§1 「段差がある。気をつけて」 差し伸べられた固くて大きな手をはねのけ、ローブの裾をつまみあげ最後の石段から飛び降りて、見事に着地する。 「これくらい知ってる。12年前、お兄ちゃんやルギドといっしょに隅から隅まで探検したんだから」 つんと肩をそびやかして、さっさと先頭に立って歩き出す。 「そうかあ。リグのほうが、ガルガッティアのダンジョンは大先輩だったか」 怒りもせず、にこにこ笑いながら後ろからついてくるギュスターヴに、リグはずきんと心が痛むのを感じた。 ローダの港で、サキニ大陸行きの船に乗り込むときもそうだった。予期せぬ波が桟橋を大きく揺り動かし、バランスを崩した彼女はあわてて、手すりをつかもうとした。代わりにつかんだのは、ギュスの手。そのときもリグは思いきり好意を無視して、自力で梯子を駆け上がったのだった。 本当ならば、下っ端の魔導士の自分などがそばに近づくことさえ畏れ多い、雲の上の存在。ギュスターヴのお供で旅に同行できるなんて、およそ魔導士たる者なら誰だってあこがれるはずなのに。 ガルガッティア城への入り口でも、リグはまだ腹の虫が治まらなかった。 「ちょっと止まれ。通行証がない者には、図書の閲覧は許可できぬぞ」 エペ王国の砂漠さそりの紋章をつけた兵士が、ふたりを誰何したときも、ギュスターヴは、 「あれえ。通行証なんて持ってないや。弱ったなあ」 と、とぼけた口調で頭を掻いているだけなので、そばにいたリグは彼の態度に苛立ち、代わりにそのエペ人に向かって、放浪民族顔負けの言葉で怒鳴りたくなった。 「あんた、この人の顔も知らないの。新ティトス帝国皇帝アシュレイ陛下の専属宮廷魔導士にして、ユツビ村の長老であるギュスターヴ・カレル様を!」 怒鳴る寸前、「あっ」と声を挙げた兵士は、平身低頭して道を空けた。 「ギュスターヴさまだ」 ひそひそとささやく声。広いホールにいた誰もが畏敬の目で見つめるただ中を、ギュスターヴは表情も変えずに、黒檀の杖を右手に、濃緑のローブの裾を揺らして歩を進めた。 長老の位を得てから、彼は変わった。先代の老ユルバンから受け継いだ、長老だけに備わるという魔法力は、彼がもともと持っていた魔法力を幾倍にも高めた。呪文を詠唱するときの彼の灰色の瞳は、思わず視線をそらしてしまいそうなほどの険しさと荘厳さとに満ちる。 『ティトス史上最高の魔導士』という誉れが高くなればなるほど、ギュスターヴは物静かな、近寄りがたい男へと変貌していった。 本当の姿を知っているリグは、それが何とも癪に障った。 楽しかった冒険の日々。いつもルギドとけんかしたり、ゼダをからかったり、ジルやリグを膝に乗せて冗談ばかり言っていたあの頃のギュスターヴ。もう一度旅に出れば、元通りの彼に戻るかもしれないとひそかに期待していたのに。 厳寒のテアテラの都を出発して、五日目。彼らが最初に立ち寄ったのは、サルデスとの国境の森深くにひとりで住むアローテの小屋だった。 リュートの姿をしたルギドの霊体が消えてから2年近くが経つ。アローテはその間、ほとんど森から一歩も出ぬまま、ひっそりと暮らしていた。 「ジークとアデルは、先月から帝都の騎士養成学校に入ったんだってな」 ギュスターヴは大きな木のテーブルで、向かい合わせに座っている少しやつれた幼なじみを、いとおしげに見ている。 「うん、がんばってるみたいよ」 「こんなところに、ひとりで暮らしてて寂しくないのか? 帝都に移って、子どもたちのそばにいたほうが」 ううん、とアローテは微笑みながら、まなざしを上げた。 「ここにいるとね。『彼』の気配をときどき感じるの」 梢の葉のきらめきの間から。湖のさざなみの向こうから。 姿なき夫がいつも見守ってくれるのを感じるのだと、うっとりとした目でアローテは言った。 「だから、だいじょうぶ。心配しないで」 「そうか」 ギュスターヴはうなずいたきり、もう何も言わなかった。 辞するとき、彼の背中をアローテが呼び止めた。 「ギュス!」 「……なんだ?」 「ううん、今はいい。……あとで、手紙を書くから」 そのときのふたりの互いに見つめ合う様を思い起こすにつけ、リグは食事をするときも、寝るときも、呼吸ができなくなるほどの苦しさに囚われるのだった。 かつては魔王軍の重要な拠点だったガルガッティア城は、今は三万冊の古代ティトス語の書物を蔵する大図書館として、帝国直轄で運営されていた。 季節を問わず乾燥した熱風が吹きつけるサキニ大陸にあって、岩を掘り進んで地下に作られた広大なホールは、冷んやりとした空気に包まれた、まさに天然の書物庫だった。四方の壁にしつらえられた書棚は、古代ティトス以後の魔族たちが持ち込んだという膨大な羊皮紙やパピルスの書によって、ぎっしりと埋め尽くされている。 魔王軍との20年に及ぶ戦争が終わり、全世界に平和が訪れてからというもの、主にテアテラの魔導士たちをはじめとする、古代史を志す学徒たちが、巡礼のごとくこの学問の聖地をひっきりなしに訪れてくるようになった。 兄のジルといっしょにルギドのお供をして、ここを探索しに来たときのことを思い出す。硬い岩にもたれて、銀色の長い髪を燐光のような淡い青に輝かせ、見えない紅の瞳で朝から晩まで書物を読んでいた魔族。 恋ということばさえ知らなかった。大人になってかろうじて、あれが初恋だったのだとわかるような、淡く消えてしまうそんな想いだった。 「いつ見ても、すごい数の書物だ」 ギュスターヴが、壁や天井を見渡しながらつぶやいた。彼自身も幾度となく研究のために、ここを訪れている。しかし、今日の来訪の目的は、この図書館ではない。 思い思いの姿勢で、一心不乱に読書に没頭している大勢の人間の傍らを過ぎ、ふたりは一番奥の壁の前で立ち止まった。 リグが棚と棚のすきまに手を差し入れ、指を鉤型に曲げて、触れた凹みをぐいと引っ張る。 「最初にこの仕掛けを見つけたのは、私」 あのときと同じように、わずかな力を加えただけで岩の書棚がするすると動き始めた。氷室のような冷気が吹きつけ、行く手に石造りの階段がのぞいた。 有に十階層あると言われるガルガッティアのダンジョンは、ここから始まるのだ。 ガルガッティアは石灰質の岩が長い年月のあいだに川や地下水の浸食によって削られてできた渓谷だ。染みとおる水は、地上では王城のような岩の尖塔を出現させ、地下ではごつごつとした天然の洞窟をうがった。 古の魔族たちはこの天然の城を発見すると、何百年もかけて地上と地下と二手に掘り進み、自分たちの巨大な居地としたという。 「静かだなあ」 地下一階を過ぎて二階も過ぎ、三階に来たあたりで、リグの後ろからついてくるギュスターヴがのんびりと言った。 「帝都の鼓笛隊でも連れてきたほうがよかったかな」 朝夕の城の前庭での閲兵行事がうるさくてしょうがないと、ギュスターヴは以前こぼしていた。 「そして、入り口に閂を降ろして、永久にここに閉じ込めちまうのさ」 ダンジョンに入るときに彼が唱えた「灯かりの呪文」が、ふたりの移動に合わせるようにして、ゆらゆらと足もとを照らしている。 地下の坑道では不思議なことに、湿った土の匂いのする風がたえず吹いていた。水の流れがあちこちに穴を開け、風の通り道を作っているのだろう。風はたえず周回しながら、ふたりの魔導士のローブや長い髪をひんやりした手で揺らした。 四階を過ぎて五階に来たあたりで、またギュスターヴが口を開いた。 「古いダンジョンの中には、なぜ決まってお宝があるか知ってる?」 リグは無言のまま、首を横に振る。 「古代ティトスには神殿なんかの建造物を奉納するときに、神に武運長久を祈願する習慣があったんだそうだ。その奉納物として武器や装備を置いていく。戦勝の感謝のためにそうする場合もある」 ふたりは足を止めて、地面に落ちている、いかにも安物の鉄の長剣を見下ろす。 「これも?」 その傍らに横たわる人間の骸骨を指差して、おそるおそるリグが問うた。 「これは明らかに、盗掘に来て行き倒れたヤツの装備だろうなあ」 12年前にルギドと来たときには、こんなものはなかった。 そう言おうとしたとき、すぐ後ろからの甲高い叫び声に振り向いた。ここに住み着いた古の魔族が一万年もの間に知力を失い、ことばを忘れ、地を這う魔物と化した姿だった。 魔物は退化した小さな白い瞳をまぶしげに細めると、長い尾を地面に叩きつけて侵入者に飛び掛ろうとした。 「リグ、炎!」 ギュスの命令に、彼女はあわてて杖をかざし、炎の初級呪文を唱えようとした。しかし、喉からはかすれたふいごのような音しか発せられなかった。 とっさのことで、声が出ない。 思わず目を閉じてうずくまろうとしたとき、ギュスターヴの声が後ろからかぶさった。 「ボルゲンの火の山の頂より、来たりて我が力となれ!」 たちまちのうちに出現した業火に魔物は阻まれ、大火傷を負って岩の割れ目の中へと退散した。 「まあ、あれで懲りて、もう襲ってこないだろう」 頂に四つの封印の小石をはめこんだ黒檀の杖を下ろすと、首をすくめて震えているリグを引き寄せて、頭を撫でる。 「よしよし。怖かったか。久しぶりの実戦だったからな」 「ばかぁ。子ども扱いするな」 「こんなときでもないと、長老たる者、女の身体なんか触らせてもらえないからな」 リグはあわてて両手で彼を押し戻すと、先を急ごうとしてギュスターヴにとどめられた。 「待てよ。ちょうどいい頃合だ。ここで食事にしよう」 燃えるものが何もないのに、あかあかと火がともった。ギュスターヴが熾した魔法の炎は、周囲の黒ずんだ岩に含まれた方解石の結晶をきらきらと薄紅色に瞬かせる。まるで宝石のようだと、リグは頭の隅で考えた。 携帯用の食糧を頬張りながら、ギュスターヴは魔導士の心得を諭す。 「魔導士はいざというときのために、いつも声の調子を整えておかなくちゃならないんだぞ。しゃべりすぎて声を嗄らしてもダメだし、長い時間黙り込むのもよくない」 ギュスターヴはそのことを考えて、時折話しかけていてくれたのだ。そんなことも気づかず、自分の怒りにまかせて彼女は相槌も打たなかった。 「特にこんな場所では、水分や栄養を定期的に補給することも重要だ。「皮袋の最後の水は魔導士に与えられる」、と言われるのはそのためだ。俺たちの唱える呪文が、仲間の命を救うことを忘れるな」 「ねえ、ギュス」 リグはぼんやりと問いかける。 「どうして、私をこの旅に連れてきたの?」 「は?」 「ギュスは忙しい毎日の合間を縫って、わざわざ最上級の風の魔法を探しに来たんでしょ。私より優秀な呪文の使い手ならいっぱいいる。どうして、そういう人たちを連れてこなかったの?」 「あのなあ、リグ。あんな理由をおまえまで信じてたのか」 ギュスターヴは弱りきったように、頭を掻いた。 「あれはうるさい奴らを説き伏せるための口からでまかせ。おまえとふたりきりになるための口実に決まってるじゃないか」 リグは手に持っていたパンを取り落とした。 憂鬱そうに彼は続ける。 「こうでもしなきゃ、ここんとこおまえは俺のこと避けてるだろう。ずっとろくに話もできなかった」 「そんなこと」 首を何度も振る。 「私、避けてなんかいない。私を避けてるのは、ギュスのほうじゃない」 「どこをどう誤解したら、そうなるんだ」 「だって、……だって、じゃあ、どうして長老になったの?」 リグはうろたえるあまり、立ち上がった。 「どうして、私にひとことも知らせてくれずに長老様なんかになったのよ!」 杖をつかんで、彼女は走り出した。 走るだけ走って、つんのめるようにして立ち止まると、その拍子に堪えていた涙が一気にあふれ出る。 ギュスターヴが長老の座に就いたとき、リグは確信した。 彼は今でもアローテだけを愛しているのだと。彼女のことを忘れられないからこそ、一生独身を貫く道を選んだのだと。 どうして、こんな旅になってしまったのだろう。少しでもあの頃に戻れると思っていたのに。あの頃はルギドがいた。アローテがいた。アシュレイもゼダも、ジル兄さんもいた。そして昔のままのギュスターヴも。 みんなが家族で、哀しいことなんか何もなかった。こんなに苦しい気持ちを抱えることもなかった。あの頃の子どもの自分に戻りたい。 なぜ、みんないなくなってしまったの? 私ひとりをここに置いて。 「年寄りをあんまり走らせないでくれ」 35歳のギュスターヴは、息を切らせて追いついてきた。だが、涙をローブの袖で拭っているリグを見て、言葉をかけあぐねたように押し黙った。 「もう、出発していいか?」 リグは顔をそむけたまま、返事をしない。彼の口から、かすかに諦めを含んだため息が漏れた。 「じゃあ、このまま最下層まで休まずに行くぞ」 |