第四話  地より叫ぶもの(5)                   back |  top | home




「三百年ぶりだな、半遮羅(はんしゃら)。おまえのその生っちょろい姿を見るのは」
 夜空を背にして現れた、とてつもなく巨大な敵が笑う。
 しかし白緑色の髪をした夜叉は、それに怖じる素振りすらなく、かえって嘲るような笑みで答えながら近づいた。
「そうだろうな。散支も醯摩縛迦も阿咤縛迦も、この姿を見た途端に殺してやったからな」
「やはりおまえ……かつての僚友を三将までも倒すとは、大恩ある毘沙門天さまに飽くまでも楯突くつもりか」
「大恩ねえ、……ククッ」
 半遮羅は、殺意に満ちる白ずんだ瞳で婆多祁哩(ばたきり)を睨め上げた。
「御託はいいから、さっさとかかって来な。俺は腹が減ってるんだ。てめえのその臭いはらわたを食ってやるよ」
「それは、こっちの科白だ」
 婆多祁哩が両端に三叉のついた金剛杵を頭上高く掲げれば、半遮羅は半身に構えて霊剣・天叢雲を片手でくいと突き出す。
 ふたりは雄たけびを上げて、前方に躍りこんだ。
 轟音を立てて回転する金剛杵が、巨大な白い球となって振り下ろされると見れば、迎える霊剣は水銀のごときなめらかな軌跡を描いて斬り上げる。
 双方の武器が打ち合わさったとき、空気を切り裂くほどの大音声が暗闇に響き渡った。


 矢上くんは、――本当は夜叉だったの?
「いいえ、統馬はまぎれもない人間でした。今から四百年の昔、伊予国、宇和の矢上郷にて生を受けたときは」
 四百年……前?


 婆多祁哩は背丈の差を生かし、裂帛の気合で何度も三叉を撃ち下ろす。半遮羅はそれを軽々といなし、隙を見て敵の腹を蹴りつけ、うしろに跳んだ。
「ぐっ」
「ぎゃははあ。相変わらず動きがのろっちいな、婆多祁哩。それで俺に勝つつもりかよ」
 刀をぶらぶらと弄びながら、邪悪な笑みに顔を緩ませている。
「今度はこっちの番だ!」
 銀色に輝く剣を大上段に振りかざし、3メートルの敵の頭上はるか高みから飛びかかるその背中には、一対の禍々しい黒い翼が生えていた。


「平安の世から七百年以上の長きにわたって連綿と秘術を伝え、夜叉を祓い続けてきた矢上一族。「統馬」とはその総領の位を受け継ぐ者に与えられる名でした。あなたが知っているあの男は四百年前にその名を受け継いだ、……一族の最後の生き残りなのです」


 空からの急襲を受け止めた婆多祁哩は、金剛杵をくるりと回転させ、半遮羅の着地した瞬間をねらう。
 しかし半遮羅も巧みにその打撃をかわす。体勢をくずしながらも、刀を持っていないほうの左手を地面について、体をひねり上げて婆多祁哩の脛をしたたかに蹴とばした。
 そして翼の持つ浮力で立ち上がる。
 苦鳴の声を上げて体を泳がせた鎧の将の横面に、さらに半遮羅は強烈な肘撃ちを浴びせた。


「矢上一族は当然のことながら、夜叉にとって滅ぼさねばならぬ不倶戴天の敵でした。
ある時、ついに夜叉たちは恐ろしい謀(たばか)りを実行に移したのです。まんまと欺かれた矢上一族は、一族の長である統馬の目の前で、最も許しがたく最もむごい方法で根絶やしにされました。それは……」
 そのとき、詩乃の背後にぬーっと数人の黒い影が躍り出た。久下は錫杖を水平に握ると、電光石火の突きを数回繰り出した。それぞれ眉間や胸に錫杖を食らった暴漢どもは、短いうめき声を上げたきり、森の斜面を転がっていった。
 夜叉に憑かれた挙句、婆多祁哩の念に引き寄せられたのであろう。狂気を宿した大勢の人間たちが寺の石段から木々の間から、続々と迫ってきている。
「私の後ろに! ちょっと派手に暴れますよ」
「は、はい」


 夜叉対夜叉。人間対人間。
 激しい息遣いとうめき声と悲鳴だけをパーカッションに、寺の境内の奥と手前をそれぞれの舞台とした2組の乱闘は、奇妙な沈黙の中で行われた。
 久下の後ろにかばわれた詩乃のそばに最後の男が倒れ伏すのが見えたとき、夜叉の将たちの戦いも終わりを迎えていた。
 半遮羅の神速の体術と、霊剣・天叢雲の霊力とによって少しずつ力を削り取られていった婆多祁哩は、甲をもぎ取られ、鎧を砕かれ、自分に何が起きているのかもわからぬといった格好で地面に崩れ落ちた。
「なぜ、……なぜだっ。数十年ぶりに眠りから目覚めたばかりなら、いざ知らず。たっぷりと人間どもの魂を食ろうた今なら、おまえごときに容易く負けるはずはないのに…・・・」
「おまえが弱くて、俺が強いからさ」
 半遮羅はおかしくてたまらないという笑い声を上げた。
「おまえには生きてる価値なんてねえ。弱いものは強いものの餌になる。それが俺たち夜叉の掟、だろう?」
 久下が詩乃の前に立ちはだかり、視界を遮ろうとした。が、遅かった。
 彼女の目にあまりにも鮮烈に、婆多祁哩に突き降ろされる刀身が、ぎらりと映った。
 恐ろしい断末魔。形容のしようのないほど厭わしい、何かのつぶれた音がそれを追いかけた。
「あ……はぁっ」
 悲鳴の代わりに詩乃の口から洩れるのは、そんな荒い息だけ。すでに両脚は用をなさない。
「詩乃さん」
 崩れ落ちるまいと久下の袈裟の袖を握りしめる詩乃を支えながら、久下は泣くのを堪えるような声で続けた。
「統馬は人間の抱くべきでない憎悪に己を焦がし、夜叉追いであることを捨て、人間であることさえ捨ててしまいました。――両親や同胞が一人残らず虐殺されるのを、その目で見たときに」


 詩乃の耳に、かすかにばりばり、びちゃびちゃという音が聞こえてきた。何かを噛み砕き、貪り食う音。


「次に統馬がふたたび人間の里に現れたとき……、彼は半遮羅と名乗る夜叉八将のひとりとなっていました。そして、百年ものあいだ人間たちを殺戮し続けたのです」


 放心している詩乃をそっと地面に座らせると、久下は袈裟をひるがえした。
「半遮羅!」
 暗い森を背景に、翼の生えた夜叉がもうひとりの夜叉の屍骸の上に屈みこむ姿がシルエットとなって浮かび上がる。
「おまえはいったい何をやっているのです。御仏の心を忘れたのですか」
 大股で歩み寄りながら、両手の指を合わせて印を結ぶ。
「オン・バザラヤキシャ・ウン」
 それまで恍惚と婆多祁哩の肉をむさぼっていた半遮羅は、体をのけぞらせた。
「があ……っ」
 久下の紡ぐ真言が幾条もの鎖となって、その体に巻きついた。きりきりと喉笛に食い込んでいくにつれ、牙を剥きだした口から血の泡を吹く。
「苦しいですか」
「やめ……ろ……」
「苦しいですか。でもおまえは、その何倍もの苦しみを人間たちに与えてきたのです。その苦しみを少しでも味わいなさい」
「いつまで……? もう、……いいだろう。……このまま殺してくれ。……俺を、無にしてくれ」
「なりません。おまえのすべきことは、夜叉たちをその霊剣で調伏し続けることです。おまえは夜叉追い……夜叉追いの矢上統馬なのです。本来のあるべき姿に戻りなさい」
「ぐ……」
 地面に這いつくばって身もだえていた半遮羅の首が、がくりとうなずくように垂れた。
 とたんに、みるみる背中の翼が萎み始める。
 半遮羅はゆっくりと立ち上がると、地面に突き刺していた天叢雲を拾い上げ、両手にはさみこんで祈るような仕草で手を合わせた。清浄の白き光があたりを包む。刀身が婆多祁哩の胴体に突き刺さると、無数の飛沫が飛び散るようにその体は異次元に吸い込まれて、消えた。


 久下に後ろを付き添われ、憔悴しきった一人の男が詩乃のもとに戻ってきた。
 もう今は夜叉の姿ではない、詩乃がいつも隣を歩いていた統馬だった。
 途中で地面に脱ぎ捨てていた自分のTシャツを拾って、体の返り血をぬぐう。だが、それでも消えようのない血の跡が、口にも手にもこびりついていた。
 詩乃はただ、ぼんやりとその様子を見つめていた。
「弓月」
 びくんと彼女の全身が強ばる。その目に浮かんだ怯えを読み取って、統馬は微笑んだ。
「すまなかった、本当のことを言わなくて。俺は……今見たとおりの化け物だ」
 詩乃は懸命に唇を動かそうとするが、声にならない。
「おまえが夜叉に憑かれたことを責める資格ははじめから俺にはなかった。俺自身が弱さに耐え切れず、人であることを捨てた。でもどんなに強いふりをしたところで、己の本当の弱さからは逃げられなかった――。
おまえに今まで言ったことは全て、自分に向かって言い聞かせてきたことばだった」
「や……」
「怖い思いをさせて、悪かった。もうこれからは、絶対におまえの前に姿は見せない」
「や……がみ……く」
 統馬は踝(きびす)を返すと、寺の長く暗い石段を下り始めた。
「矢上くん」
「いいえ、詩乃さん」
 久下は彼女のそばに膝をつくと、首を横に振った。
「統馬をそっとしてやってください。きっとあなたにあんな姿を見られて、今は死ぬより辛いでしょう」
「……」
「そして忘れてやってください、何もかも。同情よりも何よりも、それが一番彼には慰めになります」
「ち……が……」
「僕がお宅までお送りします。立てますか?」
 違う。
 そうじゃない。
 私が望んでいるのは。
 私が望んでいるのは。
「矢上くん」
 詩乃はふらふらと立ち上がった。自分のものではないような足を一歩踏み出す。そしてもう一歩。
「詩乃……さん?」
 久下が訝しんで、見ている。
 私ってば、どうしてもっと早く歩けないの? 矢上くんが行っちゃう。
 背中がどんどん遠ざかっていく。
「矢上くん、待って、私は――」
 いつも気がついたら、私は背中ばかり見ていた。あなたの背中が大好きだった。夜叉を調伏したあと、ほんの少し苦しそうに息を吐く。その息を背中越しにいつも感じていたかった。
 彼は人間ではない。夜叉。
 あの白い虚無のような瞳を思い出すだけで、足が震える。
 それでも私は、あなたのそばにいたい。あなたの背中をずっと見ていたい。たとえそこに、呪いの印が刻まれていても。
「矢上くん!」
 助走をつけると、詩乃はありったけの力で下に向かって跳躍した。
 目をつぶる。もう少しで、脚から石段に叩きつけられようとしたとき。
 誰かがその下にすべりこんで、力強い腕で彼女を抱きとめた。
「弓月!」
 瞼を上げると、そこに驚きに目を見開いた統馬の顔がある。
「おまえは……何て無茶なことを……」
「だって」
 詩乃は彼の肌の温もりに必死でしがみついた。
「そうでもしなきゃ追いつけないんだもん、どんどんひとりで先に行っちゃうんだから」
「馬鹿な……」
「そうなの、馬鹿なの。私って、馬鹿で八方美人で性格暗くって、おまけにすごく狡い女。こんな卑怯な真似をして矢上くんを引きとめようとしてるんだから。最低の女だと自分でも思うよ。でも、……でもそれくらい、……それくらい矢上くんのことを好き」
「俺は……夜叉なんだぞ」
「それでもいい。たぶんきっと……あなたがいなくなったら、きっと私も夜叉になって、永久にあなたを追いかける」
「弓月……」
 雨に似たものが数滴、詩乃の頬にかかる。
 その暖かさを感じながら、彼女は統馬の胸の中でぎゅっと目を閉じた。







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