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The New Chronicles of Thitos

新ティトス戦記


Chapter 38



 恐ろしい夢を見て目を覚ました幼い頃の朝が、ふと思い出された。
 さらさらと揺れる窓のカーテンや、アーチ天井の装飾を穴の開くほど見つめ、ここは悪魔が支配する地獄の倉などではなく、神の加護を得た安全な皇宮の中であることを幾度となく確認する。そうしてからでないと指一本さえ動かせなかった。
 18歳になった今、エリアルは7歳の幼な子と同じ気分を味わっている。
 すべての戦いを終え、パロスに戻ってきたのは三日前。
 とっくに安堵してよいはずだ。喜びに有頂天になっていいはずだ。それなのに、今なお恐ろしい夢の中にいるような覚束ない心地が消えないのは、なぜなのだろう。
(あれは、本当に現実だったのだろうか)
 数ヶ月にわたる遠征の記憶を、最初から数え上げてみる。
 サキニ大陸の砂漠の光景。気球から見下ろした竜の神殿の威容。
 【イオ・ラドム】と呼ばれる黄金の竜との対峙。
 ラディクの離脱と合流。
 そして、北の町トスコビでのテアテラ軍との攻防に続く、アスハ大陸への転戦。
 地下大迷宮での息づまるような行軍。
 【西方神殿】址では、レイアとユーグを相手に死闘をくり広げた。
 ジュスタンはイリブルをこめた剣を取り落とし、ルギドは畏王に体を奪われ――このあたりは、混乱のあまり記憶がおぼろげになってくる。
 ラディクの不思議な歌。エリアルの手の中で光った勇者の剣。
 ルギドがおのれを取り戻して、すべては終わるかと思われた瞬間、【転移装置】が作動し、中から現われた男が、勝利の喜びを根こそぎ奪っていった。
 ルギドは彼の名を、【ジョカル】と呼んだ。
 千年前、魔王軍の重臣であり、王子ルギドの腹心の部下だったジョカル。アシュレイやギュスターヴの遺した記録が事実ならば、彼はアスハ大陸の【氷の殿】の巨大なチェス盤の上で、氷のガーディアンに生命の火を奪われて死んだはずだった。
 ジョカルの亡霊――そうとしか呼べないではないか――は、口を開いて、木管楽器のように深く響く声で言った。
「ついに、目的は達せられた」
 そして、薄絹のようなローブに包まれた腕を差し伸べる。「【われらの子】をこちらへ」
 細い指が指し示す先にいたのは、ラディクだった。
 彼が拒否の意味で一歩退くと、ルギドは剣を鞘から放ち、距離を一気に詰め、何のためらいもなくジョカルに斬りつけた。
 無表情な亡霊はすばやく身を翻すと、転移装置の中に隠れた。
 次にルギドが取った行動は、転移装置の継ぎ目に剣先を突き立てることだった。
 装置は瞬く間に、ジョカルとともに大爆発を起こした。いや、亡霊はすでに彼方の地に運ばれた後だったかもしれない。
(あの装置が失われる前に、問い正したかった。その向こうに広がる世界とは何なのか。そして、このティトスの歴史が意味するものとは)
 ルギドは、黙して何も語ろうとしないのだ。
(解き明かされねばならぬ大きな謎がある。言い伝えられてきたことと、真実のあいだには大きな隔たりがある)
 エリアルは悪夢を振り払うように頭をもたげ、寝台から立ち上がった。侍女を呼んで手早く身支度を整えさせ、部屋を出る。
 中庭の奥に、ラディクがいた。
 噴水の縁に腰かけ、竪琴を胸に抱えたまま、ぼんやりと遠くを見つめている。
 ラオキアからの帰途もパロスに戻ってからも、ずっとこんな具合だ。竪琴を爪弾くだけで歌いもせず、物思いに耽っている。
(あの言葉が、相当こたえているのだな)
 ユーグから【破壊者】と呼ばれ、ジョカルと呼ばれる異世界の亡霊から、さらに不吉な言葉を投げかけられた。
 【われらの子ども】――と。
 何よりも、まったく覚えていないという。畏王のあの膨大な魔力を吸収し、神殿の時を一万年前に戻したときのことを。自分はいったい何をしたのかということさえ。
「ラディク」
 彼は振り返ると、風に乱される黒い前髪をかき上げた。
「早起きだな」
「そう安穏と寝てもおられぬ。ジュスタンが不眠不休で、大臣たちの猛攻を防いでくれているというのに」
 ふたりは顔を見合わせ、苦い失笑をこぼした。
『テアテラ国の女王と摂政を、皇女の賓客として皇宮に迎える』
 と聞いたときの家臣団の激昂ぶりには、今でも冷や汗が出る。
 戦犯であるふたりを形ばかりの裁判にかけ、即時に死刑にすべきだとの主張は、侍従長オジアスや高官、ともに戦ったヴァルギス将軍の周辺からも噴出し、ジュスタンはそれを食い止めるために、大変な思いをしているはずだった。
「あいつは、大丈夫なのか」
 明け初めた空を仰ぎながら、ラディクが言った。「父親を殺したのが自分だと知り、相当なショックを受けたはずだ」
 エリアルは、うなずく。
「だから今は、くたくたになるまで働いたほうが良いと思う。何も考えずにすむ」
 西方神殿から帰還する途中、目を離したすきにジュスタンが自害してしまうのではないかと、エリアルは気を揉み続けた。
 父を殺したのはレイアだと思い込むことでバランスを取っていた彼の精神は、一度は限界を超えてしまったはずだ。自爆呪文を唱えようとしていたときの彼の横顔は、今でも思い出すたびに身震いが起きる。
 生きることを完全に放棄した、死神に魅入られた顔。
(もし今のジュスタンに生きる意味があるとするなら、それはレイアを死刑から救うことだけなのだろう)
 だからこそ、彼は全力を傾けて、大臣たちとの折衝に当たっているのだ。そして、これからの生涯をかけて、レイアに己の罪の償いをしようとするだろう。
(彼の目に、もう私の姿はない)
 悲しい理解がエリアルの胸に生まれている。
『ここから逃げてください。せめてあなただけでも』
 あのとき、自分は彼のそばから切り離されたのだ。彼が死ぬ瞬間をともにすることを願ったのは、私ではなくレイアだった。
 唇を噛みしめながら顔を上げたとき、ラディクがじっと彼女を見つめているのに気づいた。
「今から【翠石宮】に行くつもりだが、おまえも行くか?」
「あ、ああ」
 早朝の中庭から、まだ暗い闇に沈んでいる回廊に戻ったとき、無防備に大あくびをしながら歩いてくるジュスタンと鉢合わせをした。
「わっ」
 長身の魔導士は皇女たちに気づき、あわてて跳び退った。
「涼やかな色男が、だいなしだぜ」
 ラディクはげらげらと愉快そうに笑いながら、先頭に立って廊下を歩き始めた。
「すみません。お見苦しいところを」
 罰が悪そうに顔を赤らめながら、彼はエリアルに平身した。
「ゆうべも寝ていないのではないか」
「いえ、わずかですが、夢も見ずにゆっくりと休みました」
 ジュスタンは早朝の光にあふれる戸外を見ながら、まぶしげに目を細めた。「こんなに眠れたのは、久しぶりです」
 そして、前を行く少年の背中に、心配げな視線を向けた。
「ラディクは大丈夫でしょうか」
「え?」
「今も、無理をして笑っているように見えました。平気なはずはありません。自分が何者かがわからないというのは、決して楽なことではありませんから」
「……ジュスタン」
 自分こそ、極限状態の中にいるはずなのに。
 ラディクも同じだ。煩悶し途方に暮れながら、なお友を案じる心を持っている。
 ふたりはいつのまにか、エリアルが思っていた以上に、はるかに強い男になっていた。
「おまえたち」
 ジュスタンとラディクの二の腕をつかみ、エリアルは男たちをぐいと引き寄せた。
「私は、おまえたちが大好きだ」
 緑の目がみるみる涙の膜で覆われた。ふたりは驚いて、すすり泣いている皇女を両側から見おろす。
「おまえたちがいなければ、ここまでやってこれなかった。……ありがとう。これからも、ずっと私のそばにいてほしい」
 ジュスタンは、微笑んだ。「もちろんです。とうの昔に、そうお誓い申し上げているのですから」
 ラディクも、へに曲げていた唇をゆるめた。「ああ、気が変わらなかったら、いてやるよ」
「ありがとう」
 彼らとともになら生きていけると思った。ティトスを治める者として。
 たとえ女として、生涯ひとりの男と思いを交わすことがなくても。


 翠石宮の玄関を入り、広間の前に立つと、侍女頭のモニカが、水差しを乗せた盆を手に脇の小部屋から出てきた。
「ユーグの様子はどうだ」
「今は、寝台の上で目を開けておられます」
「何か言っていたか」
「いえ、何も」
 一切の食事を口にしないとモニカは嘆く。今は侍女たちが、水を浸した柔らかな綿花を唇にあてがうだけだという。
「兄らしい」
 予想していたという素っ気ない声で、ジュスタンが言った。「一切の釈明をせずに、すべての責任をひとりで負って死ぬつもりでしょう」
「おまえから説得できるか」
 エリアルは、懇願するように傍らの従臣を見上げた。
「テアテラの未来のためにも、かけがえのない人だ。せっかく取り戻した生命を無駄にしてほしくない」
 ジュスタンはしばらくためらってから、うなずいた。「やってみます」
 扉から静かに体をすべり入れると、分厚いカーテンを引いた暗い部屋の中で、寝台のユーグは目を薄く開いていた。
「……兄さん」
 こう呼びかけるのは、久しぶりだ。
「傷はまだ痛む?」
 口が「いや」という形に開いたように見えた。
「レイアも、この王宮内にいるよ。元気にしている」
 彼と同じ灰色の瞳がわずかに動いた。だが答えは返ってこない。
 傍らの椅子に腰かけたが、ジュスタンはそれ以上、兄に語りかけることばを持たない。
 魔導士の名門カレル家の子息として、また摂政の息子として生まれた兄弟は、王宮でともに育てられた。だが、互いの立場がわかるころになると、次第に用がなければ話すこともない間柄となっていった。
 肉親の情が欠落した彼らにとって、たったひとつの共通項となったのがレイアだった。
 兄弟はレイアを介して言葉を交わし、レイアを介して笑い合った。
 特にジュスタンにとって、レイアはたったひとつの宝だった。カレル家の直系の後継者として全てのものを委ねられた兄と違って、自分には、この血のつながらない妹のほかには何もない。
 父と兄に彼女を無残に奪われたことを知ったとき、ジュスタンは文字通り、世界のすべてを失った。
 あの夜、王宮を出奔するときに、命を懸けて黒檀の杖だけを持ち出したのは、【イリブル】の解呪に必要だったからだ。
 彼がカレル家の人間として生まれた意味は、もうそれしか残されていなかった。たとえ、ルギドの封印を解くことが世界を滅ぼすことになろうとも。
「兄さん」
 長い空白を埋めるように、彼は再び兄を呼んだ。
『父さんに命じられてレイアの体を押さえつけていたとき、何を思っていた?』
 と問うべきなのか。
『兄さんも、小さい頃からレイアを愛していたのか?』
 と問うべきなのか。
 否。聞かなくても答えはわかっている。
 レイアを愛していたからこそ、ユーグは父の命令と肉欲を否むことができなかった。レイアを愛していたからこそ、己の非道な行ないを恥じるあまり、狂気のように帝国との戦いに没頭した。
 感情を捨て、生命を捨てて、祖国とその女王を守ることが、彼にできるただひとつの償いだった。
 そしてジュスタンは、血を分けた兄の気持が手に取るようにわかるからこそ、余計にユーグを憎んだのだ。
「すべては終わったんだよ、兄さん」
 ジュスタンは力無く、ささやいた。答えは、もちろん返ってこない。
 戦いは決した。もう憎み合う必要もない。
 レイアは兄さんのものにも、わたしのものにもならなかったのだ。


 緑のゆらめく光の中で、この王宮の主は玉座に座り、眠そうに頬杖をついていた。
 その傍らには魔族軍軍団長、サルデスの鍛冶屋オブラ。玉座の背もたれには、ゼルが翼をぴったりと閉じて停まっている。
 エリアルとラディクが近づくと、王の閉じていた紅い目がゆっくりと開いた。
「大臣どもはどうだ、エリアル。まだ、ぎゃあぎゃあ喚いているか」
「ジュスタンが何とか食い止めている。文句があるなら、翠石宮に行ってティエン・ルギドに直接申し入れてくださいと言ったら、しばらくの間は大人しくなるそうだ」
 ルギドは、フッと嘲るような笑いを漏らした。「賢明な判断だな。魔力を根こそぎ奪われて、少々腹が減っている。人間の肝が無性に食いたくなってきたところだ」
「レイアは――どうしてる?」
 ラディクは、玉座の後ろにすばやく目を走らせた。
「部屋に引きこもったままだ。一歩も出てこない」
 テアテラ女王レイアが宛がわれたのは、ルギドの居室とは反対側の【王妃の間】だった。
 千年前、初代皇帝アシュレイがこの王宮をこのような形に設えたとき、ここに入る人の姿を思い描いていただろうか。アローテの生まれ変わりが使うということを少しでも想像していただろうか。
「そろそろ教えてはもらえまいか。ルギド」
 エリアルは、意を決して切り出した。
「もはや畏王の封印が不必要になった今のあなたは、畏王の記憶を自在に取り出すことができるはずだ。いったい一万年前、何が起こったのか。レイアを【亜麗】と呼んだということは、亜麗の血が流れていたということ。……違うのか?」
 ルギドは無言で玉座を立ち、階段を降りた。
「ついてこい」
 彼は【王妃の間】の扉を開け放った。
 焚き染めた香のかおりが、鼻腔をくすぐる。
 青白いガス灯の明かりではなく、赤黒いランプの炎に照らされて、レイアはソファに寝そべっていた。漆黒の髪がふわりと純白のドレスの肩を覆っている。
 彼女は訪問者たちを見上げると、尊大なしぐさで顔をそむけた。
「ずっと、この仏頂面だ」
 ルギドは腕組みをしながら、呆れたように呟く。「口を開けば、食事がまずいだの、ドレスの趣味が悪いだの、部屋が狭いだの。あまりうるさいので、一度尻を引っぱたいた」
「そんなに気に入らないなら、殺せばいいじゃないの。早く殺しなさい」
「ああ、これほど疲れていなければ、五回は殺している」
 エリアルとラディクは、笑いを噛み殺しながら、そっと顔を見合わせた。
 これでは、まるで――夫婦げんかだ。
「レイア。ユーグが食事を取らないのだ」
 エリアルが真顔に戻って、言った。「今ジュスタンが説得しているが、あなたからも口添えしてほしい」
「無駄よ」
 返事はにべもない。「勝手にさせるといい。私の言うことなんか、聞きはしないわ」
「女王の命令でもか。彼はあなたの家臣なのだぞ」
「だからよ。下手なことを言おうものなら、私が脅されて言わされていると思って即座に舌を噛み切る。ユーグって、人の言葉の裏の裏を読むのが巧いの」
 エリアルは言葉を失った。何があろうとも、ユーグは戦争の責任を最後まで、ひとりで被るつもりなのだ。そしてレイアも、彼の覚悟を十分過ぎるほど知っている。
 亡国の運命を担ってきた女王と摂政の、壮絶なまでに孤独な戦いを見せつけられた思いだった。
 じっと聞いていたルギドは、こともなげに言った。
「簡単なこと。食べないなら、食べたくなるように仕向けるまでだ」
「でも、どうやって?」
 一時間もしないうちに、翠石宮の大広間には巨大な正餐用の長テーブルが整えられ、次々と豪華な料理の皿が運ばれてきた。
 ルギドは玉座から、従者たちに命じた。「ユーグに着替えをさせて、連れてこい。拒否するようなら、寝台ごと引きずってきてもよいぞ」
 呆気に取られた一同の目の前で、蒼白い顔をしたテアテラ摂政が強制的に連れてこられ、着座させられた。
「むちゃくちゃだわ! ユーグは少し前まで死の淵をさまよっていたのよ」
 レイアが甲高い声で抗議するが、ルギドは意に介さない。
「回復しないのは、自分の白魔法の威力が落ちたからだと素直に認めるんだな」
 扉からは続々と招待客が入ってきた。パロスの高官たち、侍従長もヴァルギス将軍もいる。みな一様に、魔族の王の宮殿でいったい何が起こるのかと怯え、いつでも逃げ出せるように身構えている。
 満座の中で、ルギドは毒々しい色に泡立つ杯を持ち上げて、掲げた。
「滅びそこねたティトスの繁栄のために」
 ラディクが笑いをこらえながら、鍛え上げた喉で朗々と叫んだ。
「乾杯!」
 奇妙な祝宴が始まった。
 なにしろ、80年にわたって帝国を悩ませてきた宿敵テアテラが同じ席についているのだ。招待を受けた高官たちは、敵意と恐怖のため食事も喉を通らない。もちろん当の本人であるユーグやレイアにしても、はらはらと気を揉むエリアルやジュスタンにしても同様だった。
 沈黙する出席者の中で、主催者のルギドひとりだけが驚嘆すべき食欲を示した。
 さすがに塊肉を手づかみで食べることはしないが、それに匹敵する速さでフォークとナイフを操り、数え切れない杯を傾けつつ、片っ端から皿の上のものを平らげていく。
 客たちは、その健啖ぶりを呆然と見つめながら、生唾を飲みこんだ。
 翠石宮のコックたちは研究を重ね、鹿や牛、ウサギなどあらゆる種類の動物を皇宮内で飼育している。特別な飼料を使って育てた家畜の新鮮な生肉に、吟味したハーブや香辛料を利かせ、匂いも見た目も優雅で、魔族の口にも合う料理を饗することができるようになっていた。
 中には人間が食することができるものもあり、後年になって【翠石宮風料理】として、ティトス中の美食家にもてはやされるようになる。
 食事のあいだ、吟遊詩人は竪琴を掻き鳴らし、次から次へと歌い続けた。
 【ダフォデルの乙女】、【銀色の剣士】、【草原の雄雄しき戦い】。それらはいずれも、千年以上前に作られた古歌であり、魔族の王子ルギドとその妻アローテ、勇者アシュレイと大魔導士ギュスターヴ、英雄ゼダの活躍を、あたかも目で見ているごとき緻密さと壮大さで歌い上げたものだった。
 招待客たちは知らず知らずのうちに、その魅惑的なテノールに聞き惚れた。
 新ティトス暦1000年。記念すべき【ミレニアム】の年。
 翠石宮において、人々ははじめて真実の歴史を見る目を開かれ、自らの無知に恥じ入った。
 それにつれて、酒の勢いが怯臆にまさったのだろう。隣席と小さく言葉を交わし始める囁きがあちこちで起こり、座はみるみる賑やかになった。
 戦争は終結したのだ。帝国の繁栄が保証された今、何を恐れることがあろう。
 【うるわしの古きパロス】が歌われるころには、宴は最高潮に達した。
 見計らったように、侍従長オジアスがすっくと立ち上がった。
「ティエン・ルギド。ひとつお聞きしたい」
 いつのまにか美食を十分に堪能した腹は、はちきれそうに膨れ上がっている。
「あなたは、エリアルさまと婚姻の約束を結ばれた。そのお気持は今でも変わりませんかな」
 あの話はなかったことにしてほしいという期待が、その赤ら顔から、ありありと読み取れる。
 隣の席にいたレイアが、もてあそんでいたスプーンを取り落とした。
 ルギドは、彼女の呆然とした横顔をちらりと見ると、薄く笑った。
「無論、変えるつもりはない」
「ル、ルギド」
 慌て始めたのはエリアルのほうだ。
「それでは、その隣におられる方は、どうなさるおつもりですか。この王宮の【王妃の間】を使っておられるようですが」
「他意はない。行くところがないから、情けで置いてやっているだけだ」
 ルギドは涼しい顔で答え、オジアスはあからさまに失望した表情を浮かべる。
 それまでじっと、宴席の隅で彫像のように座っていたユーグが、鋭い一瞥をルギドに投げかけた。
「情けですって」
 レイアは平静を装いながらも、憤怒に肩を震わせている。
「事実を言っているだけだ」
 ルギドは、素知らぬふりをして酒を口に運び続ける。
 座の凍りついた空気を溶かすように、ラディクが【酒場の痴話げんか】という陽気な卑歌を歌い始めた。


 客たちが辞し、主催者の若者たちはすっかり酔いつぶれて、静まり返った広間にころがっている。
 出窓に腰をかけて庭を見ていたルギドは、かすかな物音に立ち上がると、薄闇に覆われた広間を横切り、【王妃の間】の扉を押し開けた。
 鉢合わせしそうになったレイアは、キッと彼を睨み上げ、平手打ちを食わそうとした。
「どこへ行く」
 彼女の手首を掴むと、ルギドは微笑んだ。
「出て行くのよ。情けで置いてやるとまで言われた屈辱に、もうこれ以上耐える気はない」
「亡国の女王が戦勝者の宮殿に住まうのだ。それ以外のどんな理由があると?」
「放して!」
 ふりほどこうとする手首を逆にぐいと引き寄せ、ルギドはレイアの体をすっぽりと両腕の間に納めた。
「おまえが俺の妻であることを素直に認めれば、こんな回りくどいことはしなくてすむのだがな」
「私はレイアよ。アローテなんかじゃない」
「それなら、なぜ俺とエリアルの婚約に、それほど腹を立てる」
「冗談じゃない、誰が――」
 言い募る小さな唇に、ルギドは自分の唇を押し当てた。
「あ……」
 レイアの口から、小さな声が漏れる。ルギドはその声さえ包み込むように、丹念に唇の奥を探った。
「俺たちの婚姻の儀式を覚えているか」
 艶やかな黒髪を愛撫しながら、うめくように言う。「ふたりだけで血の契約を交わした。魂が死を越えて、時を越えてひとつに結び合わされることを誓った」
 レイアの長い睫毛が震えていたかと思うと、いきなりかっと見開かれた。
「つ……」
 ルギドは反射的に、両手に力をこめた。レイアの真珠のような歯が、彼の唇をがりっと思い切り噛んだのだ。
 ルギドは仕返しに、彼女の唇の皮をゆっくりと牙で裂いた。
 体を離し、仇のように睨み合う。ふたりの唇は、互いの血でしとどに濡れていた。
 黒い血と赤い血が混ざり合う――まるで千年前の儀式の再現のように。


 【王妃の間】の扉の前に、ユーグが立っていた。
「ティエン・ルギド。お話があります」
 彼は優雅に一礼した。
「ようやく、その気になったか」
「はい」
 ユーグは血の気の失せた顔を上げて、ルギドをひたと見つめた。
「先ほどのレイアさまのご様子を見て、得心いたしました。女王陛下とテアテラ領、および全ティトスの運命を託すことのできる方は、あなたをおいては他におられぬことを」
「あたりまえだ。今ごろ気づいたのか」
 ルギドはマントをひるがえして玉座に腰を下ろし、ゆったりと両手を組んだ。
「さて、どこから話してもらおう」
 広間のほうぼうで寝入っていたはずのジュスタンが、エリアルが、ゼルが、ラディクが、いつのまにか起き上がり、耳を澄ました。
「まずは、おまえが父クロードから受け継いだ遺産についてだ」
「わかりました」
 天蓋から射し込む月の光が雲間に揺れ、夜の翠石宮は、碧い水底に沈みゆく廃墟のように見えた。







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