「満賢の魔鏡」 二の巻 「曼珠沙華」(3)
back | top | home 「退屈、だなあ」 両手両足を広げて、このまま高い秋空に吸い込まれんとばかりに、目を閉じる。 季節は移り変わり、旧暦九月になっていた。 新右衛門は口で言うほど、退屈していたわけではない。この二月間というもの、その活躍は目ざましかった。 桶町の千葉道場では剣の大目録をもらい、二十歳の若さにして免許皆伝となった。 夜叉追いとしても、にわかに開眼したらしく、あれから幾体もの夜叉を祓った。 新右衛門の成長は、種がいちどきに芽吹いて花をつけ、実までつけてしまったような性急さだった。 「退屈」などという思ってもみない言葉が口をついて出るのは、あまりにも急激に動きすぎた運命に、自分が一番とまどっているからかもしれなかった。 突然、むくりと起き上がった。 「なあ、統馬。祭りに行かんか?」 「祭り?」 「品川から通ってくる途中に、芝の神明宮というところがある。この時期はいつも大勢の人で賑わうておる。いつ始まっていつ終わるかもわからん、神明のだらだら祭りじゃ」 「行こう、行こう」と節をつけて、新右衛門はさっさと歩き出す。 出会ったときにはまだ細かった少年はいつのまにか背が伸び、たくましい一人前の侍になっている。統馬はまぶしげに彼の背中を見やると、何も言わずについてきた。 神明宮の門前町には、提灯をぶら下げた露店が軒を連ねて、ちぎ箱や生姜を売っている。曲独楽や軽業、力持ちの見世物が小屋を開き、客寄せに笛や太鼓で囃子たてている。 「ここの祭りは、吹き矢がおもしろい」 新右衛門は腕組みをしながら、あちこちを覗いて回った。 「吹き矢が当たると、細工で竜宮城の戸が開いたり、妖怪が上がってきたりする。面白いぞ。やってみるか」 「いや」 統馬は答えた。「それより、何か話したいことがあるのだろう」 新右衛門はべっこう飴屋を見つけると、いそいそと懐から五文銭を出し、飴を買った。 人通りのない拝殿の裏に回ると、しんと静まり返った境内に虫の音が響き、秋の草が茂っている。 「曼珠沙華、か」 あざやかな紅の花の群れの前で、ふたりは立ち止まる。 「俺の里では『死人花』や『捨子花』と呼ばれている。どこか哀しげな花じゃ」 統馬は沈黙で、先のことばを促した。 「実はな、国もとから帰藩の命令が出た」 新右衛門は、淡々と話し始めた。 「長崎で、えげれすの軍艦の水兵二名が何者かに切り捨てられた。その嫌疑が土佐人にかかった。えげれすの軍艦が幕艦とともに、須崎港に乗り込んできたそうで、もう少しで土佐中がひっくり返るような騒ぎになるところじゃった」 統馬は何も言わずに、ただ聞いている。 「藩家老たちは、国もとの守りを固めるために、江戸に剣術修行に来ているおれたちを呼び戻した。藩命は絶対。このまま江戸にとどまろうとすれば、脱藩しか道はない」 新右衛門はしばらく飴をねぶっている。 「脱藩してもいいかとも思う。おれは土佐藩が嫌いじゃ。上士が威張りくさって、おれたち郷士を人とも思っておらん。浪人になれば、夜叉を追う旅にも出られる。武士という身分は自由が利かん。だが――」 がりがりと威勢よく飴を噛んで、ごくりと飲み込んだ。 「今は土佐が中心となって、大政奉還の建白案を練っている時じゃ。薩長土の三藩連合が、維新回天をなしとげる。藩の体制も変わらねばならぬ。今まで軽格と蔑まれていたおれたちが藩を動かすときが来た。おれも、その中で何かをなしとげたい」 新右衛門はうしろを振り向いた。 「俺が国に帰れば、おんしはどうする?」 「別に異存はない」 統馬は他人ごとのように、そっけなく答える。 「ついてきてくれるのか」 「ああ」 「土佐の海はいいぞ。すごい海じゃ。浜を揺り動かすような波が来よる。ときどき沖に鯨が来て、ちっぽけな人間をあざ笑うように、泳いじょる。桂浜で月を見ながら、酒を飲もう」 しだいに気が晴れてきたというように、空気を大きく肺に吸い込む。 「伊予には帰ったことがあるか?」 「いや、もう百年以上帰っておらん」 「そうか、おれたちが出会ったとき以来か」 慈恵と草薙と、そして半遮羅とが洞窟でまみえたあのとき。彼らの運命はあのときから撚り合わせた糸のように、時を越えてつながっているのだ。 「この国が落ち着いたら一度、伊予にお遍路にでも出かけてみるか」 新右衛門の誘いに、統馬は黙って笑っただけだった。 江戸出立は十一月早々と決まり、新右衛門は挨拶回りなどの準備に忙殺された。 千葉家の人々は、たいそう別れを惜しんでくれた。 「もう少ししたら、おまえを塾頭に据えるつもりだったのに」 酒を酌み交わしながら、重太郎は何度も愚痴を言って、泣いた。 さな子も、下手なりに一所懸命に紋羽の胴着を縫ってくれた。 「さな子さん、いつまでもぐずぐずしていないで、さっさと嫁に行きなさいよ」 新右衛門がお礼のことばとともに、そう忠告すると、さな子は「やな人だこと」と、いきなり叩いてきた。 その様子をじっと眺めていた統馬は、 「おまえ、あの女が好きだったのか」 と、ひとこと呟く。新右衛門は仰天した。 (そうか、おれは、さな子さんのことが好きだったのか) 言われてみれば、思い当たるふしもあるのだ。 しかし、今さら気づいても詮無きことであった。自分は土佐に帰る。そしてさな子が生涯、心のうちに想っているのは、坂本竜馬だけなのだ。 二年半暮らした江戸の町と、別れるのはつらかった。田舎に比べれば、万事につけ華やかで、人情も細やかな江戸を立ち去りがたく、しんみりと思っていた頃、そんな感傷を吹き飛ばすような報せが飛び込んできた。 大政奉還。 十月十四日、十五代将軍慶喜が大政奉還を朝廷に上表し、十五日受理されたというのである。 品川宿まで重太郎の見送りを受け、新右衛門は東海道を土佐に向けて旅立った。 さな子の縫ってくれた胴着、木綿の半纏に道中合羽を重ね、型付の股引、紺足袋に草鞋。そして竹刀と防具。 東海道、江戸から大坂までは百三十七里、十五日間の旅である。 統馬は旅装束もせず、いつものすりきれた絣のはかまで新右衛門の後ろをついて歩いた。 いっしょの宿には泊まらない。手形の要る関所に来ると、いつのまにか姿が見えなくなるが、そこを過ぎれば、すぐに姿を現わす。影のように付き従う、という形容がぴったりとあてはまる。 冬ながら天候にも恵まれた、のどかな旅だった。 新右衛門は、 「駿河府中の安倍川餅と、草津の姥ヶ餅はうまいらしいぞ。かならず茶屋に入ろう」 などと言っては、統馬を呆れさせている。 だが、この若者の心中には、穏やかならぬものがある。 大政奉還によって、歴史は一気に動き始めた。自分ひとりがその流れに取り残されたような気がして、いても立ってもいられない。 足が進むより倍も気が急く。だから、わざとのんびりと構えたふりをしている。 ところが、四日市を過ぎたあたりから、街道沿いの宿場や村の様子がおかしくなり始めた。 平穏は平穏なのだが、まるで竜巻が過ぎた後のような平穏さなのである。 草津まで差し掛かると、その騒動が何であったのか、ようやく宿の者たちの話を聞くことができた。 「おかげおどり」が出た、というのだ。 十月の終わりごろから、伊勢神宮の札が空から吹雪のように舞い降りた、という噂が立った。そして実際に、何者が神符がばらまくということも起こったようである。 熱狂した民衆たちは、老若男女の区別なく、町にくりだした。 鼓を打ち、三味の音に合わせて、踊りながら口々に、こう歌った。 「ええじゃないか、ええじゃないか、くさいものに紙を張れ、破れたらまた張れ、ええじゃないか、ええじゃないか」 このお陰踊りは、尾張あたりから始まり、西へ西へ、ついに京や大坂へ波及したというのである。 「なんじゃろうな、統馬」 新右衛門は、不安がチクリと胸を刺すのを覚えた。 「世情が不穏なので、人心が騒いでいるのだろう」 「夜叉が、裏で糸を引いているということはあるか?」 「今のところはない。だが……」 統馬も、表情が険しくなる。 「大量の魂を狙う夜叉之将には、格好の狩り場となるな」 東海道の京と大坂の分岐点、山科追分で彼らは「おかげおどり」の現場を見た。 ある者は、きらびやかな錦をまとい、ある者は赤い前垂れをかけ、男は女の着物を、女は男の着物を着ている。そして群れをなして、「ええじゃないか」と歌いながら踊り狂っているのである。 異様な光景だった。 だが、そこに夜叉の影響を感じられなかったふたりは、そのまま伏見街道を通って、今夜の宿と定めた伏見に向かった。 伏見は、京・大坂を結ぶ海運基地である。千隻以上の舟が行き交い、大名の本陣や旅籠がひしめいて賑わっている。 ここから三十石船で大坂まで下り、天保山沖から船で三日かけて土佐に至るのだ。 伏見には、坂本竜馬が定宿にしていた船宿「寺田屋」があった。 新右衛門は、寺田屋で竜馬に会えることをひそかに楽しみにしていた。会えずとも、せめて女将のお登勢や竜馬の妻のおりょうから、彼の近況が聞けるに違いない。 「お登勢さん。こんにちは。津野新右衛門です」 合羽を脱ぎながら、のれんをくぐると、 お登勢が「まあ、新右衛門はん」と笑顔であいさつに出てきた。賢い女将は、きちんと彼の顔を覚えていてくれた。 新右衛門は一度だけここに泊まったことがある。それからも、竜馬宛の書簡を寺田屋に送って取次ぎを頼んでいる。この七月の例の一件、竜馬の暗殺について密談していた薩摩なまりの怪しい武士たちのことも、手紙に逐一書き記して寺田屋に送り、それに対する礼状が竜馬から届いていた。 新右衛門は、あがりかまちで草履を脱ぎながら、 「このへんも、お陰おどりが大変でしたか」 軽い世間話のつもりだったが、お登勢は話に食らいついた。 「そうなんどす。八幡から伏見のあたりは、ちょいと前まで本当に毎日毎日大騒ぎどしたえ」 たらいに張った湯で足を洗う新右衛門のそばで、女将は騒動の逐一を説明してくれた。 「今は京や大坂にまで飛び火して、町なかは騒然としていると聞きます」 「竜馬さんは、今どこですか?」 「京の市中にいてはります」 新右衛門は、首をかしげた。 この騒ぎの中で京にいる竜馬が、このうえなく危険な状態にあるように思える。踊りにまぎれて、どんな不穏な輩が忍び寄るかもしれないではないか。 新右衛門に手ぬぐいを渡しながら、お登勢は「実は」と声をひそめた。 「きのう、わたしは竜馬はんのもとに使いを遣ったのどす」 「どのような?」 「在京の会津藩士が竜馬はんを狙っている。そういう噂を聞きつけて、ぜひ気をつけておくれやすと」 「会津藩士、ですか」 確かに、竜馬を恨む幕府方の大名や旗本たちは決して少なくない。 だが、それとは反対の勢力にも、竜馬は恨まれているのではないだろうか。あくまで武力倒幕を推し進めてきた勢力にとって、竜馬の推し進めてきた武力によらぬ大政奉還は、意に染まぬ選択であったろう。 「薩摩藩に何か動きはありませんか」 「薩摩なら、ほんのつい今しがた、伏見藩邸に大久保はんがお越しやしたそうどすえ」 「大久保利通が」 漠然とした不安は、もはや胸騒ぎなどとは呼べないほどに大きく膨れ上がった。 女中が新右衛門の荷物を奥に運んでいったが、彼自身はいつまでも玄関を動こうとしなかった。 「新右衛門はん?」 「お登勢さん。わしは今から竜馬さんのところに行ってくるきに」 脱いだばかりの足袋と草履をもう一度そそくさと履く。 「今からどすか? 冬の日はすぐ暮れて、もう真っ暗になりますえ」 「どうしても、今でなければならんのじゃ。竜馬さんの居所を教えてくれ」 女将は、新右衛門の感じているのと同じ切迫したものを感じたのだろう、こっくりとうなずいた。 「河原町蛸薬師で醤油を商う近江屋はんに、いてはります」 「また戻ってくる。荷物ば預けちょく」 外に飛び出したとき、もう少しで統馬とぶつかるところだった。 「新右衛門」 統馬も、今まで見たことのないほど蒼ざめていた。 「大坂の方角に、とてつもなく大きな夜叉の存在を感ずる」 「なんだって?」 「今はまだかすかな気配だ。だが、騒ぎに便乗して、夜叉之将が動き出す前触れやもしれぬ。今すぐに立つ。舟の手配をしてくれ」 あまりに急に多くのことが動き出したので、頭が働かない。 「待ってくれ、統馬」 数回、大きく息を継ぐ。 「おれは行けん。京に取って返さねばならん」 「京に?」 「竜馬さんの身辺に、陰謀の気配を感じるんじゃ」 統馬は、不快そうに眉を吊り上げた。 「あの男も武士だ。自分の身は自分で守る。大勢の仲間が、そばにいるのだろう」 「だが、おれが行って忠告すれば、多少は……」 「慈恵!」 三百年生きてきた男は、雷鳴のように怒鳴った。 「おまえのすべきことが何か、わかっているのか。今のおまえなら、大坂の方角にただよう気配を感じるだろう」 「感じる。けど……」 「それ以外のことは、他人にまかせておけばいい。何のためにおまえは転生したんだ!」 「わかっちょる。わかっちょるけんど、おれは竜馬さんを救いたい。それができるのは、今のおれしか、おらんのじゃ!」 伏見の雑踏の中で、ふたりの男はにらみ合った。 「――勝手にしろ」 溶岩のように煮えたぎった目をして、統馬は一歩後ろに下がった。 「俺はひとりで、大坂に行く。金輪際、おまえの助けなど受けぬ」 『おい、待つのじゃ。統馬、冷静になれ』 草薙の必死の念話をもはねのけるように、統馬は薄暮の向こうに掻き消えた。 「馬鹿が」 土佐弁で悪態をつき、目の縁にたまった雫をぐいと袖でぬぐいあげると、新右衛門は統馬とは反対側に向かって走り始めた。 京市中に向かう竹田街道をひたすら駆ける。 慶応三年十一月十五日。寒風吹きすさぶ冬の空には、月も星も出ていなかった。 next | top | home Copyright (c) 2004-2008 BUTAPENN. |