新ティトス戦記 Chapter 37 |
うろたえる者は誰もいなかった。 水晶の剣が【イリブル】の効力を失って沈黙していくのを、彼らはただ静かに見つめていた。 「わた……しは……」 ジュスタンは呟いたかと思うと、瞳は茫漠たる空間で何かを捜し求めるように、彼方に向けられた。「……レイア」 ルギドはレイアを支えていた手を離すと、目を閉じて天蓋を仰いだ。まるで天からの慈雨を待ち望んで得られぬ者のように。 解放されたレイアはすとんと床に座り込み、崩れ落ちそうになる体をかろうじて手のひらで支えながら、ぼんやりと長身の魔族を見上げた。 「もう、封印は使えないわ」 どこか相手を気づかうような声だった。 「ああ」 返ってきたのも、低く優しい響き。 「悔しい? もう悪鬼のような専制君主の女を倒す手段はなくなったわ。たったひとつの希望が失われたのよ」 「いや」 ルギドは疲れをにじませた顔を彼女に向けた。「こういう結果になることを、予感していたのかもしれない。あるいは心のどこかで期待していたのか」 「たとえ、私がティトスを滅ぼすとしても?」 「そんなことは、させない」 「そうね。私がやらなくても、あなたの中の畏王が代わりにやってくれる。そうでしょう?」 穏やかな会話の中で、ルギドは次第に苦しげに長身をよじり、何かに耐えるように拳を握りしめた。 暗黒の気はますます膨れ上がり、その一部は上空まで立ち昇って渦を巻いた。上半身を覆っていた鎧は、朽木のようにぼろぼろと砕けて落ちた。 「ああ」 ゼルが力ない悲鳴を上げた。主の背に、小さく折り畳まれた一対の黒い翼が覗いていたのだ。 「だいじょうぶ……だ」 ルギドは従者をちらりと見上げて、微笑した。「まだ畏王に己を明け渡すわけにはいかぬ。この女を葬り去るまでは」 「ルギドさま。やはり、まだ戦うおつもり――」 「俺たちふたりは、このティトスに存在してはならぬのだ」 彼はレイアに向き直った。その手にはいつのまにか、激しく燃えさかる光球が握られている。 レイアを生きたまま封印する手段が潰えた今、自分の手で彼女を殺し、同時にその攻撃を自身にも向ける。 ふたりが焼け融けて、この世界から消滅するまで、最後の魔力の一滴までも搾り切る。もし一度でだめならば、何度でも。 それが、愛する者のために彼が思い定めた唯一のことだった。 「やめて……ください」 ジュスタンが正気に返った。ころげるようにふたりの間に割って入り、レイアをかばって両手を広げる。 「違う、この人は……邪悪に身を委ねたのではない。前提がまったく違ったのです。レイアが父を殺したのではなかった。殺したのは、わたしのほうだった。それなのに彼女は、あの場でわたしの記憶を偽りのものとすり替え、私の罪の身代わりとなって……」 とめどなく涙を流しながら、ジュスタンはレイアを見下ろした。 「すまない、レイア……それなのにわたしは、おまえを憎み続けてきた」 「そうだ。ルギド。我々が戦う理由は、もはや潰えた」 エリアルもジュスタンの傍らに歩み寄り、障壁に加わった。 「レイアは、もはや女王の座から退けられた。いや、民を見捨てるふりをすることによって、自らが退いたのだ。テアテラの民が女王の専制を憎み、みずから進んで帝国と和平を結べるように、レイアは自分ひとりを切り離して、悪として裁かれることを選んだ」 「そうではない!」 ルギドは痙攣を起こしたように首を振った。 「レイアはやはり、ティトスを滅ぼそうとしていたのだ。それが……俺たちが交わした約束だった」 「なんだと?」 「やっと、すべてを思い出したのね」 レイアは寂しげに微笑んだ。「私もよ。自分で自分を導く衝動が何であるかを思い出すのに、ずいぶん無駄な時を過ごしたわ」 「俺たちは、おのれの罪ゆえに……滅びねばならぬ」 「ふたりとも、いったい何を言っている!」 エリアルは、苛立って叫んだ。「あなたたちは滅びる必要などない。過去の罪を償うというのなら、むしろティトスの再建のために力を貸してほしい」 ルギドの右手に握られていた光球が、限界が訪れたようにすっと消えた。 「……もう時がない」 彼が力なく呟いたそのとき、光さえもが真闇へと墜ちた。空気がその場から逃げ去ろうとするように、四方に吹き上げる。 「ルギド!」 理性も感情も、声さえも失うほどの恐怖。 「エリアル。あとを……頼む」 「どうやって?」 狼狽のあまり、エリアルの手は知らず知らず勇者の剣の柄をまさぐった。「私は――どうすればいい? ティトスのために、何をなせばよい?」 「昔、古き友にも、同じように頼んだことがあったな」 荒い息の下から、ルギドが答えた。 「『もし俺が畏王になってしまうときが来たら、その剣で殺してくれ』――と」 エリアルの目から涙が伝い落ちた。「それで、アシュレイはなんと?」 「即座に否んだ。ただひとこと、『おまえを信じる』と」 「それでは、彼の子孫である私もそうする。ルギド。私はあなたを最後の瞬間まで信じる」 「つくづく……奴の血筋はお人よしばかりだ」 喉の奥に笑いがこもる音がしたかと思うと、唐突にその音が止んだ。 「ぐ……」 獣のような呻きが漏れ、眼球全体が爛れた紅に染まった。そして翼はさわさわと震えながら、体全体を覆い隠すほどの大きさに成長していく。 「ふふ……」 その巨大な影に覆われたレイアは、笑みを浮かべながら、恋焦がれるような眼差しを彼に向けた。 エリアルは救いを求めて、隣に立つジュスタンのローブをまさぐった。その手をジュスタンは弱々しく握り返した。 「すみません、エリアルさま」 「おまえのせいではない。こうなることが運命だったのだ」 ひとり離れていたラディクは、落ちていたナイフを拾い、低く身構えた。だが足が前に出て行かない。本能がこの場を逃げ出せと叫び続ける。 「バカ。どこへ逃げたって、同じことだろう」 自分を嘲笑うと、ナイフをかざしてルギドの真後ろに飛びかかろうとした。 だが次の瞬間、広間の側壁に叩きつけられていた。 何が起こったのかわからない。相手はみじろぎもしていないのだ。 「ラディクさん!」 退避していた天井から、ゼルがあわてて彼の元に舞い降りようとした。 だが、見えない渦に巻き込まれたかのように、まったく反対側に吹っ飛んだ。 「きゃあっ」 苦痛の悲鳴が響く。地面に落ちた小さな足が変な方向によじれていた。 銀髪を揺らしながら、男はゆっくりと顔を上げた。薄い唇に浮かぶ笑みは、子どもじみた無慈悲と狂妄に冒されている。 「ルギド……」 エリアルは悟った。そこに立っているのは、かつてその両腕で彼女を暖かく包んでくれた父親のような男ではない。 一万年前、古代ティトス帝国を滅ぼした冷酷な破壊神、畏王。 永劫のとき彼を抑え続けていたルギドの精神は瓦解し、肉体は本来の所有者のもとに返ったのだ。 畏王は、千年間自分を縛っていた枷が突如消えたことに気づいた。 訪れた自由に、戸惑った。空気が肺を膨らます感覚が、手足が自分の思いどおりに動く感覚が、しばらくのあいだ現実とは思えなかった。 やがて、歓喜をともなわぬ解放感が体を満たした。夢の表面をすべるような心地で、彼は動き始めた。 目的はない。意志もない。少なくとも自分の中にあるのは、怒りとも呼べぬ、ひび割れて腐り果てた古い掟だけだ。 [ティトスは、存在してはならぬ] 彼は恍惚と、古代語で呪文のように口にした。[ティトスは滅びねばならぬ。ティトスの生きとし生けるものは、すべて滅びねばならぬ] 「勝手なこと……言ってんじゃねえよ!」 ひとりの人間が、傷ついた腕を押さえながら身を起こした。 「魔族にも人間にも受け入れられなかったからって、世界を滅ぼすのか。そんなこと、ここにいる誰もがいやというほど味わってる。甘ったれるんじゃ――」 次の言葉の代わりに、彼の口から迸り出たのは鮮血だった。肺が恐ろしい空気圧で、押しつぶされようとしている。 畏王は彼の前にふわりと舞い降り、虫けらに注ぐような眼差しで見つめた。 同じ紅い瞳。この瞳ゆえに彼も人間たちから疎まれただろうか。 かすかな共感が胸をよぎる。それでも、殺すのをためらうことは何もない。 「畏王、あなたには」 もうひとりの若者が叫ぶ。千年前、彼に封印の魔法をかけた魔導士とそっくりの灰色の目をしている。 「この世界を滅ぼす権利はない。たとえ、ここが何者かによって実験場として造られた世界だとしても、ティトスの生き物はみな懸命に生きようとしているのです」 [……うるさい] 彼が睨みつけると、空中の水蒸気が瞬く間に氷結し、そのローブごと串刺しにする。魔導士は操り人形のように床に崩れ落ちた。 うるさい。うるさい。生き物というのは、どうして己の存在を誇示して、がなりたてるのか。 そんなくだらない言葉は聞きたくない。 「畏王。聞いてほしい」 また別の人間が、騒音を立てる。今度は支配者の目を持った女。 「あなたは、生まれ落ちたときから全く愛を与えられずに生きてきた。ひとりの女性と心を通わせたが、不幸な誤解によって結ばれることはなかった。だが、その女性はあなたが殺したのではない。彼女はそのあとも生き延び、己のしたことを悔いて――」 雷撃が空気を走り、その女もおしゃべりをやめた。 ああ、静かになった。この部屋に、もう目障りなものはいなくなった。 ――いや、まだひとりいる。 畏王は、部屋の中心でうずくまっている女に目を注いだ。 女は黒曜石のような瞳で、まっすぐに彼を見据えていた。その唇は王宮の池の水面に浮かぶ花びらの色に似ていた。 [おまえは――] 何かを思い出そうとしながら、彼は女の名を呼んだ。[亜麗] [久しぶりね。畏王] 彼女は皮肉げに、薄く笑った。[でも私は、亜麗ではないわ。同じ姿をしているけれど」 [亜麗ではない] [アローテと呼ばれていたこともあったわ。でも今の私はレイア] [亜麗では、ない] 畏王は頑なに繰り返すと、その右手をすっと彼女の喉に伸ばした。 「あなたは、私を憎んでいたのでしょうね。私は、亜麗を食い破って生みだされた生命だもの] レイアの微笑が、一瞬せつなげに歪んだ。 [でも、たとえ偽りでも、私はずっと、あなたをたったひとりの半身として求めたわ。すべての記憶をなくしてティトスの地で再会したときも、引き合うように出会い、あなたは私を愛してくれた――リュートとアローテとして] 畏王はぴくりとその言葉に反応した。だが、何か不快なもののようにその感情を押しやり、凶器と化した指に力をこめて、彼女の首をえぐった。 「くっ」 鋭い痛みに、レイアは細い体をのけぞらせた。 「やめろ!」 ジュスタンは声の限りに叫んだ。「やめてくれ。その人に罪はない。悪いのは……わたしなんだ!」 ぼろぼろに傷ついた体に残された力で、杖を頼りに立ち上がる。 「エリアルさま。動けますか」 「……ああ」 「ここから逃げてください。せめてあなただけでも」 「だが……どうやって」 答えの代わりに、ジュスタンは壮絶な光を目に湛え、自分の胸に杖を押し当てた。 彼が【禁呪】を、しかも最も危険な【自爆呪文】を畏王に向かって放とうとしていることを、エリアルは悟った。 自分の生命と引き換えに、膨大な破壊力を引き出す呪文。 だが、どれだけ彼が自分を犠牲にしようと、畏王を倒すことも、その前から逃れることも不可能に近いだろう。 (私はやはり、最後まで何もできなかった) 肋骨の折れた体を強いて引きずりながら、皇女はぼんやりと考えた。 (ティトスは滅びる。【封じられし者】の封印を解いた私は、最悪の決断をしたのか。それとも、いずれにせよ、世の終わりは避けられぬ運命だったのか) かすむ視界の中に立つ男の横顔を見上げる。 (死ぬ瞬間にジュスタンのそばにいられるのが、せめてもの慰めだ) こんなときに、笑みが浮かぶのが不思議だった。 ふと、もうひとりの男の面影が、鈍い痛みとともによぎった。 (ラディクは――もう逝ったのか?) 彼さえいれば、エリアルはどんな絶望の中にも希望を抱くことができた。彼ならば、何か新しいことをしてくれる。硬直した今を変えてくれる。 彼女にとって、ラディクは未来そのものだった。 (いや、違う。彼は死んでいない。生きている) このティトスに残された、たったひとつの未来。 「やめろ」 エリアルは、黒魔導士の杖の先に手をかけ、引き戻した。 「何かを――感じないか?」 ふたりは、首を巡らした。 視野が晴れ、頭の片隅がぼうっと幸福に痺れる感覚。 それが何なのか、最初わからなかった。 捜し求めているうちに、次第にそれは、はっきりした予感となり、期待となり、実体となる。 それは、歌だった。 ラディクが、低くのびやかな声で歌っているのだ。 広遠なる大地 朝もやの中で まどろむ 一条の光 射し 鳥はねぐらから舞い立つ ものみな黄金に輝き 美しきかな わがティトス 美しきかな わがティトス まるで歌に促されたかのように、天井から一筋の光が射し込んできた。朽ち果てたドームが、色褪せた壁画がレリーフが、この部屋を壮麗ならしめていた全ての装飾品が、まるで歳月のヴェールをするりと外されてゆくように、輝きを取り戻す。 気がつけば、神殿は一万年前の威容にまばゆく輝いていた。 「夢……」 「こんなことが」 瀕死の者たちは、我が身の危機を忘れて、その光景に心奪われた。 畏王でさえもが、起こりつつある奇跡に顔を上げ、瞠目した。 西方神殿。【すべての始まりの地】。記憶と寸分違うところはない。 時が戻った。いや、そうではない。ここは、記憶どおりに【再創造】された世界。 ラディクはドームから射し込む光の中心に立ち、最後の旋律を歌い終えると、振り向いた。 その目は紅を通り越し、白熱の光を帯びている。 [きさま――] 畏王はおのれの魔力が枯渇していることに気づき、うめいた。あの少年に記憶を盗まれたのだ。その膨大な魔力とともに。 [きさまが、【あの存在】なのか] [そう。だから、ティトスを滅ぼしても、もう何にもならないの] 背後で、レイアが哀しげにささやいた。[【私たちの子ども】は、とうとう生まれてしまった] 奇妙な空洞が、畏王の胸に穿たれる。 むなしさ。絶望。何のために、そして誰のために、おれはティトスを滅ぼそうとしてきたのだ? この壮麗な礼拝堂は、一万年前の凄惨な光景を克明に思い出させる。ここが、すべての始まりだった。 ここから見知らぬ地に運ばれた彼は、気の遠くなるほど長い間、実験体として扱われた。ことばもなく、温もりもなく、人としての尊厳を持つことも許されず、生まれてはすぐ事切れる命たちを、ただぼんやりと見つめて、永劫の時を過ごしていた。 生命とは悪だ。害毒だ。苦しみをもたらすだけの命など、はじめから存在するべきではない。 [きさまなど――消えてしまえ] 空洞を満たす唯一のものは、怒りだった。彼はそれしか知らない。 魔力が潰えた今、畏王は手にあった剣を握りなおし、空中に舞い上がると、ふたたびラディクに襲いかかった。 「ラディクさん!」 動けないゼルは、必死で叫ぶのみ。ラディクは反応しない。木偶人形のように突っ立ったまま。 拳を振り下ろそうとした畏王は、そうできないことに気づいた。何か見えない障壁のようなものが阻んでいる。 違う。そこに達する以前に、己自身が拳を振り下ろすことを拒否しているのだ。 「それだけは、絶対にさせねえ」 金髪の剣士の幻影が彼の前に立ち、渾身の力で拳を押し返していた。畏王は歯ぎしりしながら、彼を睨んだ。 「殺させるものか。あれは、【俺たちの子ども】だ」 [リュート――] 「いい加減に気づけよ。おまえは俺だ。俺はルギドだ。俺たちは三人で敵対してたわけじゃねえ。初めからひとつなんだ」 幻は、太陽のようにあけっぴろげに笑った。「忘れるな。おまえはいつだってひとりじゃなかった」 剣士が姿を消すと、あたりには金色の光だけが漂っていた。 それが、障壁と見えたものの正体だった。まばゆい金色に光る剣――【勇者の剣】。それを決然と彼の前に突きつけているのは、金色の髪をした男装の皇女。 「畏王。あなたの憎悪は、もうとっくに行く先を失っている」 彼女は剣を引き戻すと胸に当て、頭を垂れた。臣下の服従の姿勢を取りながら、なお王の威厳をもって厳かに宣言した。 「ティトスのすべての生命を代表して、お願いする。私たちを滅ぼさないでほしい。私たちもあなたを滅ぼすまい」 ラディクが意識を取り戻したとき、すべては終わっていた。 西方神殿の遺跡はふたたび輝きを失い、歳月の重みに朽ち果てている。 そして畏王は、部屋の真中に胡坐をかいて座り込み、銀色の髪を地面につけて項垂れていた。 「みんな――無事か」 それは弱々しくはあったが、まぎれもなく愛情に満ちたルギドの声だった。 一同は歓声を上げ、体の痛みも忘れて彼のもとに駆け寄った。 「ゼル」 「か、片っぽの足がちょっと……唾つけときゃ治ります」 「ジュスタン」 「こんな怪我、気になさるほどのものではありません」 「エリアル」 「無論、大丈夫だ」 ラディクはぽかんとして、仲間たちの顔を見回した。 「いったい、何が起きたんだ?」 「覚えていないのか」 ジュスタンが腹部の傷をかばい、奥歯を食いしばって笑った。「おまえの歌の力で、一時的にこの部屋の時が戻ったんだ」 「時が……戻った?」 「そうとしか見えなかった。それに、エリアルさまの勇者の剣が燦然と光り、畏王を沈黙させた」 「ラディクさん、世紀の瞬間を見てなかったんですね。なにしろ立ったまま気絶してましたからねえ」 「それで畏王は――?」 若者たちは、一斉にルギドを見た。 「俺の中にいる」 ルギドの紅玉のように澄んだ瞳は、偽りではない穏やかさに満ちていた。 「また魔力で封じているのか?」 「いや、何もしていない」 「ということは」 エリアルは、ぞくぞくする期待に堪え切れずに叫んだ。「畏王の憎悪は完全に消え去ったのだな」 「まだ何とも言えぬが――その可能性はある」 「よかった」 一同は安堵に包まれ、思い思いに座り込んだ。強がってはいるが、やはりそれぞれが負わされた傷は半端なものではない。 「ティトスに巣食っていた憎悪はすべて消え去った――そうだな、レイア」 壁にぐったりと背中を預けていたテアテラの女王は、エリアルの声で目を開いた。 宙を泳ぐように手を伸べ、心もとない足どりで立ち上がり、床に横たわっている宰相のもとに近づいた。 「ユーグ」 返事はない。「ユーグ。目を覚ませ」 「すまない」 ラディクがこわばった声で謝る。「たぶんもう息をしてない。できるだけ急所は避けたつもりだったが」 「いいえ、生きているわ」 レイアは彼の傍らにひざまずいた。目を閉じ、両掌を天に向けた。すべらかな喉が小刻みに震え始める。 『癒しの神よ、生命の父よ、宇宙の王よ。汝がしもべらの傷をことごとく、その御手のなかに包みたまえ』 それを聞いた全員が凍りついた。 レイアの口から出てくるのは、数百年のあいだ、このティトスで聞かれることのなかった回復魔法の詠唱だった。 しかも、それは千年前にアローテが唱えた白魔法を知っているはずのルギドでさえ、聞いたことのない呪文だった。 『全能なる七つの眼でこの場をみそなわし、ザノムの風を生じさせ、グリュイスの聖なる泉を湧き出させたまわんことを』 ユーグの体がぼうっと青白く光る。次いで、その場にいた全ての者の体も。 その魔法は、一度に全員を癒す力を持っていた。 「傷が治ってる」 「おいらの折れていた足が元通りに……」 ユーグの口からしばらく咳のような苦しげな息が漏れ、やがて規則正しい呼吸が始まった。 「死人が生き返った……」 「やはり、あなたは――」 ジュスタンは、感極まって呟いた。「あなたはアローテ。千年前の白魔導士であった頃の記憶を取り戻したのですね」 「冗談じゃないわ。あんな女より私のほうが上よ」 高飛車に言い放った直後、レイアは力尽きてその場に崩れこんだ。 「もういいわ。殺しなさい」 黒髪の少女は、ゆっくりと全員を見渡した。 「悪いのは私。宰相に罪はない。女王の命令に逆らえなかっただけのこと。罰するなら私だけを罰しなさい」 「いや」 帝国の第一皇女は、彼女の前に進み出た。「あなたを罰するつもりはない」 「それでは、自害する。帝国の捕虜だなんて、まっぴらだもの」 「その必要はない。帝国とテアテラとの戦いは、もはや過去のものだ。あなたは国賓としてパロスに迎えられる」 「結局、態のいい捕虜だわ」 「レイア。あなたは、死ぬことは許されない。たとえどんな屈辱にまみれても、祖国の平和を最後まで見届けるのが女王の義務だ。そう思わないか」 「でも、私を生かしておけば、テアテラはいつかまた帝国に反旗を翻す。いいの?」 エリアルは腰の剣をはずし、レイアの前に片膝をついた。 「それでもよい。受けて立とう」 ふたりの高貴な女性は挑み合うがごとく、互いを間近で見つめた。 「さすが、勇者の剣に選ばれた器だけのことはある」 レイアは疲れたような笑みをにじませた。「でも甘いわね。戦いは終わってなどいないわ」 「レイアの言うとおりだ」 ルギドのことばに、若者たちは瞬時に全身を緊張させた。 「戦いはまだ終わっていない。少なくとも、このティトスに関する限り」 ルギドが目を遣った方角に振り向くと、そこには、ひとりの細身の男が立っていた。 中性的な容貌。真珠色の瞳。柔らかな微笑を浮かべる頬には、ひと筋の美しい鱗が走っている。 彼の背後では、【転移装置】が、催眠術のように規則正しい明滅を繰り返していた。 ルギドは、男の名を呼ぶことを一瞬ためらった。 それは、かつて彼を導いた師であり、また従臣である者の名。いつも深い愛情と憧憬をこめて口にした名前だった。 千年の後に、それがふたたび唱えられることになるとは。しかも果てしない憎悪と猜疑をもって。 ルギドは、静かに彼の名を呼んだ。 「ジョカル」 |