第七話  幻を映すもの(5)                   back |  top | home




 そろそろと障子を開け、部屋の周囲にめぐらした広縁に身体をすべり出す。きいと鳴る板にびくりとしていると、
「詩乃どの、そんなにへっぴり腰にならんでも、強い結界を張ったから、少々のことでは見つからぬわい」
「だ、だ、だってぇ……」
 夜叉の将の本拠地のど真ん中。しかも、あれほど他愛なく敵の術策に取り込まれてしまった詩乃は、すっかり怯えてしまっている。
 靴も持ち物もすべて取り上げられていたので、しかたなく靴下のまま庭に降りる。木々にまぎれながら進み、高い組み垣から外への出口をさぐっていたとき、人の話し声がふいに近くで聞こえて、飛び上がった。
 夜風のいたずらか。声は少し離れた角の部屋の中から聞こえていたらしい。
 ゆらゆらと障子に人影が映る。
「ああ……」
 耐えかねたようなうめきも混じる。
「朋美?」
 覚えのある声に、詩乃は思わずそっとにじりよった。広縁のふちに手をかけ、頭を少しだけ出して、障子のわずかな隙間から中をのぞいた。
 墨色の装束、白い被りの尼僧。その腕の中に朋美が抱かれている。半分意識がなく、手足を縮こめて、苦痛とも恍惚ともつかぬ表情を浮かべながら。
「朋美。あなたは何も間違っていませんよ」
 さきほどの話し声は、幻彰(げんしょう)のものだ。穏やかで甘く、まるで母親のように優しい。
「あなたは何も悩むことはないのです。あなたは私の可愛い子。あなたはすべて正しいの。間違っているのは、まわりの人々なのです」
「はい……」
「すべて私にまかせなさい。魂の最後の一滴までも、あなたは私のものですよ」
 そう言いながら、ゆっくりと細い指で朋美の身体を愛撫する。
 詩乃はぞっと背筋を貫く嫌悪感に身震いし、よろよろとその場を立ち去ると、木の幹を背にうずくまった。
「詩乃どの。だいじょうぶか」
「あの庵主さまが、夜叉八将のひとりなのね」
「ああ、毘灑迦という」
「ナギちゃん、不思議……。見ていて吐き気がするほどイヤなのに」
 目の縁に涙をにじませて、訴える。「でも、同時にとてもうらやましいの。私も行って、ああやってほしいって思ってしまうの」
「それが、毘灑迦の妖術なのじゃよ。人間を抵抗のできぬ胎内の赤子のような状態にしてしまい、思考能力をなくしたうえで、思いのままに操るのじゃ」
 答えながら、草薙は心の中で思う。
(まずい。詩乃どのは、もともと両親の愛に飢えたお人。また金剛鈴を使われたら、ひとたまりもなく虜になってしまうやもしれぬな)
「ぐずぐずしてはおれぬぞ。詩乃どの、すぐにここから脱け出そう」
「でも、……朋美はどうなるの」
「ああやって、何回かに分けて魂を食われることになろう。だが、すぐ死ぬというわけではない。あとで助けに戻ればよい」
「そんな……。もし、私が逃げたことで、またどこか別の場所に連れ去られたらどうなるの?」
 ゆっくりと、あえぎながら立ち上がる。
「私、ここに残る。あの人たちといっしょにいるわ。ナギちゃんがいる限り、どこに行っても矢上くんに居場所を見つけてもらえる」
「だめじゃ。統馬はすぐにここに来る。逃げたうえで、すべてをまかせなさい。厳しいことを言うが、今のそなたではまだ荷が勝ちすぎる」
「そんなことわかってる。私は何の役にも立たない」
 恐怖に拳を震わしながら、それでも目に強い決意を宿して詩乃は叫んだ。
「でも、統馬くんが必ず来ることを信じてるからこそ、ここに残って少しでも時間稼ぎをしたいの! ……ナギちゃん、お願い!」
「しかたないのう」
 草薙はほうっと吐息をついた。「言い出したら聞かないところは、ほんとに統馬にそっくりじゃ」
「ごめんね。今度は絶対操られないように気をつけるから」
「わたしも、せいいっぱいお手伝いするわい。ところで、詩乃どのにはまだ、言い出せなんだことがある」
「なに?」
「驚くでないぞ。毘灑迦はああ見えても、……れっきとした男じゃ」
「ひえっ」
 それを聞いたとたん、詩乃はその場に腰を抜かしてしまった。


 嵯峨野。
 闇の中、青く燐光を帯びたように光りながら、竹が風に揺れる。
 ざわざわと、まるで巨大な生き物の繊毛が作り出す、静寂。
 ワゴン車を下の路上に停め、隆二と統馬のふたりは小柴垣に囲われた竹林の中の小道を急いだ。あたりにまったく人気はない。
「あんたも、よくわからないヤツだよな」
 草薙の気配を探りながら一心に前だけを見つめて進む統馬に、沈黙に耐えかねた龍二が後ろから話しかける。
「四百年も生きてるんだ。たかが人間の女ひとり、どうだっていいだろう。俺だったら適当に遊んで、新しい女に乗り換えるね」
 ぞくりとする。睨まれたわけでもないのに、漂ってくる気に肝が縮み上がった。なまじ霊力があるだけに、統馬の中に異形の存在を強く感じる瞬間である。
 弓月詩乃という女はなぜ、こんなヤツを好きになれるんだろう。あれほど恋焦がれた瞳ができるんだろう。龍二にはそれが不思議でたまらなかった。
「ここで、久下さんの到着を待ったほうがよくはねえか」
 竹林が切れ、一気に下る坂道を前にして、彼は足を止めた。久下尚人には大原を出る際に一度、車を降りる前にもう一度、携帯で連絡を取っている。もうすぐ、なんらかの応援が駆けつけるはずだ。
「そんな必要はない」
 統馬は天叢雲を握りなおすと、砂利道を下り始めた。
「探していたのは、あれだ」
 眼下に視界が開け、樹の茂みの中に小さな庵の茅葺きの屋根が見えた。


 座敷牢に戻った詩乃は、元通りの位置に座って、敵の出方をうかがっていた。
 相変わらず、同じ部屋の女性たちはうつろな表情で、人形のように身じろぎもしない。毘灑迦に魂を吸い取られながら、死を待つばかりなのだろう。
 再びスカートのポケットにもぐりこんだ草薙の耳には、詩乃がブツブツとつぶやくのが聞こえてきた。
「毘灑迦はオカマ。毘灑迦はオカマ……」
 思わず、笑いを吹き出しそうになる。毘灑迦に一度いいように操られた詩乃にとって、どんな強力な真言よりも効果のある防御呪文だろう。
 突然、障子がすっと開き、黒装束の男ふたりが、ぐったりとした朋美を中に運び、畳の上にどさりと投げ出した。詩乃はとっさに振り向きそうになったが我慢し、術にかかっている真似をする。
 男たちは今度は詩乃に近づき、両脇に手を差し入れた。いよいよ彼女の番が来たのだ。
 戦慄に体が強ばりそうになるのを必死に堪え、詩乃は彼らに引きずられて廊下をわたっていく。
 先ほどの角部屋に来た。
 香の煙と行灯の光がちろちろと風に揺れ、尼僧が妖艶な笑みを浮かべて中に座っていた。
「よく来なさりました」
 詩乃を彼女の前に座らせ、男たちが出て行くと、幻彰の姿をとった毘灑迦はツツと膝でにじりよった。
「お名前は……」
「……詩乃」
「詩乃。とても愛らしいお名前。さぞや回りの人たちに愛されていらっしゃるのでしょうね」
「い……いえ。わ……は……」
「何でもおっしゃいなさい。すべて聞いていますよ」
「私は……、クラス中にイジメられて……。両親……も、全然、家に帰らなくて」
「そうだったの。可哀想に」
 毘灑迦は優しく微笑むと、片手を背中に回し、もう片方で詩乃の髪を幾度もなでた。
「あなたは悪くないの。あなたは愛されて当然の人。悪いのは、あなたをイジめる友だちとご両親なの。……憎いでしょう、彼らが」
「はい……」
「私があなたを愛してあげる。魂の最後の一滴まで。……こっちへいらっしゃい」
 詩乃を腕の中に寄りかからせると、ゆっくりとブラウスのボタンをはずしていく。
 しかし、横座りになった詩乃の足元に目をやった尼僧は、はっと息を呑んだ。
「靴下が土で汚れている。まさか、おまえ……」
「オン・ビソホラダ・ラキシャ・バザラ・ハンジャラ・ウン・ハッタ、オン・アサンマギニ・ウン・ハッタ」
「オン・シャウギャレイ・マカサンマエン・ソワカ」
 詩乃は両手に印を作り、ざっと後ろに跳び退りながら真言を唱える。同時にポケットから飛び出した草薙も。
 重結界真言・大三昧耶(だいさんまや)の二人掛けだ。
「うわあっ」
 たおやかな尼僧は、男の悲鳴を上げて袈裟の袖で顔を隠す。「おのれっ。謀(はか)ったな」
「今じゃ、詩乃どの」
 詩乃は脱兎のごとく、廊下に飛び出した。
 黒装束の男がひとり、あわててつかみかかるが、大三昧耶の威力で吹き飛ばしてしまう。
「大成功だね」
「さすがの毘灑迦と言えど、これをまともに食らったのでは、しばらく動けんじゃろう」
 元の部屋に駆け込んだ詩乃は、大声で怒鳴った。
「みんな、起きて!」
 ぼんやりとした面持ちで体を起こした彼女たちの目の前に、白狐を肩に乗せた神々しい光のオーラをまとった少女が立っている。
「今のうちに逃げよう! 早くして、朋美!」
 動こうとしない友人の上半身を助け起こした。
「詩乃……」
「しっかりして」
「あんたが、悪い……のよ。私が悪いんじゃない。あんたが何でも私の欲しいものを取ってしまうから……」
「朋美、今はそんなこと……」
「いやよ、あっち行って。あんたなんか、大嫌い……」
「私だって、あんたが大嫌いよ!」
 詩乃の両目に、涙がじわりとあふれた。
「だけど、これでもう十分じゃない。帰ったら話そうよ、朋美。今までお互いに心の中に隠していたことを、ゆっくり話そうよ」
 詩乃から放たれる淡い結界の光に、朋美は睫毛をきらきらと濡らしながら、まぶしそうに目を閉じた。
 にわかに外が騒がしくなる。
「統馬じゃ。詩乃どの」
 草薙がうれしそうに肩の上で飛び跳ねた。「なんという、グゥーッド・タイミング。このままみんなを連れて脱出するぞ」
「みんな、さあ立って。出発!」
 修学旅行でますます磨きのかかった詩乃の委員長式号令で、囚われていた女性たちはふらふらと立ち上がった。


 表門を力ずくでぶち破り、統馬は待ち受ける黒装束たちに裂帛の気合で打ちかかった。
 その後ろから「あー、めんどっちい」と不満をたらたら吐きながら、龍二が護符を庭のあちこちに張っていく。
「散!」
 その結語とともに、彼らに襲いかかろうとしていた敵どもが吹き飛ばされた。
「さて、詩乃ちゃんは、どこにいるのかな」
 龍二のことばが終わるか終わらないうちに、庵のほうから、大勢の女性を引き連れて詩乃が走ってきた。
「矢萩くん、矢上くん!」
「お、詩乃ちゃ……」
 詩乃は、龍二の横をすり抜けて、まっすぐに統馬のところへ行ってしまう。
「弓月」
 統馬は刀を下ろし、かすかに笑んだ。「無事か」
「うん」
 女性の群れの最後尾からついてきていた朋美は、詩乃と統馬が見つめ合う姿を見て、にわかに顔をこわばらせ、ぱっと身体を翻した。
「朋美?」
 詩乃がそれに気づき、あわてて後を追いかけたが、彼女は木々の間を縫うように駆けていく。
「朋美、待って」
「きゃあっ!」
 悲鳴とともに朋美のからだは、突然暗がりから現れた者によって乱暴に抱きとめられていた。
 白頭巾を半分落とし、長い髪を乱した毘灑迦がにやりと笑っている。
「離して!」
 詩乃が体当たりした。
 そのはずみで、朋美の体は跳ね飛ばされ、代わりに詩乃がすっぽりと夜叉の腕に収まる恰好になる。
 ちりんと、鈴の音が鳴った。毘灑迦は一気に、月雲の空へと跳躍した。
 詩乃の肩から振り落とされそうになった草薙は、あわててスカートの裾をつかもうとするが、肉球がするりと滑って、まっさかさまに墜落する。
「弓月!」
 統馬は叫ぶと、天叢雲を手に自らも跳んだ。
 庵の垣の外には、蒼い竹の群れが広がり、風に揺れていた。
 しかし、空へ消えたか地に潜ったか。毘灑迦と詩乃の姿は、もうどこにもなかった。


「一晩に三人も、連絡もなしに消えていたかと思えば」
 修学旅行の団長でもある二年の学年主任の教師は、ホテルのロビーで烈火のごとく怒っていた。
「崎原朋美はふらふらになって明け方に帰ってくるし、弓月詩乃は行方不明だと? あと一時間で奈良に出発しなきゃならんというのに。おまえたちはいったい何をしていたんだ!」
 結局、詩乃の消息はいまだにわからない。統馬も龍二も久下も夜を徹して探していたのだが、手がかりは何もなかった。草薙と離れ離れになってしまったことが致命的だった。
「弓月は俺が探し出す」
 いったんホテルに戻った統馬は、教師の矢継ぎ早の詰問にさらされ、平然と返した。
「必ずあとで合流するから、おまえたちは予定通りに出発しろ」
「そんなことができるわけないだろう、生徒がひとり行方不明なんだぞ。警察に連絡して、手分けしてだな……」
「そんな気づかいは無用だ。おまえたちが京都を離れて余計な荷物がいなくなってくれたほうが、俺も動きやすい」
「な、な、なんだ、教師に向かってその口の利き方は!」
「おまえこそ、俺にそんな口を利いていいのか」
 苛立ちが頂点に達した統馬には、もはや手加減をしている余裕がない。
「三年の女生徒とのこと、校長にしゃべってほしいか、島本」
「き、き、教師を、き、脅迫するつもりか」
 二年の学年主任、物理の島本教諭は、文化祭のときに修羅場を目撃されたことを思い出し、とたんに青ざめて及び腰になる。
「東京に帰ったら、俺のことは退学になり何なりするといい。今は黙って、全員連れて予定どおり奈良に行け、いいな」
 言葉もなく、わなないている教師のもとを立ち去ると、すぐに同じ班の神林たちが走り寄ってきた。
「弓月さんは……?」
 山根と嶋田は目に涙をためている。
「まだ見つかっていない」
「俺たちに、何か手伝えることはないか?」
「ない。それより京都から離れてくれ。ここは危険だ。それから、おまえに頼みがある」
 統馬は、まっすぐに神林に向き直った。
「きのう妙幻庵に行った者たちを四六時中見張っていてくれ。変な行動をしようとしたら、無理にでも引き止めるんだ」
「あ、ああ。やってみるよ」
「頼りにしている」
「弓月さんといっしょに、必ず追いかけて来てね。USJの入り口でずっと待ってる。だってせっかくの班行動、三人じゃつまんないもの」
「ああ」
「矢上くん」
 もう一組の女生徒たちも、近づいてきた。先頭は崎原朋美、そしてユキと理恵たちである。
 朋美は、あの日軟禁されていたほかの女性たちとともに久下の浄化真言を受けて、すっかり夜叉の影響を取り除かれていた。
「矢上くん、詩乃をお願い」
 顔をくしゃくしゃに歪めながら、朋美は深々と頭を下げた。「だって、詩乃は私の、私の身代わりに……」
「わかっている」
 短く答えると、統馬は級友たちを後に残して玄関を出た。
「――必ず毘灑迦を倒し、弓月を救い出す」
「統馬よ……」
 押し殺した声でつぶやく彼を、上着のポケットから顔をのぞかせた草薙は心配そうに見上げた。
 それほどに統馬の両眼には、煮えたぎるような憤怒が宿っていた。
     



                   
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