第五話  時を経しもの(3)                   back |  top | home




「ああ……。だめ。誠太郎さま」
 ただ月の光だけが差し込む人目のない暗がりに、信野の抗う声が小さく響く。
 白く細い首筋にいくつもの接吻を落としていた誠太郎は、名残惜しげに体を離した。
「だいじょうぶだ。おまえを困らせるようなことはせぬ」
 と、寂しげに微笑む。
「せめて香りだけでも覚えておきたかったのだ。この体はあと十日で弟のものになってしまうのだからな」
「……」
「だがな、俺はその日が来るのが、心配でたまらない」
 彼は立ち上がって、小さな明かり窓から夜空を見上げた。
「臼井が長宗我部に寝返るという噂があるのだ」
「臼井さまが? ……でも、臼井さまは古くから、西園寺さまの有力なお国人衆のひとりです」
「国人衆といえども、今の情勢を見れば、土佐につくほうが賢いと踏む者は多い。臼井が反旗をひるがえしたということが知れ渡れば、一気に謀反は広がり、西園寺はひとたまりもなく崩れるだろう」
「そんな……なんとかならないのでございましょうか」
「もっと悪いことに、臼井が西園寺の黒瀬城を攻めるとなれば、山越えよりも、この矢上郷を抜けるのが早い。いつ攻め入ってくるかわからぬ。あるいは祝言の準備で気を取られているときを狙われるかもしれぬ。奴らも矢上の霊力を恐れているゆえに。
父も弟も、あくまでも旧恩ある西園寺に味方しようとするだろう。そうなれば一族を挙げての戦となる。
上屋敷の家人たちは刀を取れる分、まだいい。下の村は……おまえの父上と母上は、身を守るすべさえない」
「そこまでわかっているならば、なにか手立ては? 西園寺さまから兵を差し向けていただくことはできないのですか」
「もう西園寺には、それほどの余力はない!」
 怒ったように言い放つと、誠太郎はこぶしをぐっと握りしめた。
「なんとか臼井に和睦を持ちかける。それしか方法はない。俺ならばそうする。だが、弟には、いくら諌めてもそれがわからぬのだ!」
 彼はひざまずくと、ふたたび信野を抱きしめた。
「信野。わかってくれ。俺は矢上一族を救いたい。父や弟の命も、村人たちの命も無駄にしたくないのだ。
俺が……俺が「統馬」でありさえすれば、それができるのに。おまえと祝言を挙げるのは俺なのに」
「誠太郎さま……」
「信野。おまえだけが俺の支えだ。俺の味方をしてくれるな」
 信野は誠太郎の腕の中で目を閉じた。
 統馬とけやきの睦まじい姿が、まぼろしのように瞼の裏に浮かんで、消えていく。
「わかりました。……すべて、誠太郎さまのおっしゃるとおりにいたします……」


 誠太郎が自室に戻ったとき、奥の闇から、光るふたつの目がのぞいた。
「女の身体に、印は刻んだか」
「はい。首筋の、よく目を凝らさねばわからぬところに」
 誠太郎は、その前にひれ伏して答える。
「それでよい。父親のほうは、教えたとおりにおまえ自らで手を下すのだ」
「はい」
「これもすべて、矢上一族の安泰のため。よくぞ辛い決断をした」
「いえ、この家の父祖であられるあなたさまのお力がなければ、誰が知りえましょうか。父や弟のみならず、この家のすべての者が夜叉に惑わされているとは。しかし、そんなことでもなければ」
 誠太郎の唇がみにくく捻じ曲がり、目が吊り上がる。
「このわたしが、あの無能な弟に劣っているなどと……、そんなことがあるはずがない!」
 いつも微笑をたたえている、あの穏やかな表情はどこにもない。
 幼い頃から彼にとって、優しさは優越感の裏返し。相手への侮蔑を隠すための仮面だった。
「それでこそ、我の見込んだ者」
 かすかに笑いを含む声が、彼の憤る全身を愛撫するようにふりそそいだ。


 その年の収穫が終わる晩秋の吉日を選んで、統馬と信野の祝言が矢上郷を挙げて盛大に行われることになった。
 その日には、各地に散っていた夜叉追いたちもそのほとんどが故郷に戻って来る。祝言の後に、矢上一族の新しい当主の披露目の式も合わせて行われるからである。
 誠太郎と統馬の母、冴(さえ)は、数日前からたすき姿で、料理にもてなしにと陣頭指揮を取っていた。
「信野。もうすぐそなたはわたくしたちの娘となるのですよ」
 冴は暇を見つけては、ときどき手を止めて、信野の艶やかな髪や透き通るような白い頬を撫でた。
「おことば、もったいのうございます」
「統馬のこと、よろしくお願いします。あの子はとても不器用だけど、心根の優しい子。一生のあいだ支えてやってくださいね」
「はい」
 消え入るような声で答える信野の瞳にうつろな翳(かげ)があることを、忙しく立ち働く冴は気づく由もなかった。


 祝言の当日。
 昼前に矢上からの使いの者が、下の村の庄屋・矢萩宗右衛門の家に到着した。
 門前に火が焚かれ、前日から家に戻っていた信野が父母に別れを述べて、出立した。
 輿行列は、村総出の盛大なものだった。
 上屋敷の前でも、魔除けの門火が焚かれている。
 信野の乗った輿は、奥座敷まで運ばれ、そこで降ろされた。
 その当時、婚礼の初日の式は、女官たちを除いては花婿と花嫁ふたりだけでとりおこなうものだった。
 白装束を来た花婿花嫁は、奥の祝言の間で神前に額ずき、女官の注ぐ杯を受ける。
 この夫婦の盃は2日目も3日目も交わされる。3日目に花嫁は白装束を脱ぎ、色物の小袖に着替える。
 こうして色直しのあと正式に親族に挨拶し、盛大な宴となるのが常である。
 だが上屋敷の庭では、初日から夜通しかがり火が焚かれ、全国から帰った夜叉追いたちが再会を祝って、餅をつき、酒を酌み交わしておおいに騒いでいた。日ごろ厳しい禁欲の生活を送っている彼らにとって祝言は、はめをはずすことのできる数少ない場なのだ。
 一方、式が終わり女官たちも退席した祝言の間では、統馬と信野のふたりだけが残され、交わすことばもほとんどなく夜を迎えようとしていた。


 紙燭(しそく)の炎がジジジとゆらぐ。
 その作り出す陰影が、床(とこ)の傍らに正座している信野の上にかかり、伏せた長い睫毛を揺れているように見せる。
「信野」
 半時のあいだ飲み込んでいた何度目かのことばを、統馬はとうとう口にした。恋しい気持ちを隠すための、せいいっぱいの自己保身のことば。
「この祝言はおまえの望んでいることではないだろう。俺もそうだ。だが俺は矢上家の当主として、定められたとおりに行わねばならぬ」
 信野はこっくりとうなずいた。彼女がほんの少し唇を泣きそうに歪めたことを、紙燭の細い灯りは照らし出さない。
 統馬の情の通わぬ冷たいことばを聞いて、信野はあらためて彼の本心を知ったと思った。この方はわたしに何の愛情も持ってはおられない。
「わたくしのことならご心配にはおよびません。どうぞ家の御為だけをお考えくださいまし」
「……すまぬ」
 帯をほどかれるとき、信野は目を固く閉じた。
 それを見たとたん、統馬の中に止めようとしても止まらぬ苦い衝動がこみあげてきた。兄の胸の中だと夢想しながら、俺の抱擁を受け入れるのかと。邪推に我を忘れたまま、神前で結ばれたはずの相手に荒々しく覆いかぶさった。
 その夜、信野を抱く統馬の中では、思慕と憎悪が、まるで同じ枝の果実であるかのように交互にやってきた。
 その夜、統馬に抱かれる信野の中では、冷えた悲しみと、それを裏切るように高まる熱い吐息が、溶けることなく混じり合った。
 いつしか灯が落ちたことも知らぬほど陶然と、ふたりは絶望と悦楽の波のはざまを漂い続けた。


 夜が明けるのにまだ一刻以上も間がある頃、信野はゆっくりと床から起き上がり、白い着物の襟を直した。
 統馬は彼女に背を向けたまま、深い眠りの中にいる。
「信野」
 襖を開けると、誠太郎が立っていた。
 その険しい目は、衝立の向こうの床の乱れを見咎めた。
「弟に、最後まで身を任せたのか」
「……申し訳、ございません」
「まあよい。まぐわいが深いほど、おまえの身に仕込んでおいた術は深くかかる」
 そうつぶやきながら、誠太郎は勝ち誇ったような笑いを浮かべて、寝入っている弟の足元に近づいた。
 その手には、鞘入りの真剣が握られている。
「誠太郎さま。何やら外が騒がしく感じられます。それに煙が」
 襖から外をのぞいた信野が顔色を変えた。
「ああ、臼井の軍勢が郷の中に攻め入り、この屋敷に火を放った」
「なんですって? 臼井とは和睦を結ぶとおっしゃったではありませんか」
「いや、矢上の血は一度全部滅ぼす。滅ぼした上で、俺とおまえで新しい一族を作るのだ」
「誠太郎さま。それでは、お館さまと大方さまは? わたくしの村は?」
 答えの代わりに、誠太郎はありったけの力で、統馬のみぞおちに刀の鞘尻を撃ち下ろした。
「ぐああっ!」
 無防備に眠っていた統馬は、突然の激痛にのたうち回った。
「どうだ、目が覚めたか、翔次郎?」
「……兄上?」
 統馬は焦点の定まらない瞳で誠太郎を見上げた。片手で懸命に、枕元の刀を探ろうとする。
「無駄だ。当分おまえは満足に動けぬ。それどころか、真言さえ唱えられまい。信野の身体そのものが、霊力を奪う呪符の役割を果たしたのだ」
「どうして……」
「どうして? おまえには、わかっているはずだ。ずっと何も持たぬ惨めなおのれを呪い、俺を憎み続けてきたはずのおまえだからな。おまえが俺の立場でも、同じことをしただろうよ」
「誠太郎さま」
 刀を鞘から放とうとする男の腕に、信野は必死になってしがみついた。
「お約束が違います! 統馬さまの命は助けると……、そうおっしゃいました!」
「気が変わったのだ。おまえこそ、一夜でこいつに情を移したのか! この売女め」
「ああっ」
 誠太郎に髪を掴まれて、信野は床に投げ出された。
 ようやく身を起こしたとき、統馬と触れ合うほど間近で、目が合った。
「信野……、おまえ……まで」
 その瞳は、修羅のような憤怒一色に塗りこめられている。
 信野。おまえまで俺を裏切るのか。
「違う、違うのです。統馬さま」
 あまりの恐怖に、首を振りながら這って後退る。そのとき背後の襖が轟音を立ててめらめらと燃え上がった。
「違うのです。ああ、わたくしは……わたくしは!」
 いっぱいにあふれた涙のしずくを飛ばしながら、信野はその炎のわきをすり抜けるように走り去った。
「おまえは、まだ殺さぬ。当主として、一族の最期を見届けるがよい」
 狂気のごとき哄笑を放ちながら、誠太郎は呪術によって満足に立つこともできない弟を、乱暴に前庭に引きずり出した。


 夜が白々と明らむまで、統馬はそこで業火に照らし出された地獄を見ることになる。
           






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