「満賢の魔鏡」 結の巻                        back | top | home




 詩乃は、部屋の男たちをぐるりと見回した。
「なんだか、様子が変だと思ってたのよね」
 首をすくめる草薙。急に机の上の片づけを始める久下。仏頂面のまま身じろぎもしない統馬。そして、そわそわと落ち着かない矢萩龍二に最後の一瞥をくれると、
「す、すまん。俺が悪かった」
 耐え切れなくなった龍二は、両手を合わせて、詩乃を拝み始めた。
「神林と徹夜で居酒屋をはしごして、起きたら次の日の夕方だったんだ」
「わたしに、魔鏡のことを伝えるメールが着いたのは、さらにその翌日の夜ですよ」
 と久下が冷たく言い放つ。
「だから、すまん。すっかり忘れてたんだ」
「忘れもするでしょう。その日は、かなり気合の入ったデートがあったとか」
「どんなに忙しかろうが、危険きわまりない満賢の魔鏡を、説明もなしに事務所に放り出していくとは、とんでもないヤツじゃ」
 草薙も、ぷりぷり怒っている。
「もしこのタイミングで五太子が攻撃してきたりしたら、大変なことになっていたぞい」
「でも、まあ。結果オーライだったじゃないか」
 龍二は、不穏な空気をなだめるように、明るい笑顔を作った。
「なにせ、たった二日間で、三つもの文様が消せたんだから。怪我の功名だろう?」
 キャビネットを引き倒して、書類の下に龍二を埋めてから、男たちはやれやれとソファに戻ってきた。
 それまで片隅で黙って耳を傾けていた鷹泉孝子が、おもむろに口を開いた。
「でも、今の話を聞くと、たとえ龍二くんが注意を怠らなかったとしても、今の事態は引き起こされていたような気がするわ」
 一同は、しんと静まりかえる。
「満賢の魔鏡の妖力……やはり、それだけのものだったのよ」
 孝子のことばに、詩乃は考え込んだ。
「そうすると、残るひとつの文様を消すには……やっぱり、私が入るしかないですね」
 夜叉追いたちは、いっせいに驚愕の目で彼女を見た。
「何を言っている」
 統馬が、うわずった声で叫んだ。
「おまえに、そんなことができるわけがないだろう」
「でも、あの満賢のことだもの。どんな策を講じても、きっと避けられないと思う。そうだとしたら、さっさと覚悟を決めて自分から入ったほうが、てっとり早いでしょう?」
「そんなことは、絶対にさせん」
 統馬は、ぎりぎりと奥歯を噛みしめた。
「俺が監視する。何重もの結界を張り、妖力がなくなるまで見張っている」
「何年かかるかもしれないのよ」
「何年かかろうが、かまわん」
「そうだ、わたしから、誰かほかの人に声をかけて頼んでみますよ」
 久下が引きつった笑顔で言った。
「夜叉追いは、何もわたしたちだけではありません。誰かきっと引き受けてくれます。もし、それがダメなら、『全賃協』の古館さんと坂上くんに押しつけてもいいし、岩手の湯守の婆さんだって――」
 詩乃は、ゆっくりと首を振る。
「みんな気づいているのでしょう、この魔鏡は、満賢が私たち五人を陥れるために作ったものだということを。呪いを打ち破るのは、他の誰でもダメなのよ」
「だが、今のおまえには無理だ」
 統馬が、ぐいと妻の二の腕をつかんだ。
「おまえは今――自分だけの身体じゃないんだぞ!」
 部屋にいた全員の目が、詩乃の目立ち始めた腰回りに注がれる。
「だからなのよ」
 詩乃の微笑は、静かな確信をたたえていた。
「私ひとりで行くんじゃない。統馬くんの子どもがいっしょにいるから、きっと守ってくれる」
「俺は、許さん」
 統馬の声は部屋全体をビリビリと震わせるほどだった。
「矢上家の当主として、絶対に許さんからな!」
 言い捨てて、事務所を飛び出していく夫の背中を見送りながら、詩乃は盛大なため息をついた。
「相変わらず、横暴なんだから」
「詩乃さん、わたしも反対ですよ」
 久下が険しい顔で言った。
「統馬の危惧はもっともです。何かあったら、お腹の赤ちゃんともども、とりかえしがつかないことになるのですからね」
 詩乃はしばらくじっと考えた末、最後には頭を下げた。
「わかりました。偉そうなことを言って、ごめんなさい。統馬くんの言うことに従います」
「そうしてください。この魔鏡は、わたしが当分のあいだ護符で封印します」
 紫の袱紗に丁寧に包みなおし、机の引き出しにしまいこむ。
「当分、この机には誰も近寄らないように。我々といえども操られて、詩乃さんのもとに鏡を運ばないとも限りません」
「それだけで、足りるかしら?」
 孝子が不安な面持ちで問う。
「なにしろ、相手は満賢の魔鏡なのよ。対策には、もっと念を入れたほうが」
「確かに……。それでは、この事務所全体をしばらく封鎖しましょう」
 久下は、おごそかに宣言した。
「一週間ほど、この部屋を立入り禁止にして、防御用の物理結界を敷きます。ビルの掃除の人や依頼者が間違って入ろうとしても、絶対に入れないように」
「しかし、そうすると、わたしはどこに寝たらいいんじゃ」
 草薙が情けない声を出した。
「そうだ、湯治に行きませんか?」
「湯治?」
「さっき話に出た、岩手・花巻の布津山(ふっさ)温泉です。秘境中の秘境とうたわれる場所で、いいお湯が出る湯治場があるんです。昔からそこの湯守の婆さんとは、浅からぬ因縁がありました。あそこなら、満賢の妖力も届かないでしょう」
「そうか。湯治もいいわねえ。みんな心身ともに疲れてるみたいだし」
 孝子が目を輝かす。
「よし、内閣府の特別調査費で落とすわ。ばーっとみんなで豪華に繰り出しましょう」
「やったあ」
 歓声を上げた龍二を、他の夜叉追いたちはいっせいに冷たい目で見た。
「おまえは、しばらく自宅謹慎な」


「ええと、これで全部かなあ」
 詩乃は、二人分の着替えを、せっせと旅行カバンに詰め込んでいた。
「久下さんも気が早いんだから。今日決めて、もう明日出発だなんて」
 統馬は無言で、新聞を読んでいる。
「ねえ、統馬くんも布津山温泉には、行ったことがあるの?」
 振り向きもせず、「ああ」と気のない返事が返ってくる。
「ひとりで?」
「……董子といっしょだ」
「鷹泉董子さんと? ふーん」
 詩乃は、とたんに意味ありげな口調になる。
「女性とふたりで湯治場に泊まったんだ、ふーん」
「あのなあ」
 統馬は、呆れたという顔で詩乃を見た。
「女と言っても、正体は慈恵だぞ。おまけに、あのときは四十近くになっていた」
「四十路って匂いたつような女ざかりよ。今回の計画は何だか、久下さんがいそいそと嬉しそうだし、きっといい思い出があるに違いないな」
「焼いてるのか?」
 統馬の声に、からかうような響きが混じった。
「焼くわけないでしょ。もう七十年も前のことなのに」
 プイと素知らぬふりをした詩乃の身体を、統馬は後ろからあっというまに絡め取ってしまった。
「嘘をつくな」
「……イジワル」
 このところの魔鏡騒ぎで、さっぱり二人きりになれる時間がなかった矢上の総領夫婦は、甘い抱擁を楽しみ始めた。
 そういうときに限って邪魔が入る。
 インターホンが鳴り、詩乃は仕方なく服をととのえて、玄関に出た。
「すいません、宅急便です。ハンコお願いします」
「サインでいいですか?」
 小ぶりの包みを受け取った詩乃は、首をかしげた。
「私宛てだわ。あれ、こんな知り合い、いたかなあ」
 下駄箱の上で包みをほどいていた彼女の後姿が、やがて足元から、ぐにゃりと崩れた。
「詩乃!」
 気づいた統馬が駆け寄ると、妻は完全に意識を失って、床に倒れ伏していた。
 下駄箱の上に残された包みの中身を見て、驚愕する。
 満賢の魔鏡。
 間違いなく、あの魔鏡だ。事務所の久下の机の中に厳重に鍵をかけてしまわれたはずの鏡が、なぜ、詩乃宛ての小包に?
 あまりの不条理さに全身がわなないた。やはり本当だったのだ。たとえ、どんな理屈に合わぬ手段を使っても、満賢の魔鏡は確実に狙った獲物の元に届く。
「おい。目を覚ませ」
 抱き起こすと、彼女の長い睫毛が震えている。もうすでに鏡の写し絵の中へと、過去の幻へと立ち戻っているのだ。
 そこに広がるのは、どんなおそろしい世界だろう。
 小学生のころ、隣を歩いていた姉が水路に転落したときか。
 両親のけんかを、震えながら部屋の片隅で見つめていたときか。
 クラス中のイジメを受けていたころか。それとも、龍二の手で辱められているときか。
 詩乃の人生には、残酷なほどに辛いことが多すぎる。どの時点で心の中に夜叉を育てたとしても、おかしくはないのだ。
「泣いているのか。その中で、たったひとりで」
 もう二度と、あの苦しみを味わわせたくなかった。
 彼女の柔らかな髪に幾度も唇を寄せながら、統馬の瞼は熱いもので濡れた。
「できるものなら、代わってやりたかった。……詩乃」


 琥珀色の夜明けが部屋に忍び込み、しだいに物の輪郭をはっきり見せ始める。
「統馬くん」
 一晩じゅう詩乃を胸に抱いて、真言を唱えていた統馬は、透き通った声に思わず顔を上げた。
「詩乃」
「おはよう」
 まだ幾分、声にぼんやりとした響きはあるものの、詩乃はゆったりと微笑んでいた。その表情は今までと少し違う。無邪気な中に、母親のような落ち着きと穏やかさが満ちている。
「いい夢を見た……」
「いい夢だと?」
「うん、全然過去の悪夢なんかじゃなかったよ。それどころか、未来の夢だった」
「未来?」
「統馬くんと私は、田舎で暮らしているの。愛媛県の、元の矢上郷があったところ。孝子さんが駆け回って国から許可をもらってくれて、私たちはそこに家を建てて住んでいるの。天井が高くて真ん中に囲炉裏があって、昔の農家風の家」
 詩乃は目覚めることを惜しむように、半分薄目を開けていた。
「統馬くんは畑を耕して、私はにわとりを飼って、ナギちゃんは縁側で子守をしてくれて、それから久下さんもすぐ隣の家で暮らしてて、龍二くんも愛媛に転勤になって、かわいいお嫁さんをもらって……」
 大切な思い出をいとしみながら語るときの、ゆっくりとした口調だった。
「子どもは、四人いた。男の子が三人、女の子がひとりで、毎日どろんこになって走り回っていた。私の夢だった大家族が、とうとうできたの。毎日たくさんの人が集まって、みんなでご飯を食べて、お布団を並べていろんなことを話し合って……キャンプみたいににぎやかで、楽しかったあ」
 統馬は口も利けない。
 思わず、そばにあった満賢の魔鏡を見降ろした。
 最後に鏡の中に捕らえられた詩乃は、ほかの四人とは違って過去には向かわなかった。彼女の心には、すでに過去に対する後悔などなかったのだ。
『すべてのことは、今の私が私であるために、そして統馬くんと出会うために、必要なことだったもの』
 詩乃の抱く暖かな希望ゆえに、鏡は過去ではなく、未来を写す道具と化した。
 そして、今思い返せば、統馬の見た幻の中にも、未来の欠片は確かに散りばめられていたのだ。
『男の子が三人、女の子がひとり』
 と詩乃は言った。統馬の脳裡には今も、小太郎、藤次郎、累、徳三郎の顔が刻みつけられている。あのとき、ついに愛情の欠片も注ぐことができず、不憫なまま別れてしまった四人の顔が。
 今生で、統馬はあの子たちにもう一度会えるのかもしれない。今度こそ、心ゆくまで彼らを抱きしめるために。
 龍二、草薙、久下とても、きっと同じだろう。過去への後悔が消えうせたとき、それは未来への希望に満ちた予兆となる。
 鏡の背に最初五つあった禍々しい文字は、今最後のひとつが消えようとしていた。全体を蔽っていた輝きが失せ、歳月に黒くくすむ、古ぼけた銅鏡だけが残った。
 夜叉八将の副将・満賢がこめた妖力のすべてが、たった今消えうせたのだ。
「あの夢が、ほんとうになるといいわね」
「ああ、ほんとうにする」
 統馬は、彼女を抱く手に、いっそうの力をこめた。
「土地の払い下げのためには、孝子に働いてもらおう。五太子との戦いは、何十年、何百年と続く。あそこに夜叉追いの拠点を作り、もっと多くの仲間を集める。今度こそ、矢上郷を再建するんだ」
「……統馬くんの長年の夢が、実現するのね」
「俺の夢じゃない」
 力強い眼差しを上げ、統馬は暁の空を見据えて、笑んだ。
「俺たち全員の、夢だ」
   



                  「満賢の魔鏡」 全五巻 了



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文中に出てくる『全賃協』の古館と坂上コンビ、および湯守の婆さんは、ベノさんのサイト「閻浮堤地辺境 混乱之纂乗」の小説、「犬ノ湯 〜怪異物件始末帖 秘湯編〜」の登場人物です。