第四話  地より叫ぶもの(1)                   back |  top | home




 「あれ」は、いつから呼びかけていたのだろう。
 澤村はずっと何年間もその声を聞いていたような気がする。


 確か今年の春休みのことだった。
 入試の前後数日の喧騒を除けば、、春休みの校舎内には生徒の姿もほとんどなく静かだ。
 他の同僚教師と顔を合わせることのない休みの日の出勤が、澤村にとっては一番心が安らいだ。
 そのときだった。
 今までよりもずっと鮮明でずっと心深く、あの語りかけが聞こえてきたのは。
 校務員には「調べものがあるから」と偽って校内に残り、夜になるのを待った。
 校舎の裏、鬱蒼とした茂みの中に、不思議と一箇所だけ下草の生えていないところがある。少し周囲よりうず高くなっているそこは、江戸時代「土壇場(どたんば)」と呼ばれ、死罪の咎人が首切り役人によって刀の試し切りをされるところだったと、生徒か誰かの噂話で聞いた記憶が、うっすらとあった。
 澤村は声なき声に請われるまま、用意したシャベルでひたすらその塚を掘り返した。
 2時間ほどして、地中からひとふりの刀が現われた。
 ニ尺ニ寸五分の小振りの剣。塚巻の糸も下げ緒も半ば腐ってぼろぼろなのに、なぜか鞘をはらった刀身は艶やかでみずみずしかった。
「美しい……」
 こぼれ落ちる銀の雫にも似た光を見て、思わず発したそのことばに刀は答えた。
「我が主よ……」
 澤村は刀身や鞘を丁寧にぬぐい、教室奥の準備室にあったロッカーから雑然とした用具を叩き出し、代わりにその刀を飾った。教えられるとおりに祭壇を築き、結界を張った。他の誰にもその存在を気取られぬように。
 それからというもの、その刀は心の支えになった。
 教師のあいだにもイジメはある。澤村はその犠牲者だった。教頭や学年主任からいつもからかうような眼で見られ、受験に関係のない科目と、行事でも後回しにされ軽んじられる。
 鞘から引き抜き、その鋭利で冷たい刃に頬を触れるときだけ、学校に対するすべての怒りを忘れることができた。
 そんなある日、刀は澤村に向かって言った。
「血を所望する」
 南北朝の動乱のとき、彼は多くの武者たちの血にまみれた。血に含まれる数えきれない怨念を吸い込むうちに、剣にはひとつの明確な意志が生まれた。
 人を斬りたい、と。
 彼は人から人に渡り、そのたびに所有者の手と一体となって、人を殺め続けた。
 やがて邪剣と呼ばれ、僧侶によってこの地に封印されるまで、何百人の血を吸い続けた。
 なぜ今になって目覚めたのかはわからない。ただ、この声に応えてくれる者を主として、ふたたび人を斬りたいと願った。
 話を聞いたあと、澤村はうなずいた。人を斬ること。それはすでに、自分自身の望みでもあった。
 夕方、廊下を歩いてきた女生徒に声をかけ、襲った。
 剣は澤村の手であるかのように、なめらかに動いた。
 死体は丁寧に処理して、冷蔵庫に収めた。
 刀は血を得た喜びに笑い声を上げ、澤村も同じく喉をひくつかせた。ずっとこんな美しい脚にあこがれていたのだ。
 その次は翌月。目星をつけておいた女生徒をこっそり放課後の教室に呼び出した。
 あの美しい脚には、このくびれた胴体が似合う。それも並べて冷蔵庫にしまった。
 念願の形の良い頭部も手に入れ、残るのは手だった。


「あら、いらっしゃい、弓月さん」
 扉が開き、家庭科教諭が柔らかい微笑みで出迎えた。
「失礼します。ちょっとお邪魔していいですか?」
「ええ、どうぞ。夏休みにどうしたの? まだ藍染の端布が入用になった?」
「いいえ、あれはもう完成しました」
 彼女に招じ入れられて、詩乃は中に入った。
 中央には教科書や資料がきちんと並べられた教務机。そのそばの丸椅子を勧められる。
「剣道の竹刀を入れる袋だって言ってたかしら。彼氏の」
「は、はい。全然彼氏なんかじゃありませんけど」
「うそおっしゃい。彼氏じゃなければ、手縫いのプレゼントを贈ったりしないわ」
 女教師は机に片肘をついて、優雅な仕草で、少し汗ばんだ額から髪をはらう。
「暑いわねえ。そうだ、弓月さん。アイスクリーム食べない?」
「え? あるんですか?」
「その後ろの冷蔵庫に内緒で入れてあるのよ。教師のささやかな楽しみ」
 家庭科準備室の窓と反対側の壁には、業務用の大きな冷凍冷蔵庫がある。1年生のとき、9月の文化祭にクラスで模擬店をやって、ペットボトルやら氷やらを入れてもらうのにお世話になった。その日も蒸し暑くて、「人間だって入れそうだね」と冗談を言ったことを覚えている。
「うれしい。いただきます」
「何種類かあるから、好きなのをとって」
 詩乃は立ち上がると、冷凍室の鉛色の重い扉を開けた。中から白い冷気の煙が立ち昇る。
 中をのぞきこんだ。
「ほんとだ。チョコや抹茶味もある」
 そして、振り向いた。
「澤村先生は、どれにします?」
「私は、バニラをもらうわ」
「はい」
 少し冷えた詩乃の手から、カップアイスと付属の木のスプーンが教師の手に渡された。
「弓月さんの手って、綺麗ね」
「え? そうですか?」
「ええ、爪なんか丸くてピンク色で。つやつやしてる」
 彼女は自分の手を目の前にかざして、不服そうに眉根を寄せた。
「首筋や手には、てきめんに年が表われるものなのよ。お化粧でごまかしが利かないでしょ。ああ、私も若くなりたいな」
「先生はすごくステキで美人なのに」
「よく言うわ。もうすぐ四十路の行き遅れ、って生徒たちみんなで陰口言ってるんじゃない?」
 彼女はアイスのスプーンをぺろりと舌でしゃぶると、机の本立て越しにじっと教え子を見つめた。制服のブラウスの袖から伸びる、ほっそりした腕を。
「私も、弓月さんのような手がほしいわ」
「あ、あの」
 チョコアイスを食べ終えると、居心地悪そうに詩乃は身じろぎした。
「それで、今日うかがった用事なんですけど」


「失踪?」
「はい。2年D組の田無さんっていう子です」
 知っている。頭を「提供」してくれた子だ。
「そういえば、1学期の終わりから登校しなくなったと聞いたわ」
「正確に言うと、7月4日の放課後からです。家族にも友人にも何も言わずに急にいなくなったんです」
「家出じゃないの?」
「でも家出にしては少し不思議なことがあるんです」
「不思議なことって?」
「田無さんはその前の日、私と話しているんです。被服実習の課題、先週が締め切りだったから早く提出してねって言ったら、田無さん、裾あげがまだ全然出来てないって言ってました」
「それで?」
「それなのに、家庭科室のロッカー棚の展示スペースには、田無さんのエプロンもきちんと飾ってあるでしょう? そしたら田無さんはいなくなった日に、エプロンをここに提出に来たことになるんです」
 確かにそのとおりだった。彼女はその日、ここにエプロンを持って来た。そのとき、澤村は彼女の夕焼けを浴びた横顔が美しいと思ったのだ。気がつくと衝動的に、日本刀を鞘から放っていた。
 エプロンがどこかに紛失するのもおかしいと思い、そのまま飾ったのが失敗だった。まさかそのことをクラス委員長の弓月が覚えていたとは。
「家出する気でいる人が、わざわざ時間をかけて提出課題を完成させるでしょうか。私不思議に思えて。それで、先生にうかがったら、そのときの田無さんの様子とか、何か言ってなかったかとか、わかると思ったんです」
「そうね」
 にっこりと微笑んだ。
「確かにその日、田無さんは課題を提出に来た。でも、私も忙しかったし、そこに置いといてって声をかけただけなの。話もしなかったし、何も気づかなかったわ」
「そうですか」
「でも、特に変わった様子はなかったと思うわ。もしかすると衝動的に家出したのかもしれないし。……最悪の想像かもしれないけど、下校途中に何かの事件に巻き込まれた可能性もあるわね」
「はい……」
 澤村はゆっくりと立ち上がって、アイスのカップをゴミ箱にほうりこんだ。そして、詩乃からも空のカップを受け取った。そのとき触れた彼女の手は、アイスクリームの冷たさで、まだひんやりしていた。
「でも、それをなぜ、一ヶ月も経った今頃になって思い出したのかしら?」
「実はゆうべ、担任の先生から電話があったんです。うちの組の赤羽さんも数日前からいなくなったって」
 そいつは知らない。私のしわざではない。それこそ夏休みにつきもののプチ家出だろう。いっしょにされるなんて、迷惑にもほどがある。
「それで、あちこちに電話して問い合わせているうちに、赤羽さんのことより、田無さんのことをだんだんと思い出して」
 澤村は目を細めた。
 この子、まさか何か感づいているのだろうか。夏休みなのに、わざわざ学校まで私のところに話を聞きにくるなんて。
 もしかして、私を疑っているのか。
「問題の多いクラスの委員長は、大変ね」
 そう言いながら、ゆっくりとロッカーのほうに歩み寄る。
「みんなで手分けして捜しているの?」
「い、いいえ。私が今は思いつくところを見て回っているだけで」
 それはそうだろう。この子はクラスでも孤立していると聞く。優等生で可愛くてクラスの委員長。妬みやそねみを受けないほうがおかしい。
 今日ここに来たことは、誰も知らないに違いない。
「弓月さん、今日は何か今から予定ある?」
「え? いえ、特に」
「ちょっと見て欲しいものがあるのだけれど」
 澤村は、ロッカーを開けた。
 祭壇から、静かに剣を引き出す。
 さあ、久しぶりで喉が乾いたでしょう。あなたの望みの血よ。そして私の望む、美しい手。
 刀が耳には聞こえぬ甲高い笑い声を上げた。


 夕の茜色に染まる六畳のアパートの自室で寝転んでいた矢上統馬は、その瞬間ばっと跳ね起きた。
「とうとう見つけた。T高に巣食う夜叉」
 虚空に眼差しをこらしていたが、はっと気づいて奥歯をぎりりと噛みしめる。
「そのそばにいるのは、――まさか、弓月?」
   






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