新ティトス戦記 Chapter 39 |
「父クロード・カレルが、【召喚獣の間】に入りびたるようになったのは、今から十八年前のことでした」 自室でわずかでも食事を取ったのだろう。テアテラの摂政ユーグ・カレルはローブの裾を広げて胡坐を組み、しっかりとした声で話し出した。 「五歳だったわたしは、かすかに覚えています。母は栄養失調の果ての病で亡くなり弟はまだ小さかった。国は衰亡への一途をたどっていた。孤独と絶望にさいなまれた父は、悪魔のささやきを聞いてしまったのです」 「ジョカルという名の異世界人だな」 エリアルが言った。推測に過ぎないが、それしか導かれる答えはないと確信している。 「はい」 ユーグはうなずいた。 皇女に対するへりくだった態度が、今の彼の帝国に対する恭順の意志を示している。そこに至るまでに、どれほどの葛藤があったにせよ。 「ジョカルは【転移装置】を使って、頻繁に訪れるようになりました。彼――彼と呼んでいいのかわかりませんが、彼に会うようになってから、父はのめりこむように我を失っていきました。元々はもの静かな人だったのに、壇上で熱弁をふるっては、命をかけた抗戦を国民に呼びかける。特に青年や子どもには徹底した反帝国思想を植えつける。平和を主張する者は容赦なく切り捨てていき、他方では、同じように帝国に反感を持つ魔族たちと手を結ぶ。強大な軍事国家への道をひた走るテアテラの姿を見ながら、長子であるわたしは……」 ユーグは、次の言葉をためらった。 「父をたいそう誇りに思ったものです。すべてはジョカルの入れ知恵であり、父は傀儡に過ぎなかったというのに」 そして、自嘲するように口の端をゆがめる。 「父はついに、戦争に及び腰なテアテラ国王を疎んじるようになりました。王を玉座から退け、そして代わりに強大な魔力を持つ女王をいただき――やがてはティトス全土に君臨するという野望に燃え始めたのです」 「それで、女王にふさわしい女性を求めるあまり、【アローテの卵】を使って、人間と魔族の混血児を生み出そうとしたのだな」 「【アローテの卵】?」 ユーグは一瞬目を見開き、次いで苦笑を浮かべた。「ああ、そんな作り話もありましたね」 「なんだって?」 ジュスタンは、噛みつくように兄に向かって叫んだ。「あったじゃないか、カレル家の最奥の部屋に。黒檀の杖とともに、【アローテの卵】が入っていたという箱が!」 「あんなもの、偽物――レプリカに過ぎない」と、ユーグは冷ややかな声で答えた。 「だが、アローテの卵を植えつけられた魔族の女性が、レイアを産んだはず――」 「思い違いだ。誰かが適当なほら話を吹き込んだのだろう」 「不親切な説明ね。何も知らぬ弟に対して、そんなに優越感をひけらかさなくてもいいでしょう」 奥の間の扉から、レイアが現われた。一同の注視の前を、優雅な衣擦れの音を立てながら横切る。 玉座のルギドをちらりと見やると、手近な円柱に背中を預けた。 「私が代わりに説明する」 黒いマニキュアを施した指で、ゆっくりと自分の腕をなで上げた。 「魔族との混血児を作り出す必要なんかなかったの。白魔導士アローテ・ルヴォアは、初めから人間と魔族の混血だった」 「ええっ」 他の者たちには恐慌を引き起こしたことばでも、ルギドは微動だにしない。すでに知っていることなのだ。 「リュートと同じよ。彼も魔族としての能力をジョカルに封じられ、20年間人間として生きた。誰が見ても人間にしか見えなかったわ」 「ではあなたも、ジョカルの手で――?」 「『彼女』は、ジョカルの手で」 あくまでも、他人のように呼び直す。 「ユツビ村の門にところに捨てられた。千年前、多くの魔導士は短い寿命の中で子どもを産み、戦いの最中、命たえだえになりながらユツビ村に預けに来たものよ。だからアローテも、特に不審なこととは疑われずに、魔導士の子どもとして育てられ大きくなった」 黒い瞳が一瞬、思い出をたどるように細められた。 「彼女は最後まで、自分のことを純粋な人間だと信じて生きた。ルギドと結婚し、ふたりの子どもを産み育て、見かけは人間と同じように老いた。そしていよいよ死を覚悟したとき、海の底で封印された夫を待つために、体を【卵】に変えてくれるようにギュスターヴに頼んだの」 一同が息を殺している中、淡々と苛酷な事実を話し続ける。 「ギュスは彼女の望みをかなえるべく、ガルガッティアの古代図書館にこもり、【卵の魔法】を必死に研究した。けれど結局、そんな魔法はティトスには存在しなかったの。全部ジョカルがでっちあげた、ほら話」 レイアの胸元が苦しげに、大きく上下した。 「もともとアローテは死ぬはずがなかった。覚えているでしょう、ルギド。魔王城の地下でアシュレイたちと一緒に戦ったとき、彼女は一度死んだ。リュートは自分の体を魔王に差し出して、彼女の命を助けようとした。でも、そんな必要はなかったの。アローテは、どんなに傷ついても決して死ねない体だったのよ――あなたと同じ」 歴史が崩れていく。 さきほどの大宴会で、パロスの人々は正しい歴史に目覚めた。だが真実と思えたものは再び、濃い霧の向こうに姿を隠そうとしている。 「何度となく研究と失敗をくり返し、疲れ果てたギュスターヴがガルガッティアの図書館で眠っている隙に、ジョカルが来て、偽物の【アローテの卵】を置いた。ギュスターヴはそれを見て、魔法は成功したと錯覚した」 「おいら、訳がわかんなくなっちゃった」 ゼルが混乱して、ばたばたと飛び回る。 レイアは意に介せず、続けた。 「そして、ジョカルはガルガッティアの地下にあった【転移装置】を使って、アローテを【ルクラ】に連れ出した――」 「今、何と?」 ラディクが聞きとがめた。 「【ルクラ】。ティトスの南に広がる、ティトスよりもっと大きな世界のことを、ジョカルはそう呼んでいた」 「そこで何が起きた」 「彼女は、ただひたすら待ったわ」 「ただひたすら――」 「千年間。海の底で眠る愛する人が、封印を解かれて目覚める時を」 ルギドはわずかに眉をひそめ、苦悩に耐えているような表情をした。 ジュスタンは拳を額に当て、何度も何度も彼らの言葉を反芻しながら、真実を再構築しようと試みていた。 レイアは、【アローテの卵】から生まれたのではなかった。それでは、レイアとアローテの間には何の関係もないのか。 いや、むしろ、レイアの口から語られた新しい事実はますます、レイアが100%アローテその人であることを証明することにならないか。 ジュスタンは慎重に次の質問をした。 「それでは、レイア。おまえは魔族の女性から産み落とされたのではないのだな」 「ええ、【ルクラ】で培養され幼児の姿として、【転移装置】で連れてこられただけ」 レイアは、子どもの頃から兄代わりだった二人の男をかわるがわる見つめた。 「クロードは、カレル家が千年間守ってきた【アローテの卵】から私が生まれたと信じていた。これもジョカルの策略でね。だから私をカレル家の娘として、ふたりの息子とともに大切に、大切に育てた」 「大切に?」 ジュスタンの答えには、父に対するぞっとするような憤怒の響きがこめられていた。 ユーグの上半身が、ぐらりと揺れた。 「だいじょうぶか!」 後ろにいたラディクが、とっさに彼の肩を支えた。瞼は閉じられ、顔色は紙のように白い。 エリアルは「医者を呼べ」と叫んだ。 「いったん休憩しよう。この話は、一夜では語り明かせぬ」 ユーグはジュスタンの肩に担がれて、自室に戻った。 ベッドの上にゆっくりと寝かされ、しばらく息を整えていたが、うっすらと目を開けた。 「どうすればいい。たとえ百度殺されても、わたしがレイアに犯した罪は償うことはできない」 「ああ」 ジュスタンはかすれた声で答えた。「わたしの罪もだよ、兄さん」 レイアの後を追って広間を出たエリアルは、回廊の一角で彼女が立ち竦んでいるのを見た。 【ダフォデルの婚姻】のモザイク画。ルギドとアローテが最も幸せだった瞬間を写した絵。 「絵の出来はどうだ」 皇女は微笑みながら、近づいた。「画家は、婚姻の儀についてあらゆる証言を調べ、忠実に再現したと書き残しているが」 「そんなはずないでしょ」 レイアは肩をそびやかして答えた。「あの男が、花などを妻に渡すわけがない。こんなの嘘っぱち」 そして、「……たぶんね」と口の中で付け加えた。 あくまでアローテであることをひた隠そうとする少女の依怙地さに、エリアルは苦笑を漏らしそうになった。そして、漆黒の髪に縁取られたその横顔と絵画を見比べる。 (実物のほうが、ずっと美しい) 同じ女性として、嫉妬よりもまず感嘆せざるを得ない。 「レイア」 静かに呼びかけた。 「あなたとずっと、こうして話したかった。ティトスの未来について語り合いたかった。本当にそれが実現したことに、今さらながらに驚いている」 エリアルは、喉の奥でくすりと笑った。「いつのまにか自分の中で、絶望する癖がついていたのだろうな」 レイアは絵に相対したまま、チラリと皇女のほうを見ただけだった。 「テアテラの行く末についても、相談したい。帝国は出来る限り、復興の援助をするつもりだ。過去にテアテラに対して犯した帝国の罪については、公式に謝罪しよう。魔法に関する政策も改める」 それでも、レイアは沈黙を保っている。 「あなたとユーグには、皇宮にとどまり、そのための助言をしてほしいのだ」 エリアルは畳み掛けるように続けた。「……それと、一応念のため誤解を解いておく、私とルギドが今も婚約しているというのは、真っ赤な嘘だ。あれは、大臣たちを黙らせるための方便だった。彼の心はあなたにしかないし、もちろん、私も――」 私も、想い人は別にいる。そして彼は子どもの頃から、目の前にいるあなただけをずっと愛してきたのだ。 積もり積もってなお声にできない言葉が、唇をわななかせる。 「新ティトス帝国の政治を預かる者としてお願いする。テアテラ選帝侯ティエン・ルギドとともに末永く、テアテラの再建に尽くしてほしい」 「そんなこと、できるわけないでしょ」 あっけなくも短い答えが返ってきた。「私は戦犯よ。多くの苦しみを生み、大勢の戦死者を出した。私を死刑にしなければ、皇宮の高官たちはもちろん、帝国の民衆が納得しないわ」 レイアはくるりと背中を向けた。 「何よりも、テアテラの民衆が私を赦さない」 亡国の運命を担い続けてきた華奢な肩が、苦しげな息に合わせて揺れている。 「違う。あなたは自分ひとりが悪者になることで、無用な犠牲を最小限度にとどめようとしていただけだ。そうしなければテアテラ国民は玉砕を叫び、いつまでも戦争は終わらなかった」 「冬になるたびに、幾人の餓死者を出したと思うの。戦費に多くの国家予算を割き、贅沢の限りを尽くし、挙句の果てにさっさと国を見捨てて逃げた無能な女王に、いったい誰が従う」 「クロード・カレルが長年取ってきた鎖国政策の中で疲弊した国土では、しかたがなかったのだ。私がテアテラを治めたとしても、同じことをしただろう。兵を徴集することで多くの若者を飢えから救おうとしただろう」 エリアルはレイアの前に回りこんで、訴えた。 「レイア。テアテラ王宮のあなたの部屋には、華美な宝石も余分なドレスも一切なかったと聞いた。そう見せかけていただけ――あなたは民衆から憎まれる尊大な女王を演じていただけなのだ!」 「あはは、ひどく買いかぶられたものね」 「それくらい見抜けぬ帝国の皇女だとでも思うのか」 ふたりの高貴な女性は、互いの心を探るように睨み合った。 「テアテラが疲弊している以上に、帝国の傷は深く大きい。破壊された自然は容易には戻らない。私ひとりの手には余るのだ。あなたの手を貸してくれないか」 「なぜ、ひとりで、それほど必死になるの。帝国には、れっきとした皇帝がいるでしょうに」 「皇帝は――兄エセルバートはテアテラとの戦闘で、頭に雷撃を受け、深い傷を負っている。自分のことすら自分でわからないのだ」 レイアは目を見開いた。「噂は……本当だったの」 「あなたは本当に、ユーグに何も知らされていなかったのだな」 エリアルは微笑んだ。「それでは、テアテラ国内で行なわれていた残虐な治世についても、何も知らなかったのは無理はない」 レイアはさっと顔を染めた。「ばかにしないで! それくらい知っていたわ」 「ユツビ村の子どもたちに、生きながら焼かれて敵を殲滅しろと命令したのも、あなたか?」 「そんな……」 レイアの手がぶるぶると震え始めるのを、エリアルは安堵した思いで見つめた。 「安心してくれ。子どもたちは皆無事だ。ルギドが彼らの命を救ってくれた」 背けた女王の顔から、一筋の涙がしたたり落ちた。 夜の闇に碧く静まりかえった広間で、柱にもたれて吟遊詩人はひとり、竪琴をかき鳴らしていた。 ユーグの疲労が激しく、また皇女と内大臣は、膨大な戦後処理と大臣たちとの不毛な会議に戻ることになり、その日は全員がふたたび集まることはなかった。 ひとりになって叙事詩の続きを創ろうと思っても、何のことばも紡ぎだすことができない。 苛立つ指先が強くはじいた瞬間、弦の一本があっけなく切れた。 ラディクは、それを見つめながら苦い笑いを刻む。 「ああ、今の俺みたいだ」 弦の切れた竪琴。 何かが体の中に生まれ始めている。だが、それが何かわからない。形にすることが恐ろしいのだ。いっそのこと自分の喉を掻き切って、歌うことを捨ててしまいたいような衝動に駆られる。 すがるように竪琴をかかえこんでいると、扉の開く音がした。 【王妃の間】の扉がかすかな軋みを立てた。出てきたのは、レイアだった。 彼女は彼に近づくと、弔鐘のような硬い声で言った。「なぜ、弾くのを止めたの」 「弦が切れたんだ」 「せっかく、まどろみかけていたのに、また目が覚めてしまったわ」 彼女は、ラディクのもたれている壁のわきにコツンと額を押しつけると、そのままの姿勢で見降ろした。 「じゃあ、なぜ自分の部屋に戻らないの」 「あんたが逃亡しないように、ルギドから見張りを命じられてる」 ラディクは、ぶっきらぼうに答えた。「【王妃の間】の窓の外には、ゼルが木にぶらさがってるはずだ」 レイアは「ふふっ」と薄紅の唇から笑いを漏らした。 「逃がしてくれるなら、いいことをしてあげるけど、どう?」 屈みこんでラディクの唇に口づける。 長い氷のようなキスが終わると、ラディクは美貌の女王を見つめ返した。 「悪いけど、俺はあんたに女を感じないらしい」 「へえ、意外」 「最初からそうだった。なんでだろうな。体が自分と同じ血を感じるのか。なあ、祖母ちゃん」 「あいにく、こんな目つきの悪い孫を持った覚えはなくてよ」 妖艶な微笑を残すと、レイアは自室に向かってくるりと踵を返した。 「待ってくれ」 「なに」 「訊きたいことがある」 ラディクは竪琴を壁ぎわに置いて、立ち上がった。濃い夜の碧の中で、その目は本来の紅ではなく、黒の絵具一色で塗りこめられたように見える。 「あんたは知っているはず。俺は、いったい何だ?」 答えを恐れながら、聞かずにはいられない。「奴らは俺にいったい何をさせようとしている?」 【竜の言語】を用いて、枯れ枝をみずみずしい枝葉へと蘇らせた。テアテラでは結界の塔を湖から消し、西方神殿の中では一万年前に時を戻した。 【理想体】、【救世主】と呼ばれたかと思えば、ティトスの民にとっては【破壊者】であると言われた。 「正直、俺は自分がそんな大それた存在であるとは、思っちゃいない」 一万年の歴史を知る少女を、ラディクはひたと見つめ続ける。 「俺は、あんたとルギドの子孫だ。だけど、あんたたちみたいに不老不死でもなければ、途方もない魔力を持ってるわけじゃない。世界を救ったり破壊する力なんか……」 「あなたには必要ないわ。そんな力」 レイアは黒い瞳をきらめかせて、笑った。「あなたは【器】なのだから」 「【器】……?」 「どういうことか、見せてあげる」 細い腕がすっと伸ばされ、ラディクの額に指が触れた。 【王の間】にいたルギドは、異様な波動に気づいた。寝台から跳ね起き、部屋を飛び出すと、レイアが広間の床に倒れ伏しているのが見えた。ラディクの姿はどこにもなかった。 「どうしたんだ」 「なんでもないわ」 助け起こそうとする腕を拒みながら、レイアが弱々しく頭をもたげた。 「あの子に力を吸い取られただけ」 「……なんだと?」 「誰だ」 第38代皇帝エセルバート三世は、寝台の上でおびえて竦みあがった。 窓が大きく開け放たれ、月明かりの中に人影が立っているのだ。 「ウサギ……?」 確かにそれは、竪琴を携えて来ては、皇宮の中庭でときどき歌を歌ってくれた、紅の瞳を持つ若者だった。 だが今、夜陰に閉ざされた部屋の片隅で、彼の目は白熱の高炉のような輝きを帯びている。 「な、何を――」 近づいてきた彼が、自分の額に指を伸ばすのを感じた瞬間、皇帝は絶叫した。 |