「満賢の魔鏡」 二の巻 「曼珠沙華」(2)          back | top | home




「おれはやはり、夜叉追いには向いちょらんと思う」
 どかと腰をおろすなり、新右衛門は言い放った。統馬の仏頂面を見ると、稽古中からモヤモヤとしていたことが一気に噴出した。
 矢上統馬は決まった宿を持たない。
 荒れ寺の軒先で、農家の納屋で、大樹の洞で、気が向けばどこででも眠る。
 それでいて、新右衛門が必要なときには不思議に姿を現す。
 今日も小千葉道場を出て品川の藩屋敷に帰る途中、ふと道端に目をやると、草屋根の辻堂に統馬が寝ころび、昼寝を決め込んでいるのが見えた。
「確かに、おれは慈恵の生まれ変わりだ。しかし、慈恵ではない。直吉でもない」
 直吉とは、新右衛門の前世にあたる。
 農民の出だが、生まれついて文字を読み、子どもの頃より神童と騒がれるほど、たぐいまれな霊力を備えていた。直吉のわずか数十余年の生涯のあいだに、統馬はふたりもの夜叉之将を倒している。
 そのことも、霊力がからっきしない新右衛門が自信をなくす原因だった。
「おれはおれだ。津野新右衛門という人間だ。おれにしかできないことをやりたいんだ」
 返事をしない統馬に、血が昇った頭がさらに熱くなる。
「夜叉を追うのがおれの持って生まれた天命であることは、よくわかっている。だが、男として生まれた以上、この時代でしかできない大事も、またなさねばならん」
「なんだ、その大事とは」
 面倒くさそうに、統馬が答えた。
「勤皇の志士になる。もっと剣を磨き、竜馬さんのお役に立つような、ひとかどの人物になる」
「坂本、竜馬か」
 薩摩藩と長州藩の仲立ちをして、不可能と言われた薩長同盟を結ばせてしまった男。
 今や倒幕運動の中心人物となった坂本竜馬と、新右衛門の剣の師・千葉重太郎は、血気盛んな若き日に行動をともにしている。黒船来航と聞き、いっしょに浦賀まで見物に出かけたり、ふたりで勝海舟のもとに押しかけていって、反対に感化を受けて帰ってきたり。
 そのころの冒険譚を、酒が入るたびに新右衛門は重太郎からよく聞かされる。
 新右衛門自身も一度だけ、竜馬に会ったことがある。二年前の春に郷里から江戸に上る途中、伏見の寺田屋に投宿していた竜馬と偶然出会った。
 新右衛門ら軽格の土佐郷士にとって憧れの存在。座に同席させてもらい、天に昇るような心地で言葉を交わした。
 そのときのことを思い出すにつけ、新右衛門は切羽つまった思いに駆られる。自分のうちにブスブスとくすぶって、まだ燃えかねている火種を感じるのだ。
「やめておけ」
 統馬は冷ややかに返した。「そんなことはおまえでなくても、誰かがやる」
「だが、おれがその役目をやりたいんだ。今は幕府を倒し、日本六十余州全体を新しく作り変えることが先決なんじゃ」
「幕府が治めようが、朝廷が治めようが、この国は何も変わりはせん」
「なんで、おんしに、そんなこつば言える」
 興奮すると、新右衛門は土佐なまりが出る。
「変わる。おれたちが変えてみせる」
 だから、今は夜叉などを追っている時代じゃない。新右衛門はそう言いたくなるのを、ぐっと堪えた。
 そのために戦国の世から三百年間生き続けてきた統馬に、それを言っても無駄だ。
 しかたなく、統馬のかたわらに置いてある刀に顔を向けて、同意を求めた。
「なあ、草薙、おんしはどう思う」
『……そうじゃのう』
 鈍色の刀鍔がきらりと光った。困ったような愉快がっているような思考が頭の中に響いてくる。
 『念話』。
 霊剣・天叢雲の刀鍔である草薙は、人語を念話として話すことができる。
 しかしこの時代、草薙の態度は驚くほど控えめだった。統馬に遠慮してか、自分からものを言うことはめったにない。無論、白狐や白蛇に姿を変えるところも、新右衛門は見たことがなかった。
(どうして現代では、あれほど、おしゃべりに変わるかなあ)
 などと頭の中で考えるが、どうしてそんな奇妙なことを考えるのかは自分でもわからない。
「……ちぇっ」
 気まずくなった新右衛門は、統馬から顔をそむけるようにして、ごろりと横になった。
「竹ヤァー」
 竹売りの掛け声が、遠くをのんびりと動いていく。七夕はもうすぐだった。


 夏の日が江戸の町になごりの残照を置いていく頃、新右衛門は帰り道を急いでいた。
 あのまますっかり寝込んでしまい、目を覚ましたときにはもうすっかり日暮れだった。
「統馬のやつ、ひとこと声をかけて起こしてくれればよいものを」
 繰言を並べながら飛ぶように歩く。
 桶町から品川藩邸までの二里の道は、ちょうど東海道を品川宿まで旅するようなものだ。すっかり馴染んだ道ではあるものの、先は遠かった。
 新堀川にかかる金杉橋を渡ったところで足を止め、汗みどろになった首筋を拭って、竹筒から水を飲んだ。
 夏とは言え、秋の虫が盛んに鳴いている。
 このあたりは本芝と呼ばれ、島津薩摩守七十七万石の中屋敷があるところだ。西応寺の松が、藍に暮れた西の空を背景に、黒々とたたずんでいる。
 二人の侍が、その影から溶け出したように、こちらに歩いてきた。
「ほんのこて、伏見の寺田屋には必ず寄るちゅうとか」
 新右衛門は、ハッと身を強ばらせた。立ち聞きした会話によく知った寺田屋の名が出てきたからだ。
 考える前に体がすっと動き、近くの木の後ろに隠れる。
 殺気とまでは行かぬが、それに似た類の敵意を、剣を修練する身に感じたのだ。
「いや、それはわからん」
 もうひとりは、対照的に冷ややかな物言いをする男だった。
「京では、偽名を使ってあちこちの店に投宿するらしい。才谷梅太郎と名乗ったこともあると聞いた」
 物陰にいた新右衛門は、さらに息を呑んだ。それは竜馬さんのことではないか。
「いつ斬りもす?」
「それを今から相談しようというのだ。江戸町一丁目の玉屋、朧花という遊女の部屋で落ち合うことになっている」
「センセもお好きなことじゃ」
 豪快な笑い声を残し、武士たちは橋のほうへと歩いていった。
 二呼吸ほど見計らうと、新右衛門は元来た道を戻り始めた。くだんの侍たちの姿は見えない。たぶん途中で駕籠でも拾ったのだろう。
 韋駄天のごとく江戸の町を浜松、宇田川、芝口と駆けに駆けると、さっきまでいた辻堂が見えてきた。
「おい、統馬」
 中に飛び込むと、湯気を立てながら新右衛門は叫んだ。
「今から、吉原に行くぞ!」


 統馬は寝ぼけまなこで起き上がると、さも興味がないと言わんばかりに大あくびした。
「行きたいのなら、勝手に行けばいいだろう」
「おんしも一緒に来てくれ。おれひとりでは心もとない」
「金なら、俺にたかっても無駄だぞ」
「金のことなど、言うちょらん」
 新右衛門は床にあぐらをかくと、履いていた足袋の中敷を引き剥がし、さかさまに振った。「金子なら、国の親父から、もしものときのためにと頂戴してある」
 ちゃりんと小気味良い音がして、小判が何枚か転がり出る。
「親御さまが持たせてくれたのは、遊女を買うための金ではないと思うが」
 あきれ果てた声で、統馬は言った。
「違う。吉原に行くのは、天下の一大事のためじゃ」
 新右衛門は、たった今物陰から盗み聞いた会話について、あらましを話した。
「あれは、竜馬さんを斬ろう、ちゅ相談じゃったと思う」
「とりたてて騒ぐことか。あの男は今、日本中の佐幕派から命を狙われているのだろう」
「じゃども、それとは、ちと違うような気がするんじゃ」
 新右衛門は、心中の不安に駆られて、唇をきゆっと噛んだ。
 あのふたりの武士の片一方は、あきらかに薩摩訛りがあった。おまけに、やってきたのは薩摩藩屋敷の方角。
 薩長同盟の立役者である坂本竜馬を、よりによって薩摩藩が亡き者にしようとするはずがない。
 それとも彼らは、薩長同盟に異を唱える脱藩者か何かだろうか。それならば、そういう者たちが徒党を組んでいることを、竜馬さんはご存じなのだろうか。
「奴らの正体を確かめてみたい。うまく説明できんが、とてつもない凶事がはらまれている気配がする」
 新右衛門の真剣な面持ちを見て、統馬は何か言いたげな口をつぐんだ。
「勝手にしろ」
 ごろりと寝ころんでしまう。
「ついてきてはくれんのか」
「俺は行かん。ひとりで寂しいなら、こいつを連れていけ」
 後ろ手でぐいと新右衛門に押しやったのは、霊剣・天叢雲だった。夜叉を斬る巨大な霊力をこめられてはいるが、それだけでは大根一本切ることのできぬナマクラである。
『だいじょうぶじゃ。いざとなれば、わたしが結界を張ってしんぜよう』
 霊剣の鍔が、励ますようにカタカタと鳴った。


 新吉原は、浅草寺の裏手のさびしい堤に沿って歩いて、ようやくたどり着く辺鄙なところにある。
 遊郭に行くのがはじめてとあって、新右衛門は手ぬぐいで頬かむりをして、素性を隠そうと無駄な努力をしていた。
 気恥ずかしさをまぎらわすためか、しょっちゅう腰の刀に話しかけてもいる。
「だいたい統馬は冷たすぎる。人の情ちゅうもんがなさすぎる。夜叉追いが人の情を捨てて、どうして人を救えるんじゃ」
『まあしかし』
 相変わらず、草薙の物言いは穏やかだ。
『統馬はおまえのことを、じゅうぶん気にかけておるぞ』
「あれでか?」
『郷里も近く、齢も近い。おまえと過ごすのは、ことのほか楽しげに見ゆる』
「おれには、不機嫌のかたまりにしか見えないが」
『だが、今は齢近くても、おまえはやがて老いて、統馬を置いて死んでいく。慈恵も直吉もそうじゃった』
「それは……自然の理じゃ」
『直吉が死んでからの長い歳月、統馬は諸国をさすらった。ようやくおまえを探し当てて、喜ばぬはずがない。とは言え、情を持たば、別れもまた辛し。統馬も胸中いろいろな思いを抱えているのじゃよ』
「そうなのか……。おれはずっと疎まれておると思うておった」
 出会ってから二年も経つのに、いまだ一人ではろくに夜叉も祓えない。おれという相棒は統馬にとって、期待はずれの出来損ないなのではあるまいか。
 ずっとそういう劣等感に悩まされ続けていた。
「そんなら、そう焦ることもないか」
 少し心が晴れ、月夜を仰ぎながら土手を歩くと、吉原の細い見返り松が見えてきた。


 大門をくぐると、仲の町。両側に引手茶屋が立ち並ぶ広い目抜き通りだ。
 例年、七月の吉原は、茶屋の軒先に細工をこらした灯篭を吊るすのが慣わしだった。玉菊という名妓の追善供養のために始められたもので、「玉菊灯篭」と呼ぶ。切子灯篭、回り灯篭、提灯、のれん、風鈴などが夏の夜風に揺れ、極楽浄土のように美しい別世界だ。
 このときばかりは、男たちのほかに、女房、娘たちも出入りを許されて見物に訪れる。通りは、いつもにます人出でごったがえしていた。
「さて、玉屋の朧花だったな。どうやって会うか」
 登楼にはむずかしいしきたりがあると聞いた。そんな段取りのことなど、まるで頭になかった新右衛門である。
 思案しながら歩いていると、着飾った花魁たちがずらりと格子付きの座敷に並んで、艶やかさを競いながら男の目を誘っている。
 むせかえるような化粧けわいの香り。
 見るともなく見ているうちに、若い身の内に、女の柔肌をしたう、煮えたぎるような泉が湧いてくる。
(ここまで来たのだ。少しくらい)
 ふらふらと細い脇道に入ろうとして、はっと我に返る。
(バカ、何を言うちょる。おれには暗殺者の正体をさぐるという大切な仕事がある)
 まさにそのとき、ぐいと後ろから腕をつかまれた。
「どこへ行くつもりだ」
 冬の海より冷たい目をした男が、新右衛門をにらみつけた。
「統馬! 来てくれたのか」
「玉屋に行くのだろう。方向が違う」
「ち、ちがう、待ってくれ、この細見(案内図)を見ると、玉屋が二軒あるんじゃ」
「江戸町一丁目の玉屋はひとつしかない。『火焔玉屋』と呼ばれるほうだ」
 統馬はかまわずに新右衛門を引きずり大門のほうまで取って返すと、「玉屋」の屋号と火焔の模様を染め抜いた暖簾のかかった店の角をひょいと曲がった。
「統馬、おまえ吉原にえらく詳しいな。廓で遊びよったことでも、あるのか」
 統馬は、ぐっと喉がつまったような音を立てた。
「遊女に憑いた夜叉を祓ってやったことがある。もう三十年も昔の話だ」
 勝手口を平気でくぐると、ふたりは廓の裏手に回った。木戸のそばに老女がたたずみ、統馬に向かってお辞儀をする。この女が手引きをしたのだろう。
 中は薄暗かった。
 上の階から華やかな灯りが洩れ、三味の音に合わせて京唄が流れてくる。
「朧花の部屋は、どこじゃ」
 階段をつぶやきながら登っていくと、
「気をつけろ」
 下から、統馬の押し殺すような声がかかった。
「妓楼全体に覆いかぶさる夜叉の気配がする」
「なんじゃと?」
 新右衛門はあわてた。
「ちと待て。統馬、先鋒を代わってくれ」
「おまえの用事で来たのだろう」
「夜叉がいるなどと言われたら、おれには手に負えんわい」
 狭い階段の上でつかみ合っていると、どこかでガシャーンと茶碗や盆をひっくり返す音がした。
 襖ががらりと開き、中から紅の襦袢を腰に巻きつけ、胸をはだけた遊女が、
「助けてッ。殺される」
 と這うようにして飛びだしてくる。
 ついで、髪を振り乱した大店の若旦那然とした優男が、小刀を握って現れた。
「金の切れ目が、縁の切れ目とは、よくも言ったものだ」
 ハーハーと荒い息の合間に、うなる。「夕映、わたしと一緒に死んでおくれ!」
「な、な、なんと。これは」
 成り行きで男と女のあいだに割って入った形になった新右衛門は、生まれて初めて見る修羅場に、目を白黒させて突っ立っている。
「新右衛門!」
『新右衛門、あの男、夜叉に憑かれておるぞ!』
 統馬と草薙が同時に叫んだとき、長い廊下の向こうでそっと襖が開き、三人の男の影がすべり出るのが見えた。騒ぎに気づき、係わり合いを恐れたのだろう。
「き、彼奴らじゃ!」
 近景には、小刀をかざした男。遠景には、追ってきた薩摩藩士たち。
 新右衛門は迷わず、走り出した。
「わあっ」
 狂気に囚われた男は、侍が自分を襲ってくると勘違いし、めちゃくちゃに小刀を振り回した。
 それを難なく避けると、新右衛門は腰の天叢雲を目にも留まらぬ速さで抜き上げた。
「オン・バザラ・シャキャラ・ウン・ジャク・ウン・バン・コク」
 男を覆っていた暗い影は、光の一閃とともに霧散した。
 床にへなへなと崩おれた身体をひととびに跨ぐと、後ろも見ずに、立ち去った三人の後を追う。
「新右衛門のやつ」
 統馬は呆気にとられて、その後姿を見送った。
 いとも簡単に真言を唱え、夜叉を祓った。それも調伏後の衝撃からすると、かなり上位の夜叉である。
「やれば、できる――のか」
 やがて、とぼとぼと帰ってきた新右衛門は、
「取り逃がした」
 と言い捨て、悔しげに地団駄を踏んだ。
 夜叉追いとして今生で初の大仕事を果たしたことなど、まったく気づいていないところが、新右衛門らしくはある。  




next | top | home
Copyright (c) 2004-2008 BUTAPENN.