新ティトス戦記 Chapter 26 |
千年のあいだ生い茂る樹木の陰にひそみ、人々の記憶の端にも昇らなかった【翠石宮】が、今や皇宮で一番にぎわう場所となっていた。 貴族たちは、新皇帝エセルバート三世に拝謁したあと、こぞって魔族の王ティエン・ルギドのもとに参じ、懇意を願った。あからさまにエセルバートのところを素通りして、【翠石宮】に詣でる者さえいた。 「奴ら、こちらがまことの新ティトス皇帝だとでも言いたげじゃないか」 玄関に渦巻く長蛇の列を押し分けて、ようやく中に入り、苦虫を噛みつぶしながら言うラディクに、ルギドは薄い笑みで答えた。 「帝国の千年体制の中では、ああいう時流を見極めるのに長けた者だけが生き残ってきたということだ」 「ああいう輩は、真っ先に切り捨てるべきだな」 「無論」 玉座の右と左には、ふたりの火棲族オブラとエグラが、揃いの軍服に巨体を押し込め、直立不動の姿勢で立っていた。その誇らしげな姿はまるで、玉座に彫られた二体の彫刻の獅子を思わせる。 「ところで、エグラ」 ラディクは、右側にいる魔族に顔を向けた。 「なぜ、俺がエグラだとわかった」 「だって、そうだろう? あんたが【炎の頂】の村の族長エグラ。そっちがサルデスの鍛冶屋オブラ」 「姫さんはもちろん、ジュスタンでさえ、我らを見分けられなかったのだがな」 オブラが、感心したように言う。普通の人間ではおよそ、この写し絵のように似通った兄弟の相貌を見分けることはできない。 兄のオブラは、帝国領内すべての魔族軍をまとめる軍団長。 弟のエグラは、テアテラ領の魔族軍を束ねる軍団長である。 ふたりが並んでここにいるということは、ティトス全土の魔族軍の指揮権が、この【翠石宮】に集まっていることを、如実に表している。 「で、エグラ。あんたの部下で、羽目を外して人間を食っちまった奴らがいるらしいぞ」 「なんだと」 ラディクのからかうような口ぶりに、テアテラ軍団長は色をなした。 「誰もが繰り出す祭りの夜、最初は二人、次の日は四人。死体が裏路地にころがっていたとさ」 ラディクは竪琴をぽろんと鳴らし、凄惨な場面を、まるで歌うがごとくに描写した。 「腹にはぽっかり穴が開き、あたりには血が飛び散って、あまりの酷さに正視もできぬ。 うるわしのパロスは皇帝のお膝元。警備は厳重。治安は完璧。殺人事件など、もう何年も起こったことがない。住民は、ふってわいた恐怖にパニック寸前。 ――で、そのあげくに、宮殿に駐留している魔族軍が、腹が減るあまり街に出て人間を食ったのだと、さかんに噂しているわけさ」 「そのような噂、根も葉もないこと。糧食はきちんと配給されている。行動は小隊ごとに行なっているし、夜の点呼を欠かさぬ。わが軍四万の中に一兵たりとも、そんな馬鹿げた行動を取る者はおらぬぞ」 「弟の憤慨はもっともだ、小僧」 兄のオブラが重々しく言った。 「千年前にルギドさまが下された、『人間を食らうな。人間と相和して暮らせ』という命令を、我ら魔族はずっと忠実に守ってきた。おそらく、食えと言われても、薄気味悪くて食する者はおらんだろう。今の時代、人間を食するという考えそのものが、魔族には遠い過去のものとなっている」 「だれかが、その過去を再現しようとしているのだろうな」 玉座の腕に片肘を乗せ、ルギドが物憂げにつぶやいた。 ラディクは王の顔にじっと視線を定めた。 【翠石宮】の回廊に飾られているレリーフが、脳裡に鮮やかに浮かぶ。 人間を食らう銀髪の悪魔、ティトスを滅ぼさんとする殺戮鬼。 ティトス歴代の皇帝たちは、ルギドをそのような存在だと民衆に教え込むことによって、自分たちの帝政に都合のよいように歴史を書き換えてきたのだ。 内蔵を食いちぎられた惨殺死体は、パロス住民の中に根深く残っていた恐怖心を、たちまち掘り起こしたことだろう。 「このパロス市中に、帝国と魔族との協調を、こころよく思わない勢力があるってことか?」 ラディクは、頭にひらめいたことを口にした。 「たとえば、オジアス侍従長。いまだにあんたに敵意を持っているみたいだぜ」 ルギドは首を振った。 「いや、オジアスの脳みそは、皇宮への忠誠心で岩のように硬直しきっている。どれほど俺たち魔族に不満を持っていたとしても、帝都内でそこまでの事を起こすことはなかろう」 そして、相手を試すように付け加えた。「もうひとりいるだろう、帝国と魔族の分裂を願う者が、身近に」 ラディクは、しばらく思いをめぐらせ、 「デルフィア候フェルナンド父子か!」 と叫んだ。 「確かに、ヤツならやりかねない。だが、デルフィア一行は戴冠式が終わるや否や、そそくさと本国に帰ったぜ」 「サルデス港行きの蒸気機関車に乗った随行員は、来たときよりも三人少なかった」 「三人の配下を、パロスに残していったのか」 ラディクはうなった。 帰途につく選帝侯一行の人数まで、ルギドが調べさせていたとは。 「あんたはもうとっくに、フェルナンドが何かをやらかすと勘づいていたんだな」 「勘などという、あやふやなものではない。これは単純な計算だ。――覚えておけ。積荷であれ人であれ、出入りするものに絶えず目を配るのは、防衛の基本だ」 両脇に立つオブラとエグラは、そっと目を交わして微笑んだ。 部下たちの前でも必要なことしかしゃべらず、まして謁見に訪れる有象無象に対しては終始冷ややかに接するだけのこの寡黙な王が、ラディクの前では饒舌になる。 ルギドが、この少年を後継者として育てようとしていると、軍団長たちには思えたのだ。 どれほど歴史の歯車が音を立てて回り始めても、ここだけは関係がなかった。四季を通じて花が咲き乱れる、この皇宮の内庭だけは。 忘却の楽園の主にとって、一日と一年には何の差もない。 いつもは、彼の世話をする侍女たちがそばに侍るのみ。だが時折、誰かが来て、彼を騒がしい場所に連れて行く。 周囲でせわしなくしゃべる宮廷の高官たちの中から、ときおり嘲るようなため息が聞こえることを、彼はいつも敏感に感じ取っていた。皇帝だとたてまつり、表向きの態度はうやうやしいが、みんな彼を小馬鹿にしている。 だが、言われたとおりに玉座に座し、耳打ちされたとおりの言葉を言えば、ここに連れ戻してくれる。だから、じっと我慢するしかないのだ。 そして、ふたたび時が止まる。悲しみも憂いもない生活が、また訪れる。 大好きなエリアルが来るのを心待ちにしながら、あずまやに座していた彼は、黒い古代風の長衣を身につけた大きな男が、庭に立つのに気づいた。 きらきらと陽光の珠をまとう銀の髪。浅黒い肌。目は、以前にウサギの歌を歌ってくれた吟遊詩人と同じ色だ。 彼はあわてて誰何した。 「……だれだ」 「お初にお目にかかる。皇帝陛下」 男は高貴な笑みをたたえながら近づき、彼の頭に無造作に片手を乗せた。それほどの長身だったのだ。 他のすべての者たちがするようにお辞儀をしなかったことに、エセルバートは少し気分を害した。 「なぜわたしに、拝礼をせぬ」 「貴方がそれにふさわしい器ならば、喜んでこの身を屈めよう」 相手の尊大な答えを聞き、皇帝は突然の恐怖に襲われた。この者は、この穏やかで平和な庭をいつか壊してしまう。そんな予感がしたのだ。 顔を引きつらせ、身をよじって逃げ出そうとする若者をなだめるように、男はなおも片手をゆっくりと動かした。 ついに額の傷跡に触れられたとき、エセルバートは思わずうめいた。 男の銀の髪が揺れ、体が蒼く光る。そして傷に触れた手は不思議なぬくもりを帯びていた。 触れられた場所の奥底で、何かがざわざわとうごめく。 戦の雄たけび、閃光。鋭い苦痛と真の闇。あとは、幼い頃の平和で、ひたすら慕わしい記憶。 彼の目から、理由のわからぬ涙があふれ、静かに頬を伝った。 「ここはまだ、死んではおらぬようだな。俺の目が死んでいるようには」 男は、彼の涙を尖った指先でぬぐうと、唇をそっと耳元に寄せた。 「それならば思い出せるはずだ。思い出せ。貴方の背負うべき重荷を代わりに負い続けているエリアルのために」 「エリアル……?」 その名を聞いて、エセルバートは思わずきょろきょろと、あたりを見渡した。 「――エリアル、どこ? エリアル!」 振り返ったとき、庭の中にあの男の姿はなかった。 「今のティトスには、白魔導士はひとりもいないのか」 玉座のルギドが物憂げに放った問いに、ジュスタンは面食らいながら答えた。 「おっしゃるとおりです。一部の防御魔法を除いて、前世紀に白魔法は絶滅しました」 「それはなぜだ?」 「白魔導士が誰よりも真っ先に、帝国内で迫害の標的にされたのです」 ジュスタンは古い乾いた怒りを思い出して、視線を伏せた。 「自然が汚され、エレメントの力が弱くなったことによって、白魔法の威力も次第に弱まっていました。代わりに発達した医学は、人間の体を切り刻み、機械の部品のように扱いました。そして、大衆にこう喧伝したのです。 『癒しの魔法は迷信であり、民の無知蒙昧につけこむまやかしである』と。 受け取る側に信じる心が失われたとき、もはや回復の力は働きませんでした」 「テアテラ国内でさえも、白魔法は生き残らなかったのか」 「百二十年前の指導者たちは、まだ帝国と事を構えるのを恐れていたのです。妥協の誓約が交わされ、白魔導士は魔法の使用と伝授を一切禁じられ、白魔法に関する書物はすべて焼き払われました」 「アローテがその光景を見たら、さぞ嘆いただろうな」 ルギドは、やりきれない思いでつぶやいた。アローテなら、おのれの誇りをかけて帝国に戦いを挑んだだろうか。それとも与えられた運命を静かに受容しただろうか。 「どうして、そんなことをお尋ねになるのです?」 ジュスタンが顔を上げた。 「エセルバートの頭の傷、白魔法なら治せるかもしれぬ」 「本当ですか」 「アローテがここにいれば、治せたはずだ。どんなにエレメントの力が弱まっていても」 ジュスタンは奥歯をぎりっと噛みしめた。 「千年前の白魔法とは……それほどの威力を持っていたのですか」 「俺も、死ぬほどの怪我を何度も癒された」 「レイアがアローテの記憶を取り戻せば、エセルバートさまを治すことができるとお思いですか?」 「わからぬ」 ふたりが沈黙に落ちたとき、ラディクが鼻歌を歌いながら、【翠石宮】の玉座の間に入ってきた。 「いろいろと情報を仕入れてきたぜ」 と言いかけて、ジュスタンがいるのに気づき、口をつぐむ。 ジュスタンとエリアルが庭で抱き合っていたのを見たあの日以来、チリチリと気まずいものが自分の心の中にわだかまっている。それが何故なのか、思い当たる術もないラディクだった。 「で、何の情報だ?」 そんな彼の様子を、ルギドは楽しげに眺めている。 「例の裏路地で見つかった死体の話だ。どうも腑に落ちない点がいくつかある」 「どういうことだ?」 「パロスの西と東で、ほぼ同時刻に殺されてるんだ。もしかして、犯人は二組いるんじゃないか」 「デルフィアの随行者は三人いる。二手に分かれているだけではないのか」 「死体の様子も明らかに違うんだ。同じく腹を割かれた死体なのに、一方はおびただしい血が流れているが、一方は一滴も血が流れていない」 「一滴も?」 ルギドは玉座から身を乗り出した。ラディクの言葉にひどく興味を引かれたようだ。 「死体の中には、一滴の血も脂肪さえも残っていない。干からびて、まるでミイラになってるというんだ」 黙って聞いていた火棲族の軍団長たちが、口々に叫んだ。 「それは人間のしわざではない」 「無論、魔族のしわざでもないぞ」 「帝都に潜伏している三人のデルフィア人については」 ジュスタンは、嫌悪に眉をひそめながら言った。「近衛兵たちにくまなく捜索させていますが、見つかったという報はまだもたらされていません」 ラディクとジュスタンは、ちらりと顔を見合わせた。 「夜になる前に、俺はもう一度パロスに出てみる」 「わたしも行こう。近衛兵たちだけにまかせてはおけない」 「エリアルは?」 「お知らせしないほうがいい。このような血生臭いことには関わらせたくない」 「決まりだな。さっそく出かけるぞ」 「待て」 踵を返して出て行こうとするふたりの若者を呼び止めたルギドは、すっくと立ち上がった。退屈な玉座から解放されたと言わんばかりに、喜色が満面に表われている。 「俺も行く。たまには外を歩かぬと、身体が腐ってしまう」 「えーっ」 不意打ちのひとことは、【翠石宮】にいるすべての者の肝胆を寒からしめるに十分だった。 パロスは白亜の街である。 初代皇帝アシュレイと妻のグウェンドーレンは、生まれ故郷をなつかしみ、ここをサルデス王都に似せた街として建てさせたのだろう。千年経った今も、その佇まいは昔と変わらず美しい。 「祭りの最後の日だというのに、存外静かなものだな」 「あんたが、静かにさせてるんだよ!」 祭りの提灯が風に揺れる石畳の坂を下っていく、銀髪と紅い目を持つ魔族。 その長躯を一目見たとたん、街の人々は凍りついた。ころげるようにして家の中に入り、扉と鎧戸を堅く閉めてしまう。 そんなことも意に介さず、ルギドは壮麗な寺院や公会堂を暢気に眺めている。 彼の後ろに従う吟遊詩人と魔導士が、呆れた様子で嘆息した。 「こいつ空気が読めないのか」 「……読む気がないんだと思う」 住民が魔族に食いちぎられて殺されたという噂を、もはやパロスで知らぬ者はなかった。わずか一ヶ月前には畏敬の眼差しで入城を迎えられた魔族の王は、ふたたび悪の具現者【魔王】として、その名を闇色に塗り込められたのだ。 その恐慌に震える街のどまんなかを、殺戮の容疑者本人が悠然と闊歩している。 お供をして歩いているジュスタンとラディクにまで、恐怖と嫌悪の視線の余波が容赦なく突き刺さってくるので、肝が縮む。 「ところで」 振り向いたルギドに、ふたりは顔を上げた。 「少し寄り道をするぞ」 「寄り道?」 彼の巧みな先導で、一行はあっというまに、目抜き通りからごみごみとした下町に入り込んだ。 道は狭く、祝いの旗の代わりに洗濯物のロープが軒から軒へとびっしりと渡されている。皇宮からは遮るものもなく見渡せる美しい青空は、ここでは細長く切り取られた天井画に過ぎなかった。 皇都パロスと言えど、千年にわたって貴族たちに搾取されてきた一般民衆の貧しさは隠しようもない。 汚れた服を着た子どもたちが歓声を上げながら路地から飛び出してきたが、ルギドを見ると、ぼうぜんと立ちすくんだ。そして、それぞれの母親らしき女に腕をつかまれ、たちまち、裏口から家の中に消えた。 あとは猫の子一匹通らない石畳。 さらに奥に進むと、よどんだ汚臭さえ漂う一角に来た。一軒の崩れかけた扉に、ルギドはためらいもなく体を押し込んだ。 「うわっ」 ジュスタンもラディクも、入り口を入ったとたん目を丸くした。 わずかな広さの店とおぼしき室内には、壁という壁にうず高く、古びたガラクタが積み上げられていたからである。革張りの豪奢な箱。柳で編んだぼろぼろの行李。そして鈍く光る、おびただしい数の剣や甲冑。 「すごい、なんだこれは……」 ラディクが手近なものに触れたとたん、ぶよのごとく埃が舞い上がった。 「帝国初期様式の武具があるぞ」 ジュスタンは咳き込みながらも、お菓子の誘惑に負けた子どものように目を輝かせて、堆積物に腕を伸ばした。 「もしかすると、焚書を免れた白魔導書がここにあるかも!」 その熱狂ぶりは明らかに、ギュスターヴ・カレルの子孫そのものだ。 「お客さん、ここは武器屋だ。魔導書などは置いてないぞ」 突き当たりに、煙った卓上灯に照らされた作業台があった。その上に身を屈めていた店主らしき男が顔を上げた。小人の地底族。その黒い顔に、驚きの表情が浮かんだ。 「おお、あなたさまは」 「サルデスの鍛冶屋オブラから、話は聞いていような」 ルギドは、奥に進んだ。「武器屋サルモン。預けておいたものはできているか」 「無論でございます。わが君ティエン・ルギド。幾日も徹夜で仕上げました」 店主の顔に刻まれた、長年虐げられてきた者だけが持つ深い皺は、今は喜びのためにいっそう深くなっていた。 彼がうしろの棚から取り上げ、恭しく差し出したものは、ひとふりのレイピアだった。細身でやや刀身の短い、刺突用の片手剣である。 柄にも鞘にも大粒の水晶がはめられ、薄暗い店内を澄んだ光で照らし出した。 受け取ると、ルギドはゆっくりと鞘から引き抜いた。現われた刀身も、やはり無垢の水晶でできている。 「みごとな研ぎだ」 「恐れ入ります」 鞘に戻すと、魔族の王は後ろに向き直って、ジュスタンに剣を差し出した。 「これを見たことはないか」 「いえ。でも、まさか【水晶のレイピア】ですか?」 「そう。ギュスターヴとリグのふたりが、ガルガッティアのダンジョンで手に入れたという謂れのある剣だ。占領したとき、テアテラ王宮の宝物殿奥深くにしまわれていた」 「これをわたしに?」 「水晶は、貴石の中では唯一、魔力を通じることができる物質だ」 ジュスタンは灰色の目を驚きに見開くと、かすかに震える両手でレイピアを押し戴く。 「では、わたしにこれで魔法剣を使えと――」 ルギドは微笑んだ。 「おまえには、その資格がある。これは俺の友ギュスターヴ・カレルが、子孫のために遺した剣だからだ」 ルギドの後に続いて武器屋の外に出たとき、街は血のような夕焼けに染まっていた。 頭から白い埃にまみれたジュスタンの姿を見て、ラディクは笑い出した。 「偉大なる黒魔導士は、これでめでたく魔法剣士に昇格だな」 「笑いごとじゃない、それがどういうことか、わかってるのか」 先に行くルギドの背中を見ながら、こみあげる思いに負けてジュスタンは歩みをゆるめた。 「この剣に【イリブル】の呪文をかけて、わたしはルギドとレイアを封印することになるんだぞ」 「……そうだったな」 「わたしにできるだろうか。本当に、それしか道はないのか。……なあ、ラディク。きみはわたしたちの戦いを歌った叙事詩を作っているんだろう? その終章は、いったいどういう結末になるんだ?」 「そんなことわからねえよ。俺にも」 ラディクは、きゅっと唇を引き結んだ。「だが、鎮魂歌にだけは、するつもりはない」 四つ辻に来て、彼らは立ち止まり、空を見上げた。 中央の丘にそびえたつ白亜の皇宮が、赤々と照らし出されている。パロス千年の栄光の歴史を見守り続けてきた美しい宮殿。 夜の闇に沈み始めた貧民街から見上げると、それは天国のように遠い別世界だった。 「なんとちっぽけな場所で、わたしはちっぽけな権力争いをしていたことだろう」 無念の思いを込めて、ジュスタンはつぶやいた。 「不思議だ。こうやって皇宮を下から見ていると、つくづく帝国は滅ぶべきだと思う」 ラディクはそれを聞いて、喉の奥を鳴らして笑った。 「内大臣ともあろうものが、爆弾発言だな。じゃあ、この数ヶ月何のために命をすり減らして、帝国を守るために戦ってきたんだ」 何のため――いや、誰のために。ジュスタンの答えは、聞かなくてもわかっていた。 「だが、同感だ。このあたりで帝国はいっそ、さっぱりとなくなったほうがいい」 「そうなれば、さっぱりするだろうな」 ふたりの若者は顔を見合わせて、笑いだした。 「今の話は、とても皇女さまには聞かせられねえな」 「最初の死体が発見されたのは?」 「この筋を一本入ったところだ」 寄り道をすませた一行が当初の目的のために向かったのは、帝都の西の端だった。先ほどの貧民街と同様、旧市街と呼ばれている古い地区である。 そこには、身の毛のよだつような光景が残されていた。 死体はとうに運び去られているが、石畳にも、周囲の塀や壁にも、おびただしい血が飛び散っている。 「ひでえ」 「まるで、大勢が殺し合った戦場だ」 さすがのジュスタンも、正視に堪えられず目を伏せた。「――姫さまがおられなくてよかった」 「ふん」とルギドは、鼻でせせら笑った。 「これが魔族の食事の痕跡だとは、ずいぶん舐められたものだ」 「確かに」 ラディクが相槌を打った。「わざと血をまき散らしているって感じだな。住民たちの恐怖を煽るため」 「フェルナンドの手下たちのしわざだと見ていい」 夜の訪れを感じとったジュスタンは、一刻も早く次の場に向かうようにふたりを促した。 「それで、干からびた死体が発見された現場というのは?」 「二箇所ある」 詳細な情報を集めてきたラディクが、静かな通りを歩きながら説明した。 「祭りの最初の夜――つまり、一昨日のことだが――街の反対側でひとりがミイラになって発見された。今の血だらけの現場とは、かなり遠く離れた地区だ。ふたつめは昨日の夜。見つかったとき、ミイラ死体は、ほぼ一区画の中に三つころがっていた。そのそばには血まみれの死体もひとつ。ほとんど同時刻に殺られた可能性が大きい」 「わからないな。二組の殺人者たちは、一夜目はまったく別々に行動していた。しかし、二夜目は協力し合うことにした、というのか」 足元に目を落としながら考え込んでいたジュスタンは、ぴたりと立ち止まった。 「ここが、その現場?」 「ああ」 白い月明かりに照らされた路地の奥には、おそろしい死の沈黙が漂っていた。 確かに、最初に見たような血の痕跡はまったくない。それだけに、不気味さはいっそう募った。 「おい、ぬめぬめと光るあれは何だ?」 石畳の上に夜光虫が張りついたようにキラキラと光る液体がこぼれ落ちていた。すさまじい異臭だ。 背を屈めて液体を見つめていたルギドが、空を仰いだ。 [イオ・レミト] 「えっ」 「[満たされぬもの]という意味だ。他の生物の体液を吸い尽くして、なお満たされぬ生命」 戦慄が、ぞわりと彼らの背筋を駆け抜ける。 「犯人は召喚獣だったのか」 「なぜ、召喚獣がパロスに。いくら祭りの騒ぎに乗じたところで、テアテラの手の者がパロスに入り込めるはずはありません!」 「やつらはパロスに入る必要はなかった。放った召喚獣が、警備の障壁をいとも簡単にすり抜けたのだ」 「イオ・レミトという奴は、自在に姿を隠すことができると?」 その答えを出すかのように、背後でなにかが動く気配がした。 路地の壁全体から液体が染み出るように、黒く巨大なヒル状の物体が姿を現わした。全身がキラキラと夜光虫のように瞬いている。その中央が口だろうか。唯一そこだけが真っ暗な深淵だった。 ルギドが瞬時に剣を腰から放った。 ラディクは竪琴を構え、歌うために大きく息を吸う。 そしてジュスタンは、ずっとローブの中で握っていた短剣を取り出して、鞘走らせた。 ちらりと刀身を見おろして、汗びっしょりになった手から反対の手へと、柄を持ち替える。 「行け。ジュスタン」 ルギドの落ち着いた声に答えてうなずくと、彼の灰色の目は水晶の輝きに負けぬ力をたたえた。 『蒼きラガシュ、天駆ける御者(のりて)なきいくさ車よ』 そのとたん水晶のレイピアは、まばゆいほどの青い光に包まれた。 夜更けの静かなパロス皇宮の中庭に、にぎやかな男たちの声が響き、驚いたエリアルは乳母の止めるのも聞かず、夜着のまま部屋から飛び出した。そのあとをゼルが続く。 「俺たちの五倍は飲んでるのに、なんで、あんたはしらふなんだよう」 「ばっきゃろ。俺にすりゃ、あれくらいで潰れちまうおめえらのほうが信じられねえ」 互いの肩によりかかったジュスタンとラディクは泥酔状態でふらふらだった。しかもふたりの顔は傷だらけ、衣服は薄汚れてぼろぼろだ。その後ろに、無傷のルギドが平然と歩いてくる。 「やあ、エリアル」 「エ、エリアルはま?」 「わはは、エリアルって、誰だぁ?」 呆れるを通り越して目眩さえ感じながら、皇女はなじるように訊ねた。 「……おまえたち、どこへ行っていたのだ」 「ちょっと厄介ごとを二、三、片づけてきた」 ルギドはしれっとした顔で説明した。 「あとは街の酒場を借り切って、おおいに飲んだ。最後の祭の夜にふさわしくな」 「街中の奴らに酒と食い物をふるまって、どんちゃん大騒ぎだぁ」 「す、すみません、内大臣の名で署名させられて、あとでパロスにすごい請求書が来ますので」 「ルギド、なんで街中の奴らの杯を受けて、あんたはしらふでいられるんだよっ」 「だから、てめえらとは器が違うって、言ってんだろ」 エリアルはその会話を聞いているうちに、むかむかしてきた。彼らの醜態に対してではない。自分だけ置いてきぼりにされ、楽しみに加われなかったことに、だ。 「いい気なものだ」 怒りのあまり頬を赤く染め、三人を、とりわけジュスタンをうらめしそうに睨む。 「皇宮では重大事が一度にふたつも起こったというのに。肝心なときに、ゼルを除いて全員いなくなるとは」 「そうですよ。ルギドさまったら、従者のおいらに何もおっしゃらないで出かけるなんて、ひどいです」 ゼルも、ルギドの回りを飛びながら、翼を打ち鳴らして抗議する。 ルギドはゼルの腹をつかみ、自分の肩に乗せると、エリアルに訊ねた。 「なんだ、その重大事とは?」 「ほう、知りたいか。では教えてやる。デルフィア候フェルナンド父子が、パロスに訪れたのだ」 「フェルナンドが? 三日前に帰ったばかりなのに」 男たちは息をのんだ。ラディクとジュスタンは、あわてて組んでいた肩をほどいて、神妙な顔になった。それを見たエリアルは、ちょっぴり溜飲を下げた。 「なにか厄介なことを言ってきたのか」 「いや、表向きは新皇帝への機嫌うかがいだった。裏で何か工作をするつもりだったらしいが、それは失敗に終わったように見えた」 「そのようだな」 ルギドは苦笑を噛み殺した。 「ほかには何を話した?」 「遠路はるばるといらしたのに、手ぶらで帰すわけにはいかないではないか」 エリアルは、大きな緑色の目をいたずらっぽく輝かせた。 「帝国との大きな商談を手土産に持って帰ってもらった。わが国はさらなる戦争準備のために、デルフィア産の質の良い硝石を大量に買いつけたいとな。その輸送のために、帝国軍一個師団をデルフィアに派遣し、駐留させることにした」 意味ありげに笑う。老獪な策士の笑いだ。 「これでフェルナンドのふところは潤うし、同時にデルフィアの動きを封じることができる。今一番避けねばならぬことは、デルフィアが不満を募らせ、亡命中のレイアの側につくことだからな」 「確かに。あの御仁の帝国への忠誠心は、羽根のように軽いからな」 「これでよかったのだろうか、ルギド」 「ああ、完璧だ」 魔族の王は柔らかく笑んで、彼女の髪をなでた。「よくやった」 エリアルは、誇らしげにうなずいた。 ジュスタンとラディクは、声を飲んで立ち尽くしていた。 そこにいたのは、今までのエリアルではなかった。女としての劣等感を乗り越え、帝国の支配者として成長しつつある、気品と威厳を備えた第一皇女だった。 「フェルナンドは、まだパロスにいるのか」 「ああ、今晩は皇宮の貴賓室に泊まっている」 ルギドは、ジュスタンに振り向いた。 「ちょうどよい。三人の随行者をデルフィア候に返してやれ」 「え?」 ジュスタンは、ぽかんとして問い直した。「どこにいるのです?」 「例の三体の干からびた死体だ。ゆうべ住民を襲い、血をまき散らしている最中に、その血の匂いに誘われた召喚獣に三人とも襲われたのだろう」 「ああ、さっきの場所で、まとまって見つかった四つの死体の理由は、そういうことだったのか」 ラディクは、大声で笑い出した。「道理で捜しても見つからなかったはずだ。小細工に熱中のあまり、自分たちまで命を落とすはめになるとはな」 「己の身をもって、真の敵を誘いだしてくれたのだ。むしろ感謝せねばならんな」 彼らの意味不明の会話に、エリアルはいぶかしげに問うた。 「さっぱり話が見えぬ。いったいどういうことだ?」 「あとで、ゆっくりとご説明いたします」 ジュスタンは口ごもった。「それで、もうひとつの重大事とは何だったのですか」 エリアルは、表情を強ばらせた。 「それが――」 彼女は頼りなげに、ルギドの肩のゼルを見た。 「放っていた水棲族の密偵から、報告が入ったのです」 代わってゼルが、神妙な口調で答えた。 「――亡命中のレイアの居場所を、ついに突き止めましたと」 ルギドはそれを聞くと、満足げに笑った。とっくにそのことがわかっていたように。 「ちょうどよい。後顧の憂いも断ったところだ。レイアには、召喚獣を送ってもらった礼をせねばなるまい」 魔族の王は、三人の若者をひとりずつ、射抜くような目で見た。 最初に出会ったときとは、まるで顔つきが違っている。 一年前、はじめて会ったときの彼らは、心を頑なに閉じていた。すべてに行きづまり、この世界に対して憤り、自己憐憫と猜疑心で満ちていた。 今、それらの影はきれいに拭い去られ、互いへのゆるぎない信頼と、開放感と、純粋な闘志がみなぎっている。 これならば、だいじょうぶだ。彼らなら、あとを託すことができる。 ルギドは、確信に満ちて宣言した。 「出発するぞ。テアテラとの長い戦いに決着をつけるために」 新ティトス暦999年冬。新しい千年紀(ミレニアム)を迎えんとする、記念すべきその時。 さらに激烈を極めた新たなる冒険の頁が、今まさに開かれようとしている。 第二部 終 |