「満賢の魔鏡」 一の巻 「撫子」(2)                       back | top | home




厭魅えんみの術でござりまするな」
 桐人とうじんを、この家の主である源冷みなもとのすさましに見せると、彼はまぶたをぴくぴくと引きつらせて、叫んだ。
「なぜ、呪いの人形が家の地面に。わしにはそんな覚えはないぞ」
(任国にも赴かず、一族で富を独占して好き放題をしているくせに、何が恨まれる覚えがない、だ)
 しかしながら、そんなことは、おくびにも出さず、光季みつすえは慇懃な笑みを口に含む。
「して、いかがでござりましょう。お加減のほうは」
「おお、そうじゃ。さきほどから、臓腑が震えるような悪寒がなくなっておるわ」
「物忌みで家に篭もられたことが災いして、ご寝所の真下に埋められた桐人の呪詛を強く受けられたのでしょう。もう大事ございませぬ」
「そんな恐ろしいものは、早く燃やしてしまえ」
 呪いを祓った陰陽師自身がまるで汚らわしいものであるかのように、相模守は追い立てる仕草で片手を振り、踵を返した。
「承知いたしました」
 その背中にお辞儀をすると、光季は庭の一隅を借り、人形を燃やすことにした。火をつけるとたちまち燃え上がり、その黒い煙は空に高く昇り、風に散らされていく。
 光季は、懐から一枚の紙切れを取り出した。尻尾のある小さな生き物の形に切り抜かれた紙を地に置いて小さく呪をつぶやくと、紙はくるりと一回転して、たちまち一匹の鼠の姿になり、人の目には見えぬ煙の行方を追って走りだした。
 式神である。
「やれやれ。散歩には、ちと遅い時刻だが」
 若草色の狩衣の袖をひるがえすと、陰陽師はのんびりと笑った。
「呪詛のぬしのもとまで、しっかり案内あないいたせよ」


 式神の鼠は大路を横切り、小路を抜け、ひたすら西に向かって走り続けた。
 西の京、右京は遷都わずか数十年で、すっかりさびれた地となってしまった。荒れ寺や破れ屋が多く、人の姿もめったに見えぬ。昼は馬や牛が草を食み、夜は盗賊の巣という具合だ。
 本来ならば、貴族である光季が、夕刻にこのような場所を供もなく歩くのは自殺行為である。しかし、その堂々とした歩きっぷりには盗賊でさえも面食らうのか、一度も襲われることはなかった。
 鳥が山のねぐらに帰ろうと甲高く呼び交わし、草をわたる風がもの悲しく笛を吹く。
 橋のたもとに、木の陰に、崩れかけた塚のうしろに、夜の訪れを喜ぶ気配がうごめき始める。
 童の頃より藤原光季は、人には見えぬものを見、人には聞こえぬ音を聞く天賦の才を持つ男だ。その能力ゆえに、嫡男であるのに父から疎まれて育った。
 おのれだけに見えて他の者には見えぬ異形の正体とは何であるか。それを探り、霊の世界のあらゆる知識を極めたいと、元服を待ちかねるようにして陰陽寮に入ったのだ。
 それから十数年の歳月が流れた。
 いつの頃からか彼は、生きている人間よりも、命のない「妖し」のほうが、自分には近しいという思いを抱くようになっていた。
 人間の心にひそむ欲や憎悪の念よりも、もののけの切なくうめくような念のほうが、どれだけ正直であることか。
 今日はじめて光季を見た矢上直明は、陰陽寮を辞するときに賀茂峯雄に、こう囁いた。
「あの御方は、危のうござりまするな。悪霊を遠ざけて生きるにはあまりにも霊力が強く、悪霊を容赦なく滅するには、あまりにもお優しすぎるのです」
 いつのまにか日が暮れ、竹が鬱蒼と茂る山道では、足に闇がまとわりつく。
 歩を進めていた光季はぴたりと足を止めた。
 式神が、一軒の家の築地塀を登り、破れ目から中に入っていこうという素振りを見せたのである。光季が鼠の体を無造作につまみあげると、たちまち元通りの一枚の紙に戻った。
 塀の破れ目から、そっと中を覗き込む。
 屋根の上には雑草がはびこり、家の軒は崩れ、蔀戸しとみどは割れ、家の中には目立ったしつらいもなく、蕭然たる有様だった。
 庭も茫々と草が生えるにまかせている。ただ一箇所だけ、みごとな花が咲き乱れる一角があった。
 河原撫子である。
「撫子が、もう咲いておるのか」
 回りが荒れ放題なだけに、なごりの残照に映える可憐な薄桃色は、ことさらに風情がある。
 光季は崩れた塀をひょいとまたぐと、庭の中に入った。
 咎める声はかかってこない。ひとりで庭に立っていると、しんしんと静けさが降りてくる。
 東から昇ったばかりの月がみるみるうちに、すべてのものを藍と白の世界に染め替えた。
 どこからともなく一匹の白い狐が現れた。光季の指貫袴さしぬきばかまをくんくん嗅ぎまわると、ちょこんと前足をそろえて座る。その傍らには白い蛇も現れて、光季のくつに身をこすりつけるようにとぐろを巻いた。
「お行儀がよいのだな」
 驚いたふうもなく、光季は腰をおとした。「おまえたちの主は?」
 答えがあるはずもない。ふたたび立ち上がると、家の中にじっと目をこらした。
 奥に、ところどころ破れかけた御簾が架けてある。その後ろから、誰かの視線と息遣いを感じる。
 挑むように、光季は朗々と詠じた。

   秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑし 屋前やど石竹花なでしこ咲きにけるかも

 一瞬の間があって、涼やかな女の声が聞こえてきた。

   妹が見し屋前に花咲き時は經ぬ 吾が泣く涙いまだ干なくに

 いずれの歌も、万葉集、大伴家持の歌である。
『秋になったら見て私を想ってくださいと言って妻が植えた撫子が、庭に咲いているよ』
 という歌に、
『妻が見ていた庭に、時が過ぎて撫子の花が咲いた。わたしの涙はまだ乾かないのに』
 と返したのである。大伴家持が若き頃、亡き妻に送った挽歌と言われている。
「申し訳ありませぬ。お許しも得ずに勝手に入ってきてしまいました」
 と頭を下げると、「いいえ」と答えがあった。無論、すべて御簾ごしの会話である。
「ただ、驚いておりまする。このように歌を交わしたのは、もう何年ぶりでしょう」
 固い声色だったが、それでも人恋しい情がひそんでいるように思えた。
「ですが、高貴なお方が、なぜこのような破屋においでになられたのでしょう」
「役目にござります。わたしは藤原光季と申し、陰陽寮から遣わされた者です」
 はっと息をのむ音が聞こえた。
「陰陽師……でいらっしゃるのですか」
「さようです」
「お役目とおっしゃるのは……」
「さる公卿のお屋敷で、桐の人形が見つかりました。それを燃やし、そこから術者のもとに帰っていく呪詛の気をたどって、こちらにまかりこしました」
「そのようなことが、おできになるのですね」
 小さな溜め息。
「お察しのとおり、源さまのお屋敷に桐人を仕掛けさせたのは、この私です」
 罪を認めると、女の声から最初の戸惑いはもう消えていた。
「桐人は陰陽道の秘法。いったい、どなたからそのような危険な術をお習いになったのです」
「旅の陰陽法師さまが、この家に立ち寄られたのです。見よう見まねで作り方を教わりました」
「呪詛には必ず、『返し』がございます。もしわたしがその気になれば、あなたが相模守さまにかけようとした呪いを、そのまま御身に返すこともできたのですよ」
「なんと恐ろしい。もう二度といたすつもりはありません。どうかお許しくださいませ」
「事と次第によります」
 光季は、数歩前に進み出た。「よろしければ、ご事情をお聞かせいただけませんか」
「なにゆえです?」
「人を呪うとは、なまなかな覚悟ではできぬこと。いったいなぜ、源さまをそこまでお恨みになるのか、事情をうかがえば、多少なりともお助けすることもできるやもしれませぬ」
「あなたさまは、いわばわたくしの敵。そのようなことばが信じられましょうか」
「お話次第では、あなたのお味方にもなりまする」
「けれど、何のお返しもできぬ身ですのに」
「見返りなど求めておりませぬ。真実を探りきわめることが、陰陽師の性だとお思いくださいませ」
「ほんとうに、ご好意に甘えてよろしいのでしょうか」
 女の声に、次第に濡れたものが混じる。
「人を信じられず、こうして何年もひきこもって暮らしておりました。友といえば、庭に来る虫やけものだけ。けれど、わたくし以外には決して姿を見せぬものたちが、あなたさまにはすぐになついてしもうた。わたくしのお味方になってくださる方だという証拠やもしれませぬ」
 御簾がするすると開いた。
「すべてをお話しいたします」
 匂い立つような美貌だった。
 口元を扇で覆っているものの、髪は艶やかに黒く、肌はこの世のものとは思われぬほど、透き通るように白い。濡れた瞳は、昇ったばかりの月を映して艶然と光っている。
 これほどの気品をたたえた姫君は、都中探してもいないのではないか。
 光季は体の芯が、じんじんと熱を帯びるのを感じながら、割れかけた階段きざはしを上がると、簀子縁すのこえんに座して居住まいを正した。
 女の後ろにはべっていた枯れ木のように痩せた老婆が一礼して、几帳のうしろに退いた。白狐と白蛇は、光季の足元でおとなしく座っている。
「わたくしは、さきの相模国の国守、時宗王の娘です。父も母も弟もとうに亡くなり、乳母とふたりでこの荒れ家に住んでおります。名は――撫子とお呼びくださいませ」
 御簾という障壁がなくなり、彼女の声は夜風に運ばれて凛と響いた。
「父は国守に任ぜられて任国相模におもむいたとき、飢えや病、貧しさに苦しむ民を見て、その幾ばくかでも救いたいと念じました。無駄な饗応を省き、倹約に徹すること数年。そのあいだも、おりおりに都に民の窮状を上奏いたしました。しかし、それらは聞き入れられず――」
 涙をそっと袖で抑える。
「やがて、父のその務めぶりを良く思わない方々が現れたのです。その方々は、父が謀反を企んでいると根も葉もない噂を流し、やがて父はお咎めを受けて、牢に入れられ、そのまま失意のうちにみまかりました。そしてほどなく、母も弟も流行り病で――」
 撫子姫は扇の影に顔を隠し、低い嗚咽をもらした。
 光季は、胸がふさがれるような心地がして、ただ座っていた。
 姫はひとしきりむせび泣くと、ふたたび袖で涙をぬぐって、顔を上げた。
「わたくしひとりが、生きて相模国から帰ってまいりましたが、父の残したはずの蓄えも、いつのまにか無くなっており、何ひとつ残されていませんでした。それもこれも、父をあざむき、無実の罪を着せ、国守の地位を我が物にされた方々のしわざ――」
「それが源冷さまと、そのご一族、というわけですね」
 撫子姫はうなずいた。
 相模守は、時宗王が罷免されて以後、五代続けて源氏の姓を持つ者が務めている。時宗王の謀反騒ぎは、国守職を一族で独占するための、たばかりであったのか。
 相も変わらず都で続けられている、権力と富を争っての、みにくい政争の結末だったのか。
 若き光季の体内には、かっと血が集まり、手や足先の感覚がなくなってしまったように感じていた。
「さぞ、おつらかったでしょう」
「はい」
「さぞ、お恨みなさったことでしょう」
「はい――」
 彼女は弱々しい笑みをこぼした。
「けれど、どのような理由があれ、わたくしが呪詛を行おうとしたのは事実。恨みのあまり、人としての道を踏みはずしました」
「……」
「お役目をお果たしくださりませ。どうぞ、わたくしを検非違使に引き渡して」
「……そのようなことはできませぬ」
「え……」
「あなたたちの苦しみも知らず、諸国の民の貧しさも省みず、都で贅の限りを尽くして暮らしているわたしたちには、あなたを責める資格などございませぬ」
 激情が駆け抜けた。光季は膝立ちになり、一気にひさしとの段差をまたぐと、撫子姫のもとに擦り寄った。
 女ははっと体を硬くした。
「いけませぬ。光季さま」
「なぜです」
「わたくしは破れ屋に住まう、落ちぶれた咎人の娘」
「それがどうしたと言うのです」
 ためらいもなく光季の腕が回されると、撫子は抗ったが、やがてあきらめたように力をすっと抜いた。
「撫子姫」
 おずおずと胸にもたれかかる体からは、焚き染めた香のかおりがする。その芳香と、間近で見た美しさに目がくらみそうだ。
「みつ、すえ、さま……」
 赤い唇が、あえぐように彼の名を呼んだ。






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