第五話  時を経しもの(4)                   back |  top | home




 上屋敷を燃やし尽くした炎は、次の日の昼まで、くすぶる黒煙の幕となって日の光を遮っていた。
 それがようやく晴れたとき、その屋敷の当主以外に生きている者の姿は、もうどこにもなかった。
 ただ広い庭のあちこちに、累々と屍が折り重なるのみ。
 百戦錬磨の夜叉追いたちがこれほどまでに、いともたやすく奇襲を受けてしまったのには理由がある。誠太郎がこっそり屋敷中のいたるところに、真言を無効にする呪符をはりつけていたのだ。そして、普通なら見張り役を務めている者にさえ、巧みに薬入りの祝い酒がふるまわれた。
 かろうじて逃れた者たちも徹底的な山狩りに会い、ひとたまりもなく追い詰められて、斬られた。
 臼井の軍勢は、上屋敷だけでなく下の村でも、虐殺と略奪と強姦を果てしなく行なった。その人間離れした残忍さと執拗さは、今まで見たこともないほど邪悪な何者かが、臼井軍全体を操っているとしか思えないような有様だった。
 おまけにこれだけの手間をかけておきながら、天正十一年のこの時点では、臼井は西園寺の黒瀬城を攻めぬまま自領に戻ってしまう。それとともに、誠太郎も歴史の表舞台から忽然と姿を消した。
 矢上郷は一夜にして壊滅した。
 統馬は呪術の力も解け、ようやく自分の足で歩けるようになっていた。だが、刀を持てぬように両肩を砕かれている上に、兄による夜通しの拷問で痛めつけられ、焼け残った立ち木に体を預けるようにして、かろうじて一歩ずつ前に進むのがやっとだった。
 鼻をつく異臭。たくさんの死体の燃やされた強烈な匂い。
 なぜ自分ひとりが生き残ったのかわからない。死んだと思ってうち捨てられたのか。それとも戦えない身体にした上で、一生もだえ苦しむようにわざと生き残らせたのか。
「父上……母上・・・…」
 最初に向かったのは、父がとっさの場合必ず死守すると思われる、天叢雲の祀られている大広間奥だった。しかし、そこは無残な焼け跡が広がるだけ。ご神刀の御姿もない。
 あちこちさまよった挙句、離れがあったところで、ようやく父を見つけた。
 それは、統馬が毎朝護国法を唱えていた、曼荼羅の部屋の焼け跡だった。
 父の屍は、黒こげの柱にくくりつけられ、まるで磔にされているように見えた。身体には無数の矢が刺さったまま。
 その背後で、曼荼羅の絵図がひらひらと風にちぎれ飛ぶ。
(御仏よ……。俺が毎朝唱えていた陀羅尼は、いったい何のためだったんだ)
 心のうちにうつろな呟きが反響する。
 母の遺骸はすぐに見つかった。いつも母のいる厨の跡。焼け落ちた柱の重なりの下に、真っ黒な炭の固まりと見まごう死体に張りつく、焦げたわずかな布の切れ端が、母の着ていた晴れ着の模様だった。
 井戸のかたわらには、けやきが横たわる。
 けやきは着ていた着物をびりびりに破られ、血まみれの下半身をあらわにされ、事切れていた。
 統馬は地面に崩れ落ちた。
 轟音を立てて、からだの底から湧きあがってくるもの。それは怒りや憎しみといった生易しいものではない。人の感情ですらない。
 ただ全身を震わせ、喉から血を吹きださんばかりに、統馬は四つ這いのまま叫んだ。
「誠太郎! 信野! 俺は貴様らを必ず殺す。地の果てまでも追いかけて、切り刻んでやる!」
 その叫びは、やがてことばを失い、髪を振り乱す一匹の獣の咆哮と化した。
 統馬の持つすべての霊力が、形をとらぬ暗黒の渦となって、あたりを包む。
『それでよい。自分を裏切った者たちを呪い、神仏を呪い、この世のすべてを呪い続けよ』
 その暗闇の中から、ふたつの光る目がまたたいたかと思うと、次の瞬間、鮮やかな紅の髪を持つひとりの夜叉の姿となって現れた。
『それでこそ、わが末裔――同じ統馬の名を持つ者。我らの仲間となるにふさわしい』


 あくる天正十二年秋。土佐の長宗我部軍の伊予攻めで、西園寺の黒瀬城は陥落した。
 翌年春、長宗我部元親は四国全土を統一。しかし、その支配は長く続かなかった。小早川隆景らを中心とする羽柴秀吉の四国討伐軍が来襲。
 土佐勢も必死に応戦するも、その戦力の差は如何ともしがたかった。
 宇和の各諸侯の城は瞬く間に占拠され、炎上した。特に臼井の城の無残な姿は巨大な鉄槌で破壊されたがごとく、その領地の至るところに残された戦いの爪跡は酸鼻を極めたという。
 八月、ついに長宗我部元親は降伏。土佐一国のみを安堵されるにとどまる。
 国内の全ての勢力が秀吉の軍門に下り、天正十八年、ついに天下は統一された。


 21世紀の東京。
 夜を迎えたアパートの六畳一間で、ようやく草薙は長い話を終えた。疲労のためか、真っ白な毛もすっかりつやをなくしている。
「これが、わたしが上屋敷で見聞きしたこと、信野から、そして、あとになって統馬から聞き出したことも含めて、知り得たすべてじゃ」
「信野さん? じゃあナギちゃんはそのあと信野さんに会ったの?」
 詩乃が驚いて叫ぶ。
「ああ。上屋敷から天叢雲を救い出してくれたのは、実は信野じゃった」
「信野さんが?」
「夜叉に憑かれた誠太郎と臼井の軍勢は、天叢雲の霊力を恐れてわれらに触ることさえできなかった。やむなく館ごと焼き尽くそうと火を放ったのだ。そのさかんに燃えさかる奥の間から、信野は命がけでわれらを持ち出してくれた。
統馬に渡そうとしたのじゃ。神刀の力さえあれば、統馬にかけられた呪術も解けて、きっと救い出せる。その一心で必死に奥座敷に戻ったが、もう統馬も誠太郎の姿もそこにはなかった。そのまま追手に追われて上屋敷を逃げ出した」
「……」
「われらは藪にひそみながら、日が昇った時分に上屋敷と下の村を隔てる川にたどりついた。向こう岸の水だまりは、朝焼けに照らされて真っ赤じゃった。
だが、ようやく川を渡り切ると、信野は魂が粉々に砕けんばかりの悲鳴を上げた。
水だまりと思っていたものは、血じゃった。遠くから川岸の葦だと見えていたものは、折り重なる村人たちの屍だったのじゃ。
そして、村の中は上屋敷と同じように一面の焼け野原。田畑は踏みにじられ、信野の両親も村人たちもことごとく臼井の軍勢に虐殺され、ひとりの生者も見つけることはできなかった」
 草薙の目に何かが光ったように見えた。刃に宿る水蒸気に似たひとしずくが。
「信野はどれほど嘆いたことじゃろう。自分の犯したあやまちをわたしに告白しながら、何日も何日も統馬や村人の姿を求めて、矢上郷のすみずみまでさまよい歩いた。
夜叉の妖力に判断を惑わされていたとは言え、あさはかな自分の行いが、夫の一族、自分の一族、そして故郷を破滅に追いやってしまったのだ。最後にはもうほとんど気がふれたようになって、わけのわからぬ歌を口ずさむばかり。
そして、天叢雲とわたしを誰にも見つからぬように小さな洞の中に隠すと、信野は持っていた短刀で胸をついて自害してしもうた……」
「自害……」
「わたしはそばで見ていたのに、止めてやることができなかった。それほどに、信野の絶望は深く底がなかった。人間にはあれほどの苦しみがあるのだということを、霊剣として生まれて五百年、わたしは初めて知ったのじゃ」
 詩乃はそれを聞きながら、はっと気づいた。今の草薙のことばは、以前自殺した高崎ミツルの家に行った帰りに、統馬が言ったことにそっくりだったのだ。
『自らの命を絶つ者を誰も責めることなどできない。それほどに大きな絶望というものがこの世にはある。でもその苦しみが死によって取り払われても、あとに残るのは永遠の悔いだ。
死んでからでは何も取り戻すことはできない。生きている間なら何度でもやり直しがきくというのに』
 詩乃は思わず訊ねた。
「矢上くんは、そのことを……、信野さんが自殺したことを知っているの?」
 草薙は首を振った。
「臼井の追手に切られて死んだと、そう嘘をついている。真実を知ることは、統馬にとっては辛すぎる。ましてや、ふたりが本当は想い合っていたなどとは……、とても言えることではない」
「そう……」
「わたしが……悪かったのじゃ。あの頃のわたしはまだ、霊剣としては青二才だった。ご神刀などと崇めたてまつられているからには、人間の色恋などという下等なことに口出しするものではないと。統馬の苦しみも信野の苦しみも知っていたのに、わたしはあえて知らんふりを決め込んでおった。それがこんな悲劇を巻き起こす原因ともなってしまおうとは」
「草薙のせいではありません」
 久下が弁護して言う。
「しかたがないのです。そのときまで、「夜叉八将」などという存在は誰も聞いたことがなかったのですから。
密教の秘中の秘である口伝は、こう伝えています。
天界に反旗をひるがえした毘沙門天が自分の霊力を八等分し、そのひとつひとつを力ある夜叉たちに分け与え始めたのが、ちょうどこの時代であると。
それまで夜叉というのは、せいぜいひとりの人間や下級霊に憑くのがせいいっぱい。誠太郎や臼井の軍勢に憑いたような上位の存在には、当時の矢上一族といえど出会ったことがなかったはずです」
「久下、このあとの経緯(いきさつ)はおまえが話してはくれんか。わたしは、ちと疲れた」
「はい」
 久下は、詩乃の持参した麦茶をズズと飲み干すと、背筋を伸ばして話し始めた。
 前世が僧侶であるためか、彼の声は伸びがあって柔らかく、耳に心地よく、まるで昔話を聞いているようでもあった。
「応仁の乱よりこの方、戦で苦しむ人々の心を喰らいながら、夜叉の将たちは、ひとりまたひとりと、この世に現われてきました。そして、日本全土を狩り場として、次々とさらなる戦を巻き起こしていったのです。
その奴らに一番の脅威として目をつけられたのが、夜叉追いたちの住む矢上郷だった。
いまだ夜叉の将たちの勃興を知らぬ矢上一族は、いともたやすく欺かれ、滅ぼされました。
そしてひとり残された統馬は、一族を滅ぼした誠太郎と信野に対する憎しみを、自分たちを救ってくれなかった神仏への恨みと為し、すべての人間への憎しみと為し、ついに人間であることを捨て、夜叉へと変化(へんげ)してしまったのです。
他の七将の7つの種印をからだに刻まれて、八番目の将「半遮羅」として。
そして、二百年の時が流れました――」


 宝暦年間といえば、徳川吉宗の長男・家重の治世。名君だった父の時代と違い、飢饉と一揆が続発した社会不安の多い時代だった。
 そのころ、慈恵というひとりの真言密教の僧侶が、伊予国を旅していた。
 昔この地にあったと伝えられる夜叉追いの村、矢上郷におもむくことが目的だった。
 真言密教と夜叉追いは、ともに平安時代に生まれた歴史を持ち、同じ真言陀羅尼を唱えたとされている。仏教が衆生の救済に重きを置いたのに比べ、夜叉追いは人間や霊に働く夜叉どもを直接、霊力によって調伏するために戦ったという。
 二百年前に一族は戦乱に巻き込まれてことごとく滅びたが、わずかな子孫が生き延び、今もどこかで細々と暮らしているという噂もあった。
 死んだ一族の霊を弔い、もし生き残りがいるなら会ってもみたい。その一心で、年老いた身体に鞭打って四国に渡ってきた慈恵は、しかしそこで意外な話を人々から聞く。
 この山のどこかに夜叉が住み着いているというのだ。
 世が乱れていたときは、戦や飢饉を起こして人々を苦しめ、人肉を喰らっていた緑の髪の夜叉。しかし太平の世が続く今となっては、何十年も姿を見た者はいない。
 夜がしんしんと更けるころ、激しい風が木々を揺さぶりながら、恐ろしげにも悲しげにも山にこだますると、
「あれは夜叉がおまえを喰らいたやと吠える声じゃ」
 と、年寄りが眠らぬ子どもをおどかすという。
 ただの言い伝えだろうと、半信半疑で村人たちの話を聞いていた老僧は、ある日山の中を歩いているうちに、かすかに頭の中に訴える呼び声を聞いた。
 ただならぬ気配を感じた慈恵があちこちを捜して回ると、入り口がすっかり蔦に覆われたほら穴の中に、ひとふりの刀を見つけた。刀はさらに話しかけてきた。
(わたしは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。またの名を草薙という)
「なに。あの古事記という古い書物に出てくるヤマトタケルノミコトの剣か」
(わけあって二百年のあいだ、この洞に動けずにいた。どうかわたしの力になってほしい。憎しみのあまり夜叉と化した哀れな男を助けてやってほしい)
 不思議な刀は、矢上一族の悲惨な最期を語った。
 そして慈恵は乞われるままに山の中に分け入り、奥深い洞窟で、岩を背に座している夜叉を見つける。
「百年ぶりに人間が来たと思えば、干からびた、まずそうな爺とは」
 夜叉は大儀そうに伸びをすると、言った。「俺はまだ眠い。何十年寝ても寝足りぬ。邪魔をするな」
(やはり、おまえは統馬。矢上統馬だな)
「なんだと」
 夜叉は瞼を開き、白い瞳を吊り上げて、キッと睨みつけた。
「誰だ、この半遮羅(はんしゃら)がとうの昔に捨てた、その名を知っているのは」
(わたしじゃ。覚えているか、矢上一族が神刀として守っていた霊剣・天叢雲を)
「ふん、おまえか。俺が人間のときは、いくら拝んでやっても何の返事もしなかったものを」
 半遮羅は、洞を揺るがすような声でせせら笑った。「おおかた、その老いぼれを使って俺を調伏しに来たのだろう。無駄なことだ」
「調伏とは殺すことにあらず。赦すことなり。わしは、おまえを救いに来たのだ」
 慈恵は怖じることなく、痩せたからだをびりびりと震わせ、言い返す。
「おまえは悔いておるのじゃろう。夜叉となり罪なき人々を苦しめたことを、心から悔いておる。だからこそ、この洞窟に百年も閉じこもって姿を見せぬのじゃ。
まことの御仏の教えとは、寺に来る善男善女に聞かせるものにあらず。おまえのような悪鬼や羅刹こそが、聞く者にふさわしい」
「たわけたことを言う爺だ。食ってほしいのか」
 半遮羅はゆらりと立ち上がると、怒りをその全身にみなぎらせた。白緑の髪がざわざわと揺れ、足もとに踏む苔がしゅうしゅう音を立てて、腐り果てる。常人なら、ここで腰を抜かしていただろう。
「食われてもよい。そのかわり、わしの話を三日間黙って聞け」
「ほう、その後で食われてやると言うのだな」
 夜叉はむき出した牙をぺろりと舐めると、どっかとその場に胡坐をかいた。
「では、暇つぶしに三日だけ聞いてやろう。さっさと始めろ」


 老僧は三年三ヶ月のあいだその洞窟にこもって、夜叉に御仏の慈悲を説いたという伝説が、伊予の地には残っている。
 






【おことわり】
第五話で出てきた伊予の戦国史には、作者のフィクションを含んでおります。実際とはかなり異なる部分があることを、ご了承ください。文中に出てきた伊予西園寺氏と長宗我部氏の戦いなどは史実ですが、国人衆の臼井氏は実在しません。


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