「満賢の魔鏡」 二の巻 「曼珠沙華」(4)          back | top | home




 近江屋の木戸を開け、土間に立った新右衛門は、ぜいぜいと肩でしていた息を整えると、大声で呼ばわった。
「才谷梅太郎さんはおられますか」
 才谷とは、竜馬が用いていた変名である。やがて、身体の大きな下僕らしき男が出てきた。
「土佐藩士、津野新右衛門という。坂本先生にお取次ぎ願いたい」
 下僕が階段を上がっていくと、ややあって二階から「新右衛門か。上がれ」という声が降りてきた。
 駆け上がると、二階の奥の八畳間に坂本竜馬は座っていた。相変わらずの縮れ髪がぼうぼうと、すすけ立っている。
「お久しぶりです。竜馬さん」
「おお、新右衛門。立派になったのう」
 部屋にはすでにひとり先客がいて、中岡慎太郎と名乗った。新右衛門は腰のものを置くと、ふたりに深々とお辞儀をした。彼らが無事であったという安堵に、油断すると顔がくしゃくしゃになりそうだ。
 しばらく重太郎やさな子の近況について雑談を交わしていたが、そのうちに、竜馬が先ほどから妙に鼻声なのに気づいた。羽織の下に綿入れをしているらしく、着膨れている。
「お顔の色がすぐれませぬが」
「ああ、チクと風邪っ気がある」
「そんなら、手早く、今日の用件を申します」
 新右衛門は、片膝をぐいと前に押し出した。
「竜馬さん。寺田屋のお登勢さんが案じていました。竜馬さんが会津藩士や新撰組に狙われちょるのではないかと」
「ふむ」
「おれも同感です。手紙にも書きましたが、薩摩なまりの武士が竜馬さんを斬る相談をしていたのです。敵はどんな姿をしてくるかわかりません。こんなところではなく、せめて藩屋敷にお移りになったほうが」
「だいじょうぶじゃ。おれには、これがあるきに」
 竜馬が懐から出したのは、黒光りする短銃だった。
「スミスアンドウェッソンの五連発銃じゃ。はじめて見るか」
「……はい」
「おれは最新式の七連発ライフル銃も千三百挺買い付けて、土佐に贈った。新の字。これからは、刀はいかん。銃の時代じゃ」
「……」
 新右衛門は声もない。
 桶町千葉道場の塾頭までつとめた男が、剣をさげすみ、護身を銃にたよっている。
 現に、竜馬のかたわらには武士の魂であるはずの刀はない。床の間に架けたままなのだ。同じ千葉道場に学び、剣に命を懸けてきた新右衛門には、赦すことができない所業だった。
 小さな怒りが一滴、胸にさざなみを立てるが、どうしようもない。
「用件はそれだけです。これにて失礼します」
「待て。新の字。土佐に行く前にこれを見ていけ」
 竜馬は無邪気な笑顔で手招きすると、行灯の明かりを引き寄せて、自分が先ほどまで見ていた紙を畳の上についとすべらせた。
 最初に「新政府綱領八策」とある。
 朝廷を中心に建て上げられた新政府の、立法から軍事・経済に至るまでの政策草案である。

第一義 天下有名の人材を招致し、顧問に供ふ。
第二義 有材の諸侯を撰用し、朝廷の官爵を賜ひ、現今有名無実の官を除く。
 ――などと続く。

 竜馬は、その結びの句を指差した。

「○○○自ら盟主と為り、此をもって朝廷に奉り始て天下万民に公布云々、強抗非礼公議に違ふ者は断然征伐す、権門貴族も貸借する事なし」

「どうじゃ」
「どうと言われても、おれには何のことだか……」
 紙に向かってじっと屈みこんでいた新右衛門は、ふと怪訝そうに顔を上げた。
「この最初のマル三つは何ですか?」
「何が入ると思う?」
「盟主となって朝廷に仕えるお方――土佐藩主、『容堂公』ですか?」
 竜馬はくいと顎を上げ、高らかに笑った。
「誰でもええんじゃ」
「誰でも?」
「そうじゃ。おまんが今言うたように、それぞれ自分の殿様の名を入れて読めばええぜよ。そうすれば、各藩とも競って維新回天のために働く。それでええんじゃ」
 新右衛門はぽかんと口を開けて、聴いている。
 薩摩も長州も芸州も土佐も、自分の藩が新体制でどのような位置を占めるかにやっきになっているだろうに、この人だけは、そんなことにはまったく囚われていない。
 日本という国の未来だけを考えている。
 すごい人だと思った。もしかすると竜馬の頭の中には、敵であった徳川慶喜の名前さえ盟主として思い浮かんでいるのかもしれない。
 だが、お家大事の旧い考えから抜け切れない人たちにとっては、竜馬のこの考えは受け入れられるのだろうか。
 ことによると、竜馬は倒幕派にとっても佐幕派にとっても、邪魔な存在になりつつあるのではないか。
「新右衛門よう」
 竜馬は涼やかな目をして、言った。
「人の生死は、天の意志ぜよ」
 それを聞いたとたん、臓腑が波打った。
「天命が尽きたとき、おれは死ぬ。おまんも死ぬ。だが、天命ある限り、人は死なぬ。天が死なさぬ」
「はい」
 こっくりとうなずいた。みぞおちが震えている。
 もう一度、畳に額をすりつけて辞去の礼をした。
「いっしょに飯を食っていかんか。今、軍鶏を買いに人をやらせている」
「いえ、今日のところは失礼します。どうしても今晩中に大坂に立たねばなりません」
 新右衛門は、竜馬の笑顔を目に焼きつけるようにじっと見る。
「竜馬さん、また土佐で会いましょう」
「うん」
 階段を下った。
 なぜだか、涙がじわりとにじんでくる。
 一刻一刻、次の瞬間の死を覚悟しながら歩んできた竜馬の強い信念があればこそ、大政奉還という偉業は成し遂げられたのだ。
(おれは、竜馬さんを死なさぬ。たとえ天が死なすとしても、俺が死なさぬ)
 刀を差し、土間に降りたとき、入り口からひとりの侍が入ってきた。
 新右衛門は軽く黙礼して、すれ違いに出て行こうとした。そして戸の外に、刀の鯉口を切った数人の侍が立っているのに気づいた。
 とっさに刀を抜く。
 地面がゆらいだような気がした。まるで祭りの幻燈絵を見るように、視界が狭くなる。


 気がつくと、両手が血にまみれていた。自分の息がまるで、ふいごのようだ。
「竜馬さん」
 新右衛門は、肺が痛むほどの大声で叫んだ。
 竜馬の下僕の藤吉が腰をぬかしてガタガタ震えている。
 血を吸って重くなった草履を脱ぎ捨てると、ころがっている男たちの死体をよけて、板の間に上がった。
「新右衛門、無事か」
 竜馬の声が、降りてくる。
「はい、中岡さんは?」
「だいじょうぶだ」
 三人は薄暗い階段の上と下から、互いの無事を喜び合った。
「ここは危ない。土蔵に移るぞ」
 驚くほど短時間に、防備は固まった。海援隊の隊士たちも、たちまち集結した。たとえ外に第二の襲撃を計画する者がいたとしても、この様子を見ればあきらめただろう。
「それでは、おれはこれで」
 辞そうとする新右衛門の血にぬれた袖を、竜馬はガシとつかむと、熱い瞳を据えて彼を見た。
「礼ば言う。おれと中岡が間一髪で命永らえたのは、おんしの剣の功じゃ」
 新右衛門は赤くなって、ただ頭を下げた。
 うれしかった。彼はおのれの一本の刀で、維新の英雄を刺客の手から救ったのだ。
 近江屋を辞し、ふたたび伏見に向かって踏み出しても、全身の高揚は早鐘のように鳴り止まなかった。
 おれが、このおれが、竜馬さんを死の淵から救った。
 笑みが自然にあふれてくる。
 さきほどから額が心地よく疼いている。歩に合わせて、ぽとぽとと熱い汗がしたたり落ちた。

 ええじゃないか。ええじゃないか。

 遠くからお陰おどりの声が、寒風に乗って流れてくる。
 街道をこちらに向かって歩いてきた男が、ぴたりと動きを止めた。
「統馬……?」
 曇天、月はない。しかし夜陰に沈む人影は、見間違えようもなく確かに矢上統馬だった。
「迎えに来てくれたのか。統馬、おれは――」
 新右衛門が一歩踏み出すと、相手は一歩退いた。
「え?」
「新右衛門、おまえ……」
 統馬の表情は、見たこともないほど険しかった。それは怒りに引きつれているようでもあり、同時に今にも泣き出しそうにも見えた。
 音もなく、スルリと天叢雲が鞘から抜かれた。
「自分で、気づいておらぬのか」
「なに?」
 新右衛門は混乱した。訳が分からなかった。
「待ってくれ。いったい何のことじゃ」
 笑おうとするが、できない。統馬の構えるナマクラ刀が無性に怖いのだ。
「自分の腹を――見てみろ」
 新右衛門は、手で腹を押さえた。そして、視線を下に落とした。


 袴がぱっくりと引き裂かれ、そこからドクドクと赤いものが流れ出している。汗が伝い落ちていると思っていたのは、血だった。指先に当たるヌルリと柔らかいものは、おのれの臓腑だ。
「ひ……」
 新右衛門はがっくりと膝を地面についた。
 頭の隅に押しやられていた記憶がよみがえる。近江屋の玄関であの刺客とすれ違ったとき、不意の一太刀で、新右衛門は致命傷を受けた。土間に頭から転がり落ち、あとは男たちが階段に殺到するのが、閉じていく瞼の隙間から、ぼんやりと見えた。
 おれは、死ぬ。そして、竜馬さんも、殺される。
 気がつくと、新しい力を得て、悪鬼のごとき形相で暗殺者たちに斬りかかっていた。
「新右衛門」
 統馬は押し殺した声で、言った。
「おまえは、死を受け入れることができず、まさに死のうとする瞬間に夜叉に変じた」
「……仕方なかったんじゃ」
 新右衛門はあえぎながら、立ち上がった。
「……これしか道はないんじゃ。おれは、おのれに誓った。命に代えても竜馬さんを死なさぬと」
「天の理に反するとわかっていてもか」
「天の理に反して、どこが悪い!」
 新右衛門はわめいた。そのとたん、ずっと疼いていた額から何かが突き破るのを感じた。夜叉の角。
「おれは、おれの刀で、おれだけの力で、竜馬さんを救った。竜馬さんは死んではならぬ。天は判断を誤った。だからおれは、その誤りを正してやったんじゃ。一体、それのどこが悪い」
「この、大馬鹿者!」
「おれに説教するなあっ!」
 天に向かって咆哮をあげた夜叉は、生えたばかりの剣のような爪と牙で、統馬につかみかかった。
「おまえはおれを見捨てたくせに。おれが殺されるとき助けにも来なかったくせにィ!」


 何かが、新右衛門の足を止めさせた。

 違う。

 今起きていることはうつつではない。
 まことの世は、ここではない別のところにある。
 この中で紡がれようとしているのは、偽りの歴史。偽りは、正されねばならぬ。


 天叢雲が容赦なく、彼の暗黒を切り裂く。
 一閃。二閃。
 繋ぎ目を砕かれたカラクリのように、新右衛門だったものは、どうと地面に仰向けに倒れ臥した。
 そして、無限のごとき静寂。

 しばらくして、うっすらと目を開けて夜空を見上げた。
 ああ、そうか。
 これはまことの世ではなかった。
 ほんとうの世では、おれは近江屋で刺客に斬られて死んだのだ。竜馬さんや中岡さんたちといっしょに。
 統馬が駆けつけたときには、玄関の土間で、もう虫の息だった。
 バカじゃな、おれは。最後の最後まで、バカじゃった。意気がったくせに、竜馬さんを救うことなどできなかったのだ。
 そのことを、ずっと長い長いあいだ悔やんでいた。その後悔が、おれにこんな幻を見せたのだな。
「統馬」
 新右衛門は、統馬の腕に抱かれるのを感じた。
「死にとうない。死にとうないぜよ……なんべん死んでも、死ぬのが怖いちゅうのは、どうしてじゃろうなあ」
「しゃべるな。霊力を腹の傷に集中しろ」
「すまん。おれは今生で、とうとう一人の夜叉之将も倒せんかった。また生まれ変わるまで、何十年もおまえを待たせんといかん」
「新右衛門――」
 暖かいものが落ちてくるのを、新右衛門は感じた。
 統馬が泣いている。こいつでも、泣くんじゃなあ。
 死の間際の苦痛がほんの少し和らいだ気がして、新右衛門は微笑んだ。
「今度転生するとしたら……もう剣は持ちとうないな。……いっそ女にでも生まれ変わるか」
 最後の力をふりしぼり、真っ暗な虚空に向かって、血塗れの拳を開いて差し伸べる。
「ああ……曼珠沙華が咲いちょる。きれいじゃのう」
 旧暦十一月と言えば、真冬。
 曼珠沙華など、どこにも咲いていようはずはなかった。


 事務所の小さな窓から、朝の光が差している。
 まるで黄泉から返ってきたばかりの死人のように、久下はその光の中でしばらく動かずにいた。
「そうか、新右衛門のころの夢を見ていたんだ」
 やっと得心したように、彼はつぶやく。
 曼珠沙華の花を見て、いろいろと考えていたからだろう。ずいぶんと長い夢だった。
 久下はあちこち痛む身体をさすってから、そろそろと立ち上がり、台所で熱いお茶を淹れた。
 所長デスクの椅子に、もう一度深々と腰かける。
「そう言えば、あれから、どうなったんでしたっけ。結局、竜馬さんを殺した犯人は幕府の見廻組ということに落ち着きましたが」
 先頭の刺客の正体だけは、とうとうわからずじまいだった。
 あの太刀筋は薩摩の示現流であった、しかも相当な使い手であったと、負け惜しみながら今でも久下は確信している。
 しかし、それが誰であるにしろ、夜叉の影響を受けていた者であるに違いない。夜叉は巧妙に、統馬と新右衛門を引き離すことに成功したのだ。
 統馬は、新右衛門の遺体を近江屋から運び出し、葬った。
 その足で大坂に赴き、お陰踊りに乗じて大坂に巣食おうとしていた夜叉の狩り場を潰した。江戸の千葉道場に行って、重太郎やさな子に新右衛門の遺髪を託した。
 そしてその後、統馬の消息はぴたりと途絶える。
 一度、草薙から聞いたことがある。
 統馬はむざむざと新右衛門を見殺しにしてしまったことを悔やみ、自分をひどく責めたのだと。
『彼奴め、数年間口を利かなかったわい。夜叉も祓わず、山に籠もって、ぼんやりとただ生きているだけじゃった』
 記憶をたどるとき、草薙はつらそうに嘆息して、首を振った。
『わたしは見るに見かねて、うんとおしゃべりになることにしたんじゃ。白狐や蛇の姿を取っては、あれやこれやと軽口を叩き、祭りじゃ蒸気機関車じゃ活動写真じゃと、統馬を連れ出してのう』
「それまで無口だった草薙がああいう性格になったのは、僕の不慮の死のせいだったわけですね」
 久下はくすくす笑いながら、天井を仰いだ。
「転生とは不思議なものです。僕は五回の人生を生き、そのたびに性格も能力もまったく別人だった。女性になったこともある。それなのに、必ず統馬は僕を探し出し、いっしょに旅をし、いっしょに戦い、そして僕は統馬の看取る中で、いつも生涯を終えてきたのですね」
 長い因縁は、糸のように撚り合わされて三百年続いてきた。
 そして、これからも形を変えながら続いていくのだろう。
 それはとても幸せなことだと、久下は思った。
「とうとう、ゆうべは仕事をし損ねてしまいましたが」
 久下は大きな欠伸をすると、うーんと背筋を伸ばした。
「……まあ、いいや。うんと豪華な朝食でも食べに行きましょうか。統馬や詩乃さんや草薙も誘って」
 久下は出ていくとき、ちらりと花瓶の紅い花に目を注ぐと、扉をばたんと閉めた。


 無人になった事務所には、満賢の魔鏡が残された。
 その背に刻まれた文様は、ひとつ消えて、二つになっていた。



                          二の巻 了




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