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06. きょうしつ



 昼過ぎに、またひとり客が増えた。
「な、なんで、こんな山奥を住み家に選んだんだ」
 大荷物を持ってよろよろと縁側にへたりこんだ大柄の男は、神林修だ。
 元二年D組、統馬と詩乃の同級生で、在学中は超常現象同好会の会長だった。
 今でもチャネリングやUFOといったものに目がないが、日本史担当のれっきとした高校教師である。しかも、今年の春から彼らの母校T高へ転任したばかりだ。
「ほら、委員長。自由が丘のクッキーだ」
 人妻になった詩乃のことを今だに「委員長」と呼ぶのも、彼なりのこだわりがあるらしい。
「わあ、ありがと。おいしい紅茶を入れるわね」
「こっちの袋は、安倍川餅とうなぎパイ。ういろうに生八つ橋」
「おまえはまた、東海道の土産を全部買ってきおったのう」
 草薙が呆れたように言う。
「小太郎、藤次郎。大きくなったな」
 神林は、統馬と詩乃の幼い息子たちに痛そうなヒゲ面をすりつけ、
「おお、わが師よ」
 今度は統馬を見つけると、暑苦しい巨体を揺らして突進する。「俺から逃げようったって、そうはいかないんだからな」
 統馬はいかにも迷惑そうな顔で迎えるが、本当はそれほど迷惑に思っていないことは、誰もが知っている。
 神林は、卒業後もずっと統馬を霊的覚醒の師として崇め、つきまとっている。夜叉追いたちの事情にも、いつのまにか通じるようになった。
 統馬がかつて夜叉だったことも、久下が江戸時代からずっと転生を重ねていることも。
 龍二が矢萩家の跡取りとして統馬を助ける宿命にあることも、孝子が政界から夜叉追いを支援していることも、もちろん白狐の草薙が、元は平安時代に生きた陰陽師であったことも、全部知っているのだ。

「T高は、今どんな感じなの?」
「あのボロい体育館が改築されて、ずいぶん感じが変わったぞ」
 囲炉裏ばたでクッキーと紅茶を楽しみながら、彼らは久しぶりの母校の話に花を咲かせた。
「昔ほどひどくはないけど、やっぱり不登校やいじめはなくなってない」
 と溜め息をつく神林は、高校時代とちっとも変わっていないように見えて、やはり教師なのだ。
「転任早々、問題山積みのクラスを担任させられてさ。夜遅くまで走り回って、へとへとの毎日なんだ」
「適任なんじゃねえか。そういうハードな生活は、彼女持ちには絶対に無理だからな」
「なるほど、だから俺に……って何を言わせるんだ」
 理系の龍二とニューエイジ系の神林は昔は犬猿の仲だったが、なぜか今はウマが合うらしい。
「ところがだ。家庭訪問中にとんでもなく不思議な超常体験をした」
「不思議って?」
「ひきこもりの男子生徒を訪ねたんだ。俺が担任になった四月から、一度も登校してない。母親によると、自分の部屋にバリケードを築いて、誰も入れないって言うんだ」
「げっ。メシや風呂は?」
「食事はお盆に載せて、母親が置いておくと食べるそうだ。トイレはポータブル。ほんのときたま、家族が寝静まった夜に風呂を浴びてるらしい」
「……なんということじゃ」
 草薙がふさふさの尻尾をしおれさせて嘆息した。「空の色も花の香も知らず、自分が作り出した牢獄の中に自らを閉じ込めてしまうとはのう!」
「俺は、その男子生徒の部屋のドアの前で熱く語った。家族の思い。友情の大切さ。人生の素晴らしさ。650万年前に金星から人類を救いにいらした護法魔王尊の有難さ――」
「おい、待て。そんな話聞いたら、ますます別の世界に行っちまうだろうが」
「中からは何の答えもなかった。俺は半ばあきらめ気分で、ドアのノブを回した。そしたら――開いたんだ!」
 一同、固唾を飲んで、神林の口元を見守る。
「中にあったのは、常識では考えられない不思議なものだった。何だと思う?」
「じらすなよ。それが知りたいから、こうして話を聞いてるんだろう」
「まず質問から話を始めるのが教師の悪癖さ。さあ、中で何を見たと思う?」
 とは言え、一同顔を見合わすばかり。
「ごきぶりの巣じゃったとか」
「うわ、やめろよ。想像するだけでもキショい」
「じゃあ、見渡す限りの草原、とか」
 詩乃が言った。「ずっと引きこもっているから、せめて想像の中だけでも広い世界に行きたかった。だから壁一面に草原の絵を描いた」
「うーん。残念ながら、そんなメルヘンな話じゃない。実際にはありえないことなんだ」
「繭、というのはどうですか」
 考え込んでいた久下が口を開いた。「昔、そんな小説かマンガを読んだことがあります。その生徒は自分を守ろうとするあまり、究極の安全な場所――繭の中に閉じこもってしまった」
「うーん。さすが久下さんだ」
「当たりですか」
「全然違う」
「異空間への入口が開いていたとか」
「おおッ。孝子さん、ニヤピン賞」
 草薙がとうとう、降参の印に肉球を高々と上げた。
「もうネタぎれじゃわい。いったい何だったんじゃ」
 神林は所在なく、胡坐を組んだ膝をごしごしと両手でこすった。「教室だよ」
「教室?」
「信じられるか? 生徒の部屋のドアを開けたら、T高のいつもの教室が広がっていたんだ。授業中で、他の生徒たちはみんな黒板に向かっていた。そして、たったひとつ、その生徒の席だけが空いていた」
 彼は吐息をひとつ吐くと、笑いそこねたように唇をゆがめた。
「俺はおそるおそる、その席に座った。目を落すと、教科書が広げてあった。けれど、一行だって理解できやしない。教師のしゃべっていることも、さっぱりだった。そのうちテスト用紙が回ってきたけど、最後まで汗水たらして、とうとう一問も回答できなかった」
 神林はそのときの恐怖を思い出して、ぶるりと体を震わせた。
「休み時間になっても、誰も俺に話しかけてこなかった。まるで自分が空気みたいに存在がなくなったような、価値ゼロになったような、椅子に腰かけたまま体がずぶずぶと底無し沼に沈んでいく心地だった」
 ティーカップを手に囲炉裏を囲んでいた仲間たちは、うなだれている巨体をじっと見つめている。
「情けなくて、恐くて、無力感でいっぱいで。俺、生徒がそんな辛い思いをして教室に座っているなんて、教師として想像したこともなかった」
「ああ……そうね」
 学校でひどいイジメを受けたことのある詩乃は、ぎゅっと汗ばんだ拳を固めた。「ずっと忘れてたけど……そうだったわね」
「教室から逃げ出すためにひきこもっているのに、そこが教室になっちまった。きっと、安らぎなんかなくて、二十四時間が拷問だったんじゃないかと思う。その生徒は教室から逃げ出すことで、逆に教室に囚われちまったんだ」
 草薙が深くうなずいた。「拒否すればするほど、どんどんその中に囚われていく。憎めば憎むほど、結局その相手に心を奪われ続けるのが、人の常なのじゃわい」
 神林は涙をふりはらうために、何度も咳払いした。
「気づいたら、俺はただの汚い勉強部屋に戻ってきていた。俺の前におびえたような顔つきの生徒が立っていた。俺はおうおう泣き出して、そいつに抱きついたんだ。――『ごめんな。恐かったな。気づいてやれなくて、ごめんな』って」

 夕食を待つひととき、縁側に寝そべって庭を眺めていた神林は、背後に人が立つのを感じた。
「矢上」
 統馬は、陶器の酒瓶と猪口をふたつ手に携えて、隣に胡坐をかいた。
「それで、その男子生徒はどうなった?」
「ああ、今も引きこもってるよ」
 神林は起き上がると、疲れきった声で答えた。「ときたま気が向いたら、俺を部屋の中に入れてくれて、話すようにはなったけど。なかなか、そう簡単にはいかない」
「そうか」
「もしかすると、もう高校には来れないかもしれないな。それでも毎日毎日、幻想の教室であいつは苦しんでる」
 神林は長いあいだ唇を噛みしめてから顔を上げて、かすかに笑った。
「まあ、気長にやるさ。俺の生徒だからな」
 統馬は黙って、猪口を神林に差し出した。
 ふたりは秋宵のもの寂しい景色を見つめながら、酒を酌み交わした。




(六話終 ―― 七話「たわー」へ続く)
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