第四話 地より叫ぶもの(4)
back | top | home 家庭科準備室に戻った詩乃が見たものは、血に染まった統馬と、その血を切先にしたたらせた夜叉刀を構える女の、無言で対峙する姿だった。 どう見ても明らかに統馬のほうが劣勢なのに、恐怖に顔をひきつらせているのは澤村のほうだった。 「なぜだ……! なぜぼろぼろと刃が欠けていく」 「手入れが悪いな」 彼は冷ややかに答える。 「あちこちに刃切れや刃がらみがある。血もぬぐわないまま放っておくので錆もひどい。それに柄も絞らぬ素人がやたらに振り回すから、刀身も曲がっている。……妖刀の悪名だけは高いが、そいつは下作(げさく)だ」 「馬鹿な……。人間の血を吸えば吸うほど力が増すはずなのに、逆に力が奪われていく」 「その血が、人間のものならばな」 「貴様、まさか?」 統馬は薄く笑うと、剣を一閃させて敵の胴をはらった。 そうはさせじと突き出した相手の刀身は、次の瞬間、真っ二つに折れ、切先は天井に深々と突き刺さってビンと震えた。 「ぎゃあああっっ」 半分に折れた刀をぽとりと落とした澤村は、床に両膝をつき、髪の毛をかきむしり始めた。 「勝ったな、統馬」 「矢上くん!」 詩乃は草薙とともに、彼に駆け寄る。 「弓月? おまえ、どうして戻ってきた?」 「それより、だいじょうぶ? 腕やシャツをたくさん切られてる」 「ああ。わざとかすらせただけだ」 「早く、逃げよう。夜叉刀を折ったから、澤村先生は放っておいてもすぐ元に戻るのよね?」 「いや」 統馬は首を振った。「こいつはもう、遅い」 「え?」 それには答えず彼は女に歩み寄り、低く真言を唱え始めた。 「詩乃どの。残念じゃが、その教師はもう人ではない」 草薙がひげをしおれさせて、悲しげに言う。 「あの、左の乳房に刻された梵字を見よ。あれは婆多祁哩の象徴である種字。婆多祁哩の妖力を得た印なのじゃ」 「私が悪いんじゃない、私じゃない! ……私の体を舐めまわすようなイヤらしい目で見たこの学校の教師どもが、男どもがみんな悪いんだ」 真言の法力に苦しみもだえて叫ぶ澤村の回りに、暗黒の気がとぐろを巻き始めた。その顔が、体が紫色になったかと思うと、みるみる溶けていく。 「私の作った理想の体……男たちをひれ伏させる若く、美しい体……もう少しで私のものになったのに」 「この女は愚かにも、上位の夜叉とあまりにも長く深くかかわりすぎた。そういう者は自らも夜叉に変化(へんげ)せざるをえないのじゃ」 「人間が夜叉に変化するなんて、そんなことがあるの?」 「この地上の夜叉の多くは、もともとは人間だった」 「なんですって?」 「婆多祁哩でさえ昔は普通の人間じゃった。奴はかつて遠い南蛮国の奴隷として、この世ならぬ地獄を見、人間の背負ってはならぬ怨念を背負ってしまった。その憎悪が奴を夜叉に変化させたのじゃ」 「地獄」ということばに反応したかのように、そのとき背後の家庭科室の廊下側の窓が一斉に粉々に割れた。吹き込んできた恐ろしいほどの熱風に詩乃は大きくよろめいた。 「きゃあっ!」 詩乃の絶叫と、統馬が天叢雲を振り下ろしたのは同時だった。澤村は恐ろしい悲鳴を上げると、泥のように醜く崩れ、そして四散した。 後には何の痕跡もなかった。ただひとつ残ったのは、死臭を放つ、手のない人形だけ。 その人形が、口をかっと開けてしゃべりはじめた。 「夜叉追いの統馬……」 「婆多祁哩か?」 「追って……来い。我は……待っているぞ」 それだけ言い残すと、糸でつなぎ合わされた体がばらばらと崩れ落ちる。 「矢…・・・上くん」 その声に振り向いた統馬は、炎の中でうずくまる詩乃を見た。彼の目はわずかな間、家庭科室の天井まで舐めようとする火ではなく、もうひとつの幻影の炎を映した。 「しの……」 「統馬! 脱出するぞ」 「ああ」 草薙のせかす怒声に我に返った彼は、刀を腰の鞘に差し、詩乃を抱き上げると、熱で割れ溶けた3階の校舎の窓から大きく躍り出た。 まるで手負いの獣のように手水場の水をむさぼり飲むと、統馬と詩乃はずるずると地面に崩れこんだ。 2時間。 すでに全体に火の回った校舎から飛び降り、下で待ち受けていた夜叉に憑かれた霊や人間たちを斬り伏せながら、街を2時間走り続けた。 行く手をふさぐ者がいればいるほど、それは正しい道であると信じて進むことができた。その先に必ず彼らを操る者がいると。 そしてたどり着いたのは、妙法寺。 数ヶ月前、婆多祁哩と最初に戦ったあの寺の境内である。 しばらくすると、詩乃はよろよろと立ち上がり、煤と汗にまみれた顔や手足を水で清めた。濡れた肌から夜風が熱を奪っていくのが、気が遠くなりそうなほど心地よい。 高台から見下ろすと、あちこちに黒煙が上がっているのが見える。半分は停電しているようだ。走っているあいだもあちこちに火の手が上がるのが見えた。T市全体があたかも戦場と化していた。 わが家はだいじょうぶだろうか。父と母は無事だろうか。そして、私のことを少しでも心配してくれているだろうか。 うんと心配すればいい。おろおろとあちこち探し回ればいい。投げやりにそう思っている自分に気づく。 そのとき、どこかでちりんと音がした。ちりん、ちりんと金属を鳴らしながら石段を上がってくる者がいる。 久下尚人だった。 さっき学校の屋上にヘリコプターで降り立ったときの派手なスーツ姿ではない。金色に脱色した髪とピアスはそのままに、僧侶の黒い袈裟をまとっていた。手には長い錫杖を握っている。 「詩乃さん」 にっこりと微笑みかける。 「ご無事でよかったです」 「ごめんなさい、心配かけて」 「お友だちふたりは無事、市外の安全なところに送り届けました。それから全県警と機動部隊がT市に一斉に集結し、暴れている市民を取り押えて、暴動の鎮静に当たっています。もうまもなく火も全て消し止められるでしょう」 「ありがとうございます」 「――やはり、最後の舞台はここでしたか」 ついと視線を投げかけられ、統馬もゆっくりと立ち上がる。 「ああ。ここで決着をつける」 「それでは、封印を解きます」 「わかった。……少し、待ってくれ」 統馬は、詩乃の前に歩み寄った。 草薙が彼女の胸のポケットから這い出し、すがるような目で彼を見上げた。 「弓月。草薙を返してくれ。今から俺は、完全な天叢雲で婆多祁哩と戦わねばならん」 「婆多祁哩はここに……、いるの?」 「ああ、奴は今もここから町中の夜叉を操っている。苦しむ人間たちの魂を奴らに食らわせながら、多くの妖力を蓄えて、俺の来るのを待ち構えている。この前戦ったときとは比べ物にならぬ巨大な力だ」 「そんな……」 「俺が奴と戦っている隙にここから離れろ。久下がおまえを家まで送り届ける」 「ううん、私ここにいたい。だって……」 「弓月。婆多祁哩を倒したら、俺はその足でこの町を出て行く」 統馬は静かな強い瞳で、彼女を見つめ返した。 それは、詩乃が最も恐れていたことばだった。 統馬はT市に夜叉を祓う仕事のため来たのだ。それが終われば、ここから去る。 わかっていたはずだった。 だからこそ、彼女はいつまでも婆多祁哩が現れないでほしいとさえ、祈っていたのだ。 「うん、そうだね。矢上くんは夜叉追いだもんね。また次の夜叉を追わなければならないんでしょう」 涙でうるむ目を伏せて、なお微笑もうとした。 「……でも、ときどきは連絡くれるよね? また会えるよね?」 「いや」 彼はなおも詩乃をまっすぐに凝視し続ける。 「二度と、おまえには会わない」 「え?」 「会う必要がない。俺は今日必ず婆多祁哩を倒す。将の庇護を失った下級夜叉どもは、ここから次第に離れていくはずだ。おまえが夜叉に憑かれる心配はもうない」 「詩乃どの」 草薙は、悲しみを抑えた穏やかな声で言う。 「わたしが教えてきた結界真言の数々を忘れめさるな。あれを日夜唱えている限りだいじょうぶじゃ。 ――それに何よりも、詩乃どのは強くなった。 自分の中にある弱さを認め、他人の中にある弱さを赦し、それらをすべて包み込む強さを身につけた。もう、わたしがそばにいて、教えることは何もない」 「ナギちゃん、いやだ……ナギちゃんと別れるなんて」 「さらばじゃ……」 未練を断ち切るように顔をそむけると、草薙は見る間に白狐から元の刀鍔へと姿を変え、統馬の手に収まった。 詩乃はこらえきれずに、子どものように泣き出した。 「今まで楽しかった。……こんなに幸せな毎日は、生まれて初めてだった。ふたりがいてくれたから、私イジメに会ってもがんばれたんだよ。 好きになってなんて言わない。ちゃんとわかってた、矢上くんは私が嫌いなのに、無理していっしょにいてくれたんだって。……でも、こんなにいきなりお別れだなんて……私」 「弓月」 顔を両手で覆い激しく泣く詩乃の肩に、統馬の手が触れた。 「間違えるな。俺たちから離れていくのはおまえのほうだ」 「え?」 「今日、俺の本当の姿を見て、永久に離れていくのは……、おまえのほうなんだ」 詩乃が顔を上げたとき、彼はすでに背中を向けていた。 着ていたTシャツをむしりとるようにして脱ぐと、地面にひざまずき合掌する。天叢雲は、その前に鞘のまま置かれた。 「慈恵」 「はい」 久下は片手で一礼をすると、錫杖をしゃらんと鳴らした。 「ナウボバビャバティ・クレイロキャ。ハラチビシシュダヤ・ボウダヤ・バギャバティ。タニヤタ・オン・ビシュダヤ・ビシュダヤ……」 「くっ……」 統馬の肩がびりびりと震えた。まるで苦悶にあえぐように頭が前に傾ぐ。 久下はなおも真言を途切れなく、紡ぎ出す。途中でまったく息を継がない。 詩乃はみぞおちの奥をぎりぎりと締めつけるものを感じた。 何か禍々しい気を身近に感じるのだ。そう、それはちょうど最初に婆多祁哩が現れたときに感じたのと同じもの。 統馬の剥きだしの背中に大きく4つの文字が浮かび始めた。 それは皮膚の上に浮かび出たのではない。皮膚の下、数センチの深く、体の内部に刻み込まれたとしか言えない文字。 詩乃はあっと叫んだ。そのうちのひとつに見覚えがある。澤村の胸に現れたのと同じ梵字だった。草薙はあれを、婆多祁哩を表わす種字だと言っていた。 なぜその同じ呪いの印が。 統馬の背中に。 「だめ、久下さん、やめて! 矢上くんが……」 詩乃は自分でもわからぬうちに、うわごとのように口走っていた。 体の奥底から湧き上がる本能が、これ以上先を見ることを拒否している。だが同時に、同じ本能が目を逸らさせてくれない。 統馬が少しずつ、変容を始めた。 髪が生き物のようにざわざわと伸び、氷河の裂け目を覗くような白緑(びゃくろく)にその色を変えた。 筋肉が隆起し、そして頭には2本の角が生えた。 「ひ……ぃっ」 詩乃の全身がわななき、目から涙があふれた。 以前の自分なら、ただの未知のものに対する恐怖で済んだかもしれない。でも今の詩乃は違う。彼らと出会い、弱いながらも霊力を身につけたからこそ、この途方もない邪悪の気に発狂しかねないほどの恐怖を覚えるのだ。 久下の唱えていた真言が止まった。 統馬もゆっくりと立ち上がった。 ちらりと、詩乃を振り向く。 真っ白な凍てついた瞳。何の感情もない、まるで人間など雑草と同じだと言わんばかりの。 「だいじょうぶ、ですか?」 久下が彼女の手を取り、体を支える。いつのまにか半分卒倒していた。 「久……下……さん、やがみ……くんは、どう……して?」 彼は悲しそうにうつむく。 「すみません。あなたに長い間、隠していました。悪気はなかったのです。この町にいる間だけでもあなたを守り、そしていつかひっそりと消えていけばいい。――そう思っていたのです。 統馬とあなたがこれほどまでに強く、心惹かれ合ってしまうとは……」 そう言いながら、久下は彼の後姿を見遣った。 「婆多祁哩!」 天叢雲を片手に境内の真ん中まで進み出た統馬は、立ち止まって叫んだ。 「婆多祁哩、出て来い。わざわざ遊びにきてやったぞ」 四方の森に、その荒々しい笑い声が反響する。 「あれは……」 久下は、ふたたび痛ましげに詩乃の顔を見下ろした。 「あれは、もはや統馬ではありません。あれは、夜叉……。 夜叉八将のひとり、「半遮羅(はんしゃら)」と言います」 next | top | home Copyright (c) 2004 BUTAPENN. |