第七話  幻を映すもの(6)                   back |  top | home




 千年王城・京都。
 桓武天皇の平安京遷都から、明治初年の東京遷都までのおよそ千年間、ここは日本の都だった。
 唐の風水を採り入れて、東西南北に四神を配し、鬼門には延暦寺を建て、あらゆる魔障から護られるよう設計された。それでも、絶えて戦乱止むことはなく、栄華をきわめた貴族社会の陰で、疫病や餓えで巷に倒れる者多く、弔われることのない屍が野辺にさらされ、行き場のない霊たちがさまよった。
 その中から最初に夜叉や羅刹と呼ばれる悪鬼が生まれたと、書は伝えている。京都は、夜叉のふるさとでもあったのだ。
 古来、人々はそれらとの付き合い方を知っていた。日常のさまざまな行事や習慣の中で、死者を慰め、霊を鎮め、また自らも悪鬼に惑わされぬ強い霊力を持つ者たちが少なくなかった。
 しかし近代になるにつれ、それらの知恵は人々からも、土地からも徐々に失われていった。民全体が魂の尊さを忘れ、現世にのみ価値を置き、刹那の快楽に身をゆだねるようになったからだ。日本は、繁栄の陰において夜叉に欲しいままにされる国となってしまった。
 T市。京都。そのほかにも多くの町で、夜叉はひそかに蠢き出している。
「溶岩が地中より噴き出すように、夜叉八将が次々とこの国を席捲し始めたようじゃ」
 千年の歴史を夜叉追いたちとともに具に見てきた草薙は、あちこちに夜叉八将が出没する現状に慄然とせざるを得ない。
「時が満ちた……ということか。毘沙門天が始めた闘いに、いよいよ終止符が打たれるときが近づいているのかもしれんのう」
 ときおりそうやって嘆息しながらも、全霊をこめて毘灑迦と詩乃の気をさぐろうとしている。もちろん、それは統馬も久下も龍二も同じだった。
 他にも数人の夜叉追いが、来れる者はすべて京都に駆けつけてくれ、碁盤の目を縦横に彼らの鋭い捜索の足が走った。
 T高2年が無事に奈良に出発し、午後の陽が傾き始めた頃。
 重大な情報は意外なところからやってきた。
 東京の内閣府。鷹泉(ようぜん)孝子である。
「京都御所のすべての門が今朝から何者かに無断で封鎖されてしまったのです」
 いつも落ち着いて話すはずの彼女が、久下の携帯に早口でまくしたてる。
「ご存知のように、御所は春と秋の一般公開の他に、宮内庁に予約した人のみ参観が許されています。ところが今朝になって職員が来てみると、すべての門が開かない。参観者から本庁に抗議の電話があり、ようやく私たちも事態に気づいたけれど、いまだに係員といえど立ち入りができません。門に何か不可思議な力が働いているらしいのです」
「それでは……」
「ええ、敵は大胆にも京都の中心、京都御所に立てこもったのです」


 京都御所は11万平方メートルに及ぶ天皇のかつての御住まい。雅な庭に彩られた御殿が点在している。
 御所周辺の大路小路に一台の車も見当たらなくなったとき、京都市民たちは不思議そうに、「天皇はんが、おしのびでお帰りにならはったんやろか」と言い交わした。もちろんその交通規制は、一般市民を巻き込まぬために、孝子が手を回した結果である。
 薄暮の中、夜叉追いたちは京都御所の西、宜秋門(ぎしゅうもん)の前に立った。
 力ずくで門を叩き壊そうとした統馬は、仲間たちにあわてて取り押さえられ、かわりに久下が真言を唱えて、閂をしていた邪の力を除いた。
 南に回りこみ、回廊に囲まれた門の中に入る。広大な南庭(だんてい)の白い砂は、夕陽の異様な紅さに染まって血の海のように見えた。
 奥の壮麗な紫宸殿。その正面階段の下に詩乃はいた。体を綱で縛りつけられ、ぐったりと垂れた頭を持ち上げる。
「矢上くん……みんな」
 笑む力さえ残っていないのか、かすかに表情を緩めるだけ。
「毘灑迦は……この中。私……操られないように……がんばったんだよ。だって、幻は、……消えてしまう。どんなにつらくても……現実が……」
 かすかにちりんという鈴の音。
「……ああっ」
 詩乃は身をよじって、泣き叫んだ。
「慈恵」
 統馬はぎりっと奥歯を噛み鳴らした。「一番短い真言で、封印を解け」
「しかし、あれは……」
 久下はためらいのため、言いよどむ。
「急激な変化(へんげ)は、あなたの力を大きくそぎ落としてしまいます」
「かまわん、やれ!」
「……承知しました」
 統馬が上半身に着ていたものをすべて脱ぎ捨てると、久下は持っていた錫杖を打ち鳴らした。
「サラバギャチハリシュデイ」
 わずか数語が終わるや否や、合掌していた統馬の体が見えない何者かに押し倒されたように、大きくかしいだ。
「が……あっ」
 苦しげな絶叫とともに、地を転げ回る。砂にまみれたその身体はみるみるうちに変容を始めた。全身の筋肉が脈動し、まがまがしい一対の角が白緑と化した頭に、夜叉の種字の現れた背中には一対の黒い翼が生えた。
 初めてその有様を間近にした龍二は、恐怖のため声もなくしていた。
 数秒後、そこには人間ではなく、一体の夜叉の姿があった。
 腹這いの姿勢から、ゆっくりと起き上がるとき、毘灑迦の鈴の音はまた鳴り響いた。
 途端に、その白い瞳に映ったのは、御所の内殿ではなく、何百年も昔に見知っていた戦場だった。
 折れた矢や血にまみれた鎧があちこちに打ち捨てられ、人間の肉塊に猛禽たちが舞い降り、爪をたてる。下級の夜叉どもを使い、人間たちを操って、血で血を洗う争いを作り出し、高みから笑っているのは、ほかならぬ彼、半遮羅だった。
「昨日から俺にこんな幻を見せて、どうしようと言う。毘灑迦」
 彼は持っていた天叢雲をいらだたしげに抜き放った。
「昔を懐かしみ、謀反をやめて戻って来いとでも?」
『熱くなるでない。統馬!』
 刀の鍔と化して彼の手の中にある草薙が、戒めるように呼びかけたが、その声も耳に届かぬまま半遮羅は雄たけびを上げ、白砂を蹴立てて走り出した。
 その足の裏に、ぐしゃりぐしゃりと人間の骨が踏みしだかれる感触が伝わってくる。
「毘灑迦! 出て来い。遊んでやる」
 紫宸殿にたどり着くと、御簾の奥に向かって怒鳴った。
 その眼前にふたたび、敵の放った幻影が繰り広げられた。
 はるかな過去の記憶。諸仏さえ目の届かぬ、地の深き岩窟。
 ただれた闇の底に、彼は錆びた鎖でがんじがらめになっている。
「血を飲ませろ……。肉を食わせろ」
「ようやく人の心を捨てたか、半遮羅」
 嘲り笑う夜叉の将たちの刀や矛が、はるか頭上の格子の隙間にのぞく。
「焦ることはない。もうすぐ地上に解き放ってやる。飽きるほど人間を食らうがいい」
 気の遠くなるような果てしない渇きと飢餓。幻はそんなものさえも克明に再現した。
 半遮羅は足元の少女に、ようやく気づいて目を留めた。
 鋭い牙の間からひとすじ、よだれが糸を引いて落ちる。夜叉となった今の彼にとって、人間は腹を満たす食いものでしかない。
 そして詩乃も、極限の衰弱ゆえに、ただ間近の異形におびえるばかり。
 毘灑迦の幻覚の術は、恋し合うはずの二人のあまりにも残酷な現実を、はからずも暴き出した。
「毘灑迦!」
 彼女から興味を失い、目を離すと、半遮羅はもう一度叫んだ。
 正面の御簾を払い、毘灑迦がゆっくりを姿を現わす。
 濃紫の長い髪。優雅な薄絹が風をはらみ、細い指先に大きな鐘を下げている。その音を聞くものすべてを惑わすという金剛鈴だった。
 毘灑迦はもともと、南北朝時代に生きた貴族のひとりだった。権力争いの果てに武士たちによって幽閉され、ぼろぼろの屋敷において身体は滅びたあとも、形のない憎悪をみなぎらせ、悪霊となった男。
 女のごとき細面に冷たい笑いを貼りつけ、彼は尊大なしぐさで庭に向かって指を伸ばした。
「つまらんのう。この庭いっぱいに女子をはべらせて、われの都を作ろうと思うたに、邪魔をしおって」
「かわりに俺がおまえの骨を、この庭いっぱいに撒き散らしてやるよ」
 半遮羅がせせら笑う。
「時間がない。さっさと始めようぜ」
「我らの宴の夜は始まったばかり。何をそんなに急いでおる」
「てめえの知ったことじゃないだろう」
 言葉を吐くと、半遮羅は一気に階段を飛び越え、剣をふりかざして毘灑迦に斬りかかった。
 古の貴族は衣を翻すと、鈴を振り、瞬きする間に屋根の頂にからだを移して、愉快そうに笑った。
 そして、自分の髪をひとつかみ千切ると、相手に向かって投げつけた。それらはひとつひとつが針と化し、生き物のように半遮羅に向かっていく。中国伝来の攻撃術、「飛針」。半遮羅は流れるがごとき天叢雲の動きで、それらをすべて跳ね飛ばした。
「統馬のやつ、何でさっさと詩乃ちゃんを助けないんだ。まるで眼中にないじゃないか」
 龍二は離れたところで、地団太を踏んでいた。
「久下さん、今のうちに俺たちで助けよう」
「龍二くん。詩乃さんのことになると、めずらしく積極的ですね」
 微笑む久下に、龍二は顔を赤らめた。
「そ、そのかわりに、特別手当はもらうからな!」
 久下の防御用の被甲護身真言が始まる。毘灑迦が戦闘に気を取られていると見るや、龍二も真言をつぶやきながら、詩乃に向かって突進した。
「消!」
 呪文とともにばらまいた白い護符が、さながら御所南庭に植えられた「左近の桜」の花吹雪のように宙を舞い、くるくると渦を巻いてその身体を隠した。
「詩乃ちゃん」
 がくがくと全身を震わせている詩乃を助け起こした。
「逃げるぞ」
「いや……、統馬くん、来る……ここに、いる」
「何を馬鹿なことを言ってるんだ! あいつはおまえが八つ裂きにされたって鼻も引っ掛けないぜ」
「あ……ぶない」
 詩乃の言葉にはっと顔を上げた龍二の目に、無数の針が上空から襲いかかってくるのが見える。
 寸前、高速の影が立ちふさがった。
「たわけ!」
 半遮羅が両手を広げ、自分の身体ですべての針を受け止めたのだ。
「人間ごときの術で、俺たちの目がくらませる道理があるか。さっさと、その美味そうな女を連れて立ち去れ!」
 埃でも叩くように針を払いのけると、半遮羅は剣を握る手首をぐいと返して、ふたたび虚空に跳躍する。
「い、一応助けるつもりはあるのかよ」
「統馬……くん」
 詩乃はうれしそうな笑みを浮かべると意識を手放し、龍二の胸に崩れこんだ。


 半遮羅の前には、相変わらず毘灑迦の仕掛けた幻が罠となって待ち構えている。
 激痛、窒息、炎熱、酷寒、落下、腐食、敗北、暗黒、そして絶望。
 ありとあらゆる苦痛と恐怖が、現実の感覚として襲ってくる。
 その中で、たったひとつの光が彼を導いた。それが何なのかはわからない。ただ、まぶしいほどの光、時を越えた、誰かの強い想い。
「半遮羅……。行くのですね。おのれの過ちに気づいたのですね」
「……さま」
「お願いです。時が来たら、……を救ってあげてください。御しきれない憎しみから、どうかあのひとを……」


『統馬、今じゃ!』
「オン・マカヤシャ・バザラサトバ・ジャク・ウン・バン・コク・ハラベイサヤ・ウン!」
 猛々しい叫びとともに、半遮羅はまっすぐに刀身を突き降ろした。
 ぱりんと水晶が割れたように粉々に、金剛鈴は砕け散った。
「まさか、まさか、まさか!」
「往生際が悪いんだよ!」
 驚愕に目を見開く毘灑迦の脳天に、天叢雲の激烈の一撃が深々と食い込んだ。
「ぎゃああっ」
 最後の断末魔とともに、その紫の髪は苦しまぎれに一本の太い槍となって、半遮羅の胸を突き刺した。
 ふたつの身体は、ともに紫宸殿の桧皮(ひわだ)葺の屋根を転がり落ちて、庭にどうと白煙をあげた。
「統馬!」
 久下があわてて走り寄った。「だいじょうぶですか」
 ごほごほと咳き込みながら身を起こすと、半遮羅は造作もなく胸に突き刺さっていた髪を引き抜いた。
 その目は、絶命している敵の将に魅入られたように注がれている。
「なりません」
 久下は、すぐさま錫杖を突き出した。
「敵の肉を食ろうては、なりません。御仏のもとにお返しするのです」
 牙を剥きだしたあと、「ちっ」と未練がましく、それでも半遮羅は久下の言うことに素直に従った。
 しかしそのとき、久下の肌は粟立っていた。
 気のせいなのだろうか、半遮羅がいつもと違う。転生を繰り返し何百年も彼とともにいた久下でさえ今まで感じたことがない、圧倒的な畏怖を感ずるのだ。


 夜明けの光が回廊に囲まれた庭に差し込んでくる。詩乃はゆっくりと目を開けた。
 彼女を取り囲んでいる男たちの中で真っ先に見つけたのは、やはり統馬だった。胡坐をかき、疲れたように門柱にもたれている。もう夜叉の姿ではない。
「毘灑迦は……やっつけたの」
「ああ」
「詩乃どのもよくがんばったな」
 白狐に戻った草薙が、彼女の頭をふさふさの尻尾で撫でた。
「金剛鈴の幻の中で、一晩惑わされずに自分を保っていたのじゃからな。さぞ、辛かったじゃろう」
「ううん、みんなが助けに来てくれるって信じてたから、平気だったよ」
 彼女はゆっくりと気だるい身体を起こした。
「からだ、だいじょうぶなのか」
 龍二が気遣わしげに訊ねる。
「うん、だいじょうぶ」
「それなら、そろそろ出発するぞ」
 茜色に染まる東空を背に、統馬が立ち上がった。
「どこへ?」
「修学旅行に決まってるだろう。龍二、俺たちを大阪まで送れ。今日は「ゆーえすじぇい」というところに、9時集合だと言っていた。どこのことかは、よく知らんが」
「おまえなあ」
 龍二があきれ果てたように抗議する。
「詩乃ちゃんはこんな状態なのに、何をのんきなこと言ってんだ!」
「必ずあとで合流すると、俺は教師や班の奴らに約束したんだ。それでなければ、誰がこんなに急いで決着をつけるものか」
「統馬、それじゃあ毘灑迦との戦いで、しきりに「時間がない」と言っておったのは、……修学旅行のためか?」
 草薙は開けた口をぱくぱくと動かしている。
「あたりまえだ。それ以外の何があると言うんだ」
「はは、統馬らしいといえば、らしいですけど」
 久下も、笑うしかないといった風情だ。
「そんなことのために、あっさり倒された毘灑迦は浮かばれませんねえ」
「あほらしい。俺は、おまえたちをデート会場まで運ぶ移動手段かよ」
 龍二がやけになって、吼える。
「ちくしょう。あとでたんまり割増し手当をはずんでもらうからな。ついてこい。飛ばすぞ!」
 統馬は軽々と詩乃を抱き上げると、ワゴン車に向かって走っていく龍二のあとを追って歩き始めた。
「や、矢上くん」
 いきなりお姫様抱っこをされ、度肝を抜かれた詩乃は、足をばたばたと動かす。
「なんだ?」
「矢上くんこそ……、夜叉になったあとなのに、身体はだいじょうぶなの?」
「ああ」
 彼女に向けられる穏やかな笑みに、思わず詩乃は頬を染めて目をそらす。
 統馬くんが、すごくやさしい……。
 息苦しくなるほどの幸福感にひたったあと、詩乃はそっと彼の顔を見上げた。


 それは、曙の光のもたらす最後の幻だったのか。
 漆黒のはずの統馬の瞳が、その一瞬だけ白ずんで見えた。




                   
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