「満賢の魔鏡」 三の巻 「山茶花」(1)          back | top | home




 どうもおかしい。
 草薙と久下の様子が、この数日おかしいのだ。
 草薙は昨日から、統馬と詩乃が住む1DKに遊びに来て、いっかな帰ろうとしないし、今朝は今朝で、久下がなかば強引に、朝食を食べに行こうと誘ってきた。
 顔を見れば、ふたりともそろって激しい疲れを覚えているらしく、そのくせ人恋しそうに、べたべたとすり寄ってくる。
 統馬は事務所に来て、ようやくその原因を突き止めた。
「龍二のやつ、こんなところに」
 満賢の魔鏡が剥き出しのまま、久下の机の上に置かれてあったのだ。
 見れば、鏡の背面に刻まれた文様は、二つに減っている。
 龍二に見せられたときは文様は四つだったから、二人の人間がすでに、この鏡の中に吸い込まれたことになる。
 それが草薙と久下だと考えれば、彼らの変化も説明がつく。
 統馬は茫然と、椅子に腰をおろした。
 二日間でふたりも鏡の妖力にはまるとは、なんという偶然だろう。
 いや、偶然ではない。おそらく魔鏡にこめられた怨念が、夜叉追いたちに追いすがって、離れないのだ。
 どんなに隠しても、鏡は彼らの前に姿を現わすだろう。たとえ地中深くに埋めようが、遠くの海に捨てようが、必ずここに舞い戻ってくるだろう。
 したたかで、執念深く、容赦がない。あの老満賢、その人のように。
 そうだとすれば、残るふたつの呪いが向けられる先は、すでに決まっているに違いない。
 統馬と詩乃。
 統馬は身震いした。詩乃にだけは、絶対にこの鏡を覗かせてはならない。
(俺に、自らここに入れということか)
 文様があとひとつ減れば、それだけ妖力が弱まる。なんとかして真言の力で抑え込めるかもしれない。二度と魔鏡を人目に触れさせぬよう結界を結ぶことも可能かもしれない。
 だが今のままでは、それも望めない。
(あの地獄を、もう一度見なければならないのか)
 統馬は、頭を垂れた。
 魔鏡が、あの日あの時の矢上村に彼を引き戻すのは、確実なことに思われた。
 兄に裏切られ、妻にそむかれ、父、母、村人たちを業火の中で失った、あの祝言の夜に。
(何度歴史を繰り返そうが、俺は憤怒に飲み込まれる。怒りに我を失って夜叉になる以外の選択が、あろうはずはない)
 絶望的な激情に駆られて、魔鏡を床に叩きつけた。
 無論、そんなことで壊れるはずもなく、銅鏡はひと声、甲高いうめきを立てたきり、氷のように静まり返った。
 まがまがしい余韻が消え去ったころ、統馬は鏡を拾い上げた。
「いいだろう」
 その目に、頑なな決意が宿る。
「どうしても、味わわずにはすまされないものなら、味わってやろう。だが、俺は決して夜叉にはならぬ。もうあの過ちは二度と犯さぬ。
――満賢、見ていろ。俺はおまえの呪いに勝つ」
 統馬はゆっくりと、鏡を掲げた。


*  *  *  *  *



 満賢の魔鏡の中で、人は過去に戻る。
 後の記憶をなくして、まるで元からその日々を過ごしてきたように、生きるのである。


 天正十一年(1583年)秋、伊予の国宇和(現在の愛媛県北宇和郡)の矢上郷。
 統馬が目を開いたとき、すべては終わっていた。
 くすぶる黒煙。吐き気をもよおすような死臭。
 見渡すかぎり、彼以外に動くものはなかった。
 せめて、息のある者がひとりでも残ってはいないかと、拷問で痛めつけられた身体を引きずるようにして、上屋敷の中を歩き回った。だが、すべては徒労だった。
 父も。母も。けやきも。家臣も、小さいころからともに遊んだ若衆たちも。
 彼以外のすべての村人たちは、物言わぬ骸となっていた。
 そのことを否定しようもなく心に刻みつけたとき、統馬の足は知らず知らずのうちに、また父の死体のもとに向かった。
「父上――」
 無数の矢に貫かれて、黒こげの柱に磔られている父の前に、統馬は呆けたように、ぺたりと座り込んだ。
「俺ひとりなのか」
 声に出してつぶやいたとたん、孤独の哀しみが、そして不条理に対する怒りが湧き上がってきた。
 なぜ神仏は、俺たち一族を救わなかった? あんなに拝んでやったのに。
 なぜ、誠太郎は俺を殺そうとした? なぜ信野は、俺を裏切った?
(憎め)
 と、誰かの含み笑いが聞こえる。
(すべてを憎めば、おまえは新しい力を得る。誠太郎と信野に復讐するのだ。おまえたちを捨てた神仏を踏みつけにしてやるのだ)
 その声に呼応して、轟音を立てて何かが湧き上がってくる。
 無力を補う強大な力。何でもよい。からっぽの自分を満たすものが必要だ。
 暗黒に魂を鷲づかみにされ、天を呪おうと顔を上げた瞬間、父と目が合った。
 生命の失われた黒い眼窩が、まっすぐに彼を見据えている。


  心せよ、統馬。その名を継ぐということは、たとえお前ひとりになっても夜叉と戦うということぞ。
  よいな。お前だけは生き残り、その血を次の世に伝えて夜叉を祓い続けるのだ。


「父上」
 それは一月ほど前に、父が彼に言い遺したばかりのことばだった。
「無理だ……俺には、そんなことはできない」
 おびえたように、何度も何度も首を振った。
「たったひとりで、生きよと? この血を次の世に伝えろと? この身体で夜叉を祓えと?」
 統馬は、地面に落ちていた焼け焦げた小刀を、右手に握った。
 力をこめて、自らの腹に突き立てようとした刃は、ぽろりと落ちた。
 両肩の骨を、粉々に砕かれているのだ。
「ほら、もう刀も持てぬのだ。切腹すらできない。こんな俺が」
 ぼろぼろと涙をこぼしながら、地面に突っ伏した。
「それでも、俺に生きよというのか!」


 足音がした。
 生きている者は、彼のほかに誰ひとりいないはずの、この村に。
 煤にまみれ、ぼろぼろに千切れた小袖。
 白く伸びた素足は、無数の切り傷と火傷で腫れ上がっている。
「統馬さま――」
 女はその腕に、一振りの刀をぎゅっと握りしめていた。
「……信野」
 統馬は地に這いつくばりながら、自分を手ひどく裏切った妻をゆっくりと睨み上げた。


「臼井の軍勢は……今は姿が見えませぬ。けれど、また戻ってくるやも。ここは危険です」
 信野は近づくと、立ち上がろうとする統馬に力を貸そうとした。
「触るな! 売女ばいた
 統馬はありったけの力で、その手を振り払った。
「あっ」
 うずくまった信野の手を、草履で踏みつける。
「や、やめ――」
「誠太郎はどこだ?」
 ギラギラと目を光らせながら、統馬はいっそう足に力をこめた。
「う、うう、存じ……ませぬ」
「偽りを申すな。あいつと結託して、この村に臼井の軍勢を引き入れたくせに」
「ほんとう……です。臼井のことは……何も知らな……かったのです。お……ゆるしを」
 足が離れ、ふたりの荒い息だけが廃墟に響いた。
「おゆるしくださいませ。わたしは、取り返しのつかぬ過ちをおかしました」
 信野は顔を背け、必死で身を守ろうとするかのように、剣を胸にかき抱いた。
「誠太郎さまは、この村を守るために臼井と和睦するのだとおっしゃったのです。まさかこのような……」
「下手な言い訳はよせ!」
 足にありったけの力をこめて、信野の体を蹴り上げる。
 地面に倒された信野は、その美しい顔を地面の塵にこすりつけるようにして身悶えた。
「何を申しても、信じてくださらないのは当たり前です」
 ぶるぶると痛みと恐怖に震えながら、それでも身を起こす。
「何度も自害しようとしました。でもその前に、統馬さまをお探しせねばと……これをお渡しせねばと、その一心で……」
 おずおずと掲げた両手には、煤で真っ黒に染まった刀があった。
「それは、なんだ」
「ご神刀・天叢雲でございます」
「そんなもの、今となって何の役に立つ」
 統馬は受け取ろうともせず、あざ笑った。「村が滅びても何もしてくれなかったご神刀など」
「でも、これは矢上家代々の……」
「要らぬ! そいつを持って、さっさと誠太郎のもとへなりと行くがよい」
「そのようなこと……決してできませぬ」
 嗚咽とともに、ぼとぼとと地面に涙を落とす。
「それならば、おまえのできることは、たったひとつだ」
 統馬は、顔を醜くゆがめた。信野が嘆けば嘆くほど、胸に火のような怒りが満ち、体を揺るがさんばかりに、その熱がかけめぐる。
 底知れぬ絶望に陥っていた先ほどまでと、恨みをぶつける相手がある今とでは、なんという違いだろう。統馬の全身は、怒りのもたらす力に打ち震えた。
「自害して果てるがいい。深い淵に向かって、身を投げろ。おまえにふさわしい地獄に落ちて、おのれの罪にのたうちまわれ!」
「――殺してください」
 信野は、統馬の足にすがりつき、髪を振り乱して叫んだ。
「あなたさまの手で、わたくしを殺してくださいまし!」
「おまえなど、手にかける値打ちもない」
「統馬さま」
「その口で俺の名を呼ぶな! けがらわしい!」
 信野をもう一度打ち倒すと、全身の痛みをおして、よろよろと歩き始める。
「うせろ。二度を俺の前に姿を見せるな」
 肺が焼けそうだ。苦い味が、渇ききった口の中を冒していた。統馬は清流の水を求めて、谷を下った。井戸は、臼井の手で毒をまかれているおそれがある。
 離れたところから、信野がついてくる気配がした。
 何度も足をすべらせながら、泣きながら、彼を追ってくる。統馬は決して、振り返らなかった。
 谷底には、下の村と上屋敷を分ける広く浅い流れがある。
 河原に着いたとたん、茫然と立ち尽くした。
 川向こうに累々と折り重なった死体。あるいは焼け焦げ、あるいは全身を血の色に染めて事切れている。
 ひたひたと打ち寄せる水とともに、人の手や肉片が流れ着く。
 背後で、信野がすすり泣いている。
「父上。母上……」
 すでに信野は昨夜のうちに知っていたのだ。下の村も上屋敷同様に、臼井の軍勢によって全滅したことを。
 真っ黒な炭と化した幼子の体が浮き沈みしながら、ゆっくりと目の前を通り過ぎていった。思わず腕を伸ばそうとして激痛が走り、統馬は流れの中にうずくまった。
 かつて、この川は村人たちの憩いの場だった。
 上屋敷と下の村の女たちが、それぞれ両岸で洗濯がてらのおしゃべりを楽しみ、子どもたちは泳ぎや魚釣りに興じ、若者たちは川をはさんで、見初めた相手に視線を送り合う。
 つい二日前、信野を乗せた花嫁の輿が、木の橋を渡った。周辺の山々に、ふたりの祝言を祝ぐ歌がこだまして聞こえた。人々は喜び、笑っていた。
 だが、もう誰もいない。流れを屍で埋め尽くして、今、矢上郷は滅び去ったのだ。統馬と信野のふたりだけをあとに残して。
「おまえに、泣く資格などあるのか。一族すべてを滅びに追いやったおまえに」
 河原に伏して嗚咽していた信野は、首をもたげ、震えながら統馬を見た。
「たとえ天がおまえを赦しても、俺は赦さぬ」
 ぼとぼとと血に染まった水を垂らしながら、統馬は立ち上がった。
 子どものときにはじめて、この川で信野と出会った。見かけるたびに淡い想いを寄せてきた。そして、ついに祝言を挙げ、神前で妻となし、ゆうべ胸にかき抱いた。
 その同じ女に向かって、統馬はありったけの憎悪をこめて、叫んだ。
「たとえ、幾度転生しようと、この身が地獄に落ちようと――信野。俺を裏切ったおまえを未来永劫、赦さぬ」


 森のそばの朽ちかけた炭焼き小屋で、ふたりは夜露をしのいだ。
 「せめて、そのお怪我だけでも」と信野は、みずからの着物の袖を裂いて、統馬を手当てしようとしたが、彼はかたくなに拒んだ。
 医者を呼ぶ手立てはなかった。たとえ呼べたとしても、粉々に砕かれている両肩を元通りにする術は、この時代にはなかっただろう。
 全身の傷がもたらす高熱のために、統馬の意識は三日間混濁したままだった。
 眠れば、あの地獄の業火を夢に見、目を覚ませば、うわごとのように、かたわらで必死に看病する信野を呪う。
 彼が臥せっている合間に、信野は食べるものを捜して、村のあちこちを駆け回った。
 米俵をはじめとする倉の蓄えのすべては臼井の軍勢によって略奪されていた。かろうじて焼け残った家々の厨から、米や麦を一粒ずつ拾い集めるのがせいいっぱい。
「どうぞ、お召し上がりください。せめて体に精をつけられませぬと」
 差し出された汁椀の、透き通るような野草の雑炊の中には、数えられるほどわずかな飯粒が沈んでいるだけだ。
 五日間何も腹に入れぬ飢餓感は、想像を絶した。思わず伸ばした統馬の手は、おのれの意に反して宙を泳いだかと思うと、つかんだはずの汁椀を取り落とした。
 ふたりは息をのんで、土に吸い込まれていく糧を見つめる。
 もうこの手は、汁椀さえ持てぬ。
 犬のように地面に這いつくばって、雑炊をすするしかないのだ。
「統馬さま」
 信野は涙をこらえながら、自分の汁椀を統馬に差し出した。
「わたくしが、こうして持っています。ですから」
「要らん!」
 統馬はよろよろと立ち上がり、小屋を飛び出した。
 たまらなく、自分が惨めだった。憎む女の情けを受けなければ、食べることすらできない。
(こんな有様になってなお、俺は生きておらねばならぬのか)
 仰げば満天の星々が、地上とは無縁の美しさを惜しみなく降り注いでいた。
「どうせ貴様たちには、人間の世など見えていないのだろう」
 思わず口をついて出るのは、こんな境遇に追い落とした神仏を恨むことばだった。
「この人の世のむごたらしい有様を見れば、間違っても慈悲など説けぬはず。信心など、何の役にも立たないではないか。俺が祈った祈りに、一度でも貴様らは応えてくれたか? 毎朝の護国の祈りを聞いて、この国を守ってくれたか? 貴様らがいてもいなくても、この世は何も変わらない!」
 真言陀羅尼を唱え、仏教を奉じるべき矢上家の総領が、御仏への帰依を捨てた瞬間だった。


 村を覆い尽くす死体からは、やがてすさまじい臭気が立ちこめ、生き残りであるふたりには、村人たちを葬るという、一刻を争う難題が襲いかかった。
 河原や村のあちこちに、板切れを集め、死体を積み上げて荼毘に付す。
 途方もない重労働だった。女の信野ひとりには限りがある。ましてや体が思うようにならぬ統馬には、火を熾すことさえかなわない。
 くたくたに疲れ果てて小屋に戻っても、この地獄絵図と臭気の中では、食べ物を胃が受けつけなかった。
「助けを頼んでまいります」
 たまりかねた信野が、ついに近隣の村を回り始めた。
 信野は、あれから涙ひとつこぼさない。統馬が「おまえには泣く資格などない」と罵ったそのときから、泣くことも弱音を吐くことも自分に禁じて、必死に耐えているのだ。
 彼女の呼びかけに応じて、近郷の村人たちが交替で組を作って矢上郷を手伝いに訪れるようになるのは、数日後のことだった。
 情けあってのことではない。遺体を放っておけば、害獣が増え、疫病の原因ともなりかねない。何よりも、戦の中で無念のうちに死んでいった者たちの、祟りが恐いのだ。
 矢上家の当主として、統馬にはやらねばならぬことが次々とふりかかってきた。近隣の手を借りながら、死に絶えた同胞たちを埋葬し、その法要をねんごろに営まねばならない。
 信じてもいない神仏に形だけの経を読み、唾を吐きかけた天に、一族の魂の安寧を委ねるふりをする。
 信野はほとんど寝る暇もなく、座るいとますら惜しんで、彼らのもてなしに立ち働いた。自分を痛めつけることが、死んだ郷の者たちの供養になると信じているかのように。
 そして統馬は、信野の助けがなければ、ひとりでは着替えることすらできぬ己の惨めさを、日々噛みしめるほかはなかった。
「この村も、もう終わりだろうな」
 ある日、統馬がそばにいるとは知らず、村人たちはこそこそと笑い合っていた。
「何やら得体のしれぬ集団だった。おおかた、神罰を受けるようなことをしていたのだろうよ」
「それに、聞いたか。あのふたりは、祝言のさなかであったというではないか」
「ということは、自分たちだけ身を隠して生き延びたのか。なんとあさましい」
「不甲斐なきことよ。仮にも総領なら、村を守るために先頭に立って、討ち死にすべきであったろうに」
 怒りは湧かなかった。むしろ胸のすく思いだ。
 今まで幾度となく、頭の中に半鐘のように響いていた言葉が、村人の揶揄という形を取っただけなのだ。
『討ち死にすべきであったろうに』
 おのれの取るべき道が、今はっきりと示されたような気がした。


 四十九日の法要が終わると、終わりなき静寂が彼らを待っていた。
 つい二月前まで人々の活気が満ちあふれていた下の村も、上屋敷も、ただ飄々と木枯らしが吹きすぎるのみ。
 冬の気配が駆け足で里を覆うころ、統馬は夜明け前に起き上がって、小屋の外に出た。
 空はどんよりと暗く、白いものが風に舞い始めた。このあたりは、冬になると雪深く、ときには三尺にも及ぶ。
 前日ひそかに掘っておいた穴に、鞘を抜いた刀を、刃を上にして埋め込んだ。
 周辺の土をしっかりと固め、刀を動かぬように固定する。
 たったそれだけの作業にも、不自由な手では、玉の汗が浮かぶほどの困難をともなう。
 立ち上がって、魅入られたように刃の白い輝きをじっと見つめた。
 これで苦しみが終わる。おのれの手で腹が切れぬ以上、最も武士の矜持をはずかしめない死に方を選びたかった。
 曙光の仄明るさの中で、山茶花の花びらが、ひとつ、またひとつと風に飛ばされ、粉雪とともに黒い地面に落ちていった。
 凍てついた季節になお、これほど鮮やかに赤い花が咲くのかと、統馬はぼんやりと思った。
「父上、赦してくれ。俺はやはり、矢上の当主としての務めを果たせなかった」
 手を合掌の形に合わせると、目をかたく閉じ、刃の上に身を躍らせようとした。
 その瞬間、すごい力で後ろから引き戻すものがあった。
「統馬さま!」
 信野だった。ふたりの体は勢いあまって、冷たい地面の上を何度もころがった。
「なんということを」
 荒い息をつきながら、彼女は身を起こす。
「枕元に置いてあった天叢雲が泣いたのです。びりびりと刀身を震わせて」
 統馬も起き上がりながら、喉の奥で笑った。
「まったく、その刀は、余計なときだけ物を言うのだな。俺が拝んでやったときは、答えもしなかったくせに」
 膝でいざりながら、なおも地面に刺した刃に近づこうとする。
「おやめくださいませ!」
 信野は統馬の前に回りこみ、抱きついて必死で止めた。
「あなたが亡くなられたら、いったい誰が矢上家を再興するのですか。どうやってこの村を元の姿に戻すのですか」
「どのみち、俺にはかなわぬことだ」
「やすやすと諦めておしまいになるのですか」
「第一、刀も持てぬのだ。どうやって夜叉を追えと?」
「真言陀羅尼のお力があるではありませぬか」
「俺は、もう神仏など信じておらぬ。そんな者の唱えた真言など、なんの力になる」
「……」
「もうお家再興はならぬ。夜叉追いの矢上一族は、滅亡した」
 信野はゆっくりと身体を離した。統馬の心は死んでいた。もはや、その目は絶望の暗黒しか見ていない。
 とっさに、彼女はおのれの為すべきことを思い定めた。
「わかりました。もう止めませぬ」
 嘲るような声音で、信野は夫を見下ろした。
「とっとと、ご自害なさればよろしかろう。わたくしは、ここで誠太郎さまのお帰りを待ちます」
「なん……だと」
「あなたが死なれたことが知れれば、すぐにお戻りになります。誠太郎さまなら、たちまちその才覚で、この村を再興してくださいましょう」
「やはり、おまえはまだ誠太郎と……」
 妻は、鶴のような甲高い声で笑い出した。
「情けない男だこと。やはり統馬の名は、誠太郎さまが受け継がれるべきだった。今からでも遅くない。わたくしは誠太郎さまと夫婦となり、あの方の子を為し、矢上の血を後生に伝えましょうぞ」
 笑いながら小屋へと戻った信野は、薄暗い土間に入ったとたんに引き倒され、有無を言わせぬ力で組み敷かれた。
「おまえたちに、そんなことはさせぬ!」
 信野は殺されることを覚悟した。だが、苦痛は襲ってこない。統馬は全身で彼女を押さえつけたまま、口でその帯の紐をほどき始めたのだ。
「統馬……さま」
 その目は熾がいちどきに燃え上がったように光り、総毛立つほどだった。
 信野は悟った。死のうとする夫を止めるために発したことばが、一匹の鬼を生み出してしまったことを。
「俺の子を産め。信野」
 耳元でささやかれた言葉は、気の遠くなるほどの憎悪で満ちていた。
 下半身が露にされ、凍えるような冷気が臓腑までも貫こうとしている。
 信野は、思わず苦鳴のあえぎをもらした。
「わたくしは、あなたを裏切った妻。それでもよいのですか」
「おまえは、妻ではない。子をなす道具だ」
 覆いかぶさるとき、統馬は狂気の笑みを浮かべた。
「道具に、否むことは許さぬ」


 互いの心を殺し合いながら身体を重ねるふたりのそばで、血のような山茶花の赤が、はらはらと舞い散った。







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