「満賢の魔鏡」 三の巻 「山茶花」(2)
back | top | home その年は、春が遅かった。 天正十二年(1584年)。東宇和郷・黒瀬城下。 ここは、領主・西園寺氏の膝元でありながら、三年前に土佐の長宗我部勢に焼き討ちにされてから、町並みの疲弊が激しい。 長宗我部元親は、伊予への侵攻の重要な拠点として、この地方を幾度となく攻めた。 もはや、西園寺氏とその国人衆の結束は無きに等しいものであり、まつりごとは乱れ、武士は敵方と内通し、民衆は戦乱の恐怖と飢えに泣いた。 黒瀬城のまわりにも、田畑を焼かれたたくさんの民や孤児が集まり、仮小屋を建て、あるいは道端に座りこみ、明日の命をも知れぬ日々を強いられている。 統馬と信野は、その荒れ果てた城下町を歩いていた。 矢上一族は南北朝のころ、ともに京から移り住んだ西園寺氏の庇護を受けて、数百年のあいだ宇和での暮らしを築いてきた。 矢上郷の再興のためには、どうしても今までのような俸禄が必要だった。 臼井の蹂躙を受けて村が滅びてこのかた、まったく黒瀬城からは音沙汰がない。こちらから出向き、ふたたび禄を支給してくれるように頼むしかなかった。 信野のお腹は目立ち始めていた。 夏には子が生まれる。わずかな野菜を作り、焼け残ったものを切り売りして、これまでどうにかしのいできた。だが、そんな生活が長く続くはずはない。 統馬の肩はついに治らなかった。血のにじむような鍛錬によって、かろうじて物が握れるようになっただけ。刀はおろか、畑を耕すための鍬を振るうことさえ、望むべくもない。 訪いを入れ、城主へのお目通りを許されるのを何時間も待った。 だが、日が暮れるまで待っても、ついに彼らのために城門は開かなかった。 「おのれの身さえ守れぬ夜叉追いの村など、庇護には値せぬ、ということか」 統馬は、拳を固めることすらできぬ手をじっと見つめながら、吐き出すようにつぶやいた。 「もう帰りましょう。御前さま」 身重の信野は、疲労と失望に目のふちを隈どらせていた。だが夫が妻を気遣うことはない。歩き出した統馬の後を、信野はふらふらと数歩離れたところからついてきた。 町のここそこから、かまどの細い煙がたなびいている。だが、わずかでも夕餉にありつける者は、ほんの幸運な一握りだ。道には、物乞いのむしろがずらりと並んでいる。 (俺も、いずれはこうなるのか) 彼らのどんよりと濁った目を見ながら、思う。 今までの数ヶ月、活計の手段も何も持たぬ己の非力を、統馬はいやというほど味わわされてきた。総領とまつりあげられていたものの、結局は、民がいてこその総領なのだ。 互いに相争っている戦国の武将たちも、そのことを思い知るときが来るだろう。 城下を抜け、矢上郷へと戻る田舎道を選ぼうとしたとき、 「統馬さま!」 突然の声がかかった。 「矢上統馬さまではございませぬか?」 小柄な男が小走りに近づいてきて、編笠をもどかしげに脱ぎ捨てた。 「おぬしは……」 とっさに記憶を手繰り寄せられなかった統馬より先に、信野が悲鳴のような叫び声をあげた。 「叔父上!」 「信野も無事であったか」 彼は、涙を浮かべながら両膝を地面につき、ひれ伏した。 「矢萩村の庄屋・矢萩宗右衛門が弟、矢萩清兵衛にございます。統馬さま。よくぞ生きていてくださいました」 「あの祝言の日」 旅籠の部屋で、暗い行灯の光を囲みようにしながら、清兵衛は自分たちが生き残った経緯を説明した。 「わたくしは内儀と息子ふたりを連れて、伊予の松前に出かけた帰りでした。松前には、これの親戚で、漁師をしている者がおるのです」 隣にいた彼の妻と、元服前と見える男の子ふたりが頭を下げた。 「なんとしても、祝言の宴に鯛を間に合わせようと急いでいたのですが、あたりを覆う剣呑な雰囲気は、南に向かうに連れて増すいっぽう。ついに大勢の長宗我部方の侍たちが道を阻み、我々は身を隠して、隙をうかがうしかありませんでした」 清兵衛は感極まるたびに、長い沈黙をはさんだ。 「ようやくのことでたどり着いた矢上郷からは、もうもうたる黒煙が上がり、臼井の軍勢が略奪の限りを尽くしているのが、見えました。残党狩りの松明がわれわれの潜む森に近づくのを見て、わたくしどもにできたことは、必死で元来た道を逃げるばかりでした」 清兵衛は平伏した。 「お赦しくださいませ。統馬さまが生き延びておられたと知っておったなら、もっと早くお助けにあがりましたのに」 「いや、助けに来ていれば、今ごろはおまえたちの命がなかった」 統馬は、素直に自分の口から出る寛大なことばに驚いていた。思えば、この数ヶ月の信野との暮らしは、ただ相手を責めるだけの毎日だったからだ。 「この戦国の世では、忠義の掟など何になろう。おのれと家族が生き残るすべを考えることが、まず先決だ」 「かたじけのうございます」 主からのねぎらいに力を得て、清兵衛は身を起こし、今の宇和を取り巻く状況について語り始めた。 「聞けば、黒瀬城で門前払いの扱いを受けられたとのこと。ですが、俸禄を受けられぬことを嘆いてはいけませぬぞ。統馬さま。西園寺はもうすぐ、滅びます」 「なに?」 「つい数日前、わたくしどもが落ちのびていた松前の近く、恵良の地で、毛利輝元の将と長宗我部軍が激突いたしました。長宗我部は今にも、伊予から毛利を追い落とす勢い。大きな後ろ盾を失った西園寺が滅びるのは、もはや必定でございます。ほどなく四国全土が、長宗我部によって平定されましょう」 「……」 統馬は継ぐことばもなかった。三百五十年続いてきた伊予の体制が瓦解してしまう。 誠太郎の言ったとおりだった。たとえ臼井の襲撃がなかったとしても、矢上郷はいずれ滅びる運命だったのだ。誠太郎の裏切りは、その歴史の歯車をわずかに早めただけなのかもしれない。 『今の乱世では、まつりごとに関心を持たずに、一族が生き残ることすらできないぞ』 かつて兄がささやいたことばが、耳によみがえる。 もし、統馬が総領の地位をいさぎよく兄に譲っていたならば、誠太郎の才覚で、一族は生き延びただろうか。結局は、統馬自身の狭量と意気地のなさが、今の悲劇を招いたのだろうか。 ひとり煩悶に沈む統馬を見て、清兵衛は力強く言った。 「もう、ご案じなさいますな。わたくしどものように、祝言に遅れた同胞、襲撃から落ち延びた同胞は、まだ幾人もいるはず。村の再建の噂を聞きつければ、必ず集結してまいりましょう」 そしてわざと、からから陽気に笑う。 「見れば、おふたりは仲睦まじく、信野は御子を宿している様子。これで安心でございます。統馬さま、矢上郷を再興なさいませ。これからは、わたくしども矢萩の者たちが力を合わせて、おふたりの暮らしを支えてまいりますゆえに」 「清兵衛は俺たちを、仲睦まじい夫婦だと思っているようだな」 その夜、統馬は床で仰臥しながら、言った。 「切れ者に見えたが、存外の間抜けだ。いったい何を見ているのだか」 「なぜ、お話にならないのです」 信野はかたわらに正座して、問いただした。 「なにをだ」 「わたくしが誠太郎さまと通じて、臼井をこの村に引き入れたと。なぜ、そのように叔父にお話にならず、黙っておいでなのですか」 「そんなことを話せば、清兵衛は怒りのあまり、おまえを斬り捨ててしまうかもしれぬではないか。奴の律儀な気性ではな」 統馬は冷たく笑った。 「おまえには、子を産むまで生きていてもらわねばならぬ。それが道具としての、おまえの役目だ」 夏が過ぎた頃、信野は上屋敷の焼け跡に建てなおしたばかりの新しい家で、男の子を産んだ。 名は小太郎とつけた。 やがては、統馬の名を継ぐ長子。矢上一族の再興を託すことになるわが子。 凍えきっていたはずの毎日に、新しい命は、理屈ぬきの希望をもたらしてくれる。 本来ならば、母から離して育てることが武家のならいだったが、今の統馬には、ふさわしい乳母を捜すための伝手もない。 穏やかにほほえみながら、小太郎に乳を与える妻の姿を見て、統馬は心がざわざわと騒ぐのを感じた。 信野は統馬のことを死ぬほど憎んでいるはずだ。これまで、妻にどれほど辛く当たったかを一番知っているのは、彼自身だった。 それなのに、なぜ憎む男の子どもを産んで、これほどいとしむことができるのか。 観世音菩薩さながらの姿。それが母というものか。女というものなのか。 「だまされぬ」とつぶやきながら、統馬は妻の背後に立った。 信野は赤子を抱きながら、首を深くかしげていた。昼間の疲れのあまり、乳を含ませたまま寝入ってしまったのだ。 それを見ているうちに、訳もわからず胸が熱くなった。統馬は自分の着ていた綿入れを脱いで、信野の肩にかけ、静かに立ち去った。 清兵衛が予言したとおり、その年の秋に土佐勢により黒瀬城が落城、またたくまに宇和の諸城を攻め取った長宗我部元親が宇和のすべてを平定した。 あくる天正十三年(1585年)、ついに四国全土は長宗我部に帰順する。 だが、乱世の移ろいは、滅びた村に住む者にとっては、まだ遠いできごとだった。 小太郎はすくすくと育ち、一歳となっていた。 そして、信野の中には、二人目の子が育ちつつあった。 妻に産後はじめて、月のものが訪れたことがわかると、統馬は信野を抱いた。そして、子を宿すと、ふたたび指一本触れなくなった。 情のともなわぬ男女の営みに、信野は黙って耐えた。 だが、いたわりの言葉を掛け合うこともない夫婦にも、歳月の力は少しずつ変化をもたらした。 衣を洗う井戸端から、縄をなう土間から、活発に動くわが子の姿を、注意深く目で追う。笑みを含んだ互いの視線がふいに交差するたびに、戸惑って顔を逸らす。 長く続いた雨のあと、信野は小太郎を連れて、川へ降りていった。 母が洗濯に勤しむそばの河原で、よちよち歩きの幼子は石拾いに興じ始める。 統馬は、川の一角を岩で囲った生簀で、入り込んだ魚を網ですくっていた。 遠くから、信野の歌う数え歌とともに、小太郎の歓声が聞こえる。 ふと手を止め、蒼天高く、ゆっくりと弧を描いて回っているトンビを見上げた。 これほど穏やかな気持で日々を送っていることが不思議でならない。 二年前のあの地獄を忘れたわけではない。かまどの火を見ただけで恐怖に足がすくむし、ときどき大声を上げ、汗びっしょりになって夢から覚めるときがある。 憎しみを忘れることは、苦しみながら死んでいった者たちに対する裏切りだった。だから統馬はあの日、未来永劫にわたって信野を憎み続けると誓ったのだ。 それでも歳月が、そしてふたりの間に生まれた子の笑顔が、その憎悪を少しずつ巧妙に削り取っていく。 上空からいつのまにか、トンビがいなくなった。唐突に、彼は自分の心の中の空洞に気づいた。 ――俺は今まで、憎悪によって命をながらえてきたのだ。 信野への怒りに心をひたしている限り、絶望も孤独も、矢上家の当主として一族を守れなかった負い目も忘れられた。そうでなければ、とっくに自害し果てていたことだろう。 だが、それさえもなくなりつつある今、いったい何によって、その空洞を埋めればよいのだろう。 憎しみの対極にあるものによってか。 (ばかな。どうして信野を慈しんだりできるものか。あいつは、俺を裏切り、この村を滅びに追いやった女なのだ) じくじくと懊悩の中で網をたぐっていた統馬は、何か異様な気配に顔を上げた。ほとんど同時に、信野の尋常ではない悲鳴が空気を裂いた。 「御前さま。小太郎が! 御前さま!」 いつのまに川に入ったのだろう。いたいけない幼子は、前日までの雨でかさが増した水に足を取られ、まるで人形のように流されていく。 「小太郎!」 後先を考える間もなく、統馬は川に飛び込んだ。 小太郎が死んでしまったら、俺はどうなる? 恥を忍びながら生きてきた日々は、いったい何のためだったんだ? 肩の番の壊れた両腕で、激しい流れをかきわけられるわけもなく、統馬はただいっしょに流されながら、小太郎に少しでも近づこうと、もがいた。 わが子はすでに、ぐったりとした様子で、急流の中で浮き沈みしている。 小太郎の身体を掴もうとして腕を伸ばすが、そのたびにするりと逃してしまい、したたかに水を飲む。 だんだんと統馬の意識は遠のいてきた。 (結局、俺には何もできないのか) 父親なのに、息子が死んでいこうとするのを止めることができないのか。村が滅びていくのに、総領として何もできなかったあの日と同じように。 人間の運命を定めているものは、いったい何なのだ? 前世の因業か、時代の不運か。 それとも、自分の弱さから目をそむけ、兄と妻を呪い、天を呪い続けてきた俺自身の悪行のゆえなのか。 ついに、手の先が小太郎の帯の端をとらえた。ありったけの力で、統馬は息子の身体を抱き寄せた。 水面から顔を出し、声にならない絶叫をあげながら、小太郎を川岸に向かって放り投げる。 (天よ。小太郎を救ってくれ。その代わりに俺の命を取ればよい。この子が生を全うすることができれば、俺は何も望まぬ) 彼の身体は、そのまま水底に沈んだ。暗黒が泥のように意識を覆うにまかせながら。 気がつけば、誰かの力強い手で、統馬は岸に引っ張り上げられていた。 「統馬さま、しっかりなされませい!」 ごつごつした清兵衛の拳が、彼のみぞおちを強く押す。 生ぬるい水が口から吐き出され、激しく咳き込んだ。 「小太……は……」 「ご無事です。あなたさまが川に突き出した岩の上に押し上げてくださったおかげで。水も飲んでおられませぬぞ」 俺は、そんなことは――しておらぬ。 いったい他の誰が、あの状況で小太郎を助け得よう。まさか天から救いの糸が垂れたとでも言うのか。 神仏は、この俺を見捨てていなかったと言うのか。 清兵衛の気配が離れ、代わりに、やわらかい手の感触が彼の手をそっと包んだ。 その手の持ち主は、自分が誰であるかが分かれば拒絶されることを、よく知っている。 声を出さずに泣くことを覚えた女。 暖かいしずくが、ぽとりぽとりと落ちてくる中、統馬は、瞼を閉じたまま横たわっていた。 目を開いたとたんに、今自分を包んでいるあたたかさは、陽炎のように消えてしまう。 それは、彼の選んだ道には存在してはならぬものなのだ。 だが今は――今だけは、少しでも長く、その偽りの心地よさに浸っていたかった。 【おことわり】 本作品に出てくる伊予の戦国史は、作者のフィクションを含んでおります。実際とはかなり異なる部分があることを、ご了承ください。この中の城名・人名・戦乱のうちいくつかは史実ですが、国人衆の臼井氏は実在しません。 next | top | home Copyright (c) 2004-2008 BUTAPENN. |