新ティトス戦記 Chapter 35 |
思考が停止しているのは、決して寒さのせいではない。 エリアルの胸に去来するのは、愛する男の、はにかんだような笑顔だけだった。 控えめで、それでいて豪胆で。 線の細さが目立つ肉体は、ローブの内側をまさぐれば、驚くほど逞しかった。 彼に口づけられるたびに、その唇の感触に酔い痴れた、あの至福の時を偽りだと疑えというのか。 ジュスタンがはじめから卑劣な裏切り者であったと認めよというのか。 「わが父を殺したのは、まぎれもなくジュスタンです。レイアさまではない」 ユーグはナイフを首筋に当てながら、彼女の気持をいたぶるように、はっきりと繰り返した。 「……なぜ」 「理由は、黄泉の国であいつに直接問うのですね。すぐに後を追わせますので」 エリアルの目から一しずくの涙があふれ、たちまち氷の糸と化した。 彼女のマントにしがみついていたゼルは、ありったけの力で両翼をきしませながら広げると、ユーグの顔を目がけて飛びかかった。 しかし、凍えた翼では速度は鈍かった。ユーグはいともたやすくゼルを払いのけ、壁に叩きつけた。 それまで、片隅でじっと動かなかったラディクが口を開いた。できるだけ喉が冷気の影響を受けぬように沈黙を守っていたのだ。 だが、もうそんなことは言っていられなかった。この凍りついた場所で歌える歌は何だ? 脳裏に、暖かい暖炉のイメージが浮かんだ。地面に倒れたカンテラを見て、とっさに浮かんだことばを、ラディクは鋭い声に乗せた。 [ウル] とたんに、消えていたはずのカンテラがぼうっと明るい光を放った。 そして、その炎は【束縛の魔法陣】を構成していた氷の網目に燃え移り、みるみるうちに空間全体が、オレンジ色の火に包まれた。 人や物を根こそぎ燃やし尽くすような現実の炎ではない。だが、それは魔法の氷すべてを溶かすだけの十分な熱量を持っていた。 「おまえ」 ユーグは驚愕の目を見開き、吟遊詩人を見た。 ラディクの瞳は幻の炎に照らされて、恍惚と輝き出るような真紅の光を放っている。 「おまえが【彼】の言っていた、【理想体】なのだな。それでは何故、あいつは――ルギドは、おまえを殺さない?」 敵の一瞬の放心を、エリアルは見逃さなかった。魔法陣は消え、体にかけられていた氷の束縛はすでに解かれている。 彼女は自分の首筋に押し当てられていたナイフの刃を、革の手甲で鷲づかみにし、力の限り押し戻した。 あまりにも素早い動きに、ユーグは反応できない。ナイフの柄で逆に自分の喉元を突かれ、のけぞった。 その隙に、エリアルは地面に落ちた勇者の剣を拾い、袈裟懸けに斬り上げた。 サルデス王国で千年以上前に編み出され、初代皇帝アシュレイによって皇室が受け継ぐものとされてきた正統剣術。皮肉なことに、エリアルの思考が麻痺していたからこそ、鍛えられた剣技が、躊躇なく真価を発揮したのだった。 「ぐわあっ」 ローブの生地が切り裂かれただけではない、肉の鈍く重い感触がエリアルの手に伝わった。 ひらめいた剣先から、紛れもない血しぶきが宙に飛び散る。 「く……」 ユーグは両手で胸を押さえ、前屈みになった。その顔は一瞬にして悪鬼のように尖り、引きつった。 『マダンの河岸にたゆたう霧よ、ミルトムの沼地を這う靄よ、我を隠せ!』 魔力をはらんだ霧が吹きつけ、彼らが思わず顔を背けた隙に、ユーグの姿はその場から掻き消えていた。 眩惑の魔法【ミスト】。元は白魔法の範疇に入っていた聖属性の防御魔法のいくつかは、白魔法の絶滅とともに、黒魔法の一部として残された。千年前に比べれば、その威力は及ぶべくもないのだが。 「エリアル」 呆然と立ち竦んでいた皇女は、温かいものに気づいた。それは、掲げている剣からしたたり落ち、彼女の指先から肘までを真っ赤に染めていた。一瞬、その生々しさに気が遠くなる。 「だいじょうぶか」 ラディクは彼女の脇に手を差し入れると、ぐっと体を支えた。力強い手だった。 エリアルはその手に身を委ね、泣きじゃくりたい衝動に駆られた。だが、現実が瞬時に戻ってきて、涙を堰き止めた。 「だいじょうぶだ」 エリアルは彼の腕を逃れると、叩きつけられたまま壁の窪みにしがみついているゼルをそっと両手で抱き取った。 「エリアルさん……ごめんなさい」 弱々しくゼルがエリアルを見上げた。魔族は、人間よりも寒さに弱い。その翼は痛々しくも傷つき、先端が折れていた。 「急ごう」 己自身の残酷な事実に向き合う前に、エリアルには帝国をあずかる者として、まず為さねばならない戦いがあった。 目を上げれば、ルギドとジュスタンがいるはずの戦場は、いまだに白煙を立ち上らせていた。 汗の玉が飛び散り、瞬く間に氷粒と化す。 対魔法戦とは、まず極限の状況と肉体との戦いだ。絶対零度と、紙さえ燃える高温の激突。すべてのものを刺し貫かんとする石柱と、生命を根こそぎ奪い去ろうとする烈風とのせめぎ合い。 今までとは違う。ティトスに連綿と伝えられてきた魔法を操る最高の魔導士たちに、もはや手加減する余裕はない。 ルギドの魔法剣の攻撃は、効果的に敵の魔法の連鎖を断ち切った。古代魔法に通じる近衛兵団といえど、その身に魔法剣を実際に受けたことのある者は、ひとりもいない。 魔法力を節約し、最小限の魔法防御呪文を唱えることのみに専心していたジュスタンは、突如訪れた静寂に、顔を上げた。 目の前に広がっていたのは、あまりにも凄惨な戦場だった。灯りがカンテラしかないことを神に感謝したくなるほど――それは、肉と血と骨のゴミ捨て場と化していた。 その場にうずくまり、こみあげてくる苦い胃液を必死で抑える。 さっきまで生きて魔法を唱えていたのは、ともに机を並べて勉学に励み、ともに実地訓練の激しさに弱音を吐きつつ、少ない食料を分け合った仲間たちだった。 彼らを倒さずには、レイアの元へと進めない。そういう戦いであることは覚悟していたのに。 「近衛兵団の残りは、あとどれくらいだ?」 剣の血糊を拭って鞘に収めると、ルギドは冷たく問うた。 「……多分、あと十人もいないと思います」 「そいつらも、さっさと片付ける。行くぞ」 容赦ない口調に、ジュスタンは我知らず逆上した。 戦いの場で私情に囚われてはならないことは、理解している。 彼らの死を悼んでくれとは言わない。だが、もう少し言いようはないものか。これでは、死んでいった者は、ただの石ころではないか。 ルギドはかつて、このラオキアの地で自分の部下たちの屍と戦ったことがあると、ギュスターヴの【大魔導士の書】に記されている。彼ほどの男が、慟哭のために、しばらくその場を動けなかったという。 ならば、わたしの今の気持がわかるはず。わかってくれてもいいはずだ――。 ルギドは足を止めて、座り込んだまま立とうとしないジュスタンを振り返った。 うんざりしたように見つめると、戻ってきて、彼のローブの襟をぐいとつかんだ。 「うわっ」 気がついたときには、もうジュスタンはルギドの肩に荷物のように担がれていた。 「まったく、世話の焼ける奴だ。何度俺に背負われたら気がすむ」 「お、降ろしてください」 「いやだ。時間がもったいない」 口調がぞんざいなものに変わった。「ああ、そう言や、ジークやアデルがヘソ曲げて泣いてるとき、よくこうやって背負ってやったな」 彼は何が可笑しいのか、大声で笑い出した。その広い背中を通じて、心地よい振動とぬくもりが伝わってくる。 「ま、待ってください。姫さまとラディクとゼルがどこへ行ったか――」 「同じ場所に向かっているのだ。いずれ会える」 反論をなくしたジュスタンは、ぎゅっとルギドのマントの襞をつかんだ情けない恰好のままでいる。 ちょうどそのとき、わきの路地からエリアル、ラディク、ゼルが走りこんできた。 「ほら、言ったとおりだろう?」 「ルギド、ジュスタン!」 突然の再会に浮き立つように叫んだエリアルが、最愛の人の尋常でない様子を見て笑みを強張らせた。 「ジュスタン、どうしたのだ!」 「い、いえ、なんでもありません!」 とたんにジュスタンは四肢をばたつかせて、わめいた。「降ります、降ろしてください!」 恥ずかしさに、耳たぶまで赤く染まっている。 「おまえたちこそ、いったいどうしていた」 ルギドは、真顔に戻って訊ねた。 「地面に仕掛けられた魔法陣に遠くまで飛ばされてしまったのだ。そこでユーグと会った」 「兄と?」 ジュスタンが叫び、ラディクが答えた。「エリアルが、手傷を負わせた。逃げられたが、かなりの重傷のはずだ」 「どちらの方向へ逃げたか、わかるか」 「たぶん、こっちです」 ゼルは、あたたまった翼をどうにか動かし、ふわりとエリアルの肩から舞い上がった。 「ユーグの手下の魔導士たちが、こちらへ向かっていきましたから」 ゼルの道案内とカンテラを頼りに、彼らはさらに奥を目指して出発した。 険しい表情で歩き始めたジュスタンを、エリアルは頼りなげな眼差しでじっと見つめた。 さっき、ルギドの肩に背負われている彼を見たとき、心臓が止まるかと思った。 もしジュスタンが本当に死んだとしたら、私は到底耐えられない。たとえ、どんなに裏切られても、叛かれても、私はジュスタンのいない世界では生きて行けないのだ――。あらためて、そう認めざるを得なかった。 「何も訊かないのか?」 ラディクの鋭い問いかけに、エリアルは首を振った。 「今は、過去を追及する時ではない」 引き絞った声で答える。 「ユーグの言葉は、我々をかく乱するための偽りだった可能性もある。たとえ偽りでないとしても、ジュスタンの行為には――きっと何かの正当な理由がある」 「わかった。おまえがそれでいいなら」 ラディクは、それきり口をつぐんだ。 急ごしらえの通路は、足場が悪く、今にも崩れ落ちそうだ。 それを抜けると、広い部屋が現われた。 一万年前は、宗教儀式のために使われていたのだろうか。聖堂を連想させるドームの天井や壁には、かつては繊細な彫刻を施された石の板が嵌めこまれていたのだろう。 今は大半が剥げ落ち、かろうじて残った装飾も、歳月の侵蝕のため凹凸をなくしている。 その鬱気に満ちた部屋の真中に、レイアは毛皮のマントに身を包んで立っていた。回りを取り巻くように、数人の女官。そしてわずかな近衛兵士たち。 ユーグが歩くと、その後に点々と血のしずくが滴り落ちる。それに気づいた女官たちは、「ひっ」と叫んで、互いに手を取り合った。 「奴らがやってきます」 息を整えてから、ユーグは静かに言った。 「奴らを食い止めていた近衛兵団は――全滅しました」 レイアはそれを聞いても、表情ひとつ変えなかった。 「おまえも怪我をしているのね」 「かすり傷です」 「手当てしなさい。それが終わったら、この者たち全員を連れて地下を抜け出し、テアテラに帰って」 「なんですと?」 「テアテラを再建するの。帝国の資力を最大限利用することによって」 「レイアさま」 ユーグは、珍しく気色ばんで訴えた。 「ここに侍るのは、死をもってしても、あなたから離れないと誓った者たちです。あなたを置いて行けるはずがありません」 「でも、邪魔だもの。あっさりと、敵に負けるような臣下なんて」 レイアは嘲笑まじりに答える。「私ひとりでも十分、敵を倒せるわ」 「二度と、同じ敵には負けませぬ」 ユーグは、激しく痛む胸を押さえて、声を荒げた。「この部屋に足を踏み入れたときを、奴らの最期としてみせます!」 彼の視線の先を読み、レイアは静かに背後を振り返った。 うしろの壁には巨大な機械が、なかば土に埋もれた状態で姿をさらしている。 ――【転移装置】。 透明な蓋に覆われた楕円状の機体は、明かりが規則的に明滅していた。永い時を経てなお、装置が機能していることは明らかだった。 「これは――使わないわ。召喚獣は必要ない」 硬い声で、レイアは答えた。 「なぜですか。それではどうして、ここへ来たというのです」 「どうしてなんだろう」 女王は、柔らかい裳裾を引きながら、ゆっくりと壁に近づいた。 「わからない。でも、ここが始まりの場所なのよ。私と、それから、あの大きな男の――」 ほっそりとした指で、なめらかな機械の肌をいとおしげに撫でる。 「紅い目の少年に会いました」 女王の物思いを断ち切るように、ユーグが続けた。「あれは、我々の恐れていた【理想体】です」 「知ってる」 「知ってる?」 「会いに行ったことがあるもの。【炎の頂の村】で」 「ではなぜ、そのときに殺さなかったのです。あれを【奴】に奪われでもしたら、取り返しのつかないことになる」 レイアは、その問いを黙殺した。 ユーグは傷ついた体が悲鳴を挙げるのもかまわず、大股で歩み寄り、小柄な女王の肩をつかんだ。 「まさか、自らルギドに屈するおつもりではないでしょうね」 冷たい灰色の瞳の奥底が、熾火のごとく燃えている。レイアは侮辱に頬を染めて、彼を睨み返した。 「そんなことはしない。私は必ず勝つ。あの男を殺すと約束するわ」 「わかりました。お望みどおり、他の者たちは去らせましょう。だが、わたしはあなたの元に残ります。わたしには、それだけの資格がある」 「……」 激情に駆られ、有無を言わせぬ手がレイアの顎をつかんだ。 「ずっとあなたの意のままに操られ、隷従してきた。だが、もうそうはいかない」 唇が触れ合う瞬間、ユーグはため息とともに囁いた。 「おまえを弟には渡さない。ジュスタンだけは、この手で殺す」 それは、【西方神殿】から、かなり東に反れた地点だった。皇帝アシュレイ治世時の発掘では、見過ごされていた区画だろう。 これだけの固い凍土を、わずか三日で数十メートルも掘り進むとは。帝国の鉄道網敷設を支えてきた最新の蒸気ショベルでも敵わない。最高の魔導士たちだからこそできた技だろう。 だが彼らとて、数百メートルのトンネルを、何本も連続して掘削することはできない。 人の魔法力には限りがある。昼夜突貫で疲れというものを知らぬ機械には及ばないのだ。 あらためてエリアルは、帝国がこの数百年たどってきた機械文明への大きな流れは、もはや止められないと悟った。 だが、少しだけ別の支流があってもよいのではないだろうか。機械文明と魔法文明との並走。いや、むしろ、機械と魔法の調和と融合。 そんなことは、可能なのだろうか。 (テアテラと和平を結ぶとき、まずそのことについて語り合おう。レイア女王と同じテーブルに着き、手を取り合って進む未来を、ふたりで選び取れたら) そこまで夢想して、エリアルは現実に引き戻された。 ――血にまみれた戦いが待つ現実へと。 「その突き当たりの扉の向こうから、光が漏れてます」 ゼルが押し殺した声で、報告した。「話し声はしません。静かです」 「いよいよ、だな」 ラディクは、事務的な口調で続けた。「ひとつ確認したいんだが、俺は何をすればいい?」 「レイアとは、俺がひとりで戦う」 ルギドが、すでに組み立てておいた戦略を説明する。 「ジュスタンは、【イリブル】を唱えるのに専念する。残りの連中はラディク、おまえに任せる。エリアル、おまえは詠唱中のジュスタンの身を敵から守ってくれ」 「おいらは、ええと、隅で邪魔にならないように飛んでいます」 ゼルは遠慮がちに言った。「そいで、全体を見渡して、危ないときは危ないって叫びますから」 「気をつけてくれ」 エリアルがほほえんだ。「これ以上傷ついてはならぬ。仲間を案じるあまり、自分の身を守ることも忘れてはいけないぞ」 「それで、ユーグのことだが」 腰のナイフを確認しながら、ラディクは素っ気なく言った。「――場合によっては、殺すことになると思うが、いいんだな、ジュスタン」 ジュスタンは、こっくりとうなずいた。「よろしく頼む」 五人は互いを見つめた。 これが最後の戦いとなるのだろうか。 「ルギド」 エリアルが、思わず叫んだ。 「本当に――レイアとともに、また封印されてしまうつもりか」 「何度も、同じことを言わせるな」 ルギドはうっすらと笑った。「それしか、あいつを止める方法はない」 「まず、私に話させてくれないか。もしかすると、レイアは――私たちが思っているようではなく」 「もう遅い」 うめくように、ルギドは言葉をさえぎった。 「あいつは、罪を犯しすぎた。もしアローテの心がどこかに少しでも残っているならば、俺にそう望むはずだ」 「そんなふうに決めつけていいのか」 ラディクは不機嫌に言った。「人は――自分の本心が出せるほど器用な人間は、そう多くない。みんな何かを隠して生きてるんじゃないか。俺にそう教えてくれたのは、あんただろう?」 ルギドは、黒い魔剣を静かに抜いた。 「答えを出すのは、戦いの中だ」 その横顔はすでに、遙か彼方の一点しか見つめていない。 「わかった」 エリアルは吐息をもらした。「みんな、準備はいいな」 剣士は刀の柄を握りなおし、魔導士は唇を湿らせた。吟遊詩人は竪琴を肩からはずし、飛行族は傷んだ翼を伸ばした。 「全ティトスの運命を決める戦いだ。神よ、我らを守り給わんことを」 扉が大きく押し広げられた。 |