第三話  天に叛くもの(5)                   back |  top | home




「一週間って早いわねえ」
 ヨウコは、葱をことことと細かく刻みながら、ひとりごとを言った。
 和室からは、夫がいつも日曜の朝に見ているバラエティー番組のにぎやかなテーマ曲が聞こえてくる。この音楽を聞く度に、また日曜日が来たと思い知るのだ。
 年を取ると、一週間が早いって本当。特に40歳を越えてからは切実にそう感じる。
 夫とふたりきりの日々は単調で静かで、合わせ鏡の中の映像のように同じ顔をして過ぎていく。
 中華なべの中で、冷やご飯に溶き卵を手早くからませ、焼き豚や葱を合わせて炒める。
 これも夫の好きな、日曜の定番メニュー。
「さあ、お待たせ」
「ああ」
 焦げた醤油の香りが、台所から居間へと移動する。
「シゲはあっちで、毎日何を食べてるんでしょうね」
「さあな」
 生返事をしながら画面から目を離さない夫の前の座卓に、チャーハンの皿と麦茶のコップをコトリと置いた。少し薄くなってきた夫の後頭部からテレビへと視線を移す。びっくりしてヨウコは叫んだ。
「あれ、この落語家」
「どうした?」
「この人、もう死んだんじゃなかったっけ? 去年あたり」
「そんなはずはない。これは先週一週間の生放送のダイジェスト版だぞ。録画なんかじゃない」
「あれえ、おかしいな。なんだか死んだって聞いた記憶があるんだけどな」
「誰かとごっちゃになってるんだろう。こないだも、俳優を見てそんなことを言ってたぞ」
「なんだかこの頃、誰が死んで誰が生きてるのか、さっぱりわからなくなってきた。年なのかな」
「お互い、年なんだよ」
「いやだなあ」
 彼女は夫と顔を見合わせ、微笑んだ。


 夏空の下、2階のベランダへ出て洗濯物を干す。バスタオル。夫のカッターシャツ。二人分の下着。
 ふと手をとめ、空を仰いだ。
 夫は朝早く都心へ出勤していった。この頃はだいたい判で押したように8時には帰ってくる。昔と違って11時まで残業ということもなくなった。不況のせいか、それとも、もう馬車馬のように働く世代は過ぎたということなのか。
 ヨウコも3年前に体調を崩してからは、ずっと家でのんびり過ごす毎日が続いている。
 3年前、一人息子のシゲアキが留学してまもなく、ひどい鬱状態に襲われた。夜は全然眠れなくて、じっとしているだけで息が苦しく、冷や汗が流れ落ちてくる。
 更年期障害と診断されたが、ヨウコは自分で、いわゆる「空の巣症候群」だったと思っている。
 20年間、会社が忙しい夫の分までと息子を溺愛してきた。シゲアキもその重圧に耐えられなかったのだろう。外国の大学を受験して、さっさと日本を逃げ出してしまった。
 愛する対象を失い、どうしていいかわからなくなったのだ。
 幸い、夫がそのことに早く気づき支えてくれた。彼女の苦しさを理解し、ただじっとそばにいてくれた。
 私が愛するべきなのは夫だったのだ。そのことにようやく思い至ったとき、異常な不安は去っていった。
 これから何十年、夫とふたりだけの暮らしが続く。まだ少し寂しくて、ぼんやりとしてしまうけれど、その事実をヨウコは最近ようやく幸せと受け止められるようになった。
 電話のベルが鳴っている。
 光のあふれるベランダから、真っ暗な屋内に戻った。
「はい、宮田です」
『お母さん?』
「あら、めずらしい」
 シゲアキからの国際電話だった。
「外国は3ヶ月も夏休みだっていうのに、一度帰ってきたらどう?」
『ごめん。学生ビザの切り替えの都合があるんだ。8月いっぱいは帰れないけど、9月の一周忌に合わせて帰ろうと思ってるから』
「9月? 何に合わせるの?」
『お母さん……』
 息子は、電話の向こうでしばらく黙り込んでいる。
『お母さん、お父さんは……』
「何言ってんの。会社に決まってるでしょ」
『そうじゃなくて、お父さんは』
 シゲアキらしくない、消え入るような声だ。
「あ、ごめん、宅配便が来たみたいだから切るね」
 ヨウコはあわてて受話器を置くと、階段を駆け下りて玄関に出た。
 宅配便など、全然来ていなかった。
 どうして、自分はあんなことを言ったのだろう。まだ少し、更年期障害でぼんやりしているのだろうか。
 庭のカーポートに目をやる。車はなかった。
 夫は電車通勤なのに。なぜ?
 その自問のことばさえ途中で忘れ、ヨウコは残りの洗濯物を干しにもう一度ベランダへ戻っていく。


 また日曜日が来た。一週間の過ぎるのは、本当に早い。
 いつものとおり、台所でチャーハンを作っていると、玄関のチャイムがピンポンと鳴った。
「あら、誰かしら」
 火を止め、手をエプロンでぬぐってインターホンで応答すると、戸口にすらりとした一組の男女が映っていた。
 宗教の勧誘? そんな感じではないけれど。
「シゲアキさんの連絡をいただき、伺いました」
 青年は今どきの若者にはめずらしく、しっかりした言葉使いをした。
「はい、ちょっと待って」
 あわてて玄関に出ると、
「宮田ヨウコさんですね? 矢上といいます」
 青年が、お辞儀をした。
「はじめまして、弓月です」
 そばにいた高校生くらいの少女も、可愛い声で挨拶する。
「おふたりともシゲアキのお友だちなの?」
 ヨウコは、相好を崩す。
「どうぞ、中に。何のご用かしら」
「友人ではありません」
 彼はドアをくぐると、廊下の奥に一瞬、険しい視線を送った。
「正確に言うと、シゲアキさんの依頼を受けて来ました」
「依頼?」
「ご主人は?」
「ええ、今日は家におりますが」
 居間からは、いつものバラエティー番組のテーマソングが流れている。
 青年のうしろにいた少女が、おびえた仕草で彼の陰に隠れた。
「宮田さん、ご主人は」
 言葉を選びながら話す彼は、背後からの逆光を浴び、まるで彫像のように冷たく見えた。
「ご主人の宮田シゲルさんは、一年前に亡くなっています」


「待って、いきなりそんな!」
 許しも得ず、靴を脱いで上がりこんだ青年を、ヨウコは廊下で必死に追いすがろうとした。
「変なことをすると、警察を呼ぶわよ!」
 乱暴に居間の襖が開けはなたれると、テレビの前にいた夫は、驚愕した表情をうかべて闖入者を見上げた。
「お、お、おまえは」
「やはり、死霊に夜叉が憑いているな……」
 夫は見たこともないほど、うろたえて後ずさり、逃げようとでもするように壁に体を押しつけた。
「宮田さん」
 矢上という青年は、彼をじっと見据えたままヨウコに話しかけた。
「あなたはおそらく、夜叉の妖力によって記憶を封じ込められている。ご主人は去年の9月、ゴルフの帰りに自動車事故で亡くなられたのです」
 テレビからは、観客の大きな笑い声が聞こえてくる。
「うそ。……うそよ」
「あなたの嘆きはひとかたならぬものだった。息子さんの励ましも耳に入らず、心配して訪ねてくる親戚や知人とも会わず、半年以上、家に閉じこもって過ごした。
ところが三ヶ月ほど前から、見違えるようにあなたが明るくなったとの噂が立ち始めました。近隣の住民たちは毎日、亡くなったはずのご主人の洗濯物をベランダに干しているあなたを見、家の中から談笑する声を聞いた。
怪しく思った方が先月、留学先にいる息子さんにこのことを連絡し、あわてて彼が実家に電話をかけると、応対するあなたの声に混じって確かに死んだはずの父親の声が聞こえてくる。
尋常ならぬものを悟った彼から、いくつかの伝手を経て、うちの事務所に依頼がありました。
死んだ父親がもしほんとうにそこにいるのなら、その霊を祓ってほしいと」
「これは……何かの手の込んだイタズラなの?」
 ヨウコは震える拳をかたかた鳴る歯に押し当てた。
「夫は、……生きているじゃないの、こうして眼の前にいるじゃないの! わからないの?」
「見なさい」
 青年が手に持っていた日本刀の木の鞘を払うと、部屋に清浄の白い光があふれた。
 そして、その中で夫の姿は、みるみるうちに黒く崩れたゼリー状の塊へと変化していく。
「あなた!」
「ヨウコ、ヨウコ……」
 塊はぶよぶよと壁際でうごめきながら、そう訴えた。
「ご主人は亡くなった後もなお、あなたをひとり遺していくことが不憫で、この家から去ることができなかった。その妄執とも言える愛情に、夜叉が取り憑いたのです」
「そんな……」
 ヨウコは、畳に崩れ落ちた。
 そう言えば、かすかに覚えている。僧侶の読経の声。焼香の匂い。シゲアキも隣で泣いてた。私も。
 あれは……あれは何だったの?
 這うようにして仏壇ににじりより、扉を開けた。中から出てきたのは――、
 夫の写真と位牌だった。
「あなた……嘘でしょ、死んだなんて嘘でしょ」
「ヨウコ。僕は、僕はおまえといっしょにいたいんだ……」
「夜叉を祓い、ご主人の霊を解放します」
 彼女の目の前で、青年の手の中の刀がきらりと銀色に光った。
「やめて、やめてぇっ!」
 とっさに、その脚にしがみつく。
「幽霊でいいんです。悪霊に取り憑かれていても、いい! 主人を祓ったりしないで!」
「……それはできない。このままこいつを見過ごせば、夜叉はご主人ばかりか、やがてあなたの魂までも食らい尽くしてしまう」
「それでもいいんです。私、毎日幸せだった。たとえ悪いものだとしても、主人とテレビを見て、ご飯を食べて、おだやかに過ごす毎日は楽しかった。
どうせ私、主人がいないと生きていけない……。私から、主人を奪わないで。騙されて殺されてもかまわない。このまま静かにふたりで暮らしたいんです。どうか見逃してください!」
「宮田さん……」
 そのときまで廊下にいた弓月という少女が入ってきて、目に涙をいっぱい浮かべながら、携帯を差し出した。
「シゲアキくんとつながっています。お話しください」
「え……」
『お母さん』
「シゲ」
 電話の向こうの息子も泣いていた。
『お父さんは、もうこの世にいないんだ。死んじまったんだ。わかってくれよ』
「あんたまで、そんな、ひどい……」
『俺がお母さんをひとりぼっちにさせたのが悪いんだってわかってる。だけど死ぬなんて言わないでくれよ。お母さんは俺にとって、たったひとりの母親じゃないか。悪いものと戦ってくれよ。目の前の真実を見てくれよ!』
「シゲアキ……」
『俺、卒業したら、すぐお母さんのところに帰るから……。お願いだ、その人たちの言うとおりにしてくれ』
「あああっ」
 ヨウコは、突っ伏して激しく泣いた。
 泣いて泣いて、泣き止むとしゃくりあげながら、畳に両手をついた。
「主人が苦しまないように……よろしくお願いします」
「わかりました」
 青年は、かつて夫だった醜く黒い塊に近づいた。呪文のようなものを唱え、そして刀を構える。
「ヨウコ。助けてくれぇ!」
「あなた……!」
 思わず目をぎゅっとつぶった彼女の耳に、断末魔の悲鳴が聞こえ、そして部屋を横切ってスッとひと筋の風が流れた。


「矢上くん……ひどい」
 玄関を出たとき、詩乃は嗚咽にむせび、統馬の背中をとんと拳で叩いた。
「どうしてあんな……ひどい、ひどいよ……」
「すまない……」
 背中を向けたまま、低い声で統馬は答えた。
 ほんとうは、霊と直接向き合い、その念を浴びた調伏者が誰よりも辛い思いをしているはず。
 その苦しみにじっと耐えている統馬を誰よりも理解しながら、それでも詩乃は駄々っ子のように、いつまでもその背中を叩き続けていた。


「あなた」
 ヨウコはベランダで洗濯物を干しながら、空に向かって呼びかけた。
 バスタオル。ブラウス。下着。一人分の洗濯物がひるがえる。
「ひとりって暇よ。掃除も洗濯もあっという間に済んじゃうし、食事も手抜きだし。
あんまり楽だから、こないだ隣の奥さんに誘われて、この秋から地域のお年寄りの給食ボランティアに参加することにしたの。
家にこもってばかりでお化粧もしないと早く老けるし。心配かけたらシゲアキも安心して自分の人生を歩み出せないし。私、がんばってみるよ。
……ねえ、あなた、あのとき聞こえたのは、あなたの声だったの?」
 空には小鳥のさえずりだけ。答えはない。


 あのとき夫は、まるで一年前から存在しなかったかのように、煙となって消え失せた。
 座卓の上には飲みかけの彼の湯呑みが、台所には二人分のチャーハンが湯気を立てていたのに。
 放心する彼女の耳に、そよ風とともに誰かの声が聞こえてきた。
『ヨウコ、ごめん。もう行くよ』
 空耳だったのかもしれない。でもそれは夫らしい、本当に穏やかな声だった。
 あなたは最後まで、私のことが心配でたまらなかったのね。弱い私の心が、あなたをあんな姿にしてまでこの家に引き止めていたのね。


「人間は、死んで終わりではない」
 夫を斬ったあの青年が、刀を鞘に収めるときそう言った。そのことばを、今なら信じられると思う。
「私はだいじょうぶだから」
 空にむかって、ヨウコはもう一度呼びかける。
「また、いつか会おうね」
 


                                   第三話 終  



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