「満賢の魔鏡」 二の巻 「曼珠沙華」(1)          back | top | home




「おや。きれいな花ですね」
 夕方になって、ようやく所長デスクの椅子に腰を落ち着けた久下尚人くげなおとは、そのかたわらにあった花瓶に、すぐに目を留めた。
 秋の野をそのまま持ち帰ったような風情の花々だった。
「あ、今朝早く、統馬くんと散歩に出たときに、摘んできたんですよ」
 香りのよい玄米茶を淹れた詩乃が、台所から戻ってくる。
「ふうん。これだけ野草が生えているところというと、T市内ではどこでしょう」
「実はかなり遠くまで行ったんです。まだ暗いうちから出かけて、帰ってきたのは十時頃だったかな」
「またあいつは、詩乃さんに無理をさせて」
 久下は、困ったヤツだと言わんばかりに苦笑した。
「無理なんかじゃ。朝の空気は澄みきって、とってもいい気持でしたよ」
 詩乃は思い出し笑いをこらえながら、さらに言った。
「統馬くんは都会で暮らしてると、どうも息が詰まるみたいなんですよね。ときどき、自然があるところに無性にでかけたくなるみたいです」
「たしかに、とても都会的とは言えないヤツですからねえ」
 久下の視線は、まだ花の一点の上に留まっている。「それにしても、……綺麗な曼珠沙華だ」
「久下さんも、曼珠沙華が好きなんですか?」
 詩乃が不思議そうに尋ねた。
「え?」
「この花のことを、縁起が悪いっていう人がいるでしょう」
「確かに。秋のお彼岸ごろ、お墓の回りによく咲いているので、そういう先入観があるのでしょうね」
「赤くてきれいなんだけど、少し哀しげで……」
「そう言えば、そうかもしれません」
「花言葉も、『悲しい思い出』とか『過ぎ去った日々』とか、あまりよいものがなくて。あ、そう言えば、『思うのはただ一人』という情熱的なのもありますけど」
「へえ」
「統馬くんも、この花をじっと見ていたんですよ」
 詩乃はさりげなく言い添えて、チラリと久下を見た。
「ふだんは花になんか全然興味ないのに、この花の前では長いあいだ立ち止まって、じーっと」
 お盆を腕に抱えながら、まだ意味ありげに見ている。
「あーっ。詩乃さんたら、また良からぬこと考えてるでしょう」
 久下は飛び上がった。
「だって、男ふたりが同じ花を見て、それも、ふたりとも昔を思い出すような憂いを帯びた目で、しかも、極めつけなのが『思うのはただ一人』だなんて――」
「よしてくださいよ。まったく詩乃さんは、いつまで経っても発想が腐女子なんだなあ」
 久下はくすくす笑いながら湯飲みを手に取り、ずぶりとお茶をすすった。
 久下尚人は、この世に五回、生を受けている。
 直前の生が鷹泉董子ようぜんとうこという女性であり、しかも統馬に恋愛感情を抱いていたために、久下が今でも統馬を好きなのではないかという説が、内輪では根強く残っているのだ。
 久下はお茶を飲み干すと、ぽんぽんと手を叩いた。
「さあ。今から僕は、孝子さんに提出するレポートを書かなければなりません。遅くまでいると思うので、詩乃さんはもう今日は帰ってください」
「いいんですか? 久下さん、昨日も今日も出張で疲れてるのに」
「国からの補助をいただいて運営している以上、きっちりと業務内容を報告するのが所長の義務ですよ」
 パソコンのスイッチをオンにするとき、久下はデスクの上に置かれた一枚の円い鏡を見つけた。
「あれ、この鏡は詩乃さんのですか?」
「いいえ、違いますよ。今朝デスクの上にあったから、てっきり久下さんのものだと」
「僕のじゃありませんよ。あれ、じゃあ草薙が置いたのかな。そう言えば、草薙は?」
「ナギちゃんなら、今日は昼からずっとうちに来て、統馬くんと話してますよ」
「四百年来の仲ですし、いろいろ語り合いたいこともあるのでしょう。今晩はそちらに泊めてあげてくれますか?」
「ええ、そうします。それじゃ」
 詩乃は扉から出て行くとき、もう一度ふりかえった。
「久下さん。気をつけてくださいね」
「ありがとう」
 なぜ、そのとき詩乃がそんなことを言ったのか。ずっと後になってから、久下は不思議だと思う。
 コンピュータを起動させると、久下は待っているあいだ、ふたたび花瓶の曼珠沙華に視線を注いだ。
「統馬。覚えてたんですね。あれから百四十年も経ったのに」
 目を閉じ、その唇にひそやかな笑みが浮かんだ。
「百四十年。転生を繰り返していた僕にとっては短い時間だけど、あなたにとっては長い長い歳月だったんでしょうね。幕府が倒れ、諸外国に向かって門戸を開き、そして戦争――清相手に、ロシア相手に、そして米英を相手に……」
 そして、目を開け、誰もいない事務所でひとりごとを言っている自分に可笑しくなる。
「日本は――変わりました。明治・大正・昭和・平成と経て、僕たちは何を得て、何を失ったのでしょう」
 ふと、さっきの円鏡に視線が戻った。
 満賢の魔鏡は、過去になんらかの後悔を抱えている人間をいざなう力を持っている。
 久下は、その力に引かれるように鏡を手にし、中をのぞきこんだ。


*  *  *  *  *


 満賢の魔鏡の中で、人は過去に戻る。
 後の記憶をなくして、まるで元からその日々を過ごしてきたように、生きるのである。


 慶応三年(1867年)。
 ひとりの若者が、江戸の町を走っている。
 月代をぼうぼうに伸ばし、衿をはだけ、旗ざおのように竹刀を肩に引っ掛け、古びた草履をぺたぺたと音を立てながら走っている。
 品川にある土佐藩下屋敷から、京橋桶町までは普通に歩けば一時(約二時間)。数寄屋橋を過ぎたあたりから御堀に沿って上がると、鍛冶橋のさらに向こうが桶町。北辰一刀流の千葉道場がある。神田お玉が池の玄武館に対して、こちらは「小千葉」「桶町千葉」などと呼ばれている。
 若者は、その小千葉道場の塾生である。
 名は、津野新右衛門つのしんえもん。年は十九。
 新右衛門はその日大切な用事を頼まれていたことを思い出し、藩邸の長屋で朝飯をかきこんでから、急いで駆けて来たのである。
 門をくぐると、道場には向かわず、まっすぐ裏の井戸端に回った。
 まだ午前とはいえ、じりじりと地面を焦がすような盛夏の太陽が照りつけていた。
 紫のたすきをかけた小柄な女性が数人の女性といっしょに、その太陽の下で洗濯物を竿に干してぽんぽんと叩いている。
「さな子さん」
 彼女が、この道場の師範千葉重太郎の妹、さな子だった。年はもう三十を越えているが、嫁には行っていない。十七のときから江戸にひとりで剣術修行に来ている新右衛門にとっては、姉のような人であった。
 一緒にいるのは、さな子のふたりの妹、里幾子と幾久子、それに重太郎の女房のお八寸である。
「新さん、おそい」
 さな子は、ぷっと頬をふくらました。
「虫干しは、朝が勝負なのですよ。これでは蔵から全部出す前に、日が暮れてしまいます」
 新右衛門が頼まれた大切な用事というのは、虫干しの手伝いであった。
 江戸三大道場と高名を馳せる千葉道場、蔵にしまいこまれている由緒ある剣や甲冑の類はいうに及ばず、書画骨董だけでも、半端な数ではない。
 新右衛門は、甕からひしゃくで水をごくごく飲み干してから、
「はあ、すみません。さっそく」
「あ、ちょっと待って、新さんにお客さまです」
 蔵に行きかけるのを呼び止め、さな子は耳打ちした。
「……いつもの、あの方」
「え、来てるんですか?」
「お待ちになるあいだにご飯を召し上がるようにおすすめしたのですが、これでいいとおっしゃって」
 さな子は軒先に置いてあったざるに目を落とした。まだ土のついた夏大根が何本か積まれている。
「ねえ、あの方はいったい、どういう暮らしをしてらっしゃるのでしょう」
「ははは……」
 新右衛門は頭を掻きながら、笑って誤魔化した。


 白州に回ると、離れ座敷から縁側へと綱が一面に張り渡されているのが見えた。色とりどりの着物が虫干しのために架けられ、まるで満艦飾と言った風情だ。
 その艶やかな景色になんとも不似合いな男がひとり、反対側の道場で縁側の柱にもたれて、生の大根をかじっていた。
 ぼうぼうと伸びた髪をうしろで束ね、着物も袴もすりきれて絣模様が消えかけている。
 目は殺伐とした光を秘めていて、くつろいだ姿勢で大根なんぞ手に握っていなければ、たちまち道場破りと間違えられるだろう。
 時折ふらっと新右衛門を訪ねてくるこの得体の知れない男に対して、さな子たち千葉家の人間は、どこか畏敬を抱いている節がある。この男が只者ではないことに、剣の道を究めた者だけが持つ勘が働くのだろう。
「統馬」
「……遅かったな」
「ああ、今日は先代将軍の祥月命日で、稽古は休みなんだ」
 新右衛門は腰の刀を脇に置いて、彼の隣にどっかと胡坐をかいた。
 走りづめですっかり汗で濡れそぼった首すじを、手ぬぐいで拭きながら、
「しかし、暑いなあ」
「……」
「そういえば、おまえと初めて出会ったのも、二年前のこんな暑い日だったな」
「もうそんなになるか」
 統馬はそっけなく答えた。
 新右衛門が、郷里の土佐から江戸へ剣術修行に出てきて、わずか数ヶ月後のこと。
 品川の藩屋敷から出てきた新右衛門を、まるで辻斬りのように待ち構えていたのがこの男だった。実際、辻斬りと早合点して剣を抜いた。構えた瞬間、相手の底知れぬ気に、全身から間欠泉のごとく汗が吹き出したのを覚えている。
「四十年さがしたぞ、慈恵」
 彼はただひとこと、焦れたように言った。
 それが矢上統馬。夜叉八将を倒すために三百年近く生きてきた男だった。
 そのときのことを思い出して、新右衛門はしみじみと呟いた。
「おれは腰を抜かすほど驚いたよ。それまでは自分のことを、一介の田舎藩の軽格武士の次男坊としか思っていなかったからな。慈恵という僧侶の生まれ変わりだなんて、いまだに信じられないときがある」
 統馬は喉の奥で笑った。
「俺も、思いもしなかった。まさかおまえが、よりによって四国で、長曾我部の子孫に生まれていたとはな」
「乱世に出会っていたら、伊予のおまえと土佐のおれは敵同士だったってわけだ」
 かたわらに置いていた竹刀をぐいとつかむと、新右衛門は色褪せた夏空を背に立ち上がった。
「どうせ、汗掻きついでだ。おい、統馬。今から手合わせせんか」
「他流試合は、師範に禁じられているんじゃないのか」
「重太郎先生は今日は鳥取藩屋敷じゃ。誰も見ちょらんきに」
 剣客としての途方もない闘争心に気持が昂ぶり、隠していた土佐なまりがついポロリと出る。
 裸足のままスタッと白州に降り立ち、新右衛門は下段星眼に構えた。刀の切先がふるふるとセキレイの尾のように震えるのが、北辰一刀流の構えの特徴だ。
 統馬も竹刀を一本手にとって降りてくると、中段に取る。
 暑にとろけていた空気が、瞬時にしてぴんと張りつめた。
 にらみ合いに痺れを切らし、新右衛門が先手に打って出ようとしたその時、なにやらバタバタと駆けて来る足音が響いた。
「あ、いかんちゃ。蔵の虫干しを頼まれていたんじゃった」
 屋敷の影から躍り出てきたのは、武者兜をすっぽり頭に被った小柄な人影だった。
「さな子さん?」
「新さん、助けて」
 両手をばたばたと振りながら、鬼面の武者兜はくぐもった声で訴える。
「新さんがちっとも来ないから、ひとりで蔵を開けて片付け始めたら……積んであった桐の箱が崩れてきて、中身が落ちてきて……」
「ぶ、わははは」
「笑い事ですか。これ抜けないのよう」
 新右衛門は腹をよじりながら、さな子の頭から兜を引き抜こうとしたが、どうやっても一向に抜ける気配がない。
「どうなっちょるんじゃ。おい、統馬。手伝ってくれ」
「やだーっ。ふたりがかりで引っ張ったら、首がちぎれちゃう!」
 いやがって暴れていたさな子が、急に押し黙った。一転して、庭に不気味なほどの静けさが漂う。
「さ、さな子さん、どうした? 息でも詰めたか?」
 おそるおそる問いかける新右衛門のかたわらで、統馬がぼそりと言った。
「まだわからぬか。その兜に憑いているものの正体が」
「えっ、夜叉か?」
「でなければ、積み上げていた箱が落ちたくらいで、人の頭に兜が嵌まるわけがなかろう」
 古来から伝わる武器甲冑の中には、死人の怨念をたっぷりと吸い、夜叉に変じるものがあるという。それらは人に取り憑いて生者の気を吸い、はたまた人間を操り、新たな血を求めるのだとか。
「わ、わかった。避除へきじょ真言を唱えるんじゃな」
 新右衛門は手印を結ぶと、おぼつかない口調で真言を唱え始めた。
「オン・ソバニソバ・ウン・バザラ・ウン・ハッタ――」
 突然、兜の口から、苦しげな男のうなり声が漏れた。武者兜頭のさな子は、いきなり新右衛門をすごい力で突き飛ばすと、離れ座敷に駆け上がり、干していた色とりどりの着物を剥ぎ取り、撒き散らしながら乱舞を始める。
 この世のものとは思えぬ、異様な光景となった。
「わーっ。統馬。どうしたらいい?」
 統馬は無言で、腰に差していた霊剣・天叢雲を鞘から放つと、白い砂を蹴立てて舞い上がった。
 次の瞬間、依り代を操っていた夜叉兜は、まっぷたつにかち割られ、ごろりと床にころげ落ちた。
「まあまあ、どうなすったんですか!」
 重太郎の細君の八寸が物音を聞きつけ、あわてふためいて駆け込んできた。
 座敷の真ん中では、ぽかんと呆けた表情をしたさな子が、着物の山に埋まって座っている。
「ぶわはははっ」
 それを見て、新右衛門はまた笑いころげる。
 霊剣を鞘に戻しながら、統馬はあきれ果てたようなため息をついた。


 夜叉追いとしてはまったく緊張感に欠ける能天気な若者。この津野新右衛門こそが、謹厳実直な苦労人・久下尚人の、幕末の前世であった。





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