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The New Chronicles of Thitos

新ティトス戦記


Chapter 34



「【鏡の迷宮】なるものが、この地下都市にあるなどという話は、聞いたことがない」
 ジュスタンの左腕の手当てを終えたエリアルは、彼の説明に思わず反駁した。
 自信をもって言い切れる。ここに来ることが決まったときに、あらゆる手立てを尽くして、千年前の発掘調査に関する資料や図版を集めてきたからだ。
「はじめからあったものではありません。おそらく、テアテラの近衛兵団が復活させたのでしょう」
 ジュスタンが忌々しげに言った。「城の一角に古代魔法専門の研究機関があることは知っていましたが、まさかここまで完成しているとは――」
「確かに、ここの氷はちょっと細工すれば、鏡に見立てるには打ってつけだな」
 ラディクは自分の手で氷の壁の冷たさを確かめると、うんざりした様子であたりを見回した。
「こんなところ、長居は無用だ。さっさと脱出しよう」
「じゃあ、おいらが上空から先導します」
 ゼルが言うが早いか、勇ましく舞い上がった。そしてすぐに、何もないなずの空間にぶつかって、ふらふらと落ちてきた。
「おい、だいじょうぶか」
「こんなところに天井があるなんて反則です。ここ、見かけと実体が全然違いますぅ」
「目を閉じたほうがいいな」
 ラディクが即断した。
「目で見ている限り、鏡の虚像に惑わされ続ける。手さぐりで脱出路を見つけたほうがいい」
「確かに。だが、脱出までに途方もない時間がかかるぞ」
「俺なら、大丈夫だ」
 相談がまとまらぬうちに、ルギドの銀髪がゆらりと揺れた。次の瞬間、エリアルは真横からの攻撃を受け、寸前のところでかわした。
「やめろ、ルギ……」
 言いかけて、口をつぐむ。それでは今のも、【鏡】の魔法による幻影だというのか。
「今この中に、誰かを攻撃した者はいるか」
 彼らは突然の恐怖にからめとられ、動きを止めて互いを見た。
「いや、誰も」
「今の攻撃は、俺たちではない」
 何十ものまばゆい鏡像の中で、ルギドの苛立った声が反響した。「この迷宮の中に潜んでいる、【鏡】の魔法を発動している者のしわざだろう」
「じゃあ、目を閉じれば、ますます俺たちは、無防備に敵からの攻撃を受け続けるということじゃないか」
 一歩も動けない。
 動けば、敵からも味方からも攻撃される恐れがあるのだ。自分の目で見るものを信じられぬ猜疑心は、想像以上のダメージを心に与えてくる。
 【鏡の迷宮】に囚われた者たちが、いずれ同士討ちを始めたというのも、理解できる。
「待て」
 エリアルが、あることに気づいて叫んだ。「テアテラ魔導士がこの迷宮の中に潜んでいるのだとしたら、彼らはなぜ惑わされずに、自分の敵だけを攻撃できるのだ?」
「敵は多分、ひとりなのです」
 ジュスタンが簡潔に答えた。
「ひとりならば、話は簡単になる。自分以外の者をすべて攻撃すればいいだけですから」
「じゃあ、こちらも、ひとりになりましょう」
 ゼルが妙案を思いついて、得意気に尻尾をぷるぷる動かした。「誰かひとりだけが攻撃役になって、あとの四人は床に転がって死んだふりをするのは、どうです?」
「そんな、まどろっこしいことはしていられぬな」
 ルギドは、腰の黒剣を鞘走らせた。左手にはすでに、炎の光球が握られている。
「ルギド、何をっ」
 あとの叫びは、爆音に融けた。
 煙が収まる間もなく、さらに次の衝撃波が襲ってきた。彼らは、轟音を背に駆け出した。
 凍てついた黒い敷石の上にへたり込み、互いの無事を確かめてから、ようやく後ろを振り返ると、【鏡の迷宮】は無惨なまでに崩れ、破片が星屑のような微細な光を放っていた。
「無茶苦茶だ、ルギド」
 エリアルはぜいぜいと息をつきながら、声を荒げた。「ここでは落盤に注意しろと、あれほど言ったのに……」
「だが、早く脱出できただろう」
 ルギドは平然と皇女を見下ろすと、剣を収め、奥を目指して歩き始めた。
「……そういえば、【大魔導士の書】にも《リグの書》にも、そろって同じような文章が書かれていました」
 ジュスタンは、うめくように言った。「ルギドは、ときどき何も考えずに行動することがある、と」
「……」
「【地の祠】という場所でも、今とそっくりなことがあったとか」
「やっぱりな。そういう奴じゃないかと思ってたぜ」
「第一、わたしには魔法力を温存しろと言ったくせに、自分はさっさと魔力の光球を使うなんて」
 嘆息している三人の前にゼルが舞い降り、口ごもりながら言った。
「それが……この迷宮に入ってからのルギドさまは、少しおかしいです」
「ほんとうか?」
「気が逸っておられるのはもちろんですが、魔力が高まり、それを制御しかねておいでのようです」
「レイアが近いからかもしれない」
 ジュスタンのつぶやきに、エリアルが振り返った。「どういうことだ」
「強い魔力を持つ者同士が、相手の存在に呼応してしまうのです」
「ルギドとレイアが、互いの魔力を高め合っている、ということか?」
 無言でうなずくと、ジュスタンは突然はっと顔を上げて、崩れた鏡の残骸に駆け寄った。
 黒いローブの切れ端が、見える。
 あわてて、いくつかの氷塊を手で取り除けたジュスタンは、現われた顔を見て一瞬、悲痛な面持ちになった。
「先生……」
 ゆっくりと立ち上がる。
「おまえの知り合いか」
 背中から、ラディクが声をかけた。
「私の恩師だった方だ。古代魔法の研究にも熱心で、魔法剣のことも、この人から最初に教わった」
「……そうか」
「これから戦う敵は、かつてわたしと寝食をともにした仲間たちばかり」
 仲間ばかりではない。血を分けて育った兄もいる。そして、己の半身と同じように大切だった【妹】も。
 振り返った魔導士の灰色の瞳は、非情なほどの落ち着きを取り戻していた。
「大丈夫だ。今さら、ためらうつもりはない」
「それならいい」
 ラディクは彼の肩を叩いた。「早いとこ、あのぶっとんだ魔王さまを追いかけるぞ」
 死者に鎮魂の祈りを結んでいたエリアルを最後に、彼らは次の闘いへと歩み出した。


 迷宮の名にふさわしく、この古代都市は行く者の方向感覚を狂わせる力を持っているようだった。
 西方神殿への真っ直ぐな大通りを歩いていたはずなのに、いつのまにか道は曲がり、蛇行し始めた。進めば進むほど、先ほどと同じような街角、同じような廃墟が現われ、既視感を募らせる。
 凍土の地層でできた高い天井からは、ときおり水滴がぽたりぽたりと落ちてくる。いつ崩落が起きるかわからない不安は、奥に進むにつれて息苦しさに変わった。
 エリアルは、すぐ前を歩く男たちを見つめながら、まるで脈絡のない夢の中を歩いているような感覚を味わっていた。
 私は永遠にこうして、どこかをさ迷い続けているのかもしれない。
「エリアルさん」
 ゼルは最前列のルギドのもとから戻ってきて、ふわりと彼女の肩に舞い降りた。
「どうしたんですか。さっきからラディクさんの方ばかり、ちらちら見てますよ」
「そうか。そんなつもりはなかったが」
「背も伸びちゃって、いつのまにか、いっちょまえの男になりましたよねえ」
「……」
 エリアルのちょっとした動揺が伝わったのか、ゼルはニヤリとほくそ笑んだ。
「ねえ、ラディクさん。エリアルさんが大事な話があるって」
「ゼル!」
 ラディクは胡散臭げに振り向いた。「なんだよ」
「気にするな。何でもない」
 彼を避けて、エリアルは四つ辻の真中で、迂回するように足を踏み出した。
 その足元の地面が、突然光った。
 円陣の模様がまっすぐ天井まで伸びる光を放ち、エリアルとゼルの体を包み込む。
「おい!」
 ラディクは思わず、ふたりに駆け寄った。
 目眩く感覚。


 おそるおそる顔を上げると、そこは先ほどの四つ辻とはまったく違う景色だった。
 石壁が見える。古い町の裏通りにあるような袋小路にいるのだ。
 そして、そこに寄り添うように立っていたのは、ラディクとエリアルとゼルの三人だけ。
「……どうなってるんだ」
 彼らはあたりを見回し、そして足元に目を落とした。
 そこには、四つ辻で光ったのと同じ模様の円陣が、消炭か何かで地面に描かれている。描いたというよりは、地面そのものに模様を焼き付けたような深さだ。
「魔法陣……」
「移動のトラップだ」
 ラディクは魔法陣をいったん出ると、ふたたび靴のかかとで模様を踏みつけた。
「くそ。動かない。一度きりしか作動しないようにできているらしい」
「元の場所には戻れないのか?」
「ルギドとジュスタンは今頃、俺たちがついてこないのに気づいて、ぶったまげてるだろうな」
 ラディクは黒い髪をくしゃくしゃと掻き毟った。
「くっそう。奴らの罠にはまった。ふたつに分断された上、こっちは見事に三人とも、魔法のマの字も知らない役立たずぞろいだ」
「なんとかして、早くルギドさまたちと合流しましょう」
 ゼルが落ち着かない様子で、せわしく翼を広げた。
「どうやって? ここがどこかもわからないんだぞ、俺たちには」
「大声で助けを呼ぶってのは? 案外、お互い近くにいるかも」
「敵に先に気づかれる危険を犯しても、か」
「そうですよね……」
「だが、このまま、じっとしていても仕方がない」
 エリアルが気を引き立てるように、提案した。「進もう。幸い、ここは袋小路だ。行く先はひとつしかない」
「ああ。そうだな」
 ふたりは歩き始めた。天井が低いため、ゼルは飛ぶことがむずかしそうだった。
 唇を引き結んだまま足を急ぐエリアルの後ろから、ラディクが声をかけた。
「ジュスタンのことが、心配か」
 彼女は小さく首を振った。「ルギドがついている」
「あいつも、当てにならないかもな。あの状態では、レイアに会ったとたん我を忘れそうだ」
 レイアの名前を聞き、エリアルはぎゅっと拳を固めた。
「ジュスタンは、大丈夫だ。決して惑わされたりはしない」
 分かれ道に来て、途方に暮れて立ち止まる。まったく違う場所へ移動させられたため、方向感覚がまるで働かない。
 「おいら、見てきます」と言って偵察に行ったゼルも、しばらくして憔悴した表情で戻ってきた。
「また分かれ道があって、それを行くと、また分かれ道があるんです。どっちへ行けばいいか、まるでわかりません」
「じゃあ、こっちだ」
 ラディクは反対方向に、自信ありげに歩みだした。
「見当がついたのか」
「いや、当てずっぽう」
「ラディクさんもルギドさまと同じくらい、何も考えてませんね」
 ゼルが呆れかえっている。
「紅い目の遺伝かな」
「あはは。そうかも」
 ラディクとゼルは、冗談で互いの不安を紛らわそうとしている。
「目印をつけておこう」
 エリアルは、腰のサックから小さな銀の紅入れを取り出し、指で遺跡の壁に紅を塗りつけた。「こうしておけば、二度同じ場所を通ることはない」
 ラディクは、見慣れぬ生き物を見たという目で彼女を見ている。その視線に気づき、皇女は顔を赤らめた。
「おかしいか。騎士の鎧に身を包んでいるくせに、紅を持ち歩くなど」
「別におかしくはない。俺には理解できないだけだ」
 ぶっきらぼうに答え、ふたたび歩き出した。
 分かれ道に行き当たり、ラディクはぐいと一方を選んで進む。エリアルから紅入れを受け取ったゼルが、印をつけながら後を追う。
「――俺が言ったことは、忘れていい」
「え?」
「船の上で言ったことだ。おまえのジュスタンへの気持は最初からわかってる。だから、俺があんなことを言ったからといって、気づかう必要なんかない」
「気づかってなどいない」
「それなら、いい」
 ふたりの会話を聞きながら、ゼルはこっそり悪態をついた。「思い切り気を使ってるのは、ラディクさんのほうのくせに」
「もうひとつ」
 ラディクは立ち止まった。「前から言おうと思っていた。あの聖剣のことだ」
「聖剣? 【勇者の剣】のことか」
「あのとき、俺の手であれが光ったのは――」
 突然、斜め前方に大きな爆発音と火の手が上がった。
 まるで打ち上げ花火のようだ。つづいて、またひとつ。
「なんだ、あれは!」
 三人は顔を見合わせた。「行くぞ!」
 場所がわかっても、そこへ行く道は見つからない。とりあえず、もうもうと立ち昇る煙を道標に、走り始める。
 しかし、再びその足は止まった。
 反対側から走りこんできた、黒いローブの十数人の魔導士に出くわしてしまったのだ。
 その中から進み出てきたのは、濃緑のローブ。テアテラの摂政ユーグ・カレル。
「よりによって一番、会いたくない奴に……」
 ラディクがうめいた。
「こんな隅の方にいらしたとは。我らが移動用に作った魔法陣に、無様にも嵌った、と解釈してよろしいでしょうか」
 楽しげに笑いかけながらも、背後の臣下たちには小声で鋭く命令する。
「おまえたち、先に行け。陛下をお守りするのだ」
 黒ローブの男たちは、道を折れ、姿を消した。その方向にレイアがいるのか。それとも、また別の魔法陣があるのだろうか。
 ユーグは杖の先を突き出し、ラディクたちの動きを牽制している。
「俺たちなんかに、かまってる暇があったら、さっさと自分の弟を倒しに行かなくていいのか?」
 ラディクはゆっくりと腰のナイフに手をかけながら、言った。
「そっちのほうがよっぽど脅威だろ?」
「いいえ、わたしが怖いのは、むしろあなたがたのほうですよ」
 ユーグは冷ややかに微笑みながら答えた。
「魔法の恐ろしさをまったく知らぬ愚か者のほうが、むしろ魔導士にとっては脅威なのです」
「ふうん、そんなもんかねえ」
 軽口の応酬の合間に、ラディクは仲間にささやいた。
「ここは俺が引き受ける。先にルギドとジュスタンのところへ戻れ」
「おまえひとりを残してか?」
「俺も隙を見て逃げ出す。こいつから一度に三人逃げるのは、無理だ」
 エリアルは、首を振った。「逃げたくはない」
「俺たちに勝ち目はまったくないぞ」
「だが、これ以上我々が分散すれば、まさに敵の思う壺ではないか。それくらいなら、力を合わせて一秒でも長く、この男をここに引き止めておくほうが得策だ」
 ラディクは皮肉げに、口元を緩めた。
「というより、こいつをジュスタンに会わせたくないだけじゃないのか」
「……」
「まあ、いい」
 ラディクは三本のナイフを抜いて、構えた。
「ティトス最高の魔導士に、俺たちの攻撃がどこまで通じるのか、試してみようじゃないか」


 後ろにいた仲間たちがどこへ消えうせたのか、まして、これだけの敵がどこから湧いて出てきたのか、まったくわからなかった。
 異変に振り向いたときには、すでにルギドとジュスタンは、周囲を黒魔導士の軍団に取り囲まれていた。
「どうします」
「無論、斬って捨てる」
「でも、姫さまたちの行方がわからない今、迂闊な戦闘はできません」
 敵と思って攻撃すれば、味方かもしれない。【鏡の迷宮】で得た苦い経験のせいで、つい及び腰になる。
「俺たちの攻撃を食らうような間抜けな奴らを、仲間にした覚えはねえ」
 剣を抜いたルギドは、無造作に言った。
 みなぎり始めた闘争心は、空気をぴりぴり震わせるほどに膨れ上がっている。目前の敵を倒すこと以外、もう何も考えていない横顔だった。
「しかたありません」
 すでに敵が、杖を構えて詠唱の準備に入っている。
 円陣を組み、わずかな時差を置きつつ呪文を唱える。いったんその輪に囲まれた者はどこにも逃げ場がない。
 【地獄の連鎖】。
 魔法学校にいたとき、生徒全員で何度も訓練した技法。
 ――確かに、逡巡している暇はなさそうだ。
 ジュスタンは、素早く雷撃呪文を唱えた。本来ならば、風のエレメントの弱い地下空間では、風の魔法を使うのは得策ではない。
 だが、派手な光を出したかった。もしかすれば、それがどこにいるかわからない仲間たちへの合図の狼煙となるかもしれない。
 緑の光は、狙いあやまたず、ルギドのデーモンブレードへと吸い込まれた。
 さらに間髪入れずに、ジュスタンは絶対魔法防御呪文【アンチ・マジック・シェル】を唱える。
 ルギドは剣をふりかざし、迷うことなく敵の一角に飛び込んだ。目が眩むほどの巨大な閃光と爆音が炸裂した。


 ひとりの敵を三人で取り囲んでいるにもかかわらず、狩り立てられているのはこちらだという気分は決して消えなかった。
 ユーグは杖を抱えこむように持つと、灰色の目を細めて、低いが澄んだ声で魔法を詠唱した。もし平和なときならば、その声音や仕草にジュスタンとの共通点を見つけることができただろう。
『アマエラよ、アマエラよ、空に舞う氷霜よ』
 ばらばらに散開していたのにも関わらず、ユーグの氷結呪文は三方向に飛んできた。
 小さなゼルですら、見逃されることはなかった。戦いの相手が持つのは、敵を徹底的に殺戮せねば生きてこられなかった者の冷酷な計算だ。
 三人は素早く避けると、すぐに反撃を開始した。ラディクは一本目のナイフを投げ、そのすぐ横から、エリアルが勇者の剣で斬りかかった。
 ゼルは、危険を冒してふたりの間を飛び回り、敵の目を撹乱させようと試みていた。
 床に置いたカンテラの灯に映し出されたのは、まるで狂った影の乱舞だった。
「驚きました」
 ユーグは、魔法の合間に喉を鳴らして笑った。「皇女殿下が、これほど剣をお使いになるとは。平和なときならば、レイアさまと良き僚友になれたでしょうに」
 相手を倒すことが目的ではない。
 目的は、ルギドとジュスタンがレイアに一歩でも近づけるように、少しでも長くユーグを足止めすること。そして、この戦いを生き延びること。
 ラディクは、ぎりぎりまで歌の力を使うつもりはなかった。最後の瞬間にユーグの虚をつくために、切り札は残しておく。
 氷の割れるつんざくような音。彼らの頭上を大きく外して、何本もの氷の刃が空気を儀仗兵の槍のように突き刺した。
「へたくそ。どこを狙ってるんだ」
 揶揄と同時に、ラディクは二本目のナイフを放った。
 ユーグは杖を突き出して、飛んできたナイフをなぎはらう。その動作の一瞬の隙にラディクは、魔導士の懐に身をかがめて飛び込んだ。
 手には三本目のナイフ。濃緑のローブの脇が大きく引き裂かれる。
 次の瞬間、互いの攻撃を避けて後ろに飛び、ふたりは大きく間合いを取った。
「ちっ」
 絶好のチャンスだったのに、手傷を負わせられなかった。思った以上に敵は素早く、体術にも優れている。
 ユーグは四たび、氷の術法を使った。今度は細いが、数え切れないほどの氷の針だった。
「ひゃ」
 ゼルはその一本に片翼を貫かれて、悲鳴を上げた。
「ゼル!」
 エリアルは自分の前に飛んできた氷針を剣で叩き落とすと、ゼルの体に手を伸ばして掴んだ。「私のマントの中に入っていろ」
 氷室に入る方がまだましなほどの、すさまじい冷気。魔族のゼルには辛い。
 次の攻撃に備えて息を大きく吸い込もうとして、ラディクは咳き込んだ。あたりの空気に、無数の氷粒が漂っているのだ。それが喉にひっかかる。
「そろそろ、完成だな」
 ユーグはそれまでの構えを解き、すっと背を伸ばした。「何を」と問う暇も与えず、彼は魔導士の杖を掲げた。
『ユ・クリムカム。氷の牢に閂を』
 異変を感じたときには、もう遅かった。彼らのいる地下都市の一角に、銀に光る巨大な立体魔法陣が出現し、彼らをすっぽりと包んだ。
 ユーグは、わざと攻撃をはずしていたのだ。そして、氷の刃と針を使って、それと知られぬ巧みな技で、精密な魔法陣を紡ぎだしていた。
 ラディクもエリアルも、そのマントにしがみついているゼルも、地面に縫い付けられたように動きを止まった。
 指一本動かせない。体全体が柔らかな繭の中にすっぽりと包み込まれてしまったごとくだ。
「少し手の込んだ古代魔法を使わせていただきました。あなたがたは決して逃してはならぬ敵でしたので」
 ユーグはうっすらと笑みながら、エリアルに近づいた。
 皇女の体は、長い睫毛までも凍りつき、すでに氷の彫像のようだ。
「このまま放っておいても、やがて冷気で心臓の鼓動が止まるでしょうが」
 魔導士の手には、途中で地面から拾い上げたナイフがあった。
「くっそ……」
 ラディクは歯をきしませながら、自分の武器が敵に使われるのを見つめるばかりだ。
「皇女の首をレイアさまの手土産にするのも、悪くありますまい。きっと、ガラスの花のようにもろく手折れるでしょう」
 エリアルの手にある剣をたやすく払い落とすと、かぼそい首筋にナイフを当てる。
 その灰色の瞳を間近で見たときエリアルは、一滴の水で穿たれるように瞬間的に理解した。
 無慈悲さの裏側で、この目の持ち主は、本当はこんなことはしたくないと叫んでいる。心の内側で、泣いている。
 極限の葛藤を逃れるために、この男はすべての感情を捨てて生きるしかなかったのだ。
「テアテラの……摂政……よ」
 エリアルは、寒さのせいでもつれる舌をなんとか操ろうとした。
「なぜ、そこまでして、自分を殺し、レイアに……仕える」
 ユーグは、ほんのわずか訝しげに眉をひそめた。
「あなたは、この戦いを……心のうちでは望んでいない。なぜ、そこまでして……レイアに? レイアは、あなたの父上を殺めた……張本人……ではないか」
 驚いたことに、そこまで聞くと、ユーグは人が違ったかのごとく大声で笑い始めた。
「レイアさまが、わたしの父を殺めた、ですと?」
 沈殿していた泥が突如として水面に浮かび上がるように、彼の目を暗い憎悪の影が覆いつくした。
 そして、その次に発したことばは、エリアルとラディクを完全に打ちのめすに十分だった。
「わたしの父、クロード・カレルを殺したのは、レイアさまではない。弟のジュスタンだ」
   






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