「満賢の魔鏡」 三の巻 「山茶花」(4)          back | top | home




 それから、五年の歳月が流れた。
 落ち武者狩りの軍勢によって焼かれた村は、ふたたび建て直され、田畑はふたたび金色の実りを生み出した。矢萩の男たちは近隣の村から妻をめとり、子をなした。
 人々は続々と、矢上村に救いを求めてやってくるようになった。戦国の混沌の中、民衆の恨みと苦しみを吸い取った夜叉どもが、日本国を跋扈し始めたのである。
 統馬を中心として、真言を唱えることのできる者は互いに教え合い、夜叉を調伏する術を身につけた。
 もう神仏を信ぜぬなどとは言っておれなかった。あまりにも巨大な悪の前に、民は祈るしか術がない。
 このときから、夜叉追いの矢上一族は、真の再興へと向かい始めたのだった。


 表面上は何ごともなかったように、統馬は信野と暮らした。
 二年後には女の子が生まれ、かさねと名づけられた。だが、夫婦のあいだの会話は、前以上に途絶えていた。
 妻を抱き続けるのは矢上の血を残すためだと、己を納得させてはいたが、そうでないことは彼自身が一番よく知っていた。
 昼は顔も見たくないほど憎んでいるはずなのに、夜になると狂気に駆られたように求めてしまう。
 それは、信野の中から誠太郎の痕跡を完全に消し去ろうとする、荒々しく容赦のない儀式だった。そして信野は、一枚ずつ皮を剥いで与えるのに似た苦しみを、沈黙をもって受け入れた。
 背中に負った深い傷のせいで、統馬は身体の動きもままならなくなり、家の外に出ることすら、まれになった。
 ほとんどの時を座敷の奥に籠もり、真言陀羅尼を書写することに費やした。
 先の臼井による襲撃で、ほとんどの経文が焼かれてしまった。総領としての統馬には、父祖から学んだ夜叉追いの技を後世に伝えるという役目が、まだ残されていたのだ。
 跡を継ぐべき息子たちの成長を見ることだけが、今の彼の生きる理由のすべてだった。だが期待を持てば持つほど、彼らに対する言動はよりいっそう厳しくなる。
 小太郎も藤次郎も、痩せて目ばかりぎらぎらさせている父親を怖れて、そばに寄りつこうとしなかった。


「小太郎さま。そんなへっぴり腰では、夜叉に食われてしまいますぞ」
「えいっ!」
 小太郎と矢萩清兵衛は、上屋敷の庭先でよく剣の稽古をした。清兵衛は、庄屋の血筋だけあって、武芸の嗜みのある男だ。
 統馬は、縁側にぼんやりと座って、その様子をながめた。
 小太郎は、統馬よりも清兵衛になついている。父の前では決して見せぬ笑顔を、清兵衛には惜しみなくふりまくのだ。
 清兵衛を憎いと思ったことも、一度や二度ではなかった。
 本来ならば、息子に刀を教えるのは父親の役目なのに。おのれが父の稽古を受けていた日々を思い出すにつけ、息子に何も与えてやれない自分の不甲斐なさに打ちのめされる。
 ときおり天叢雲の柄を握ろうと試みるものの、ぎりぎりと歯を食いしばっても、手は一向に思いどおりに動いてくれない。
(統馬よ。そうではない。わたしを動かすのは力ではないのだ)
 霊剣の中から、かすかに誰かの声が聞こえてくるが、今の統馬にそれが聞こえる道理はなかった。


 小太郎が七歳になった冬、母と子は軒先に屈みこんで、雪遊びに興じていた。
 生まれたばかりの長女を背負った信野は、小太郎と次男の藤次郎に雪うさぎを作ってやった。
「これは父上、これは母上。この小さいのは、わたしと藤次郎と累」
 南天の目玉が可愛いと、歓声を上げる息子に、信野は目を細めた。
 統馬が、戸口の暗がりから声をかけた。
「小太郎、真言の書写は済んだのか」
 小太郎は、「あ」と蒼白になって立ち上がった。
「まだです、父上」
「そんな女の遊びに、うつつを抜かしている暇はないはずだ」
 統馬は框をまたぎ、軒先に出て、草履で雪うさぎをグイと踏みにじった。
 子どもたちは、息を呑む。
「早く、中に入れ」
 次男がわっと泣き出し、雪の残骸を見つめていた嫡男は、いきなり叫んだ。
「父上は……鬼じゃ!」
 統馬の背中が、ピクリと動く。
「これ、小太郎」
 あわてて、たしなめる信野の声が響く。
「だって、そうでしょう。母上が病に伏せっているときだって、父上は大丈夫かとも問わない。母上が這うようにして畑に出て、薪を割っておられても、知らぬふりをされる。口を開けば、母上をなじる言葉ばかり。……父上は、人ではありません」
 統馬は小太郎の叫びを残して、奥の部屋に入り、板戸をばたりと閉めた。
「何とでも言うがいい」
 川で溺れているのを助けてやったのに、身を挺して落ち武者狩りから守ってやったのに、その恩も忘れて。
 俺がこんな身体になったのは、いったい誰のせいだと思っているのだ。
 村を裏切って滅びに追いやったのは信野だ。責められるべきは、信野なのだ。
 俺は悪くない。それなのに、なぜ俺一人が悪者にされなければならない。なぜ子らは母親を慕って、俺を疎むのだ。
 なぜ、俺はこれほどに孤独なのだ。
 自分の中に絶え間なく湧いてくる思いの、あまりの身勝手さ、あまりの醜さ。それは臓物が腐り果てるような臭気がした。
 ふらふらと素足で縁側から庭に降りると、布を絞るような女のうめきが聞こえた。
 信野が厨(くりや)の隅で、手ぬぐいを口に当てて、嗚咽をかみ殺している。「泣くな」という統馬の命令を、今でも忠実に守っているのだ。
 やがて気持が落ち着いたのか、彼女は子どもたちを呼んだ。
「小太郎。藤次郎。聞きなさい」
 ふたりの息子の、ためらうような足音が近づく。
「母はむかし、大きな過ちを犯してしまいました。この矢上郷が滅びたのも、父上の御手が不自由になられたのも、みんな母のせいなのです」
 驚くべき事実を聞かされた子どもたちは、声もない。
「だから、父上が母を憎み、冷たい仕打ちをなさるのは当然なのです」
 信野は、諭すように語気を強めた。
「けれど、父上は鬼などではありません。小太郎がまだ生まれたばかりのとき、乳を含ませながら、うたたねをしているわたくしの背中に、綿入れの着物をかけてくださったことがありました。……ほんに、うれしかった。たった一度だけのやさしさではあったけれど、母はそれで十分です」
「たった一度なのに……それでじゅうぶんなのですか?」
 長子のけげんそうな問いに、信野は声に笑みを含みながら答えた。
「ええ。その思い出だけで、母は生きていけます」
 家の外壁に凭れながら、統馬はずるずると地面に座り込んだ。


 さらに七年が過ぎた。
 天下は、豊臣秀吉のもとで磐石の態勢となった。
 家臣は彼に忠誠を誓って団結し、秩序ある封建国家を築き上げた。
 朝鮮半島とのあいだに、極度の緊張が高まったこともあったが、交戦の直前で和平を結ぶことができた。
 秀吉亡きあとは、高台院ねねと、秀頼の生母淀殿を中心に一族がよくまとまり、ここに大坂幕府による太平の世が到来したのである。
 すべては「半遮羅」という八番目の夜叉の将が存在しないことによる、歴史の変転だった。


 この十五年のあいだに、一族は矢萩と合わせて、百人近くに増えていた。統馬と信野にも、三人目の息子が生まれ、徳三郎と名づけた。
 小太郎は数え年十五歳の正月を迎え、矢上家の当主・矢上統馬の名を継ぐことになった。
 烏帽子親は、信野の叔父・矢萩清兵衛が務めた。
 髪を結い、烏帽子をかぶった凛々しい息子に、統馬は天叢雲を手渡した。
「今日からおまえは、夜叉追いの一族を束ねる総領だ」
 固く抑揚の乏しい声で、彼は言った。
「俺の知るかぎりの知識は、すべて伝えた。あとは、真言陀羅尼とこの霊剣を頼りに、日本に巣食う夜叉どもを祓うのだ」
「はい、父上」
 小太郎は、しゃちこばった声で、深々と辞儀をした。
「慎んで、『統馬』の御名をいただきまする」
 元服の儀が終わり、つつましい祝宴の後に客たちも引き取り、矢上家は元通りの静けさに包まれた。
 奥の間に、妻と四人の子を招き入れる。
「統馬」
 彼は、さっきまで自分のものだった名で、息子を呼んだ。
「それに、藤次郎、徳三郎、累」
「はい」
 一番年少の徳三郎でさえ、ぴんとかしこまって正座した。
「この日を、どれだけ待ち焦がれてきたことか」
 少し放心したような表情で、統馬は開け放たれた縁側の外を見やった。
 正月の雪がしんしんと、艶やかに濡れる山茶花の上に降り積もっている。
「この十五年、俺は死んだも同然の生を送ってきた」
 きつく巻いた糸玉をほぐすように、ゆっくりとことばを連ねる。
「何を見ても、何をしても、心から楽しむということがなかった。母上とおまえたちに、悪態のかぎりを尽くした。それはまるで、死人の暮らしのようだった」
 信野が思わず、唇からうめきを漏らす。
「父上は、死人ではありませぬ」
 次男の藤次郎が、声変わり前のかすれた声を張り上げた。
「人を憎むだけの生は、死人そのものだ」
 父は、静かに答えた。
「いつか、小太郎、おまえは俺のことを鬼だと罵ったことがあったな。それは真実だった。俺は、決して夜叉にはなるまいと、自分に言い聞かせて生きてきた。だが……いつのまにか、心に一番大きな夜叉を棲みつかせてしまったのだ」
 統馬は深々と頭を垂れた。
「すまぬ。ゆるしてくれ」
 すべてのこだわりを投げ捨てた父の弱き姿に、子どもたちは声もなくしている。
「だが、もはやそれも終わった。俺のすることは、もうない」
 顔を上げた統馬は、心から安堵したような微笑を浮かべた。
「今日を限りに、俺はこの矢上郷を出て行く。旅に出るつもりだ。二度とここには戻らぬ」
「父上!」
「御前さま!」
 信野が、四つん這いで必死ににじりよった。
「お待ちくださいませ。御前さまが出て行かれるくらいでしたら、わたくしが出て行きます。村を滅ぼし、御前さまを地獄の苦しみに突き落とした、このわたくしが。本当は、もっと早くにそうすべきだったのです」
「そなたの償いなど、もうとっくの昔に終わっておる」
「それならば、どうぞわたくしたちとともに、この村で暮らしてください。徳三郎は、まだ五歳です。父親が必要です」
 信野は、彼の膝元に突っ伏した。
「……わたくしにも、御前さまが必要なのです」
 統馬の目から、ひとすじの涙が伝い落ちた。
「もっと早く、そのことばを互いに言い合うておったなら……」
 ふらふらと、立ち上がる。
「だが、今となっては遅すぎる」
 小さな暖かい手が、統馬の手に触れた。
「父上。行かないでくださいませ」
 累だった。信野そっくりの黒い大きな瞳に涙をいっぱい溜めて、見上げている。
 すんでのところで、その場に崩れ落ちそうになった。娘を抱きしめて、何もかも忘れて泣き伏したい。
 今からでも、人生をやり直せるものなら、やり直したい。
 だが、累の両腕をつかむと、統馬はぐいと引き離した。
「母を大切にしろ。父は元からなかったものと思え」
 床の間を通り過ぎようとしたとき、鋭い声が、彼の足を押しとどめた。
(統馬よ)
 刀の掛け台には、元服の儀に使われたばかりの神剣が置かれていた。
(いったい、今から何をするつもりじゃ)
「天叢雲か」
 統馬は、笑うように目を細めた。
「今になってようやく俺にも、おまえの声が聞こえるようになったのだな」
(わたしも連れて行け。今すぐ、この刀の霊力が必要になるのじゃろう)
「忘れたのか、おまえの主はもう俺ではない」
(統馬!)
「これからは小太郎の掌中にあって、この村を守ってくれ」
 刀の鍔をいとしむように軽く触れると、大股で歩みだす。
「父上」
「ついてくるな! 命令じゃ」
 あとを追おうとする子どもたちを、雷鳴のような声で制する。
「自由になりたいのだ。もう俺のことはかまうな――放っておいてくれ」
 信野のすすり泣きが聞こえる。もう十五年聞いたことがなかった妻の泣き声が。
 入り口の木戸を開けると、目をまともに開けることさえかなわぬ、まぶしい白一色の世界だった。
 なおも雪は、低く垂れ込めた雲からしんしんと降り続いている。軒先で蓑をかぶると、板壁にかけてあった鎌の刃を、ためらわずに両手で強くつかんだ。
 手のひらから勢いよく、血があふれ出てくる。
 統馬は意を定め、村境の森に向かって、ずんずんと歩を進めた。
 血が点々と、そのうしろにしたたり落ちる。白い新雪の上に、それはまるで深紅の山茶花の花びらと見紛うようだった。
 統馬は、村を取り囲む森の斜面の中を黙々とめぐり続けた。
 やがて、頭上に空が開ける。
 尾根の上には、垂れ込める雪雲とは別の種類の、まがまがしい黒雲がかかっていた。
 それは彼だけが感じ取れるものだった。自分と同じ色の臭気。
「誠太郎」
 統馬は片膝をつき、ふいごのような息の合間から、暗雲に向かって叫んだ。
「とうとう、決着をつけるときが来たな」
 雲はゆらゆらと揺れ、渦巻いて人の形となり、姿の定まらぬ一匹の夜叉となった。
「どうだ。村の中に入ろうとしても入れぬだろう」
 振り返り、おのれの血の跡を満足げにながめる。
「たった今、村すべてを包む結界を築いた。統馬の名を戴く者のみが教わる秘術だ」
『おのれ、翔次郎。姑息なまねを』
 かつて誠太郎という名を持っていた夜叉は、悔しげに地団駄を踏む。
「守るものを持つほうが勝てるわけではない。むかし貴様はそう言ったな」
 統馬はすっくと立ち、血にまみれた両手を組んで、手印を結んだ。
「そうではないことを証明してやろう。俺の命を懸けて、この村には――ここで暮らす者たちには決して指一本触れさせぬ」
 統馬は、真言を唱えながら空を仰いだ。
(御仏よ。俺に最後の力を与えてくれ)
 夜叉は牙をむき出し、津波のように烈しく襲いかかってきた。
 天からの一陣の風が、死闘に臨まんとする夜叉と夜叉追いの上を吹き過ぎた。
 目のくらむほど白い世界に、はらはらと紅い花びらを舞わせながら。


「統馬くん」
 ゆっくりと瞼を開くと、そこには雪明かりよりもまぶしい――蛍光灯の光が輝いていた。
 それを遮るように、詩乃の笑顔が近づく。
 跳ね起きると、そこは、二十一世紀の『久下心霊調査事務所』の部屋だった。
 そして、彼のそばにいたのは、矢上詩乃――彼が、生涯の伴侶として思い定めた女性だった。
 十五年の歳月を鏡の中で過ごしたという錯覚のせいか、統馬はなかなか目の焦点を定めることができない。
「ずいぶん、よく寝てたね。もう夜だよ」
 妻は彼の寝ていたソファに腰をおろすと、にっこり笑った。「どうしたの?」
 その笑顔を見るとたちまち、統馬は自分の体を縛っていた呪いが一気に消え去ったような心地がした。
「しの……」
「なあに、いったい。そんなに真剣に見つめて」
 統馬はいきなり、彼女の膝に突っ伏した。
「きゃ」
「詩乃」
 深い安堵の吐息をつきながら、まるで子が母に甘えるように、統馬は詩乃の膝に頬をすりつけた。
「戻ってきたのか……」
「ずっとここにいるわよ。変なの。まだ寝ぼけてるの?」
 くすくすと笑いながら、妻は髪をなでてくれる。
 その幸福に、統馬は不意に胸がつまり、叫びだしたいような衝動に駆られた。
 幻とは言え、満賢の魔鏡の中はひとつの現実。
 彼はその中で十五年間、ひとりの女をいたぶり、苦しめ、非道の限りを尽くして生きてしまったのだ。
 恋しさが募るほど、憎しみも募り、赦したくとも赦すことができなかった。
 目の前にいる同じ名前の女に、将来それと同じことをしないと、言い切れるだろうか。
「詩乃、おまえは俺でいいのか?」
「……どうしたの?」
「俺は、きっと何度人生をやり直しても、夜叉になる。自分の弱さから逃げ、回りにいる者を傷つけてしまう――いつか、おまえのことも。それでも、俺は生きていていいのか。赦されるのか?」
「なあんだ。そんなこと?」
 詩乃は、統馬の頭をぽんと叩いた。
「何度、夜叉になってもいいよ」
「え……」
「私がちゃんとそばにいるから。必要なら、ひっぱたくから。何度間違えても、何度でも赦すから」
 統馬はゆっくりと身を起こして、詩乃を見た。
「その代わり、私が間違えても、何度でも赦してね」
「ああ」
 統馬は、微笑んだ。
 詩乃は、信野と違う。
 詩乃は自分を赦すことを知っている。だから人を赦せるのだ。
 どれほど他の男に汚されようと、聖らかさを失わないのだ。
 だから詩乃の前では、心から素直になることができる。
 俺は帰ってきた。この女のもとに。
 ふるさとに。原点に。たったひとつの憩うことのできる場所に。
「ありがとう――詩乃」


 唇を重ねるふたりの足元に、満賢の魔鏡がころがっていた。
 その背に刻まれた文様は、ひとつ消えて、最後のひとつになった。



                   三の巻   了





 
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