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Prologue
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どれくらい逃げ続けただろうか。 石灰質の岩と岩の隙間にごく狭い平地を見つけると、長いローブをまとった若者は、 引き絞った声で結界の呪文を唱えて、そのまま背中から滑り落ちるように昏倒した。 最後の魔法力を使い果たしたのだ。 呪文が発動し安全になるのを待ちかねて、残りの者もそれぞれその場に崩おれた。 長身の剣士は剣を鞘にしまうと、小脇に抱えていた少女の身体をそっと横たえる。 「ガ……ハッ」 その途端、激しく咳きこみ、胃液の混じった苦い血を地面に吐いた。 岩にぐったりと身体を預けていた一番年かさの若い少年が、半ば無意識のうちに 弱々しく片手を彼のほうにかざそうとした。 「よせ、アッシュ。俺はだいじょうぶだ」 腹部の傷を手で隠し、あえぎながら制した。 「回復呪文なら……」 と言いかけて、口をつぐむ。とっくに少年の魔法力が尽きているのを知っている。 そして何よりも、一番回復魔法を必要としていた人に、その必要がもうないことも。 「アローテ……」 それまで血糊と汗で顔にべったりとはりついていた彼の長い金髪がはらりと、横たわる少女の 顔にかかった。 少女の透き通る美しい白い肌はすでに冷たく血の気がなく、固く閉じられた瞼の奥の 黒い瞳も、二度と笑いかけることはない。 「リュート、すまん……」 アシュレイが苦しげな息の下から、低く呟きを洩らした。 「僕の判断ミスだ。まだ早すぎると……、ギュスは 反対したのに、押し切った。……高ぶってた。いけると思ってた。……あいつの力を……あれほど底無しの奴 だとは思ってなかった……」 世界の運命をその双肩に担わされたまだ16歳のリーダーは、その責任の重さゆえに、誰彼なしに詫びずには いられなかったのだろう。 リュートはそれに答えず、目を閉じた。今更なにを言おうと、負け犬たちの傷の舐め合いに過ぎない。 負け犬。 わずか6時間前、「奴」のいる最奥の間の扉を開け放ったとき――。 3日前、四王国の精鋭軍が血路を開いている間に、敵の本拠地に一歩を踏み記したとき――。 そして2年半前、打倒魔王を誓い、彼ら4人が集ったとき――。 いったい誰が今日の敗北を予想しただろう。 大小の魔物たちが、暗く静かな地底の棲家から突如として溢れ出し、人間を襲うようになった16年前。 時同じくして、名もなき神官が、魔王の降臨とそれを打ち滅ぼす勇者の誕生を予言した。 勇者の探索は、エルド大陸の南の大国サルデスの王が、わずか14歳のアシュレイ・ド・オーギュスティンに聖なる勇者の剣を下賜するまで続いた。 数ヶ月後、北の果ての魔導士の村として名高いユツビ村から、ふたりの魔導士が長老に送り出され、勇者のもとに やってきた。 黒髪を肩の上で切りそろえた年若き彼らのうちのひとりは、村一番の攻撃呪文の使い手、16歳のギュスターヴ。 もう1人は、アローテ。15歳ながら高度な白魔法を操り、その清楚な美しさは、国中の男性の感歎のため息をさそった。 さらにその1ヶ月後、名高い勇者を「ぶちのめしてやろう」と、背中に大剣を背負った剣士が現われた。 腰まで届く金髪を荷縄でぐるぐると縛り、サキニ大陸の放浪民族特有の粗野な物言いをする男。それが18歳のリュートだった。 伝説に残る3時間の決闘は勝敗つけがたく、そのまま剣士は勇者とともに行く決意をする。 こうして結成された4人パーティは、サルデスを皮切りに魔王軍を次々と撃破し、2年を過ぎた頃には、3つの大陸を人類の手に取り戻した。 過去には何かといがみ合っていた各国の王たちをひとつに束ねられ、全人類が残る1つの大陸の解放と、魔王軍の 殲滅に一致しようと誓約を交わす。 このとき誰もが、人類の最終的勝利を信じて疑わなかった。 ただ1人ギュスターヴだけが、いぶかしげに灰色の瞳を細めながら、「一体誰も魔王のことを見た奴はいないんじゃないか。どうしてこれで勝てると言える?」とつぶやいただけだった。 実際だれひとり魔王の姿を見た者も、その名前を聞いた者すらいなかった。 誰も、何も知らなかったのだ。 魔王には身体がなかった。幽体とでもいえる存在――。 物理攻撃は全くダメージを与えなかった。リュートの渾身の剣も、アシュレイの勇者の剣も、むなしく空を切るしかなかったのだ。 わずかにギュスターヴとアローテの中級呪文が効いたのみ。 アシュレイの呪文では歯が立たず、彼は回復役に回った。 リュートは何もできなかった。 仲間たちが魔法力の限界を超えているのに呪文を唱え続け、それでも魔王の前では海に砂を投げ入れるような戦いでしか ないのがわかっているのに後戻りできず、やがて愛する女性が雷撃に身体を貫かれて倒れ伏すのを目の前に見ながら、 彼は何もできなかったのだ。 「俺の剣は……いったい何だったんだ……」 リュートは声もなく笑った。 「奴には何も通じなかった。あんな奴だと知っていたら……。俺は、自分が一番 強いと、ばかみてえに思いこんで……。何も、できない、くせに、馬鹿みてえに……」 「リュート」 アシュレイが優しく子どもをなだめる母親の口調でささやいた。 「もう一度やり直そう。もう一回修行して……。強くなって、もう一度ここに来よう」 「何故?」 少女の遺体に屈みこんで項垂れていた剣士は、ゆっくりとかぶりを振った。 「何のために? アローテがいねえのに。 アローテが、いねえのに、なぜここに来るんだ?」 「何をふぬけたこと言ってるんだ!」 いつしか気を取り戻してふたりの会話を聞いていたギュスターヴが、突き抜けるような鋭い声を上げた。 「おまえは誓ったんだろう。 リュート! アローテの前で、きっと俺たちで平和を取り戻そうって、それから結婚しようって、アローテに誓ったんだよなっ! おまえは逃げるのか! 誓いを捨てて逃げるのか! そんな意気地なしと知っていたら、俺はおまえなんかに……アローテを……」 「やめろ。ギュス……」 アシュレイが力なく制した。 「少し……、少し、休もう。次は一気に地上まで出る。それまで少し……休もう」 ギュスターヴの作った結界は、魔法学校の1年で習うような初歩のものだったが、それでも数時間はもった。 その結界が消える頃に目を覚ましたアシュレイとギュスターヴは、リュートの姿がどこにもないのに気づいた。 アローテの遺体とともに。 ぬらぬらと地下水で濡れた石段を下っていく。不思議なことに4人で来たときはあれほど激しく行く手に立ちはだかった魔物どもが、今は一匹も見当たらない。 「敗残兵には雑魚でさえも見向きもしねえってことか……」 自嘲の呟きが、黒々とした洞窟の天井に吸い込まれて、消えた。 長い回廊を渡る。 おどろおどろしい竜の紋章を刻んだ厚い扉は、まるで彼を待ちうけるかのように開いていた。 その中は、たった今命からがら逃げ出したはずの、最奥の間である。 「……いるのか?」 アローテの身体を隅の円柱にそっと凭せかけると、彼は大剣を鞘走らせ、声の限りに怒鳴った。 「いるなら、出て来い! もう一度俺と戦え!」 剥き出しの傷口のごとき赤い岩肌が見渡す限り続く広間に、リュートの叫びは何度も何度もこだました。 答えはなかった。 力量の違いすぎる敵に全く黙殺される恐怖が、彼の魂を鷲づかみにする。 「聞こえてやがんだろ! 出て来い。今度こそてめえをぶちのめしてやる!」 こだまの消え去った頃、広間の奥にもやもやと霞のような光が現われた。光は、穹窿まで立ち上ると、容の定まらぬ 透明な塊となって、彼の前にそびえ立った。 これが先ほど彼らが相対し、毛ほどの傷も与えられなかった敵――魔王。 リュートは生まれて初めて足ががくがくと震え出すのを感じた。 […笑止] 魔王の語りかけは直接脳内に響いてくる。 [貴様の剣―― 何の役にも立たぬこと、身にしみておろう] 「うるせえ! 百も承知だ!」 彼は、柄にかけた両手に一層力をこめる。 「ただ、てめえにたったひとつの穴でも空けられたら、たった一度のうめき声でも聞けたら、俺はそれで本望だ!」 [ほう、死を覚悟したか] 「……」 [いや、違うな。貴様は死を望んだ。役立たずの無能な剣士として生き辱をさらすよりも、死んで逃げることを選んだのだ・・・…] 逃げる? 同じことをギュスにも言われたな。そうか、俺は逃げているのか。 アローテの死から。アローテを守れなかった自分への負い目から。 [そうではない] その考えは読み取られていた。 [貴様は恋人の死を悲しんでいるのではない。無力な己れ、弱い己れに絶望しているだけだ] 「何だと…?」 [あのやせた魔導士よりも、子どもの勇者よりも劣る自分を呪い、仲間を妬んだではないか] はらわたを素手で捕まれたような畏怖。 [今、貴様の心を占めていることは何だ?もっと力があれば――。もっと強ければ――] ……アローテを死なせずに済んだ。 [違う。まだ気づいておらぬのか。貴様にとっては世界の平和も、恋人のいのちもどうでもよいこと。 己れが誰よりも強くなる。最強の力をわがものとする。それさえ叶えば、貴様はすべてのものを投げ出す] 「ふざけるなっ!」 冷や汗が背中を伝う。大剣の切っ先が徐々に下がる。 「……確かに、これまでずっと強くなろうとしてきた。剣を極めるために生きてきた。でもそれは――」 [なぜだ?] ……なぜ? [愛する者を、力なき人々を守るため、か?] 淡い光の塊が、嘲るようにゆらめく。 [おまえの抱く愛は、さらなる力を欲するための口実に過ぎぬ。力なき者を守るのは、力ある者としての証明に過ぎぬ] 「……」 [我にはわかっていた。貴様は必ずここに戻ってくる、と。我の足元にひれ伏して、力を請うと] なぜなら、貴様は我と同じ魂を持つ者――。我が精神と最も共鳴する精神――。 [我、汝の肉体を欲す・・…・] 魔王の思念は、圧倒的な恍惚感をもって、彼の手足を釘付けにした。 「て……めえっ!」 [我に願え。恋人の命を。人間を超越した力を。ふたつとも貴様に与えよう] 「笑わせるな! 造物主でもないてめえに、そんなことがっ――!」 [我は偽らぬ。偽りは、狭量な魂を持つ人間と、その人間をいいように操る神々のすること。我は我が存在にかけて、偽りは言わぬ] リュートの身体は、糸のよじれた傀儡(くぐつ)のごとく、ぎこちなく魔王のもとに歩み出す。 ああ、こいつは嘘を言っていない。 俺は、力が、力が欲しいのだ。何にも負けない力を。 「アローテを生き返らせてくれるのか……」 [そうだ] 「俺に、力をくれるのか……」 [そうだ] 彼の内側を、彼らを見捨てた神に対する憤りと憎しみが、そしてどす黒い狂気が支配した。 「うわあああっっ!」 彼はその瞬間、造物主への信仰を捨てた。 「俺に力をくれっ! 最強の力を!」 [汝の望み、聞き届けたり――] 一条の光が打ち放たれ、リュートの全身を刺し貫いた。それは太陽のように眩しく、それでいて明るさを伴わない、暗黒の邪気に満ちた光だった。 地面に叩きつけられたリュートに、その光は生き物のようにまとわりつき、口から鼻から耳から彼の内部に入りこんだ。 最後の視覚が消え果てる前に、彼はアローテの方に首をねじった。彼女の胸がゆっくりと膨らみ、唇が微かに動く。 それを確かめるや否や、急激に意識は遠のき、死の静けさが束の間彼を包んだかと思うと、かって経験したことのない地獄の苦悶が襲った。 細胞のひとつひとつが軋み、割れ、別の物に変化する痛みの悲鳴を上げている。 正気を手放す直前、脳髄に「奴」の語りかけが反響して焼きつく。 [今より汝はまことの姿となる。……力を得よ。欲望を解き放て。すべてを壊し尽くせ。……汝は我が半身、……我が器] リュートたちを捜し求めるアシュレイとギュスターヴは、ついに最奥の間に続く回廊の床に、意識を朦朧とさせた、しかし確かに生きているアローテの姿を発見した。 不思議なことに、あたりからは魔王はおろか、魔物一匹の気配すら消えていた。 それから3日間にわたり、二大陸連合の大部隊が、打ち捨てられた魔王殿の隅々に至るまで、大捜索を行なったが、 リュートの身体を発見することはできず、ただ澱んだ地底湖の底に、彼が命の次に大切にしていた大剣が沈んでいるのが見出されたのみだった。 身体を覆っている薄い膜を内側から引き千切ると、どろりとした液体があふれ出る。 空気を求め肺が苦しげにあえぎ、起き上がろうとすると、関節がキシキシ音を立てる。 「イ……タ……イ」 何者かがすっと、彼の視界の端に入った。 『お目覚めでございますか。ルギド様』 大儀そうに眼球が動き、その者の姿を捉えた。黒いローブをまとった背の高い魔族が、片膝をついて拝礼している。 『まだ新しいお体ゆえ、無理をなさってはいけません』 ゆっくりと繭の中から這い出すと、自分の剥き出しの体が現われる。白い肌の下に黒い血流が浮き出て見える。尖った爪と、指と指の間の水掻きが、地面の砂をいらだたしげに握りつぶしている。 「オ……レハ……?」 『今までの記憶はわが王が封印なさいました。あなたはわが王の一人子、ルギド様。やがては魔族の長となられる方にございます』 彼は立ちあがり、身体を覆い隠すほど、うねうねと生き物のように伸びた銀色の頭髪を掻きむしった。 『何なりと、お求めのものを……』 「ハラガ……ヘッタ……」 『かしこまりました』 奥の扉が開かれると、食事の用意が整っていた。食べ物は、彼とその傍らの従臣を見るなり、「きゃーっ!」と、悲鳴を上げて失神した。 『さあ、お召し上がりくださいませ』 激しい飢えに突き動かされ、彼は餌に飛びつくと、鋭い歯で噛みつき、貪り食った。 |
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