![]() 新ティトス戦記 Chapter 36 |
もう何度も顔を合わせている。 最初は、【炎の頂】の村、族長の部屋で。 二度目は、魔族軍がテアテラ王都を陥落させたとき。三度目は、トスコビ港内の線路ぎわだったか。 だが、ルギドがこうして真正面からレイアを見つめるのは、初めてだった。 千年前、あれほど穏やかな喜びの中で胸にかき抱いた妻と、どこが違うのだろう。違いを見つけるごとに不安が募り、似た点を数え上げれば、さらに心もとなさが募る。 (俺はアローテのことを、どこまで正しく記憶しているのだろう。そもそも、俺はアローテの何を知っていたのだろう) 侵入者たちを迎え入れたテアテラ女王は、毛皮のマントをすっと肩からはずした。 その下は、襞の多いタフタの長衣。戦いに備え、くるぶしのところで裾をしぼってある。手には、抜き身の剣があった。 彼女は、入ってきた一団の中から瞬時にルギドを見つけ、彼にだけ目を注いだ。そのことが、ジュスタンの胸を刺した。 「ずいぶん待たせたわね。この寒さで心まで冷え切ってしまったわ」 レイアは、優雅で蠱惑的な笑みを浮かべた。「もう絶対に容赦しない。おまえの心臓を細かく切り刻むまで」 答える代わりに、ルギドもマントを脱ぎ捨てた。その腰にある剣にはまだ手をかけない。 部屋の隅に屈みこんでいた摂政ユーグがすっと背筋を伸ばし、魔導士の杖をかかげてレイアを隠すように立った。 「どいていろ。小僧」 ルギドは、レイアに視線を定めたまま、牙を剥き出して叫んだ。その紅い目は、もはや何者をも立ち入らせぬという意志に満ちている。 「あんたの相手は、この俺だ」 幼児をなだめるような、からかうような調子で、ラディクがユーグに呼びかけた。「さっきの遊びの続きを、やろうぜ」 「ジュスタン」 間近で聞こえるエリアルの鋭いささやきに、ジュスタンは我に返った。 あれほど強く決意したのに、己がいつのまにかレイアに集中力を奪われていたことに気づく。 あのふっくらとした唇に。ゆっくりと上下する瞼に。肌の下で小動物が隠れんぼしているような鎖骨に。 どれだけ口づけたいと願っていたことか。 兄ではなく、このわたしが――父ではなく、このわたしが。 「ジュスタン!」 さらに激しい口調に、ふたたび物思いは引き裂かれた。 「時間はない。【イリブル】を唱え始めろ」 「……はい」 「そのようなうわの空の状態で、呪文が唱えられるのか! しっかりしろ」 蒼ざめた顔が迫ってきたかと思うと、自分の頬が鈍い音を立てた。 打ったほうが、痛みに耐えるように涙を浮かべている。 「エリアルさま」 「辛いのは、知っている。だが、おまえしかいないのだ」 「……わかっています。わたしにしかできないことです」 ジュスタンは、短く息を吐いた。そして皇女の目を真っ直ぐ見つめ返しながら手を軽く握った。 「一時間、トランスに入ります。その間わたしを守ってください」 「ああ」 ジュスタンは決然と背を向けると、杖を掲げ、目を閉じて直立不動の姿勢になった。 数秒後、彼の横顔には、何かに取り憑かれたような陶酔の表情が浮かんだ。 『アダロンの彼方より吹き来る風を迎えよ。生きとし生ける者たちよ。波頭よ。森の梢よ。山の頂よ』 呪文とともに、彼を中心とした光の柱が出現した。古代文字と絵模様がゆっくりと回転しながら、浮かんでは消える。 生命封印魔法【イリブル】の詠唱が始まったのだ。 それが完成する一時間後に、戦いもまた決していなければならない。 敵は、女王レイアと摂政ユーグのみ。数十人いたはずの近衛兵と女官たちは、すでにこの場を去っている。 ジュスタンを扇の要として、四人は広間いっぱいに散開した。 最初に攻撃のナイフを放ったのは、ラディクだった。対魔導士の戦闘。呪文の詠唱が始まる前に、一方的な防戦に追い込まなければならない。 エリアルは勇者の剣を抜いて、背中合わせにジュスタンを庇う位置に立った。 ゼルはルギドの肩から離れ、円蓋の天井まで一気に舞い上がった。 それと同時に、ルギドの全身から、すさまじいばかりの魔力が放出された。 味方たちさえ一瞬、唖然と手を止めるほどの変容だった。 これが本当に、一年余ともに旅をし、酒を酌み交わしながら暖炉のそばで軽口を叩き合っていた仲間なのか。 そばに立つことさえ憚られるほどの、畏怖。いったいどれだけ途方もない魔力を、ルギドは畏王を封じるために消費していたのだろう。 今や、魔族の王はすべての力をあますところなく解放していた。もう畏王に身体を乗っ取られることなど恐れていない。剣の鞘をつかんだ反対側の手には、すでに魔力の光球が握られている。 両手が合わされたとき、轟音とともに黒い刀身は茶色の光を放ち、大地の魔法剣と化した。 そして、毛筋ほどのためらいもなく、その刃はレイアに向かって叩き込まれる。 だが、あっけなくその太刀筋に引き裂かれたかに見えたレイアの姿は、次の瞬間掻き消えていた。 ルギドは、すぐに身体をひるがえす。その拍子に銀色の長髪が、ふわりと風をはらんだ翼のように広がった。 移動したレイアの掌には、すでに巨大な赤い光球が生み出されていた。彼女が魔力の光球を使いこなすという噂は本当だったのだ。 にっこりと無邪気に笑うと、彼女はそれをルギドに向かって、真正面から叩きつけた。そうはさせじと、ルギドは高速で剣をすりあげる。 炎と地の激突は、溶岩の飛沫を生み、部屋中にまき散らした。 ゼルは悲鳴を挙げて逃げ惑い、エリアルは咄嗟にマントを広げ、自分とジュスタンの身を覆う。 その激しい地鳴りにラディクが足場を気にしたわずかな隙に、相対するユーグは魔法を完成させた。 『アマエラよ、アマエラよ、空に舞う氷霜よ』 [ウル] 棘のような氷と、低温の炎はぶつかり、互いを打ち消し合い、静かに消滅した。 「死ぬ前に、わたしの使命がもうひとつ増えました」 ユーグは杖を下ろした。「おまえをここで確実に殺すこと。ティトスのために、おまえだけは生かしておくわけにはいかないのです」 「どういうことだ」 「自分の正体を、まだ知らないのですか」 魔導士は、くすりと喉の奥で笑った。「おまえが、ティトスを滅ぼす者として創られたことを」 ユーグはほんのわずか息を止めた。そして次に吐き出したときは、もう次の呪文を唱えていた。 『ギゼルの神殿に煌く金剛石、アル・ウリヨンの風の流れに乗って、彼方の国へ運ばれよ』 大地のひずみと風の渦によって空気の流れが変わった。 大魔導士ギュスターヴが若き頃に独力で編み出したといわれる、風と大地の合体呪文【真空】。 巻き起こった砂塵が消えたとき、吟遊詩人が顔前で交差させた両腕は血にまみれていた。 「ラディク!」 エリアルが悲鳴を上げ、思わず駆け寄ろうとする。 「動くな。ジュスタンのそばにいろ!」 ラディクは額の血を袖で乱暴にぬぐうと、腕をだらりと下げた。「たいしたことはない。魔法をまともに受けたらどうなるか、一度試してみただけだ」 「思わぬことを聞き、動転したようですね」 ユーグは、勝ち誇るでもなく、薄い笑いを浮かべた。 「もっといいことを教えましょうか。【奴ら】は《理想体》を産み出すために、このティトスを造った。【奴ら】にとって《理想体》とは、すなわち救世主。しかし、ティトスの生きとし生ける者にとっては、おまえは破壊者以外の何者でもない」 ラディクは動じる気配もなく、敵を睨む。ユーグも再び表情を消し、杖を握りなおした。 戦いは、膠着状態に陥った。 広間の他翼で繰り広げられる、もうひとつの戦い。ルギドとレイアが次の激突への呼吸を計りながら、対峙していた。 「その手の剣は、ただの飾りか」 「そう思うの?」 ルギドは、手にしていたデーモンブレードを翻して、刀身に帯びていた魔力を消した。 「今度は、純粋な剣の技だけで戦ってみる気はないか」 「望むところよ」 声音だけ聞くならば、あたかも仲の良い夫婦が食後の会話を楽しんでいるような錯覚すら覚える。だが、双方の体から今も放たれているのは、すさまじい殺気だ。 レイアは手首をくいと返すと、瞬時の攻撃を仕掛けてきた。 ルギドは難なく受け止める。だが、その迎撃をすりぬけるように、レイアの剣が動いた。 黒い血しぶきが飛ぶ。 「ああ、ルギドさまがっ」 ゼルは空中で身を揉むようにして、主人の戦いを見つめていた。「互角? ううん、押されている。レイアってそんなに強かったの?」 「ルギドはレイアに致命傷を与えたくないのだ」 地上で皇女がうめくように、答えた。 「魔法剣ではなく、剣同士の勝負に切り替えたのも、そのため。だが、レイアはルギドをためらいなく殺そうとしている。この差は大きい」 愛し合う者同士の戦いの悲惨さに打ちのめされる。非情に徹することができず無意識に手加減するルギドが、過去の記憶を持たぬレイアよりも不利であることは明らかだ。 今の位置から動くことのできないエリアルは、両翼で行なわれている戦いに交互に視線を送るうちに、心ならずも注意を乱した。 その一瞬の油断を気取られたのか。 ルギドの反撃を避けたレイアは、双方が間合いを取ったわずかな隙に、体をしなやかにひねった。 「エリアルさん!」 ゼルの悲鳴が空気を引き裂く。 鈍い音とともに、エリアルの左肩から鮮血が飛んだ。レイアが懐に隠し持っていた小剣が宙に放たれ、皇女の鎧を貫いたのだ。 「あら、立派。避けなかったのね」 レイアが甲高い笑い声をあげた。「避ければ、後ろにいるジュスタンに当たるものね。どちらでもよかったんだけど」 エリアルは危うく片膝を折って崩れ落ちそうになりながら、なおジュスタンをかばう背中合わせの位置から一センチもそれない。勇者の剣を左手に持ち替え、レイアを凝視したまま、右手で小剣を肩から抜いた。 「……く」 小さな呻きが口から漏れたが、あとはジュスタンの詠唱を妨げないために、精いっぱい歯を噛みしめて耐える。 「アローテ」 ルギドが、妻に低く言った。「少しおいたが過ぎるようだな」 「これだけ近くにいながら、止められもしなかったくせに」 レイアは鼻先でせせら笑った。「あなたって、弱い男ね」 ルギドの気が、爆発的に膨れ上がった。部屋全体の重力場が暴走し始めたかのごとく、壁は凹み、床板は地中が噴火したように弾き飛ばされる。 壁に叩きつけられそうになったゼルは、すんでのところで翼を風の上に覆いかぶさるように広げて、飛行姿勢を保った。 「魔力がどんどん増大していきます」 彼女は轟音の中で半泣きになって叫んだ。「しかも、途方もなく暗黒に満ちていて……、まるで、全然ルギドさまじゃないみたい」 「畏王が、ルギドの肉体を支配しようとしているのだ」 エリアルは、痛みに食いしばった歯のあいだから呻いた。「……しっかりしろ。自分を見失うな」 しかし皇女の祈りもむなしく、魔族の王は爛々とした赤光を目にたたえ、それと同じ赤の光球を手の内から生み出した。 レイアは、とっさに退こうとした。だが、その光球は膨張を続けながら、ルギドの掌中を離れた。 生み出した者の体から離れたとたんに消えてしまうはずの魔力の球が、ほんの刹那、空中に浮かび上がったのだ。 ルギドは剣を両手に持ち替えると、その中心を串刺しにした。突き刺された反動で、炎の光球はレイアが避ける間もなく、その体に届いた。 「あれは……」 魔法剣ではない。魔法剣とは、刀身に魔力を帯びるもの。剣が相手の体に触れて、初めて威力を発する。だが、今の攻撃は離れた敵に向かって放たれた。しかも、剣の加速を乗せて叩き込まれたのだ。 受ける側にすれば、逃げる場所はどこにもない。 爆裂音とともに、もうもうたる蒸気がたちこめた。 「レイアさま!」 ユーグが女王の危機を知り、駆け寄ろうとした。その背後に猫のように俊敏にラディクが飛びつき、羽交い絞めにする。そうはさせじと、もみ合う。 しかし水蒸気が収まったとき、戦いを見つめていた者たちは、わが目を疑った。 想像に反して、レイアは無傷だった。それどころかルギドの懐にもぐりこみ、深々と剣で彼の体を貫いているのだ。 「あれだけの魔力の球が――」 「一瞬にして消えた?」 レイアは剣の柄から手を離すと一歩後ろに下がり、敵に与えた結果をしげしげと眺めて、満足気に笑った。 「ほら、攻撃の直後に隙を作るなって、いつもあなたは言っていたでしょ?」 「強い――」 エリアルはうめいた。「相手の魔力を消滅させる力まで持っているとは……。これでは、ルギドは勝てない!」 ルギドは平然と、片手で腹に刺さっている剣を引き抜いた。その傷口から、どっと黒い血があふれ出て、床に流れた。 「返しておく」 相手の足元に剣を放り投げた。「……誰に教わった?」 「この球を作ったり消滅させたりすること?」 レイアは血濡れた剣を拾うと、ほっそりした指先をぺろりと舐めた。「あなたも知ってる人よ。よく知ってる人」 「どこで?」 「わかってるくせに」 レイアは肩越しに、転移装置をちらりと見た。「あなたと私がいた場所。隔壁を透かして互いを見ていたでしょう――数え切れない歳月のあいだ」 緊張をはらんだふたりの会話に、エリアルがあまりにも没入していたからであろう。いつのまにか詠唱の声が止んでいるのに気づいたときには、まばゆいばかりの光がジュスタンの右手に集中し、吸い込まれていくところだった。 がっくりと膝をつき、吸い込まれるような疲労にあえいでいた魔導士は、ゆっくりと顔をあげた。 その灰色の瞳は夢と現実のはざまに今なお、たゆたっているように、ぼんやりと部屋を見渡した。 「ジュスタン」 エリアルが小声で呼びかけると、彼はかすれた声で答えた。「戦いは――どうなりました」 「ルギドとレイアは、まだ決着がついていない。力が拮抗している。ユーグとラディクの戦いも、まだもつれている」 ジュスタンは杖を支えにかろうじて立ち上がった。【イリブル】を吸収した剣を持つ手が、ぶるぶる震えている。獲物を求めて激しく律動する剣。ただでさえ魔法力を使い果たしているのに、剣を押さえ込むために、なお彼の体力は奪われ続けている。 「【イリブル】は、あとどれくらい持つ?」 「わたしが剣を手から放さない限り、ずっと効力を保ちます」 荒い息の合間に、答える。「心配はいりません。たとえこの命に代えても、レイアは封印します」 ルギドはジュスタンにちらりと目をやり、その好機を待っていたかのように、右手にさらに大きな光球を生み出した。 おそらく、今の彼にとっての全魔力。 宙に放たれた球は、先ほどと同じくふたたび刃で貫かれる。 レイアはそのすべてを消滅させようと、待ち構えている。 だが次の瞬間、部屋じゅうを覆い尽くすように、光球が膨張した。 実際は、膨張したのではなかった。粉々に割れて、拡散したのだ。ルギドの神速のデーモンブレードは、螺旋を描いて突き刺さり、光球を破壊していた。 光の矢は巧みに、ジュスタンとエリアルの立つ場所をよけた。ユーグとラディク。ゼルも。 それをまともに受けたのは、古代神殿の壁面、そしてレイアだけ。 いかに彼女でも、自分に向かってくる幾千もの矢のすべてを消滅させることは不可能だった。 「……くっ」 まとっている長衣は引き裂かれ、艶やかな黒髪は千切れ、透き通った白い肌は赤い血で染まる。そして、手に握っていたはずの剣は吹き飛ばされ、背後の崩れた壁に当たって、力なく落ちた。 ルギドは閉じていた両眼を静かに開いた。その中には紅蓮の炎がめらめらと燃えさかっている。 黒い気が全身をベールのように覆い尽くし、何十匹もの生きた蛇がとぐろを巻いているように見えた。 「レイア」 半分意識を失い前のめりに崩れ落ちた少女を、ルギドは両腕で受け止め、その胸に抱く。 なんという運命の皮肉。敵として憎しみ合わざるを得なかったふたりは、戦いの終焉でようやく居るべき本来の位置に戻ったのだ。 「ジュスタン」 ルギドのからからにひび割れた唇から、懇願の声がほとばしり出た。 「その剣で……このまま俺たちを突き刺せ」 抱き合ったまま、一本の剣で貫かれる。 それは、二度と彼女から離れぬという誓いの儀式だった。もはや後世の何者によっても、一方だけが封印から目覚めさせられることが決してないように。 ルギドは、混濁した意識の中で苦い笑いをこぼした。これが、彷徨の果てにようやく得られた安息か。 だが時は短い。今この瞬間にも畏王の狂気が、彼の肉体と意志を完全に飲み込もうとしている。 「約束を……違(たが)えるな。ジュスタン」 「……はい」 ジュスタンは重く、うなずいた。彼もまた、極限の苦悩の道程を経て、ここまでたどり着いたのだ。 祖国を捨てた瞬間から、感情を殺そうと決めた。工場のベルトコンベヤに載せて運ばれていく機械のように、冷淡でいようと決めた。 それでもなおレイアへの思慕に惑い、エリアルを想う気持も止められず、心を無様に引き裂かれてきた。 想い人の背中に剣を差し入れることで、苦しみが消えるはずはない。さらにもっと奥深き地獄への門をくぐるのだろう。 それでも、甘んじて受けねばならない。それを成し遂げることができるのは、彼しかいないのだ。 ジュスタンは剣をぐいと握り、一歩を踏み出した。 「そうやって、すべてをなかったことにするつもりか」 ユーグの地を這うような叫びが足首をつかんだ。 「心の奥底に永遠に暴かれぬ真実を隠し、おまえの罪をかぶったレイアさえも自分の手で葬り去ろうというのか」 エリアルは、彼が何を言わんとしているのかを悟った。「ジュスタン。聞くな!」 いまや完全にユーグの体を地面に組み伏せたラディクは腕をぐいと引き、声を塞ぐため喉笛を締め上げる。 「罪をかぶった?」 かつて同じ食卓を囲み同じ寝台を分け合った兄を、ジュスタンは途方に暮れて見下ろした。その灰色の目が、水面のように揺れ始める。「何のことだ」 「【召喚獣の部屋】で――」 もう一刻の猶予もならない。ラディクは、腰から抜いたナイフで一気に敵の背中を刺し貫いた。 「ぐっ」 ユーグは苦痛に全身を硬直させ、何かを捕らえようとするかのように拳を差し出した。 「おまえが父を……」 茶色の髪が力なく地面に垂れた。 暗く、湿気がよどむ地下室。 男と女のあえぎ。 「……お父さん、もうやめて」 ランプの火が忙しなく揺れている。 「おまえがいけないのだぞ、レイア。おまえが、わたしたちのすべてを狂わせてしまったのだから」 父の笑い声は、まるでむせび泣くようだった。「ユーグ。今度はおまえだ。この子に罰を」 罰ヲ、与エテ、ヤリナサイ――。 子どものころ寄り添って見つめた暖炉の火。「ジュスタンの作ってくれた火は暖かい」と少女はほほえんだ。 だが、あのとき自分の手に握られたものは、ぱちぱちと爆ぜる業火。目に映るのは、すさまじい臭気とともに黒焦げになって倒れる死体。 「レ……じゃない……殺したのは」 「ジュスタン!」 エリアルがローブの裾にすがりつくのも気づかず、呆けたように呟く。 ルギドの腕の中でぐったりしていたレイアは、目を閉じたまま睫毛を震わせた。 「だめ……。ジュスタン」 「父を殺したのは、このわたしだ」 燃えさかる水晶の剣が、かちりと音を立てて床にすべり落ち、ゆっくりと炎を消した。 |