか己が他の人間たちとは違うのだということが、おぼろげにわかってきた。 楽しげにさざめく笑い声は、頭上を通り過ぎていく風のようだ。彼の前で、人々の笑顔はいつも凍りつく。 それが自分というものであると知れば、悲しくはなかった。誰も悲しむということを教えてくれなかったから。 冷涼なアスハ大陸の短い夏、宮殿の庭はいっせいに色とりどりの花が開く。 戦場と異なり、それらは甘く、よい香りがした。人の姿がめったに見えないことは、さらに心地よかった。 木々に囲まれた径をゆっくりと歩いていると、何かがトンと腕に当たるのを感じた。 「あ、お許しくださいませ」 小さな高い声を出したのは、小柄なひとりの娘だった。「お怪我はありませんでしたか?」 彼は気にも留めず、その場を歩み去った。 翌日同じところで、その娘が頭をうなだれ、胸の前で両袖を組み合わせて立っていた。 「昨日のお方、ですね」 彼女はおずおずと訴えるように言った。 「わたくしが無礼を働いてしまったこと、どうぞお怒りにならないでくださいまし。わたくしは、目が見えないのでございます」 「目が……?」 彼は、いぶかしげに娘の顔を見た。 「はい。見えません。ですから他の方の邪魔にならぬよう一日に一回この時間だけ、園丁をしている父に食事を届けるため、ここの径を通ることを許されているのです。どうか、あなたさま、お怒りを鎮め、お慈悲を垂れて、わたくしたち一家をお咎めにならないでくださいまし」 なぜ、この女は俺に話しかけているのだろう。なぜ他の人間のように、俺を怖がらないのだろう。 彼女の必死の懇願にも答えぬまま、彼は池に架かる赤い橋を渡った。 橋の上で振り向くと、少女は所在無げに元の場所に立ちつくしていた。 それ以来、彼は同じ時間にあの小径を通るようになった。 少女は、相手の男が無口なだけで、怒っているのではないことを悟ったらしく、ほっと安堵したようだった。 「私は陽斤の娘、亜麗【あれい】と申します」 数日もすると、彼がそばに近づく気配に笑みを見せるようになった。 「あなたさまは、須彌【しゅみ】王陛下に仕えておられる騎士のおひとりなのですか?」 彼は少し考え、「ああ」と答えた。 「隣国の邪悪な魔族との戦いは、近年ますます激しさを増していると聞きます。この国はだいじょうぶなのでしょうか」 彼女のことばの端々から、宮殿の外の人々が抱いている不安と困窮が伝わってくる。はじめて聞くことばかりだった。そして己の戦いがこの国を近隣諸国から守るという意味があったことも、学んだのははじめてだった。 毎日がとても早く過ぎていく。一日の時間のすべては、彼女と過ごすひとときのために存在しているようだ。 「目が見えないとは、どういうことだ?」 「わたくしは、目が見えるとはどういうことか知りとうございます。生まれてすぐの病で視力を失いましたゆえ」 彼女は、落ち窪んだ黒い瞳をせいいっぱい開き、空を見上げた。 「この世のすべてのものには、色があると聞きました。花の色は特に美しいと。あなたもそう思われますか?」 美しい。そんなことばは知らなかった。考えたこともなかった。 「美しいというのはとても柔らかくて暖かいものだと、勝手に想像することがあるのです。間違っていましょうか」 「いや」 そう答えるのがやっとだった。 「お衣の先に少し触れてよろしいですか」 頬を真っ赤に染め、ある日亜麗が言った。 池の畔をはじめて歩くのが、少し怖かったようだ。 長い袖の中から、いつもは隠れているほっそりとした指の先が現れた。その指が、彼の薄絹の衣にそっと触れる。風が訪れ、彼女の黒髪と彼の髪をさらさらとなびかせてゆく。 「長い髪をなさっておいででしたのね」 「ああ」 「何色でいらっしゃいますの」 呪われた銀の髪。まがまがしい紅の瞳。いつもそう言われてきた。 「銀色、だ」 「きっと、お美しいのでしょうね」 そう言って微笑む彼女の手は、柔らかく暖かかった。 美しいのは、彼女のほうなのに。 翌日いつものように庭園に来ると、亜麗が地面にひれ伏していた。 「おゆるしくださいませ。殿下とは知らず、無礼をいたしました」 ふたりが池の畔にいるところを、誰か見かけたのだろうか。それとも彼女が無邪気に、銀色の髪をした騎士のことを家族に話しでもしたのだろうか。 彼が腕を伸ばそうとすると、彼女はビクッと身を引き、ぶるぶると震えた。 「お慈悲を。……どうか、おゆるしください。もう二度とこの庭には近づきませんから」 亜麗の蒼白にゆがんだ顔に、見慣れた表情が貼りついている。ほかの人間たちと同じ、怯えと恐怖が。 目が見えないゆえに今まで知らなかったことを、彼女は知ってしまったのだ。彼が汚らわしい魔族の血を引く王子、狂気と殺戮の鬼、畏王【いお】その人であることを。 彼の胸に、溶岩のように煮えたぎるものが走った。 熱い。痛い。こみあげてくるものが止まらない。 なぜ「悲しみ」ということばを、誰も教えてくれなかったのか。 いやな匂いのする赤いものにまみれて、少女が音もなく倒れていく。 美しいと思ったのに、今はもう美しくない「もの」。咲き乱れる薄紫の花に隠れて見えなくなった。 彼は宮殿へと、きびすを返した。 ミンナ、目ガ見エナクナレバ、ヨイノダ。 そうすれば、誰も彼が畏王だということに気づかない。 殿下が乱心したという悲鳴が宮殿中に響きわたり、須彌は大勢の兵を率いて駆けつけた。 従者たちが両目を押さえて床でのたうち回っている中に、血に染まった銀髪の王子は無表情に立っていた。 父王は冷ややかに息子を見つめると、兵たちに振り向いて、ひとこと命じた。 「殺せ」 夕闇の忍び寄る宮殿に、やがて永遠の静寂の帳が降りた。 |