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The New Chronicles of Thitos

新ティトス戦記


Chapter 28



 今なんと言った?
 三人の若者たちは、わが耳を疑った。


[わが兄弟。イオ・ルギド]
 確かに黄金竜の口から出たのは、そういう意味の言葉だった。
 混乱した感情の中で、いくつもの記憶が浮かび上がる。
 彼らが、最初に召喚獣と呼ばれる生き物に出会ったのは、テアテラ国境の水の洞窟である。
 あの時ルギドは、はじめて見たはずの召喚獣の名前を呼んだ――[イオ・エルハ]と。
 それ以来、いったい何体の召喚獣と出会ったことだろう。
 地底族の村、ミワナ炭鉱の坑道で押し寄せてきた親指ネズミも。テアテラ首都決戦のさなか、エルゲティの結界の塔で行く手に立ちふさがった不定形の巨大な化け物も。皇都パロスの路地裏で倒した、夜光虫の塊のようなゼリー状の物体も。
 ルギドはすべての名前とその特性を知っていた。
 その都度、いったいなぜかと訝る気持もなかったわけではない。だが、あっさりと「覚えていない」といなされ、重ねて尋ねることを頑なに拒否されたのでは、それ以上食い下がることはできなかった。
 もし召喚獣全部が、ひとつところで生まれ育ったのだとしたら。
 そして、この竜も、そしてルギドも、あの召喚獣たちと【同じ種類の生命体】であったのだとしたら。
 足元がすくわれるような考えに囚われ、彼らは一瞬、思考力を失いかけた。
[なぜ、こんなところに来た]
[呼んだのは、この地の人間ではないか]
[他の思考力を持たぬ【実験体】ならともかく、おまえともあろうものが、この程度の術に惑わされるものでもなかろう]
 口調は静かだが、ふたりの交わす言葉には、空気がぴりぴりと震えるほどの殺意が孕まれている。ルギドの肩にとまっているゼルは、しっかりと両足の爪で主のマントにしがみつきながら、ほとんど失神寸前だ。
[立ち去れ。ここは、おまえのいるべき世界ではない]
 ルギドが強い思念を放った瞬間、竜は長い首をもたげ、口をかっと開いた。広げた翼は、神殿の屋根を覆い尽くさんばかりだった。
 その凄まじい殺気に、最初に己を取り戻したのはエリアルだった。
「このまま一箇所に固まっていては、狙い打ちにされるだけだ」
 わずかな唇の動きだけで、ジュスタンとラディクに伝える。
「みんな。散開するぞ」
 三人は、竜の口から吐き出される蒸気にまぎれて、それぞれの方向に走り出した。
 巨大な生物は、身体の向きを変えることが苦手で、得てして死角が多い。彼らはばらばらに散ることで、四方からの攻撃態勢を整えたのだ。
 一番長身のジュスタンが、子どもの背丈ほどの段差を軽々とよじ登って、竜の後方に陣取った。その位置に立って背後の神殿の入口を覗くと、木々の根がからみ合ったような床の上に、無数の白骨が散らばっている。
 竜にとって、ティトスの人間も魔族も、食料にしか過ぎぬのだ。
 高度な知性を持ちながら、決して我らとは相容れぬ敵。その底知れぬ恐怖を、ジュスタンはあらためて肝に銘じた。
(いくら追いつめられたからと言って、こんな者を味方につけようなどとは、テアテラの連中は血迷ったとしか思えない)
 ラディクは、竜の右わき腹のあたりにうずくまり、そのうろこに覆われた巨大な壁をぼんやりと見上げていた。
 竜のことばを聞いた衝撃から、まだ立ち直れない。
 魔法の根源なることば。大いなる力を持つ響き。語るだけで世界を変容させる力。
 あれと同じことばで歌いたい。創世の力をこめた歌を、思うまま奏でたい。
 ラディクは魅入られたように、そればかりを思い続けた。
 エリアルは、ラディクの反対側に身を屈めながら、勇者の剣の柄に手をかけた。
 目をルギドの動きにじっと注ぎ、何か異変があれば、いつでも攻撃に移るつもりだった。
 だが、ルギドは戒めるようにエリアルに視線を注ぎ返した。
(戦うな)
 その目は、そう告げていた。
 ルギドは、黄金竜に呼びかけた。
[もう一度言う。立ち去れ。さもなくば、俺が容赦せぬ]
[フフ。この地を守ろうというのか。確かに、ここはおまえのために作られた世界―ー滅ぼすも滅ぼさぬも、おまえの一存でどうにでもなる]
[イオ・ラドム!]
 ルギドは、叫ぶが早いか剣を腰から放った。その怒りに呼応して、青い炎がマグマのように全身から噴き出す。
 竜は翼を広げた。指骨がばりばりと轟音を立て、その風圧でエリアルのマントはちぎれそうになり、もう少しで身体が吹っ飛ぶところだった。
[今のところは、引いてやろう]
 竜は空中に浮かび上がりながら、吼えた。
[だが、我を操ろうとした小癪な奴らには、礼をさせてもらう]
 宙に浮かび上がった足の鉤爪がすぼまったかと思うと、次の瞬間、口からすさまじい灼熱の炎が放たれた。
 炎は一直線に谷を越え、遠景の森を焼き尽くした。
 竜はひと声鳴き、そのまま高く舞い上がった。影が地上に一瞬の夜をもたらしたかと思うと、身をひるがえして一息に飛び去った。
 気がつけば、あたりは森閑と静まり返り、はるか南の空に竜の孤影が消えていこうとしている。彼らは安堵に呆けたように、その姿を見送った。
「まさか!」
 真っ先にジュスタンが、竜の最後の行動の意味を悟った。神殿の階段を一気に飛び降りると、燃えている森に向かって走り出した。ゼルは追いかけるように上空に舞い上がり、あとの三人も続いた。
 気球がひそむ場所が無事であることを確認すると、谷となって落ち込んでいる斜面をすべり降りる。
 そうやって道なき道を進み、ようやく竜の吐いた炎で焼き払われた森にたどりついたとき、彼らは言葉を失って、茫然と立ち尽くした。
 鼻をつく悪臭。そこに横たわっていたのは、何十もの黒焦げの死体だった。
 煤けた地面に、結界らしきものが描かれた痕跡がかろうじて見える。テアテラの近衛兵団の別働隊五十人がここに立ち、召喚獣を操るための呪文の秘儀を行なっていたのだろう。
 だが、最強の魔導士たちといえども、黄金竜を自在に操ることはできなかった。反対に、その怒りを買ってしまったのだ。
 五十の骸。顔が判別できるものはひとつもない。かつての仲間たちの変わり果てた姿に、ジュスタンは突然の憤怒に支配された。
「なぜなんだ。なぜ、ここまでしてレイアは――」
 谷を吹き渡る風以外、誰も答える者はいない。
「帰るぞ」
 鎮魂の祈りを唱えていたエリアルは、ルギドのぞっとするほど冷たい声に瞼を開いた。
「もう、ここに用はない。レイアを追って北に向かっている本隊に合流する」
「待て」
 踵を返した魔族の王を、吟遊詩人の厳しい声が呼び止めた。
「その前に、話していけよ」
「何をだ」
「あんたと竜との関係だよ。いったい、いつあいつと知り合った。なぜあいつは、あんたを『兄弟』と呼ぶ」
 ラディクは、燃えさかる不信の念を紅い目に宿し、ルギドをにらみつけた。
「あんたは――誰なんだ」


 生ぬるい風が、潅木を揺らしていく。とろりとした濁り水が、細波を立てるほかは、夜のオアシスの畔は静まり返っている。
 夕暮れの気流を巧みに捉えた気球が、元の基地に戻ってきたのは、つい先ほどのことだ。
 本隊出発後もあとに残って待機していた一個小隊が、彼らを迎えた。宿営地は、昨日まで風にはためいていたテントの海がごっそりと消えて、地面に無数の杭を抜いた跡だけが残っている。
 後続部隊の出立は、明日の日の出と決まった。
 戦いを目前に控え、落ち着いて過ごすことのできる最後の夜とあって、エリアルはオアシスの水を沸かして湯浴みの用意を命じた。
 遠征に出て五日。
 皇女としての特別扱いを断り、飽くまでも他の兵卒たちと同じように過ごすことを望んでいた彼女だったが、事ここに及んで、たったひとつ我が儘を言った。
 エリアルをそのように仕向けたのは、もうすぐ対峙するかもしれないレイアへの、ささやかな敵対心かもしれなかった。
 水の畔に座って夜空を眺めていたジュスタンの目の前に現れたのは、身を清め、光り輝くばかりの美しさをまとったエリアルだった。
 水気を含んだ長い金髪が風に揺れ、鎧を脱ぎシフォンの胴衣だけに被われた胸の豊かな丸みは、隠しようもない。若者は、魔導士のローブの下で身の内がたぎりそうになるのを感じ、あわてて目をそらせた。
 遠征の準備が始まってからというもの、皇女と内大臣は多忙を極め、ふたりだけになることは、めったにない。
 恋しい相手といったん思いを交わせば、女性の側は満ち足りるかもしれない。しかし男にとって、それは激しい渇望の始まりなのだ。今までとは攻守がまったく逆転したかのように、ジュスタンの視線は絶えずエリアルを慕い求めるようになっていた。
「おまえは、どう思う?」
「え?」
「私の言ったことを聞いていなかったのか」
 エリアルは苦笑しながら、彼の隣の砂地に腰をおろした。
「……すみません」
「レイアと戦うことで、頭がいっぱいなのはわかるが」
(違う。わたしは今、あなたを抱くことを考えていたんです)
 とは、さすがに言えない。
 ふたりはしばらく、黙って座った。砂漠の夜の冷気にさらされた身体には、昼間の熱を吸った砂は温かく、心地よい。
 エリアルがふたたび口を開いた。
「偵察隊が、今戻ってきたのだ。報告によると、山脈沿いに北部まで伸びる内陸部の鉄道は、ほとんど無傷のまま残っているらしい」
「本当ですか」
 意外な知らせに、ジュスタンの妄想は塵のようにたちどころに吹き飛んだ。
「テアテラは、サキニ大陸の線路網をずたずたに破壊したと思っていたのに」
「それは、エペ領のこちら側だけらしい。ガルガッティアのトンネルから向こう、ペルガ側はそっくり残っているそうだ」
「それは朗報ですが」
 判然としないものを残しながらも、ジュスタンは素早く計算をめぐらした。
「鉄道が使えるとなれば、海路と両方で、軍需物資の輸送が格段に楽になりますから」
「さっそく本隊に伝令を送り、放置されている車両の修理を工廠部隊に命じておいた」
「だが、なぜ奴らは鉄道を残したのでしょう」
 ジュスタンは眉をひそめた。「テアテラにとって、鉄道は機械文明の象徴。真っ先に破壊するべきものであるはずなのに」
 彼らの脳裡には、サルデスの車輌工場での死闘が思い浮かぶ。
「奴らも、鉄道が必要だったとは考えられぬか。信念を曲げてまで鉄道に頼らねばならない何かを運ぶために」
 エリアルは身を乗り出した。その拍子に、ふわりと石鹸の香りが漂う。
「大量の物資を……もしくは、とてつもなく巨大なものを、内陸から北に向かって運び出している?」
 ふたりは戦慄して、顔を見合わせた。
 彼らが同時に思い当たったのは、『召喚獣』という可能性だった。
 今朝目にしたばかりの黄金竜の偉容。あれほどではなくとも、まだテアテラの手には未知の巨大な召喚獣が残されている恐れがあるということか。
「――ルギドは、とうとう答えなかったな」
「はい」
 ラディクに『竜とどこで出会ったのか』と詰め寄られても、ルギドは何も話そうとはしなかった。
 「いずれ、話す」のひとことだけ。ラディクは怒りを露わにして、それきりルギドのそばに近寄ろうともしない。
「ラディクが怒る気持もわかるような気がします」
 ジュスタンはほうっと深いため息をついた。「わたしたちはルギドのことを、ほとんど何も知らない」
「初代皇帝アシュレイと大魔導士ギュスターヴが、詳しく書物に書き遺しているではないか」
「だが、彼らとて、十年足らずの歳月をともに過ごしただけ。彼のすべてを知っていたのでしょうか」
 疑い始めると際限がない。寄って立つ柱を失くした者のように、心の平穏が侵食されてゆく。
[滅ぼすも滅ぼさぬも、おまえの一存でどうにでもなる]
 あの黄金竜が言った謎のことばに、彼らはこだわっているのだ。
 もしかするとルギドは、このティトスを破壊するために誰かに造られ、送られてきた存在なのではないか。
 荒唐無稽な空想に過ぎないことはわかっているが、彼が[イオ・ルギド]――召喚獣と同じ響きの名を持つ存在だと知ったときから、その考えが頭を離れないのだ。
 竜の呼んだ名前には、明確な思念がこめられていた。

 イオ・ルギド――【光なき者】。

「言ったろう。私はルギドを信じると」
 言い切るエリアルのまなざしは、揺るぎがない。
「彼にティトスの未来を委ねると決めたのだ。おまえは、そうは思わないのか、ジュスタン」
「思います。ただ……『魔導士の本分は、目前の状況を疑うことにある』と、【大魔導士の書】にありますから」
 我ながら下手な言い訳だと思いつつ、ジュスタンは、すがすがしいまでのエリアルの信念に内心、驚きさえ覚えている。
 この方は、本当に強くなった。眼前のものごとを正確に捉える力と、地平線の彼方を夢想する力を併せもっておられる。
 ともに帝国の政治に関わってきた者として、一歩置いていかれた敗北感すらある。
 皇女と臣下という身分である限り、エリアルに抱く思いは、まず尊敬だった。そしてその気持は、この数ヶ月のエリアルの変貌を見れば、ますます募るばかりである。
 高貴で気高く、敵国の落人である自分などからは、遠くかけ離れた存在。
 しかし、同時に下碑た欲望も顔をのぞかせるのだ。彼女を自分のものにしたい。この柔らかい身体を組み敷き、ひそやかな場所をすみずみに至るまで征服したいという欲望が、まるで蛇のように鎌首をもたげる。
 それは、絶対にしてはならないこと。越えることのできない谷。だが、いつか理性が破壊され、谷をいともたやすく飛び越えてしまう瞬間が来ることを、ジュスタンは予感し、切望し、同時に怖れた。
 エリアルは、そんな彼の葛藤を知ってか知らずか、無邪気に彼の袖に腕をからめてくる。
 今、彼女に口づけてしまったら、途中で後戻りできない。この乾いた砂地に体を押し倒してしまったら、決して起き上がれないだろう。
 ジュスタンは降るような星を仰ぐふりをしながら、指先に力をこめて砂をつかんだ。


 二日後、機動力でまさる小隊は、大部隊にわずか数時間という遅れで追いついた。
 火棲族オブラとヴァルギス将軍の顔色は、冴えなかった。
「この地に着いたとたん、敵の先制攻撃に手ひどくやられましてな」
 負け戦の報告をすることほど、損な役回りはない。将軍に押し出されたオブラは、しぶしぶルギドの前に立った。
「しかも、場所が悪かった。こちらが体制を整え、反撃を仕掛ける頃には、敵は背後にある町に逃げ込み、完全に姿を隠してしまったのです。こちらが町の中心部を占拠しても、今のところ何の動きもありません」
 オブラが指差した方向には、古都トスコビがあった。
 ルギドも千年前によく訪れた、由緒ある商業都市である。緑の森軍のいた【北の森】を訪れるたびに、リュートはジークやアデルとともに何度か立ち寄り、商店で買い物をした。アローテが一緒のときもあった。
 往時の面影を残す美しい煉瓦畳の通りの突き当たりに、煤煙を吐き出す醜い工場群が黒々とそびえ立つのは、やむを得ぬ時代の流れだった。
「町の者たちも固く扉を閉ざし、出てきません。今から小隊をいくつか派遣し、一軒一軒しらみつぶしに調べさせようとしているところなのですが」
「引き上げさせろ」
「は?」
 ルギドは紅い目を眠そうに細めながら、軍団長たちに命じた。
「全軍を町から引き上げさせろ。迂闊に手を出せば、町の者たちが巻き込まれる。奴らは、トスコビの住民全員を人質に取っているのだ」
「しかし、それでは、どうやって敵魔導士軍団を捜すのですか」
 ヴァルギス将軍が異を唱えた。
「まさか、ウサギみたいに煙で燻り出すわけにも行きますまい」
「ほう。ウサギは、罠ではなく、煙で燻り出しても捕まるのか」
「わたくしの育った田舎では、そうやって子どもたちは小遣い稼ぎをしておりましたぞ」
 ルギドとヴァルギスの横道に反れた暢気な会話を、回りの者たちは辛抱強く聞いている。
「敵も永久に潜んではおられまい。二日あるいは三日もすれば、必ず行動を起こしてくるはず」
 ルギドは旧知に対するように、老将に微笑みかけた。
「それまで、全軍で街の周囲を蟻一匹這い出る隙間もなく包囲しろ。将軍、よいな」
「御意!」
 反射的に頭を下げたヴァルギスは、自分は絶対に皇女の命令以外は聞かぬと誓っていたことを思い出したが、すでに後の祭りだった。
 参謀たちが作戦本部のテントを出て行ったあと、ルギドは残った四人に、打って変わった矢のような視線を向けた。
「俺たちはこのまま、トスコビ市街に向かう」
「包囲して、敵が行動を起こしてくるのを待つんじゃなかったのかよ」
 不服そうなラディクに、ルギドは苦笑いした。
「あれは、軍を撤退させるための方便だ。手をこまねいて待つつもりなどない」
「なぜ」
「不必要な犠牲は出したくないからだ。俺たちの敵は、おそらくトスコビの市民だ」
 ラディクたちは、唖然とした。
「……どういうことだよ」
「奴らの操れるのは、召喚獣だけではないということだ。同じように人間や魔族も操ることができる」
「なんだって?」
「……精神操作の術」
「そういえば……」
 思い当たることがあるジュスタンは、絶句する。
 ユツビ村の礼拝堂に閉じ込められたとき。
 子どもたちは、幼子とは思えぬ力で彼らにむしゃぶりついてきたのだ。今思えば、あの子たちは、精神操作の魔法をかけられていたのか。
 同胞の子どもたちでさえ容赦なく犠牲にするテアテラ軍。ましてや、占領した他国の街の住民を捨て駒にして敵にぶつけてくることに、何のためらいもないだろう。
「俺は、敵を完膚なきまでに打ちのめす術は知っている。だが、敵を傷つけずに勝利する技は持たぬ」
 ルギドは、尊大に命じた。
「だから、あとはまかせた。おまえたちで何とかしろ」


 いつもは人々が行き交い、鳩がパンくずをついばんている平和な噴水広場は、不気味なほど静まり返っている。
 戦いに赴こうというのに、これほど気分が高揚しない状況も、そうはない。
「市民たちと戦うわけには、いかぬ。もし彼らが襲ってきたら、いったいどうすればよいのだ」
 エリアルが今さらこんなことを問いかけるのも、自信のなさの表われだ。
「できるだけ急所をはずして倒すしかないだろう」
 ラディクは投げやりな調子で答えた。
「わたしは、弱い雷撃魔法を唱えます」
 ジュスタンが言った。「うまくいけば、傷つけずに気絶させることができるかもしれない」
「だが、自分の身が危険になれば、俺は殺すことをためらわないぜ。命は惜しいからな」
「そんな状況にならないことを、祈るばかりだが……」
「ジュスタン」
 ルギドは腕組みをしながら、噴水の縁に陣取った。
「この時代には、絶対魔法防御呪文というものはないのか。それさえあれば、この町全体を結界に入れて、奴らの精神操作を阻むことができるのに」
 ジュスタンは、首を振った。
「【アンチ・マジック・シェル】は、最高難度の白魔法に属します。回復呪文とともに、すべての使い手は滅びてしまいました」
 そして、悔しげに歯噛みをする。
「私が使うことのできる【アンチ・マジック・シェル】はおそらく、本物の百分の一の威力しか持たぬ、まがいものに過ぎません。この世界でもし、【アンチ・マジック・シェル】の完全形態を使える生き残りがいるとすれば――たったひとり、アローテの記憶を取り戻したレイアだけでしょう」
「いずれにせよ、こちらには使えぬというわけか」
 ルギドは浮かない表情で、広場から放射線状に伸びる煉瓦通りを見やった。
 その脳裡には、千年前の辛い思い出が蘇っている。
 魔将軍アブドゥールによってサルデスの民数万が精神を操られ、ルギドの死刑台を取り囲む暴徒と化した日のことを。
「あの光景を再現しようとでもいうのか、アローテ」
 誰にも聞こえぬように、つぶやく。


 ラディクは苛立っていた。
 戦いの場に立つとき、何を歌うかを迷ったことは、ない。どんな未知の状況でも、自ずから適切な歌がほとばしり出てきた。
 敵を殺して良いのなら、ナイフも弓もある。だが、殺すことを禁じられた戦場で、ラディクに使える武器は歌だけだ。
 だが、今は歌うことを考えただけで、不安が募るばかりなのだ。
 ずっと、喉が大きな塊でふさがった心地を抱えている。【竜の神殿】で黄金竜のことばを聞いてしまったときから、そういう状態なのだ。
 歌いたくない。歌っても、何の力も生み出せないような気がする。こんなことは生まれて初めてだった。
 一本の通りを選んで歩き始めた。囮となり、敵を狭い場所から広場までおびきだすのは、仲間の中で最も素早い動きの取れるラディクの役目だった。
 人ひとり見かけない。静まり返った煉瓦の建物が両側に建ち並ぶ中をゆっくりと進んでいくと、世界の生き物すべてが滅び、自分がたったひとりの生き残りになったようだ。
 結局、俺は昔と変わらず、ひとりなのか。
 エリアルもジュスタンも今は遠い存在だ。昨日もこっそり闇にまぎれて寄り添っていたのを見かけた。
 ふたりの恋の進展について五月蝿くしゃべりまくるゼル。そして何よりも、自分の秘密を全く話そうとしないルギド。
 誰も彼もが腹立たしい。生まれて初めて仲間を得たと思ったのは、所詮は錯覚だった。
 突然、上から殺意を感じた。建物の二階部分から、彼を狙う執拗な視線を感じる。
 身を翻して物陰に隠れると、反射的に竪琴を構えた。
 いつもなら、それだけでよいはずだった。だが、ラディクはそのまま凍りついたように動かなくなった。

 声が出ないのだ。







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