「満賢の魔鏡」 一の巻 「撫子」(4)
back | top | home 「光季さま。わたくしをなぜお連れくださらなかったのです」 被衣の女は決して逃がすまいとするように、ゆっくりと光季に近づいた。 かぐわしい香がかおってくる。とたんに目がくらみ、橋板に片膝をついた。 それを見て、女は嗤った。その赤い唇から牙がのぞく。 やはりこの女人の本性は、人ではない。夜叉なのだ。 (寄るな) 下から睨み上げながら、唇の動きだけで、言う。 「わたくしのことを、疎んじておいでですのね」 哀しそうに、眉根を寄せた。 「お忘れになったのですか。あなたとわたくしは、あれほどひとつになりましたのに」 撫子姫は、光季のいる橋に一歩近づく。 (わたしを、騙したくせに) 「騙したのではありませぬ。あなたを選んだのです」 (なぜ) 光季の全身から力が抜け、目の前が白く霞んでゆく。 (なぜ、かような恐ろしきことを) 「力が欲しかったのです。父上の恨みを晴らし、都の人間どもに仕返しをする力が。頼みであった弟も死に、女であるわたくしが力を持つすべは、もうこれしかありませんもの」 (だから、弟君の肝を食べてまで、力を求めたのか) 「それでもまだ足りませぬ。あなたもご一緒にいらして、わたくしに力をお貸しくださりませ」 さらにもう一歩。しかし、夜叉姫の足はそこでぴたりと止まった。 橋には、欄干から橋板に至るまで、無数の護符が貼り付けられていたのだ。 「おのれ、こんなものを」 ぎりぎりと牙をきしませて、憤怒に震える。かろうじて光季は正気を取り戻した。 「う……あ」 自力で呪を解き、大声を上げた。橋のたもとにいた峯雄と直明が、ようやく彼の窮状に気づいた。 「光季どの!」 「来たか、夜叉め!」 橋の前に立ちはだかると、矢上直明が腰の刀を払い、撫子姫に向かって突き出した。 峯雄も懐から護符を取り出して、高く掲げる。 「ああっ」 撫子が苦しげに身をよじった。 光季は、それらのものをただ茫然と見つめている。 「光季さま」 姫は、突然高い、せつなげな声を上げた。 「お願いです。わたくしをそこまで行かせてください」 その声は、光季の全身を愛撫するように響く。 「わたくしのことを想ってくださるのでしょう?」 (……) 「お答えください。光季さま」 否、と言わねばならぬ。 おまえなど想っておらぬと言わねばならぬ。 だが、言えない。 憎むことができない。 ただ、この女が哀れでいとしい。 光季の額が、ちくちくと痛み出した。 「通してくださいませ」 「誰が通すか」 直行と峯雄が女を押し戻そうと、肩をいからせている。 祇園社の境内を、さらに激しい風が吹きつけた。 六十六本の矛が今にも折れんばかりに、しなる。 「光季さま、何かおっしゃって」 「光季! 答えるな」 峯雄が風の咆哮に負けじとわめいた。 怒りが沸いてくる。なぜ、みんなでよってたかって、わたしから撫子を遠ざけようとするのだ。 姫のもとに行きたい。ただそれだけなのに。 「撫子姫……」 吐息のように、ことばが漏れた。 「そなたが、いとしい。ともにいられるなら、人の世などに未練はない」 額の皮膚の下からぷっくりと、何かが突き上げてくる。髪がさわさわと生き物のように動き始める。 守り手たちは、恐怖にうなじを総毛立たせて、うしろを振り向いた。赤い橋の上に立つ白い浄衣の男は、すでに人の目をしていない。 「……退け。おれの邪魔をするな」 「光季――」 「頭に角が……」 光季はみずから結界のある橋を降りて、彼らの横をすりぬけた。 「撫子姫」 しっかりと女の体を抱きしめる。 「おお。うれしい」 姫は、彼の胸にしなだれかかった。 「ごいっしょに来てくださるのですね。わたくしとともに永遠の刻を歩んでくださるのですね」 いとし子を撫でるように、光季の角を撫で上げる。 空を覆うほどの巨大な黒い影が現れて、光季たちを包み始めた。 「あれは……」 「この女夜叉を操る上位の夜叉です」 「こんなものが、この都に巣食っておったのか……!」 峯雄も直行もその場に立ち尽くすだけで、為すすべもない。 姫は微笑みを含んで、なまめかしい息を吹きかけた。 「あなたさまなら、きっと強い夜叉におなりです。ともに人の世を滅ぼしましょうぞ」 光季は、影の作り出す闇の中でゆっくり目を閉じた。 意識が遠のいていく。 生に意味はない。死にも意味はない。人に、生きる意味などない。 温かい海に身を沈めるように、快楽と狂気にすべてを明け渡してしまえばよい。 愛する人と欲望のままに互いを求め、ふたりで永遠に漂っていればよい。 だが。 それで、本当によいのか? それが、おのれが本当に望むことなのか。 それが、撫子姫が本当に救われるということなのか? 違う。 今起きていることは現ではない。 まことの世は、ここではない別のところにある。 この中で紡がれようとしているのは、偽りの歴史。偽りは、正されねばならぬ。 「あっ」 撫子姫は、悲鳴をあげて後ろに飛び退った。 光季が懐にしのばせていたものがある。 紙に包んだ、一輪の撫子の押し花。 「わたしには、これを愛でていたときのあなたが、わたしを騙していたとは到底思えぬ」 光季は、荒い息の中から言った。 「あなたは本当は、人を憎みたくないのだ。力を求めたくはなかったのだ。都の心ない仕打ちが、あなたをそのように追い詰めてしまった」 「や、やめろ……」 「睦み合うて、歌を詠じていたときの穏やかなあなたの笑顔を、もう一度見せてはくれぬか」 いつのまにか、光季の額の角がかき消えている。 ふらふらと近づき、撫子姫を力の限りに胸にかき抱き、その耳元につぶやいた。 「鬼魅は降伏すべし、陰陽は和合すべし、急急如律令」 「ぎゃああっ」 姫は、ありったけの力で光季を突き飛ばすと、被衣をかなぐり捨てて、地面に叩きつけた。もうもうと土ぼこりが舞い上がった。 長い二本の角と、怒りに吊り上がった、血走った目があらわになる。 「おのれ、光季」 憎憎しげに叫んだ声は、低い男のものだった。 「今だ、直明どの」 賀茂峯雄はひとこえ叫ぶと、片手で刀印を切った。 「臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前。悪魔降伏・怨敵退散・七難速滅・七復速生秘」 矢上直明も、両手で印を結んだ。 「ナウボバギャバテイ・タレイロキャ・ハラチビシシュダヤ・ボウダヤ・バギャバテイ」 陰陽師が唱えるは、「九字呪言」。夜叉追いが唱えるは、「仏頂尊勝陀羅尼」。 「うわああっ」 夜叉姫は髪をかきむしり、苦しみもだえ始めた。 そのとき境内に建てられていた矛のうちの一本が、ゆうるりと倒れ、その根元が地面から抜けたと思うと、そのまま生き物のように宙を飛び、撫子の体を真正面から貫いた。 女の軽い体は、吹き飛び、音もなく地面に倒れた。 「撫子姫!」 光季は駆け寄って、かたわらにひざまずいた。「こんなことが……」 彼女を覆っていた巨大な黒い影は、もう消えていた。 撫子は、うっすらと目を開けると、空を仰ぎ、自分の胸に突き刺す二丈もの矛を、そこにひらめく旗を見た。 「これは、相模国の矛――」 弱々しく、つぶやいた。 「天罰……なのですね。わたくしのしたことを、父上も母上も弟も悲しんでおられるのですね」 光季は黙って彼女の手を取った。その目からぽろりぽろりと涙が落ちて、小さな掌に落ちた。 「光季……さま」 姫の白い額から、角が消えていった。ざんばらの悪鬼のようだった髪は、もとの美しい濡れ羽色に戻った。 「あなたと過ごした夜は……ほんとうに楽しゅうございました」 「姫……」 「あのときだけ、わたくしは、本来の自分に……戻れたような気がいたします」 撫子姫はやわらかく笑むと、目を閉じた。 そして、その目はもう二度と開くことはなかった。 祇園御霊会の六十六本の矛は、それから七日後に、神輿とともに神仙苑の水辺に送られた。都を苦しめていた疫病とともに、日本国中からすべての悪霊が退散するようにと、人々は祈りをこめて見送った。 すべてを見届けると、光季は賀茂峯雄に、陰陽寮を辞することを願い出た。 「矢上直明どののもとに、身を寄せようと思っています」 直明はあのあと、光季にこう忠告したのである。 「一度夜叉に憑かれた者を、やつらは容易には見逃しませぬ。またいつか、あの上位の夜叉はあなたさまを襲ってくるはず。決して油断めされますな」と。 「矢上一族は、都の巽の方向に屋敷を構え、そのぐるりに固い結界を結んで住んでおられます。わたしもそこに迎えていただいて、結界の中にともに住まうことにいたします」 そして、陰陽道のわざを夜叉追いに伝え、かわりに真言密教にもとづく彼らの調伏の方法を学ぶ。 朝廷の権力者のために働くのではなく、悪霊のしわざに苦しむ民のために働く。 出家して撫子姫の霊を弔うよりも、それが自分にふさわしい生き方だと、光季は思うようになっていた。 「残念だ」 峯雄は、白髪の混じり始めた口髭を引っ張りながら、心なしかうるんだ声で言った。 「光季どのには子をたくさんなしてもろうて、陰陽道の家系として、長く賀茂家を助けてほしかったのに」 「申し訳ありませぬ」 「まあ、その器を見出す仕事は、忠行に任せるとするか」 陰陽守を継ぐことになっている嫡男の名前をつぶやくと、峯雄はもう一度いとおしそうに光季を見た。 光季は、撫子姫の屋敷に向かった。 主のいなくなった屋敷は、蜘蛛の巣にまみれ、前よりいっそうわびしく荒れ果てて見えた。 姫の乳母という老女も、いつのまにか姿が見えなくなっていた。あれは、生きているものだったか。それとも、魔界に属するものだったのだろうか。 庭の撫子が、風に揺れている。盛夏だというのに、もうそこは秋の気配があった。 夜が訪れ、月の光が降り注ぐまで、光季はそこに立ち尽くした。 気がつくと、白い狐と白い蛇が足元にうずくまり、身を摺り寄せてくる。 「おまえたちも、姫がいなくなって寂しいのだな」 白狐と白蛇は、神の使いだと言われる。彼らがここの庭にいたからこそ、撫子姫はひとときでも、夜叉ではなく、ひとりの女に戻れたのではないだろうか。 「わたしと一緒に行こう」 ひざまずいて、彼らを胸に抱いた。二匹は抗わずに、ぺろりと光季の手の甲をなめた。 「これからは、式神としてわたしに仕えてくれぬか」 ぷんと良い香りがしてくる。 草薙は、すっと水面に浮かび上がる心地で目を覚ました。 「ナギちゃん、おはよう」 ふと見ると、矢上詩乃がデスクのまわりをきびきびと動き回って、朝の掃除をしている。 「良く寝てたね。そばで掃除機をかけても、全然起きなかったよ」 「ああ……夢を見ておったぞ」 草薙はゆっくりと起き上がり、自分の白い狐の体を見つめた。 真実の歴史は、鏡の中の幻とは少し異なる。 実際には、藤原光季はあの橋から降りず、声も出さず、撫子姫は陰陽師と夜叉追いの力によって、その目の前で調伏されていった。 それから光季は矢上一族とともに暮らし、そこで七十年の生涯をまっとうした。 陰陽師として、また夜叉追いとして、一族の先頭に立って民を苦しめる鬼や夜叉と戦ったが、撫子姫を見捨てた自責の思いからひとときも逃れることはなかった。 死ぬまで妻をめとることも、子をなすこともなかったが、死後にその霊力を惜しまれて、霊剣・天叢雲に魂をこめられたのだ。 だが真打ちのほうにではなく影打ちの天叢雲に、本来の光季の意識が宿ってしまった。それは、権威を嫌って生きてきた彼らしいことであったのかもしれなかった。 そして今は草薙という名で呼ばれ、彼の式神のひとりであった白狐の姿をとって、21世紀に生きている。 「よい匂いじゃな」 「あ、気づいた?」 デスクのかたわらの床に置かれた花瓶には、花がこんもりと活けてあった。 「統馬くんと朝早く散歩に出かけたら、秋の草がとても綺麗で。思わず摘んできてしまったの」 ススキ、萩、女郎花。彼岸花や撫子などが、まるで野原を移してきたかのように自然な姿で咲いている。 撫子。 もしかするとこの花の香りが、同じ名を持つあの姫の記憶を呼び覚ましたのだろうか。 それにしても、肌のぬくもりさえ残っているほどの、このなまなましさはどうだろう。 ゆうべ覗いたこの鏡に何か仕掛けがあるのだろうか。草薙は、かたわらに落ちている円鏡を不思議そうに見た。 「どうしたの、ナギちゃん」 「いや、なんでもない。それより」 草薙は髭をふるわせて笑った。「結婚して一年半も経つのに、いまだに自分の夫に対して『統馬くん』はないじゃろうに。もっと若妻らしい呼び方はないものか」 詩乃は、恥ずかしそうに口ごもる。 「だって。統馬くんは統馬くんだもの。ほかの呼び方なんてできないよ」 「旦那さまとか御前さまとか御屋形さまとか」 「やだあ。時代がかってる」 「ハニーとかダーリンとかマイラブとか」 「やめてよ。ぜんっぜん似合わない」 けらけらとお腹を抱えている詩乃を見つめながら、草薙はさびしげに黄金色の目を細めた。 撫子姫も、このような時代に生まれておったなら、どれほど幸せそうに笑うたであろうな。 秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑし 屋前の石竹花咲きにけるかも ――わたしは統馬と詩乃の睦まじい姿を見ながら、かなわなかったおのれの恋心を慰めているのやもしれぬ。 「あ、ナギちゃん、わたしもう行くね。今日は卒論演習で大学に行く日なの」 「うほっ。わたしも連れて行ってくれんかのう。久々にぴちぴち女子大生のお尻を眺めて、しみじみ癒されたいわい」 「いいわよ。じゃあ、小さくなって携帯のストラップにぶらさがってね」 詩乃と草薙が出て行ったあと、無人の事務所には、満賢の魔鏡だけが残った。 その背に刻まれた文様は、ひとつ消えて、三つになっていた。 一の巻 了 next | top | home Copyright (c) 2004-2008 BUTAPENN. |