第五話  時を経しもの(2)                   back |  top | home




 明け七つは今の午前4時。
 統馬が日課のために床を離れるのは毎朝その時刻だった。
 灯明をともし、曼荼羅を建てて、陀羅尼を唱える。国土、国主、国民のために祈る護国法である。毎日欠かさずに国の平穏と招福を願うのは、矢上家の代々の当主の務めだった。


 ひとりの大名が強力な家臣団を束ねる隣国の土佐や毛利とは異なり、伊予の国はいわば共和国であった。各地方において小豪族がそれぞれ独立した領地経営を行っているその中で、宇和の西園寺氏は三百年以上にわたって、南伊予の知行をゆるやかにまとめていた。
だが、応仁の乱以降の戦国の世では、この連合国家体制はもろくも崩れ、弱体化した伊予は周囲からねらわれ、戦乱に明け暮れる地となった。
 土佐の長宗我部。中国地方の毛利。そして前年の本能寺の変の後、信長の後継者として天下統一を押し進める豊臣秀吉。
 それらの有力戦国大名に周囲を囲まれ、今や宇和の地は流血の渦の中で翻弄されようとしていた。


「翔次郎」
 引き戸を閉めたとき、渡り廊下から声がかかった。兄の誠太郎がやわらかに微笑みながら近づいてくる。
「……しまった。今は「統馬」だったな。つい幼い頃の癖が出てしまう」
「かまわない。似合ってないのは自分でもわかっているから」
「でも、よくやっているよ。飽き性のおまえにしては、一刻もかかる務めを毎朝決して休まないのだからな」
 誠太郎は、がんじょうな格子窓の隙間から、統馬が今までいた部屋の中を見やる。その部屋は当主以外には出入りを許されぬ部屋だった。
「ひとつおまえに聞きたかったのだが」
「なんでしょう」
「おまえは毎朝何を念じて、護国法を唱えている?」
 統馬は不思議そうに目を細めた。
「おまえは父上に教えられるとおりに、ただ西園寺殿の安寧の祈願をしているのではないか。
今の時代はもうそんなものではない。西園寺の旗下にすら、土佐の長宗我部とひそかに通じている者がいると聞く。この数年の戦の連続、毛利からの派兵の要請で、西園寺殿は力を削がれる一方だ」
「……」
「おまえを責めているのではない」
 誠太郎は、笑顔に一層の優しい色を添えた。
「おまえは、俺の可愛い弟だ。大切に思うし、矢上家の主として盛り立ててやりたいと思っている。だからこそ、おまえには天下を見る広い目を持ってほしいのだ」
「兄上。俺は西園寺という一領主のために、護国祈願をしているのではない」
 統馬は目を伏せながら、低く答えた。
「もっと大きな、国全体の平安のため、とりわけ民衆の無事を祈っている。
第一、夜叉追いは政(まつりごと)に口を出すべきではないと教わった。誰が天下を取ろうと、俺たちは夜叉を祓い続けるだけだ」
「甘いな、翔次郎」
 誠太郎の穏やかな声に、かすかに哀れむような響きがかぶさる。
「今の乱世では、政に関心を持たずに一族が生き残ることすらできない。長宗我部は、阿波も讃岐も手中に収めた。四国全土を統一するは時間の問題。
おまえはまだ若い。統馬の名を継ぐならば、自分の頭で考えねばならぬ。将来を見通す才覚を養わねばならぬ。わかってくれ」
「……はい、兄上」
 誠太郎が行ってしまったあと、なおしばらく統馬は唇を噛みしめてその場に立ち尽くしていた。
 兄の前に立つと必ず訪れる、己の無きがごとき惨めさ。
 統馬の名を戴くべきなのは、俺ではなく兄なのに。自分には兄の持っている見識の万分の一すらない。
 彼は、足音荒く母屋に戻り、大広間の襖を開け放って、奥の間に入った。
 その正面の床の間には、平安の世から代々の矢上家に伝わった神刀・天叢雲が祀られていた。
「教えてくれ、いったいどうして俺を選んだ!」
 鞘から刀身を静かに抜き出すと、まばゆい光が部屋にあふれる。統馬は畳に両手をついた。
「兄上より俺のいったいどこが、優れているというんだ。霊力なのか。それとも今はまだ目に見えない何かなのか。
……父上に語ったように俺にも語ってくれ、俺にまことの当主の資格があるならば」
 しかし神刀は、統馬の目の届かぬところで光の雫をキラリとこぼしただけで、何も語ろうとはしなかった。


 信野は、厨の土間に降りると、一束に結わえられていた大根を何本か取り、木桶の中で泥を落とし始めた。
「信野さま。そんなことなさっちゃ」
 裏戸から若い娘が入ってきて、びっくりしたように言う。誠太郎と統馬の母である冴(さえ)に仕える、けやきという娘だ。
「水が冷たくなってきたから、手が荒れてしまいます。信野さまは厨全体を見て、用事をお言いつけになってくださったらいいんです。それに、せめてご祝言までは、きれいな手でいなさらなくちゃ」
 と、むりやり信野の手を泥水から出させると、自分の手ぬぐいを腰の帯からはずした。
「今朝、下の村から届いたばっかりなんです。真っ白で美味しそうな大根。統馬さまは大根とかごぼうとか、土のものがお好きなんですよ」
 信野の手をぬぐいながら、けやきは楽しそうに話し続けた。「そのかわり、菜っ葉は大っ嫌い。まるで子どもですよねえ」
「けやきさん、統馬さまのこと、よくご存知なのね」
「この上屋敷で17年いっしょに育ちましたから。誠太郎さまと違って、下働きの子どもと全然見分けがつかないくらい、ドロドロになって遊んでらっしゃいましたよ」
 屈託のない笑顔に、ほんのわずか彼に対する想いがにじみ出ているような気がした。
 ――翔次郎はほかに、好いた女子がいるのだぞ。小さい頃からこの家に仕えておる、けやきという女だ――
 誠太郎のことばが、信野の耳の内側によみがえる。
「あ、噂をすれば、統馬さまです」
 けやきの声に、信野ははっと顔を上げた。
 木刀を腰に稽古に行こうとしている統馬が、厨の裏を通りかかったのだ。信野を見て、とたんに表情を険しくする。
 信野は何も言わず、頭を下げた。
「信野。屋敷の生活には、慣れたか」
「はい。皆さま、よくしてくださいますゆえに」
「ははは、統馬さまったら、信野さまの前では話し方が別人みたいだよーっ」
 けやきがそばでその様子を見ていて、大口を開けて笑った。
「う、うるさい!」
 統馬は一声怒鳴ると、不機嫌そうにぷいと顔をそむけて行ってしまった。
 信野はその後姿を見送りながら、心がざわざわと波立つのを感じる。
 子どもの頃からそうだ。翔次郎は信野だけをいつも無視していた。口をきいてくれたことも、顔をまともに見てくれたこともない。そのことに傷ついて、それ以来いつもにっこりと笑いかけてくれる誠太郎のほうにばかり目を注ぐようになった。
 大きくなったら、この方のもとに私は嫁ぐのだもの。そう心を定めれば、優しい誠太郎に思いを寄せることはむずかしくはなかった。誠太郎の胸に抱かれる、少女らしい甘い夢さえ見ることもできた。
 でも、運命は彼女を思ってもいなかった方向にもてあそんだ。
 統馬に嫁ぐことが決まってから、信野の胸はいつも騒いでいる。彼を見るたびに、息が苦しくなる。子どもの頃のあの傷ついた自分が頭をもたげるのだ。


 屋敷の裏戸を出るとすぐ、父・誠之介が途中の岩に腰をかけて待ち構えていた。
「統馬。たまには修行に付き合わせてくれぬか」
 半年前まで自分のものだった名で息子を呼ぶ。
 ふたりは並んで山道をたどった。
「なつかしいな、わしも若い頃は毎日この山で修行をしておった」
 ふだんは厳しい物言いしかしない父が、笑いさえ含みながら話しかける。
「修行だけは、一生おろそかにするでないぞ。慢心すれば、罠にかかる。
矢上の歴史の中で何人もがそうして脱落してきた。一度だけ、統馬の名を持つ者までが夜叉になったことがあると聞く」
「矢上の総領が夜叉に……本当ですか?」
「夜叉追いの一生とは、夜叉の邪念を身に受け続けること。己を強く持たねば、いとも簡単に心を喰われて憑かれてしまう」
 誠之介はしばしば足を止めては、くぬぎの林越しに美しい南伊予の地を見晴らした。息子に大切なことばを言う機会をうかがっているようでもあった。
「統馬」
「なんでしょう、父上」
「心せよ、統馬。その名を継ぐということは、たとえお前ひとりになっても夜叉と戦うということぞ。
よいな。お前だけは生き残り、その血を次の世に伝えて夜叉を祓い続けるのだ」
「父上、先ほどから、どうしてそんな話ばかり?」
 統馬は、父親の真意をはかりかねて眉をひそめた。「まるで、今すぐにでも一族すべてが滅びてしまうような仰りようではありませんか」
「いつ何が起こるかわからん。この乱世では」
 景色を見つめたまま、誠之介はうなるように答えた。
「何かまがまがしいものを感じる。各地を旅しているわれらの手の者も、口をそろえてそう報告しておる。この数年の天下取りの争乱と、織田信長の死に相前後する数々の変事。
夜叉の中に、今までにはなかった新しい動きが見え隠れするような気がする。われらの与り知らぬところで、強力な妖気が束ねられ、ひそかに一本にまとまっていくような気がするのだ」
「父上、それではなぜ、そのようなときに」
 ――俺などを矢上一族の当主に。
 統馬はそのことばが言えずに口をつぐみ、項垂れた。


 信野は湯の加減を確かめたあと、母屋に戻ろうとしてはっと立ち尽くした。
 薄闇の井戸のそばで、統馬とけやきが仲睦まじそうに立っていたのだ。
 稽古着を片肌脱いだだけの統馬が、けやきの桶に水を汲んでやっている。
 目の前が真っ赤になったような心地がして、信野はその場から走り出した。
「大方さま。湯殿の用意ができましたと、お館さまに」
「わかりました」
 冴のもとから辞すると、信野はそのまま広縁を渡り、大広間の奥の襖の前に座した。
 矢上家を代々守ってきたご神刀。矢上の家の者は、朝晩襖ごしに拝するようにと言われていた。
「ご神体さま。わたくしをお守りください」
 信野はぼろぼろと涙をこぼしながら、手を合わせた。
「わたくしは、どんどん醜い女になっていきます。けやきさんを見るたびに、熱いものが内から湧き上がってきて、身が焦げそうです。
本当は、……本当は統馬さまのことが子どものころから好きでした。でも統馬さまは、わたくしのことなど一度も見てくれなかった。たとえわたくしが妻になっても、けやきさんの元にばかり通い、わたくしのことなどきっと見向きもされないでしょう。
血を保つために赤子を産むだけの存在だなんて、いや。
どうして、……どうして、誠太郎さまを選んでくださらなかったのですか? そうすれば、こんな辛い思いをすることはなかったのに」
 しかし、いくら祈っても、襖の奥から答えは返ってこない。
 涙をぬぐい、広間を出ると、誠太郎が思いつめたような顔をして廊下に立っていた。
「信野。話がある。倉のほうに来てはくれぬか?」







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