BACK  TOP  HOME

07. たわー



 陽が西の山の端に隠れる頃になると、囲炉裏ばたの円座が、ひとつ、またひとつと埋まり始めた。
 自在かぎに吊るされた鍋がぐつぐつと煮え、胃の腑を刺激するような匂いをふりまいている。白い煙が吹き抜けの天井にゆっくりと立ち昇り、屋根裏全体に回って真新しいカヤをいぶす。
「さあ、食べましょう」という詩乃の合図で、にぎやかな夕餉が始まった。女主人は、それを満足げに見渡しながら、ときおり空の茶碗を受け取っては、お櫃のご飯を山盛りによそって返す。
 両親不在の寂しい家庭で育った詩乃は、こういうにぎやかな食卓に何よりもあこがれていた。
 愛する夫とふたりの息子と、古い友人たち。やがてここに、新しい家族と新しい友人たちが加わり、もっともっと囲炉裏ばたはにぎやかになっていくのだろう。
「聞いたところによると、ゆうべは昔話で盛り上がったんだって?」
 夕飯の後片付けがあらかた終わったころ、神林が、少し羨ましそうな声をあげた。「今夜も続きをやるんだろうな。俺は昼間、高校の話をしたから、今度はみんなの話を聞かせろよ」
「ええと、まだ一度も話してないのは?」
 詩乃は、鉄瓶から急須に湯を注ぎながら、一同を見渡した。「統馬くんと久下さんのふたりだけ?」
「ついに、この日が来た」
 矢萩龍二は、じーんとこみ上げる感動をかみしめた。
「ふたりの口から、今宵ついに隠されていた真実が明かされる。時を越え、性別を越えて、二百年間はぐくまれてきたのは、友情なのか、はたまた燃えるような恋なのか」
「まだ言ってる」
 詩乃はくすくす笑いながら、煎茶といっしょに、お土産の安倍川餅の小皿をひとりひとりに回した。
 孝子がうんうんとうなずく。
「東京の事務所でも、茶飲み話って言えば、そればっかりだったわよねえ」
「で、結局のところはどうなんだ?」
「ほんとに、みなさん懲りない人たちですね」
 久下は、はあっと大きなため息をついて、湯呑みを膝の前に置いた。
「かと言って、話さないと、いつまでも納得しそうもないし。――いいですか、統馬?」
「勝手にしろ」
 統馬は、囲炉裏の火を掻き立てていた火箸をグサッと灰の中に突き刺すと、元どおり円座に胡坐をかき、ふきげんそうに腕組みをして目を閉じてしまった。
 幼い藤次郎は、父の膝にさっと顎を乗せ、この世で一番すばらしい場所を確保した。
 遅れをとった兄の小太郎は、しかたなく反対側に回り、父の綿入れのすそを小さな手できゅっと握る。
「それでは、みなさんの知りたいことをお話しもうしあげましょう」
 居住まいを正して、凛と口を開いた久下は、いつもの久下尚人でありながら、別人だった。
 そこにいたのは、明治末期から昭和初期までを生きた華族の女性――鷹泉董子だったのである。
「一度だけ、ございました。慈恵という僧侶の記憶を持ったまま転生を重ねるわたしが、一度だけ御仏から賜った自分の使命を捨て、統馬の腕の中で忘我の境地にたゆたったことが」

 凌雲閣は、明治23年に浅草に造られた、赤レンガ造りの八角塔だ。
 後に「浅草十二階」と呼ばれる。十二階建て、高さは52メートルに及ぶ建物は、帝都東京においても、ひときわ高くそびえる存在だった。
 当時としてはまだ珍しい電動式エレベーターも完備し、最上階の展望室は、全国各地から押し寄せる観光客で、朝も夜もにぎわった。
 しかし、聖書の「バベルの塔」が、文明の爛熟と退廃の象徴となったように、凌雲閣もまた、たどった運命は数奇なものだった。
 客足の減少が経営難をもたらした。頻繁に故障するエレベーターは放置され、ほどなく栄華は、廃墟のような無秩序に取って代わった。
 浅草の街行く人々は眉をひそめながら、いつしか、この塔と、その周辺のことを「魔窟」と呼んだ。

 狭い通りはごったがえし、三歩歩くごとに立ち止まらねばならない。両側に立ち並ぶ見世物小屋には、あるいは派手派手しい絵看板が掲げられ、あるいは電飾灯がわびしげに揺れている。
 吹き矢。ろくろ首。からくり人形芝居。女相撲に奇術。
 奥に入れば、さらにいかがわしい見世物もある。畸形の動物の剥製。人間の胎児のホルマリン漬け。想像するだけで吐き気をもよおしそうだ。
 そしてその向こうに広がる売春街は、俗に「十二階下」と呼ばれ、巨大な深海魚のように、夜ごと多くの男たちをその腹に飲み込んでいく。
 統馬はそんな雑然とした人ごみの中を、さらし布に包んだ長い日本刀を手に、器用にすりぬける。まるで体を持たぬかのように、どんどん先に行ってしまう。
 董子の足がもつれる。着物の裾をさばきそこねたのだ。
「待って」
 ついに、弱音を吐いた。
 統馬は立ち止まり、振り向いた。その切れあがった双眸に、明確な苛立ちの色がにじんでいる。
 息を整え、乱れた裾をなおして顔を上げると、二三人で道端にたむろしていた客引き役の私娼たちが、統馬にすりより、彼の着物の袖を引っ張っていた。
「ねえ、書生さん。遊ぼう?」
 統馬は彫像のように冷たく立ち、董子をチラリと見た。『なんとかしろ』と言うかのごとくに。
 董子はすっと彼のかたわらに立ち、毅然と問うた。「何か御用でしょうか?」
 彼女たちは一瞬目を見張り、それから嘲るような表情を浮かべた。「なんだ、坊や。お母さまといっしょなの」
「お母さま?」
 去って行く娼婦たちの後ろ姿を見送り、口の中でつぶやく。
 統馬の母親と言われたのは、初めてだ。これまでは、姉か、せいぜい叔母さんだったのに。
「行くぞ」
 董子の内心の衝撃などお構いなしに、統馬はふたたび歩き出した。その敏捷な動きは、25年前と変わらず十七歳のもの。
 そして董子は、もうすぐ四十歳になろうとしている。
 凌雲閣は、今は階下が演芸場として使われている。だが、展望室へと続くらせん階段は、人気もなく、しんと静まり返っていた。
 かつては「満月をさえ欺く」とうたわれたアーク灯も消え、薄暗い電灯にぼんやりと照らされた階段は、異界への入り口のようだ。
 壁のあちこちには、破れたモノクロ写真がわびしく取り残されている。
 早々に壊れたエレベーターの代わりの客寄せをと経営者たちは知恵をしぼり、らせん階段の壁面に美人写真を張り出し、人気投票を行なうことを思いついた。
『凌雲閣百美人』
 この企画はたいそう当たり、一時は観客がどっと押し寄せた。
 花柳界の名芸妓たちがこぞって美を競う場として有名な「百美人」だが、明治24年の第一回は、華族の女性たちから選ばれたのだった。
 庶民にとって華族の女たちは、美しく手入れをされた高嶺の花。それゆえに、現代風に言えばアイドルとしてもてはやされていた。
 丸髷を結った侯爵夫人や、海老茶袴の伯爵令嬢たちが、雑誌のグラビアを飾った時代だ。董子自身も勘当される前は、新聞記者に写真を撮らせてほしいと、よく請われていた。
 董子は、破れた写真をじっとのぞきこんだ。
 暗い灯の中で、写真の女性は扇子を手に持ち、美しくほほえんでいた。
 その肌はすきとおるようだ。思わず、自分の荒れた肌に手をやる。
 長年にわたる過酷な旅の毎日が、董子の美貌を年齢以上にそこなっていた。着物の襟足は垢で汚れ、鬢のほつれには白髪がまじっている。
 想いを寄せる男は、清冽なまでの美しさと若さを保ったままなのに、自分はどんどん年を取って醜くなっていく。
「董子」
 なじる調子で、統馬は立ち止まった彼女に声をかけた。「早くしろ」
「夜叉の気配は……やはり、ここなのですか」
「ああ」
 統馬はこの頃、必要最小限のことばしか発しない。董子のことを見もしない。見るのも嫌なのだろう。老いて、ますます夜叉を追う旅の足手まといになっていく中年女など。
 董子が統馬の封印を解ける唯一の存在でなければ、とっくに途中で見限られているはずだ。
 のろのろと疲れた体を引きずって、らせん階段を登っていくと、破れた写真の中に、見知った少女の顔があった。
「鎌子さま――」
 それは董子が行っていた華族女学校で数年後輩だった女性だ。芳川伯爵のもとに嫁いで、子どもまでもうけたが、五年ほど前に運転手と駆け落ちのすえ、電車に飛び込んで心中を図った。
 こんなところに彼女の写真があるわけはない。第一、『百美人』コンテストは、もう30年も前に終わったのだ。
 そうは思っても、目が離せない。震える手を伸ばそうとすると、写真の顔がほほえんだ。
「あら、董子さま。おひさしゅう」
「……鎌子さま」
「あなたも、わたくしのことを馬鹿な女だとお思いなのでしょうね」
 扇子の陰に口元を隠す仕草も、あでやかで艶めかしい。
「みな、わたくしのことを悪しざまにおっしゃいますが、わたくし幸せでしたのよ。愛する男とひしと抱き合って電車に飛び込んだときも、ひとりだけ生き残って、『姦婦』と張り札をされたときも、ああ、これほど、ひとりの男を愛し抜くことのできた我が身を、どんなに喜ばしく思っていたことか」
 写真の女は、ホホホと哄笑する。
「あなたはどう? 生涯ただひとりの惚れた男に、好きとも言ってもらえず、抱かれることもなく。あなたの生涯はお幸せ?」
 息がつまって、声にならない。
「あら、お答えになれないのね。……ねえ。玉子さま、菊子さま」
 印画紙の中の亡霊は、隣の写真たちに呼びかけた。
「ええ、わたくしも、伯爵の夫を捨てて、家庭教師と不貞をいたしましたわ」
「わたくしもよ。なんと、甘美な密会!」
 狭いらせん階段は、はなやかなサロンと化した。シャンデリヤにまぶしく照らし出された大広間では、着飾った女たちが、燃えるような情事の体験を口々に語り合っていた。
 聞いているうちに、董子の身の内がじんじんと熱を帯びてくる。なまなましく、放逸でみだらな誘惑。
「でも、もうあなたには無理」
 貴婦人たちは、憐れむような笑いを浮かべて、董子をまっすぐに見つめた。「そんなにみすぼらしいお姿になってしまっていては」
「そうやって、女の喜びも知らず、むなしく枯れていくだけ」
「お可哀そうに」
「……やめて」
 董子は両手で耳をふさいだ。いやだ、聞きたくない。真実のことばなど。
「若いときは、あれほどお美しかったのに」
「今は御髪も艶を失い、肌は小じわだらけ」
「お母さまどころか、すぐにお祖母さまと呼ばれそう」
「やめて!」
「ここには、永遠の若さが待っているというのに」
 壁からするすると、女たちの手が伸びてきた。
「あなたも、こちらにいらっしゃいな」
 暖かく湿った指先が、董子の顔に触れる。髪にからみつく。
 触手のように、襟元からぬるりと襦袢の下に入り込む。
「ああ……」
 思わず、あえぎ声を立てそうになったとき、
「どけ、董子!」
 するりと、天叢雲を抜する音が背後から聞こえた。
 統馬が階段から舞い降り、壁に生えていた女たちの腕を、一刀のもとに両断する。
「ぎゃああっ」
 鮮血があたりに飛び散った。切り取られた手は、ばたばたと床に落ちて、もがき苦しんだ。
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・ドバンシャナン、アビュダラ・ニサトバダトン・ソワカ」
 統馬が除悪趣真言を唱えると、くねっていた手は次々と光とともに消滅していく。
 やがて、景色は元通り、暗い電灯に照らされたらせん階段へと戻っていた。
「だいじょうぶか、董子どの」
 白狐に転じた草薙の、心配そうな声がした。
「あぶないところじゃった。何百もの夜叉の集合体が、この塔に巣食っておったとは」
「夜叉の集合体?」
 思わず董子が顔を上げると、調伏を終えたばかりの統馬は階段に座りこみ、ぐったりと手すりに寄りかかっていた。
「高い塔は、迷った霊にとって目印になりやすい。近辺の成仏できない霊どもが、ここに集まって夜叉に束ねられていったのだろう」
「特に、この周囲は歓楽街。幸薄い女人たちの報われない想いが渦巻いておったのじゃろうなあ」
 壁に、もう「百美人」の写真はどこにもなかった。この塔に取り憑いていた夜叉はすべて消え去ったのだ。
「用事はすんだ」
 統馬は立ち上がると、階段を逆にたどり始めた。「長居は無用だ。行くぞ」
 そして、動こうとしない連れに気づいて、焦れたように振り返る。
「董子?」
「放って、おいて」
 その瞬間、何かが董子の中で音を立てて切れた。「わたくしは、もうあなたといっしょには参りません」
 うずくまったまま答える。統馬が数歩戻ると、「来ないで!」と叫んだ。
「来ないで……見ないで。どうせ、わたしは邪魔になるばかりです。年を取って……」
 枯れて。愚図で。役立たずで。統馬が目をそらすほどに、醜く老いていくわたしは。
 軽いため息を吐く音がした。
「草薙」
 白狐がうながされて刀の鍔に戻ると、刀はくるくると、さらし布の中に元通り巻かれた。
 そして、ふわりと董子の体を暖かい感触が包んだ。
「おまえが、いつまでもそんなふうだと、俺はどうしてよいかわからん」
 統馬の腕の中にいる。
 低い心地よい声が、耳元をくすぐる。
「そんな……ふうって」
「このところ、ずっとそうだろう。そんな思いつめた目で見られては、どんな顔を返したらいいのか、何と言えばよいのか」
「気づいて……いたのですか」
「俺にだって、我慢の限度というものがある」
 統馬の漆黒の瞳が視界のすべてを奪ったかと思うと、唇が重なった。
 あっと言う間もなく、全身がからめとられる。さっきの幻影の触手よりも強く。
 らせん階段にぺたりと座り込み、いつ果てるともなく互いの唇をむさぼる。
(天罰がくだるかもしれない)
 董子は、麻痺した頭の隅で考えた。
 僧侶と夜叉が互いを睦み合う禁忌。それでもいい。地獄に落ちたとしても、このひとときのためなら悔いはない。
 あの不義を犯した貴婦人たちの気持ちが理解できたような気がして、董子はようやく彼女たちのために涙を流した。

 身代りに天罰を受けてくれたのは、凌雲閣そのものだったのかもしれない。
 それからわずか半年。大正十二年九月一日。関東大震災の激震によって、凌雲閣は展望台からもろくも崩れ、無残に傾いた塔は、やがて跡形もなく解体された。

「それで」
 龍二は、むくりと体を起こした。「結局は、キスだけだったのかい」
「そうですよ」
「そのあとは? 十五禁と十八禁のボーダーラインとなる決定的事実は!」
「何言ってるんです。そんなこと、するわけありません」
「ばかーっ」
 龍二はいきなり、久下の頭をぽかぽか殴り始めた。
「思わせぶりな導入で、人をうんとこさ期待させやがって。何が『忘我の境地』だ。いまどき、こんなオチじゃ小学生だって納得しねえ!」
「じ、冗談じゃない。明治・大正のあの頃には、男女が寄り添うだけで命がけだったんですから。ましてや、夜叉と交わった人間は無事ではすみません」
 久下は龍二の手を振り払うと、何度も咳払いしたあと、おごそかに宣言した。
「とにかく、事実はすべて包み隠さず話しましたから。余計な勘ぐりは、もう金輪際やめてくださいね」
「なんだ。キスだけかあ」
「これで終わるのは、少し悔しいわね」
 などと、不完全燃焼の仲間たちは、まだぶつぶつ文句を言っている。
「要するに、キスの重みが全然違うということね」
 詩乃のひとことに、囲炉裏ばたの空気がふたたび凍りついた。
 急須や湯呑みを片づけていた若妻は、顔を上げて、にっこりとほほ笑んだ。
「平成の今なら、統馬くんだって、教室のクラスメートの前で平気でキスできちゃうけど。やっぱり、あの時代の董子さんへのキスは、重みが違ったと言いたいのよ。ね、久下さん」
「ま、待ってください。僕はそんなこと、ひとことも――」
 詩乃がすっと音もなく座を立ち、部屋を出て行ったあと、残された一同は、矢上の総領をひどく憐れむような眼で見た。
「なるほど。天罰は、これから下るんだったか」




(七話終 ―― 八話「きゃらめる」へ続く)  
NEXT  TOP  HOME